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佐久間信盛(1528~1582)

信長による19ヶ条の折檻状~現代語訳~ 一、信盛らの気持ちを推し量るに、石山本願寺を大敵と考え、戦もせず調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、相手は坊主であることだし、何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出ていくであろうと考え、戦いを挑まなかったのであろうか。武者の道というものはそういうものではない。勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても兵卒の座陣の労苦も解かれてまことに本意なことであったのに、一方的な思慮で持久戦に固執し続けたことは分別もなく浅はかなことである。

南部信直(1546~1599)

豊臣政権下 1590年1月津軽へ兵を進める。大浦為信は密に上洛するため既に津軽を離れていたと思われるが、大浦側の抵抗が固くまた真冬でもあり南部軍は苦戦を強いられ、目的を果たせぬまま小田原参陣のため撤退した。八戸政栄に三戸城代を委ね、政栄の子・八戸直栄を随伴し兵1,000を率いて、同年4月豊臣秀吉の小田原征伐に参陣、そのまま従軍し奥州仕置の軍を進める秀吉から宇都宮において、7月27日付で南部の所領の内7ヶ郡についての覚書の朱印状を得る。しかし大浦為信に津軽地方を押領されたことの訴えは、南部氏の小田原参陣よりも早い3月に為信が秀吉に小田原途上の沼津にて謁見し、既に津軽氏へ所領安堵されており却下された。同年7月、秀吉の奥州遠征の際には浅野長政と共に先鋒を務めた。

近衛前久(1536~1612)

関白の解任 前久は、都から丹波国の赤井直正を頼って黒井城の下館に流寓。その後、本願寺11世・顕如を頼って摂津国の石山本願寺に移り関白を解任された。この時、顕如の長男・教如を自分の猶子としている。後に「信長包囲網」の動きが出てくると、前久も三好三人衆の依頼を受けてこれに参加して顕如に決起を促したと言われている。だが、前久自身は信長に敵意は無く、将軍・足利義昭と関白・二条晴良の排除が目的であった。

深沢七郎(1914~1987)

東京のプリンスたち 高校生の秋山洋介、田中正夫、伊藤常雄、山崎登、渡辺公次、工員の佐藤は、エルヴィス・プレスリーが大好きで音楽喫茶に出入りする十代の若者である。秋山洋介は授業中、居眠りをし元帥に職員室に呼ばれた。前の授業をさぼったことも居眠りも自分が悪かったので、洋介は黙って時間を過ぎるのを待っていたが、元帥は以前洋介が愚連隊にからまれ喧嘩したことをねちっこく蒸し返すので、洋介は腹が立ってきた。それは警察も親も、洋介が悪くなかったと判ってくれて済んだことだった。洋介は怒りで膝がふるえ、どうせ足をゆすっていると思われるのなら、思いっきりゆすってやれと洋介は足を激しくゆすった。すると頭の中にエルヴィスの「ベビー・アイ・ドント・ケア」が流れてきて、さらに教師を睨みながらリズムを刻んだ。頭を殴られた洋介は、拳で元帥を殴り返しながら、学校を止めようと覚悟した。洋介はその後、運送屋で働く。

中村憲吉(1889~1934)

頼杏坪先生 頼山陽の百年祭が明年に迫つたので、私の県ではその遺蹟顕彰会が組織され、全集の刊行、記念館の設立、旧居保存などそれぞれの準備が進められてゐる。さう云ふとき私は山陽先生を思ふと、妙にその家叔杏坪先生のことに心が惹かされてくる。杏坪先生は山陽終生の理解者であり、殊にその青年逆境の時代に最も温い庇護者であった。

ジョージ・オーウェル(1903~1950)

1984年 1950年代に発生した核戦争を経て、1984年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国によって分割統治されている。さらに、間にある紛争地域をめぐって絶えず戦争が繰り返されている。作品の舞台となるオセアニアでは、思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョン、さらには町なかに仕掛けられたマイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。

ゴ・ディン・ジエム(1901~1963)

仏教徒を弾圧 ベトナムは民衆の8~9割が仏教徒であるが、カトリックであったゴ大統領は、共産主義者と同じように仏教徒も反政府運動のバックにあると考え、仏教を弾圧した。1963年には7人の僧侶がそれに抗議して焼身自殺に訴えた。それを見たゴ大統領夫人のゴ・ディン・ニューは「バーベキュー」と罵り、今度同じことが起きればガソリンとマッチを喜んで進呈しようと述べて内外の世論を逆なでした。

ハコボ・アルベンス・グスマン(1913~1971)

大統領時代~歴史的背景~ アメリカ合衆国は1890年代にモンロー主義を掲げ、ラテンアメリカ諸国からヨーロッパの植民地勢力を放逐、資源や労働力に対する自国の覇権を確立する事となる。その中で、19世から20世紀にかけてグアテマラを支配した独裁者は、押し並べてアメリカ合衆国の経済的、政治的利益に適応する形で統治を行った。そのため、ハイチやニカラグア、キューバといった他のラテンアメリカ諸国とは異なり、アメリカ合衆国は軍事力を行使してまで、グアテマラでの支配権を維持する事は皆無であった。

モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス(1640~1707)

増長 晴れて邪魔な夫と離婚できたフランソワーズは、この年1669年に王の娘ルイーズ・フランソワーズを生んだ。これ以降、誰はばかる事なく、フランソワーズは国王第一の公妾として、宮廷で絶大な権力を振るうようになった。ルイーズ・ド・ラヴァリエールを追い落とし、ルイ14世の寵愛を独占する事に成功したフランソワーズは、1670年にメーヌ公ルイ・オーギュスト、1672年にヴェクサン伯ルイ・セザール、1673年にルイーズ・フランソワーズ、1674年にルイーズ・マリー・アンヌ、1677年にフランソワーズ・マリー、1678年にトゥールーズ伯ルイ・アレクサンドルと、実に7人の子供をもうけた。

ジャン=バティスト・リュリ(1632~1687)

町人貴族~第1幕~ ジュルダンは、成り上がりの布商人の子だが、「貴族」として生きようと決意する。舞台は音楽教師とダンス教師の会話で幕を開ける。二人の教師はどちらの芸術が優れているか議論したり、彼らを雇っている成り上がり者を憐れみをもって批評したりしている。ジュルダンのアントレ。出てくるや否や、彼の無知と自惚れをさらけ出す。2幕へとつながるバレのアントレ。

ヴァージニア・ウルフ(1882~1941)

灯台へ~第一幕窓~ この小説は、ヘブリディーズ諸島のスカイ島にあるラムジーの夏の別荘を舞台にする。この章は、ラムジー夫人が息子のジェームズに、明日こそは灯台にいけるはずと約束したことから始まる。彼女の言葉はしかし、夫ラムジーが確信をもって言った、明日は天気が悪くなるという言葉によって反対される。彼の意見は、ラムジー夫妻間、ラムジー氏とジェームズ間に、一種の緊張を生み出した。この出来事は、章全体のいろいろな場面、特にラムジー夫妻間の関係に関わる部分に大きな影響を与えることになる。

ヤン・ドンケル・クルティウス(1813~1879)

黒船来航~オランダによる来航の予告~ 1852年7月21日、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスは長崎奉行に「別段風説書」を提出した。そこには、アメリカが日本との条約締結を求めており、そのために艦隊を派遣することが記載されており、中国周辺におけるアメリカ軍艦5隻と、アメリカから派遣される予定の4隻の艦名とともに、司令官がオーリックからペリーに代わったこと、また艦隊は陸戦用の兵士と兵器を搭載しているとの噂があるとも告げていた。出航は4月下旬以降になろうと言われているとも伝えた。

トーマス・アジソン(1793~1860)

慢性原発性副腎皮質機能低下症~臨床像~ 副腎皮質ステロイドはコレステロールを主な原料とし、下垂体からの副腎皮質刺激ホルモンにより分泌・調節されている。調節の経路は、視床下部から副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモンが分泌され、下垂体からの副腎皮質刺激ホルモンが分泌され、副腎で副腎皮質ホルモンが分泌されるといった順序である。副腎皮質ステロイドの低下によって多彩な症状が引き起こされてくる。

アブドゥル・ラフマーン・スーフィー(903~986)

星座の書~成立~ 10世紀ペルシアの天文学者アブドゥル・ラフマーン・スーフィーは、当時イスラーム世界で翻訳、受容が進んでいた古代ギリシャの天文学に精通し、その知識をもってブワイフ朝の君主アドゥド・ウッ・ダウラに仕えていた。自身も観測を行っていたアブドゥル・ラフマーン・スーフィーは、その結果に基づいて、アルマゲストの星表に修正を加えた。また、アラビアに古くから伝わる星の名前も収集していた。それらを、集大成として一冊の本にまとめたものが、『星座の書』である。

ウィリアム・アームストロング(1810~1900)

アームストロング砲の開発 クリミア戦争が勃発すると、アームストロングはイギリス陸軍から機雷の設計を受注した。彼の設計は結果的には実用化されなかったものの、アームストロングが軍需産業に関わるきっかけとなった。同じクリミア戦争中の1854年に、アームストロングはイギリス陸軍向けの新型野砲の設計を始めた。当時のイギリス陸軍は、野砲の重量過大に困っており、それを知ったアームストロングは軽量で機動性の高い野砲の開発を思い立ったのである。同僚のジェームズ・レンデルとともに設計し、1855年に試作した5ポンド野砲は政府の検討会で好評を博した。そして、1858年には口径拡大した18ポンド野砲が陸軍に制式採用され、翌年にはイギリス海軍にも同じ構造の艦戴砲が制式採用された。画期的な後装式のライフル砲、いわゆるアームストロング砲である。アームストロングはこの大砲で儲けることを好まず、特許を政府へと譲渡した。その功績で彼は陸軍省のライフル砲造兵官に就任することになり、1859年には下級勲爵士の称号とバス勲章コンパニオンを授けられ、ヴィクトリア女王への謁見の名誉を与えられた。

ムスタファ・レシト・パシャ(1800~1858)

事績と人間関係 ムスタファ・レシト・パシャはタンジマート改革を進める一方で人材登用を行い、メフメト・エミン・アリ・パシャ、メフメト・フアト・パシャやアフメト・ジェヴデト・パシャ、ミドハト・パシャなどを引き立て、前者2名はレシト・パシャ亡き後に改革勅令に沿ってタンジマートを推進、後者2名は1846年に創立した教師養成学校の校長と1876年の大宰相に就任、それぞれ民法典とオスマン帝国憲法編纂の中心となった。

アレクサンダー・フォン・フンボルト(1769~1859)

コスモス フンボルトはまず宇宙、地球全体を観察できるように把握した後に個々の地域を研究することで有機的世界観を展開した。宇宙における諸々の天体と地表面の生物の関係と人間の作用を自然法則に基づいて関連させており、フンボルトはこれを神学的な世界観と重ね合わせて体系化を試みていた。フンボルトは気候界、地理界、そして生物界に地理的空間を概念区分して、特に生物学の知識に基づきながら等温線などの定量的調査などの方法を用いて経緯度や気象などの要因が植生と密接に関係していることを明らかにした。

フリードリヒ・ルートヴィヒ(1746~1818)

フランス革命戦争~ティオンヴィル包囲戦~ ティオンヴィル包囲戦はフランス革命戦争中の1792年8月24日から10月16日にかけて行われた、ティオンヴィルの包囲。ホーエンローエ=インゲルフィンゲン侯爵フリードリヒ・ルートヴィヒ率いるオーストリア軍2万とフランス王党派の軍勢1万6千の連合軍はジョルジェ・フェリクス・ド・ウィンフェンが守備を務めるティオンヴィルを包囲したが、降伏させることができず10月16日に引き上げた。包囲戦に参加した王党派のフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンは戦闘で負傷した。戦後、フランス国民公会はティオンヴィルを称えてパリにある広場と通りをティオンヴィル広場とティオンヴィル通りに改名した。

ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ(1736~1813)

ラグランジュ力学 ラグランジュ形式の解析力学は最小作用の原理によって構成される。元々はニュートン的な力学の分野において成立したが、電磁気学や相対性理論でも応用することが出来て、これらの分野における基礎方程式を導き出すことが出来る。また、量子力学においても、経路積分の方法は最小作用の原理に関連して考え出された方法である。

ユージン・シューメーカー(1928~1997)

シューメーカー・レヴィ第9彗星~発見~ 1993年3月24日8時頃に、パロマー天文台で観測中のユージン・シューメーカー、キャロライン・シューメーカー夫妻とデイヴィッド・レヴィによっておとめ座に発見された。通常の彗星とは異なり、彗星核は長さが1分ほどの棒状に見え、棒の中に幾つかの点が光って見えた。発見して間もなく、観測データから軌道を計算した結果、いくつかの興味深いことが判明した。

マックス・クリンガー(1857~1920)

ベートーヴェン像

アレクサンドル・ベズボロドコ(1747~1799)

エカチェリーナ2世の治世 この時期より、公式には宰相イワン・オステルマン伯爵の部下であるにもかかわらず、エカチェリーナ2世とともに全ての外交に関わり、外国駐在大使に命令を下し、条約締結など国務大臣の職務を全て行った。彼はエカチェリーナ2世の孫コンスタンチンをギリシャ帝国の皇帝にするという夢をも支持し、エカチェリーナ2世も多くの領地や年金をベズボロドコに与えた。1786年に元老院議員になり、1787年には実質的な外務大臣としてエカチェリーナ2世の南ロシア巡幸に同伴した。その途中でカニウに立ち寄ってポーランド王スタニスワフ2世アウグストと交渉し、エカチェリーナ2世がヨーゼフ2世と会ったときには女帝の馬車の中にいた。

桂川甫周(1751~1809)

北槎聞略 1783年、駿河沖で遭難した伊勢国の神昌丸の乗組員が、約8か月の漂流の末、船内で死亡した1名を除く16名が、当時ロシア帝国の属領となっていたアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した。彼らは厳しい冬で仲間を次々と失いながらも、4年後に現地のロシア人と協力して船を手作りし、カムチャツカに渡る。翌年に同地を出発し、オホーツク、ヤクーツクを経由し、1789年にイルクーツクに到着した。船頭光太夫は日本帰国の許しを得るため、キリル・ラクスマンの協力を得て、モスクワ経由で帝都サンクトペテルブルクに向かう。光太夫らは女帝エカチェリーナ2世に拝謁、9か月の根室で死亡した1名を除く光太夫と磯吉の2名は江戸に渡り、翌1793年9月18日、吹上御苑にて将軍に拝謁、ロシアから持ち帰った品を献上する。

アルノルト・ベックリン(1827~1901)

死の島

ゲオルク・ビューヒナー(1813~1837)

ダントンの死~第1幕~ ダントンは妻のジュリーとともに、トランプ遊びに興じる仲間を眺めている。そこにフィリポーが、エベール派がギロチンにかけられたことを知らせに来る。ジャコバン・クラブではロベスピエールの革命の推進を妨げる「内部の敵」を討つ必要性を訴え、恐怖政治の必要性を説く。仲間に危険を知らされたダントンはロベスピエールと面談するが、意見が合わないまま訣別する。ダントンと別れたロベスピエールはサン・ジュストに促され、ダントン一派を公安委員会にかけ処刑する決意をする。

アンブロワーズ・トマ(1811~1896)

ミニョン~第1幕~ 吟遊詩人・ロターリオがドイツの田舎街に流れ着き、幼い頃にさらわれて行方不明となった娘を探してここまで流れ着いた過程を詠い上げる。同じ街に来ていた旅芸人一座の座長・ジャルノはミニョンに踊れと命じ、ミニョンが疲れているので踊りたくないと命令を拒否したところ、ジャルノは鞭を取り出してミニョンを打とうとする。そこへ通りかかった学生・ヴィルヘルムが止めに入り、結局はヴィルヘルムが金を払ってミニョンを引き取る。

中川淳庵(1739~1786)

『解体新書』翻訳 1771年、杉田玄白が『クルムス解剖書』を入手する仲立ちをする。同年小塚原刑場で腑分けに立ち会い、翌日から前野良沢・杉田玄白とともに翻訳作業を開始する。自らも『パルヘイン解体書』『バルシトス解体書』を所有していたことが『解体新書』に見える。1773年正月『解体約図』を発行。1774年8月『解体新書』出版。

内藤鳴雪(1847~1926)

鳴雪句集 此の集を出すに方つて、子規居士と余との関係を思ひ出さずに居られぬ。居士は余の俳句の指導者である。而して是れは誰れも知る所で、今、改めて言ふの要もないから嘗て居士の生前に余の物した一二の文を摘記して、いささか今昔の感を叙する代りとした。憶ふ昔と云ふ程でもないが、明治二十五年の一月其頃寄宿舎に居た子規子始二三の人が俳句と云ふものを作るので、僕も少々真似がして見たくなつて、四十五の夢をさまして初日の出元日や仏に成るも此の心と遣つたが、どうも恥しいので人に見せられない。

北原遥子(1961~1985)

航空機事故死 また、TBS系東芝日曜劇場1500回記念テレビドラマ『星の旅人たち』の主演も作者の推薦で決定し、将来を嘱望されていたが、1985年8月12日に日本航空123便墜落事故に巻き込まれ死去。24歳没。死因は脳挫傷と内臓破裂。横浜市の実家にお盆で帰省した後、大阪府の友人に会いに行くための搭乗だったという。御巣鷹の尾根で発見された遺体は、事故現場の中でも奥に分け入った場所まで投げ出されたため、墜落後の機体火災に巻き込まれず、目立った外傷や損傷も無く、8月17日の午後、両親に確認された遺体は、身体がバラバラになっていない綺麗な遺体だった。

ユージン・ヴァン・リード(1835~1873)

生麦事件 1862年9月14日に起きた生麦事件では、事件発生前に島津久光の行列に遭遇するが、下馬し馬を道の端に寄せた上で行列に道を譲り、脱帽して礼を示した。薩摩藩士側もヴァン・リードが行列に礼を示していると了解し、特に問題は発生しなかった。後に英国人4名が薩摩藩士に殺傷される事件が起こったことを聞き、英国人側の非礼な行動を非難する意見を述べている。

村田春海(1746~1811)

琴後集 江戸後期の歌文集。村田春海著。全15巻。9巻までが歌集で、あとの6巻が文集。1813年刊。『琴後集別集』は未刊のまま写本が伝わっている。歌風は古今調をもとにしたもので、「とまり舟とまの雫の音たえて夜はの時雨ぞ雪になりゆく」などの作がある。典雅ではあるが、理知的な技巧を弄した歌が多いと評される。青年時に漢詩文を学んだ教養を生かしたような作が目だつほか、長歌も多く収める。また名文家と称されただけに、文章も数多く収録されており、江戸派の歌論を知ることができる。

デーヴィッド・ハーバート・ローレンス(1885~1930)

チャタレイ夫人の恋人 クリフォードは跡継ぎを作るため、コニーに男性と関係を持つよう勧める。その相手の条件とは、同じ社会階級で、子供ができたらすぐに身を引くことができる人物であることだった。コニーは、自分はチャタレイ家を存続させるためだけの物でしかないと嘆く。そんな彼女が恋に落ち男女の仲になったのは、労働者階級出身で、妻に裏切られ別れ、かつて陸軍中尉にまで上り詰めたが上流中流階級の周りになじめず退役し、現在はチャタレイ家の領地で森番をしている男、オリバー・メラーズだった。

アルフォンソ13世(1886~1941)

亡命 アルフォンソ13世はしばしば社会改革の努力を行うものの、途絶えることのないテロの中で政府高官は次々に暗殺され、統治の形態はますます旧来の抑圧へ傾斜を深めた。また、社会不安に混沌とする国内を鎮めるため、イタリアに倣い、1923年にはプリモ・デ・リベーラ将軍を登用し、権威主義体制による王権維持を目指した。プリモ・デ・リベーラ失脚後の1931年4月12日に行われた自治体選挙の結果、アルフォンソ13世は国外亡命に追い込まれた。後に亡命先のローマで死の直前に退位し、名目上の王位を四男のフアンに譲ったが、スペインが王政復古したのはアルフォンソ13世の亡命から44年後の1975年であり、フアンの息子フアン・カルロスが王位に就いた。

フアン・ロドリゲス・カブリリョ(1499~1543)

航海 1539年、エルナン・コルテスから依頼を受けたフランシスコ・デ・ウリョアがカリフォルニア湾を発見し、北緯30度近くまで到達した。そこで、カブリリョは新任のヌエバ・エスパーニャ副王である。アントニオ・デ・メンドーサに依頼され、太平洋岸の探検隊を率いることになった。その目的は貿易の機会を得ることにあり、おそらく中国への航路を得るか、または太平洋とハドソン湾を結ぶ伝説のアニアン海峡を発見することにあった。カブリリョは探検のための旗艦を建設・所有し、貿易や財宝による利益はカブリリョが得ることになった。

ジョージ・ピケット(1825~1875)

南北戦争~ゲティスバーグとピケットの突撃~ ピケットの師団は1863年7月2日、ゲティスバーグの戦いの2日目の夜に戦場に到着した。ペンシルベニア州チェンバーズバーグを通る南軍の通信線を守っていたために到着が遅れていた。ロバート・エドワード・リー将軍の北バージニア軍は激しい2日間の戦闘の後で、北軍ポトマック軍をゲティスバーグの南にある高台に追い込んだが、退却させるまではできていなかった。リー将軍の7月3日の作戦はセメタリーリッジにいる北軍中央への大規模攻撃を求めていた。ロングストリート将軍に3個師団を集めて攻撃を掛けるよう命じた。2個師団はアンブローズ・パウェル・ヒル軍団に疲れきった部隊、残り1個師団がロングストリート軍団のまだ新鮮なピケットのものだった。リーはピケットに突撃を先導するように任せたが、これがより正確な名称であるはずの「ピケット=ペティグルー=トリンブルの突撃」では世に知られていない理由の一つである。

ナボポラッサル(前658~前605)

シリア地方での戦争~その死 紀元前609年の春、エジプトのネコ2世はアッシリア軍を援護するため、かなりの規模の軍を率いてきた。大軍の先頭は主に傭兵から成っていた。陸軍の動きに合わせて地中海上を進む艦隊で陸軍を擁護しながら、ネコは沿岸の海の道を通ってシリア地方へ入った。彼は、イズレエル平野の南に連なる丘の尾根を越えていこうとしたが、彼の進路をユダの軍が遮っていた。ユダの王ヨシュアはバビロニア軍の援護を受けつつ、ネコの進軍をメギドで食い止めようとしたが、激しい戦闘が起こり、ヨシュアは殺された。ネコは進軍を続け、アッシュル・ウバリトの軍と合流し、彼らはユーフラテス川を渡ってハッラーンを包囲した。ハッラーンの奪還に失敗すると、彼らはシリア北部へ退却した。

ラ・イル(1390~1443)

百年戦争~オルレアン包囲戦~ 1428年10月25日にオルレアン防衛のための援軍としてデュノワと同郷のジャン・ポトン・ド・ザントライユらと共に同地に駆け付け、目覚ましい戦功をあげた。またシャルル7世から軍資金を引き出すため、オルレアンとシノンの王宮を何度も往復した。1429年2月のニシンの戦いに敗れオルレアンから離脱するが、ジャンヌ・ダルクがやってくると、彼女に最も忠実な戦友の1人となった。ジャンヌと共に戦ってイングランド軍のオルレアン包囲網を突破、続いてアランソン公ジャン2世、ジル・ド・レ、アンドレ・ド・ラヴァルらと合流してロワール川沿岸を進軍した。パテーの戦いではザントライユと共に指揮官としての才能を存分に発揮し、フランスに勝利をもたらした。

ニコラウス2世(990~1061)

ミラノの従属 この間、ニコラウス2世はミラノにおけるパタリア派、大司教、聖職者らの争いを調停するため、ペトルス・ダミアニとルッカのアンセルムをミラノに派遣した。破滅的な聖職闘争に直面していたミラノのウィドー大司教は教皇特使の前に服従した。1059年4月の復活祭にラテラノ宮殿で開催した教会会議にウィドーらミラノ人の司教たちを強制的に出席させることで、ローマのミラノに対する優越を確立したこの勝利を喧伝した。この会議は、後にグレゴリウス改革として知られるイルデブラントの聖職者の規律粛正を推進したばかりでなく、教皇選挙の大改革を実現したことで教会史に大きな足跡を残すことになる。

イブラヒム(1615~1648)

狂人皇帝 1640年、兄のムラト4世の死後即位するが、兄の突然の死の悲しみや宮殿内の皇帝殺害の陰謀による恐怖のために皇帝として即位したことを全く嬉しく思っていなかった。やがて神経衰弱の余り精神を病み、帝冠をつけたのは息子が誕生した時ただ一度のみだといわれている。即位当初は慈悲深く貧しい人々を助けることに努めたが、母太后や当時の首相が実権を握っていたためにあまり多くの業績を残すことはなかった。

ベルナルド・ベッロット(1720~1780)

スタニスワフ・アウグストの国王選出

ラザール・カルノー(1753~1823)

勝利の組織者 1792年9月には国民公会の議員として再選される。カルノーは引き続き前線各地に出向くことが多く、1793年4月のデュムーリエの裏切りにも遭遇した。戦争は、イギリス、オランダ、スペインの相次ぐ宣戦により、フランスにとって危機的な状況となる。8月、カルノーは前線から呼び戻されて公安委員会の委員となり、軍事に疎いロベスピエールや戦争大臣ブーショットを助け軍事問題を担当し、能力を発揮する事になる。

バロネス・オルツィ(1865~1947)

紅はこべ 1792年のフランス革命の真っ只中にあるフランスではオーストリアとの戦争が始まり、ただ貴族、聖職者だと言うだけでオーストリアとの密通を疑われてギロチンに送られていた。そんな中、鮮やかな手口と大胆な知略で捕らえられた貴族を救い出してイギリスへ亡命させる謎の一団が現れる。革命政府は捕らえようとするが、彼らはその追跡を振り切り、貴族達と共に逃げ去ってしまう。残された紋章がいつしかその団は「紅はこべ」と呼ばれるようになる。

ポール・ブリューナ(1840~1908)

日本政府による雇用 東京に戻った後アルベール・シャルル・デュ・ブスケの推薦を受け、1870年11月29日に契約を結び、ブリューナは1871年から日本政府に5年間雇用される事となった。富岡製糸場の建設に先立って機材購入や技師の雇用のために一時フランスに帰国することになり、1871年3月12日にイギリスの船で日本を発っている。

ドメニコ・ベッカフーミ(1486~1551)

聖ヨハネと聖家族

俊芿(1166~1227)

泉涌寺勧縁疏 仙遊寺を泉涌寺と改めた翌年の1219年10月、54歳のときに書し勧縁疏である。文章・書風ともに優れており、風格・骨法は宋代に流行した黄山谷風の行書体である。5紙1巻よりなり、外題に「造泉涌寺勧進疏」とある。大きさは、40.8cm×29.3cm。

松殿基房(1144~1231)

殿下乗合事件 殿下乗合事件は、平安時代末期の1170年7月から10月にかけて、摂政・松殿基房の一行が女車に乗った平資盛に遭遇し、基房の従者が資盛の車の無礼を咎めて恥辱を与え、その後、資盛の父・平重盛の武者が基房の武者を襲撃して報復を行った事件。『平家物語』では報復を行った首謀者を資盛の祖父・平清盛に設定し、「平家悪行の始め」として描いている。

ダウマンタス(1240~1299)

プスコフの統治者として ダウマンタスはプスコフ到着後に東方正教会の洗礼を受けて、アレクサンドル・ネフスキーの息子ドミトリーの娘と結婚した。リトアニアに対してプスコフ軍を率いてダウガヴァ川の土手で敵軍を撃破し、ゲルデニス公の地に侵入して破壊を行い、その2人の息子と妻を捕まえる。ダウマンタスの勇敢な精神、友好的な手段、軍事的事業の成功は、ダウマンタスの自分達の「公」として、軍事指導者に選出することをプスコフ人に納得させるに至った。

奥平家昌(1577~1614)

宇都宮藩主 1601年3月10日、関ヶ原の戦いの勝利後に命ぜられた京都治安活動を高く評価された父・信昌が美濃加納10万石を与えられた。そのため、それまでの上野宮崎領に家昌を残し、父母は弟の忠政を伴って配地へ赴任した。1602年2月19日、家昌も父に遅れて北関東の要地・下野宇都宮10万石を与えられると、1602年3月18日、入国を果たした。これは、家康が北関東の要衝である宇都宮藩に誰を配するべきかと天海僧正に諮問した際、天海は誰彼と論ずる必要はなく奥平大膳に与えるべきと答え、家康も我が意を得たりとして家昌に10万石を与えたものである。宇都宮への加増転封にともない、文武一芸に秀でた浪人を多く召抱えて新たな家臣団を編成した。ものの、三河時代からの家臣団制度が機能的でなくなったのを痛感した家昌は、重臣制度改正に着手した。この奥平家では、長篠の戦いで父を援けた重臣12家を「七族五老」と呼んでいた。元々は跡継ぎとなれずに支族として宗家を支え、軍務を担当していた7家に、重臣に抜擢して政務を担当させた小領主たち5家を加えた12家の総称である。長篠の戦いの勝利後には、陪臣でありながら家康から直々に労われた上に、彼らの子々孫々に至るまで厚遇を約束された、御墨付きを拝領していたという重臣たちであった。戦乱に明け暮れた時勢であればまだしも、平穏な治世に移り変わっていくと、七族五老は軍務の負担が減る一方で政務の負担が激増していた。そこで、族臣7家と老臣5家を合一して「大身衆」と呼称変更した上で、その12家の中から5、6家が毎月交代で国政を担当し、有事には12家が協力して対応するように改めたのである。その12家は平等ではなく、指導的立場にある2家が2000石以上を食み、序列によって俸禄が定められた。なお、戦時の先手を担当する山崎家と生田家だけには、大手門内に邸宅を構えさせている。

張居正(1525~1582)

宰相として 幼帝を擁した張居正は独裁的な手腕を振るい、次々と改革を実行していった。まず、官吏の弾劾を行う言官や各地の書院などの口を封じて独裁権を確立し、冗費の撤廃・綱紀粛正などを行った。そして張居正の功績として最大のものが、全国的な丈量の実施と一条鞭法の実施である。

ワイナ・カパック(不明~1527)

功績と死 ワイナ・カパックはインカ帝国を、南部では現チリ・アルゼンチンにまで広げ、北部では、現エクアドル・コロンビア南部となっているチンチャ・スウユを併合するため、何年間も戦った。彼の時代、インカ帝国は現在のコロンビア南部からチリ北部に渡る最大版図を有することとなった。遥か南には帝国の首都としてクスコがあったが、彼はキトを北部の要塞都市として確立することを望んだ。しかし彼自身はキトではなくトメバンバを本拠地として、そこに壮麗な宮殿を建設したとする見解も存在する。