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ライナス・ポーリング(1901~1994)

平和運動 ポーリングは元々政治には殆ど無かったが、第二次世界大戦が起きると彼の生き方は大きく変わり、平和活動家になった。マンハッタン計画が始まって間もない間、ロバート・オッペンハイマーから計画の化学部門に招聘を受けたが、ポーリングは平和主義者であることを理由に辞退した。1946年、アルベルト・アインシュタインが議長を務める「原子力科学者による非常委員会」に出席した。この委員会の任務は、核兵器の開発に付随する危険性を一般社会に警告することだった。ポーリングの平和活動は、1950年にマッカーシズムの攻撃対象となり、上院議会の教育調査委員会に証人として召喚された。彼は事前の記者会見で共産主義者でないことを宣言したうえで委員会では証言を拒否した。しかし1952年には国務省が彼のパスポートを差し押さえた事件が起こった。同年、彼が招かれたロンドンの科学会議で講演をする予定だった。パスポートは1954年、ストックホルムで彼が初めてノーベル賞を受賞した授賞式の直前に返還された。1955年、アインシュタインやバートランド・ラッセルら第一級の科学者や知識人が参加する中、ポーリングはラッセル=アインシュタイン宣言に署名した。

ニールス・アーベル(1802~1829)

業績 アーベルが中心的に扱ったのは楕円関数とアーベル関数に関する研究である。アーベルはガウスの著作にある、レムニスケートの等分問題から楕円積分の逆関数の研究に取り組み、ガウスの研究を独自に発見することになった。楕円関数論のアーベルの定理とは、楕円関数の極と零点に関する合同式である。研究上のライバルであったヤコビはアーベルの論文を目にして「私には批評もできない、大論文」と最大限の賛辞をおくったといわれる。ヤコビはアーベルの定理を利用してヤコビの逆問題を示して、その後の研究の目標を新たに与えることになる。

パウル・エールリヒ(1854~1915)

化学療法~起源~ パウル・エールリヒの造語で、元来は、感染症の化学薬品による治療を意味していた。それが、微生物由来の抗生物質が発見され、化学薬品ではない薬物治療も化学療法と呼ばれるようになった。「感染症の化学療法」は抗生物質の項に詳しい。結核の治療、自己免疫疾患の治療にも化学療法の語が使用される。

ロザリンド・フランクリン(1920~1958)

研究者として ロザリンドは順調に研究を進め、着手後およそ1年で、DNAには水分含量の差によって2タイプ存在することを明らかにし、それを互いに区別して結晶化する方法を確立させた。また、そこにX線を照射して散乱パターンの写真撮影に成功していた。さらに、これらについてはデータを公表せず数学的解析を自力で進めていた。1953年には、DNAの二重らせん構造の解明につながるX線回折写真を撮影しており、特に有名なものが「photo51」と呼ばれる写真である。

マリア・レティツィア・ボナパルト(1750~1836)

ナポレオンの母 ナポレオンが皇帝を目指すと反対し、1804年12月2日の戴冠式には出席しなかった。皇太后の称号を得ても他の家族のように贅沢をせず、質素に生活して金銭を倹約した。フランス第一帝政が崩壊してナポレオンがエルバ島に追放されるとローマに亡命した。後からエルバ島にかけつけ、それまで貯めた資金で困窮した元部下や家族を援助した。百日天下ではフランスに戻ったが、失敗すると再びローマに亡命した。

アレッサンドロ・ファルネーゼ(1545~1592)

八十年戦争 1571年のレパントの海戦に参加、1578年から母方の叔父のスペイン王フェリペ2世よりネーデルラント総督を命じられ、1579年にアラス同盟を結んで南部10州をスペインに帰順させる功を立てた。ユトレヒト同盟で結束した北部7州との戦争では1582年にアウデナールデ、1584年から1585年にかけてアントウェルペン、ブリュッセルを落としてネーデルラントに迫った。しかし、1588年にフェリペ2世がイングランド遠征のためネーデルラントのスペイン軍を活用する方針に切り替えたためダンケルクで待機していたが、アルマダの海戦で無敵艦隊が敗北してネーデルラントへの攻撃は中止となった。

小田氏治(1534~1602)

最後の戦いと所領没収 氏治は相模の北条氏政に救援を求めたが、豊臣秀吉の攻撃に晒された北条氏にその余裕はなかった。2月には徳川家康が小田原征伐の先鋒として進軍していた。さらに不幸なことに、この小田原征伐に際し、「小田原攻めの秀吉軍に参陣せず、豊臣方の佐竹氏に反旗を翻し、小田城奪還の兵を起こした」ことを理由に所領を全て没収され、大名としての小田氏はここに滅亡した。秀吉の直臣となることを願うが、叶わなかった。1591年8月10日、氏治は奥州巡察に向かった秀吉を追って会津へ行き、浅野長政を通じてその罪を謝した。秀吉はこれを許し、結城秀康の客分として300石を与えられた。

マヒンダ(前285~前205)

スリランカにおける伝説 スリランカの年代記であるマハーワンサとディーパワンサには、満月の夜、祭りの日にスリランカに到着したマヒンダを歓迎する宴が開かれた際の伝説が残されている。その伝説によると、狩猟のためにミヒンタレーまで遠征していたアヌラーダプラ王国のデヴァーナンピヤティッサ王の前に、頭を剃りあげた姿のマヒンダが現れた。当時、アショーカ王とデヴァーナンピヤティッサ王は非常に緊密な関係にあり、マヒンダとも何度か会ったことがあったが、マヒンダの出家姿を見て非常に驚き、最初は誰なのかわからなかった。挨拶を交わしたのちマヒンダはスートラを開き、王家の狩りの宴の中で仏教の教えが語られた。マヒンダたち一行はのちにアヌラーダプラへも招かれ、宮中の宴でも一行は法を説いた。

黎聖宗(1442~1497)

科挙とベトナム文化 聖宗は先代の前廃帝黎宜民が目指した官僚主導の政権の構築を目指し、「光順中興」の時代に聖宗の治世から始まった科挙制度が確立された。受験者の資格の制定、会試の方法の改定によって合格者の質の向上を図り、制度の確立に貢献があったのは、仁宗、聖宗の治世に登用された科挙官僚であった。合格者の名前は石碑に刻まれ、そこにはベトナム史に残る政治家、学者、文人の名前が多く記されていた。科挙による朱子学の振興と試験を通過した文人官僚の増加は、史学とベトナム漢文学の隆盛ももたらした。ベトナム各地の伝説を集めた『嶺南摭怪』の編纂、呉士連によって献上された、それまでのベトナム史書の集大成である編年体の通史『大越史記全書』の完成が聖宗期の史学界を代表する出来事として挙げられる。

狄仁傑(630~700)

武則天の時代 692年、酷吏出身の官僚である来俊臣により、謀反を企んだと告発を受ける。狄仁傑は監視と拷問を緩めるため、謀反をあえて認めたが、酷吏の懐柔に対しては、自殺を図ることであくまで拒む。さらに、免状を書き、衣の中にいれて、外にいた息子の狄光遠に渡す。このため、免状は武則天に届き、狄仁傑と面会した武則天によって、出獄される。その後、彭沢の県令に左遷させられた。

文帝(407~453)

元嘉の治 即位後は、兄を廃して殺した罪で徐羨之の重臣を次々と粛清した。その一方で貴族を重用し、学問を奨励して国子学を復興する。このような経緯から、文帝の治世において学問・仏教などの文化が盛んになり、范曄が『後漢書』を完成させたりと、南朝宋は全盛期を迎えることになった。このため、文帝の治世は「元嘉の治」と呼ばれている。

ミハイ1世(1921~2017)

退位と亡命生活 1947年12月30日、親共産党の陸軍部隊による包囲のなか、ミハイは事前に用意されていた退位文書に署名し、亡命に追い込まれた。電話回線を切られ、ミハイは国王に忠実な部隊を呼び出すことができなかった。当時のルーマニアではソ連軍の駐留に反対する市民運動が激化して逮捕者が続出しており、一説によれば、ミハイに対しソ連駐留軍のヴァシレンスキイ司令官が「退位して国外に去らなければ、逮捕者を処刑する」と脅迫したため、やむなく退位したとも伝えられる。

ルイ=マリ・スタニスラス・フレロン(1754~1802)

反乱の鎮圧と反ジャコバンへの転身 9月になると、フレロンはセーヌ行政区選出から選出されて国民公会の議員となり、ルイ16世の処刑に賛成票を投じる。1793年から1794年の間、ポール・バラスと共に派遣議員としてプロヴァンス、マルセイユ、そしてトゥーロンへと派遣される。彼らは、トゥーロンの反乱の様な出来事の後、議会の権威を盾にこれら反革命分子による反乱を徹底的に鎮圧した。しかし、この反乱の鎮圧で過度にやりすぎてしまったことから、逆に当時の最高権力者・ロベスピエールの反感を買ってしまうことになる。

ジョージ・メイソン(1725~1792)

政治~フィラデルフィア会議~ 1786年、メイソンはバージニア邦議会により、連合会議のバージニア邦代表に任命された。メイソンは1787年5月から9月までフィラデルフィアで開催された合衆国憲法制定会議に参加した。1787年9月、フィラデルフィア会議でまとめられた合衆国憲法案は連合会議に報告され、連合会議から各邦の批准に委ねられた。メイソンはバージニアの批准会議に参加したが、パトリック・ヘンリーらがとともに、合衆国憲法に人民の諸権利を列挙した権利章典がないことを問題にした。バージニアでは新政府発足後に人民の諸権利の保障などを修正条項として追加するという付帯決議をつけることで、1788年6月25日に僅差で批准にこぎつけた。その後、メイソンは権利章典の追加を主張し続け、1791年12月15日にバージニア権利章典を基にした追加条項が批准された。

マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ(1906~2001)

第二次世界大戦 第二次世界大戦の間、マリーア・ジョゼはナチス・ドイツによって占領されたベルギー王国の王族であったため、枢軸国に加わっているイタリアと連合国との外交上の小さな窓口と見なされた。イタリア王家がファシズムやナチスに全面的な賛意を示すのとは裏腹に、ベルギー王家と同じく反ナチス・反ファシズムの意思を持つマリーア・ジョゼは連合国から高い評価を得た。イギリスの外交官は「イタリア王家内で数少ない理解者」と日記に記している。また彼女は弾圧される反枢軸国パルチザンに対しても協力的で、スイス政府を通した物資援助などを密かに行っていた。あるパルチザンの旅団は彼女を名誉顧問に据える考えすら示したが、流石にこれは拒否している。

西郷糸子(1843~1922)

エピソード 坂本龍馬の能力を有望視した西郷隆盛が龍馬を薩摩へ招いた際のこと、着た物を破けるまで着続ける癖が多く、困っていた龍馬に気付いた糸子は夫のお古の褌を探してお裾分けしたことや、自宅が雨漏りしてる時、隣室で休んでいた龍馬に糸子は「お客様が来られると面目が立ちません。雨漏りしないように屋根を修理してほしい」と雨漏りの原因である屋根の修理の手伝いをさせようという発言に対して、普段は優しい隆盛が珍しく憤怒して、糸子が叱られてしまい、隆盛の人格性にそれを見た龍馬自身が関心するエピソードがある。上野公園の西郷隆盛像除幕式で、像を見た糸子は、夫に似ていないと何回もつぶやき、同席していた義弟の従道を困惑させた。

川口浩(1936~1987)

探検家 毒蛇や毒蜘蛛に襲われたり、底なし沼にはまる、隊員たちが新たな脅威を発見し「隊長!」と叫ぶなどのシーンの多くは、あくまで「演出」であり、後に嘉門達夫がこれを皮肉った曲『ゆけ! ゆけ! 川口浩』を歌いヒットさせた。このような過剰な演出が現在も回顧される一方で、DVD発売時の特番で、元・番組スタッフが語ったコメントでは、ジャングルなどの辺境の地での過酷な環境でのロケは命がけであったことが述懐されている。

シャルル・マリ・ボナパルト(1746~1785)

ナポレオンの父親 コルシカ独立戦争の折には当初、コルシカ独立運動の指導者であったパオリの副官を務めていた。敗戦後にフランス側へと転向して総督マルブフと親しくし、判事の職を得る。フランス政府から正式に古い血統の証明資格を認められたことで、ボナパルト家は晴れて貴族の仲間入りを果たし、息子たち、特に三男のナポレオンを本土の士官学校で学ばせることができた。

セレウコス2世(前265~前225)

第三次シリア戦争 父アンティオコス2世は、プトレマイオス朝エジプトよりベレニケを王妃に迎え、ラオディケ1世と離婚した。ラオディケは王妃に返り咲くため陰謀をめぐらし、紀元前246年には王妃に復帰してベレニケを殺害、アンティオコスも毒殺して息子セレウコス2世を即位させた。しかし、ベレニケの弟でエジプト王となったプトレマイオス3世は復讐を図り、第三次シリア戦争を開始した。この戦争はエジプトが圧勝し、セレウコス朝シリアは弱体化していった。

ロジャー・モーティマー(1287~1330)

反国王派貴族に イングランドの宮廷ではエドワード2世の寵臣のギャヴィストン、ギャヴィストン殺害後はヒュー・ル・ディスペンサー父子が専横を振るい、宮廷と貴族が対立を深めた。モーティマーはこの争いに当初中立的だったが、次第にディスペンサー父子と確執を深め、反国王派の第4代ヘレフォード伯ハンフリー・ド・ブーンの支持者となり、1321年に国王の召還に応じることを拒否し、貴族たちの反乱に参加した。しかし1322年1月にシュルーズベリーで国王に降伏し、ロンドン塔に投獄された。1324年8月に脱走してフランスへ亡命した。

ブルグントのアーデルハイト(931~999)

3度目のイタリア遠征 953年、オットーと先妻エドギタの間の一人息子リウドルフが父に対する反乱を起こして失脚すると、その没収された所領は全てアーデルハイトの所領とされた。962年2月2日にオットーが教皇ヨハネス12世によってローマ皇帝の帝冠を授けられた際、極めて異例のことながら、アーデルハイトも夫の戴冠式において皇后として戴冠した。966年、アーデルハイトはオットー大帝の3度目のイタリア遠征にも同行した。

キリル・ラクスマン(1737~1796)

ラクスマン一家 1790年、イルクーツクで大黒屋光太夫に出会う。ラクスマンは、光太夫の境遇に同情すると同時に、帰国が叶うように最大級の尽力を惜しまなかった。また、博物学者としてラクスマンは、光太夫たちから日本の情報を収集することにも力を注いだ。ラクスマンは、すこし頑固なところがあったが、真摯で誠実な人物であり、光太夫一行は、次第にラクスマン一家と家族的な付き合いをするようになっていった。しかし、帰国を願う嘆願書は、あくまで光太夫たち日本人をロシアに帰化させることを方針としていたイルクーツク総督府によって握りつぶされていた。

大久保忠真(1778~1837)

藩政改革と二宮尊徳 尊徳が桜町復興に成功すると、次に忠真は重臣たちを説き伏せ、尊徳に小田原本藩の復興を依頼し、金1000両や多数の蔵米を支給して改革を側面から支援した。1837年のことである。尊徳登用を思い立ってから15年が経っていた。尊徳の農村復興は九分九厘成功したが、1837年、忠真が57歳で突如として急死し、跡を嫡孫の忠愨が継ぐと、尊徳は後ろ盾を無くした。二宮尊徳による小田原藩の改革は保守派の反対によって頓挫した。

唐衣橘洲(1744~1802)

狂歌若葉集 江戸時代後期の狂歌集。唐衣橘洲、平秩東作。元木網、蛙面坊懸水、古瀬勝雄の撰。2巻。1783年刊。作者別に約60人の狂歌を集め、橘洲の107首をはじめ、内山賀邸、東作、木網らが多数入集している。この期の代表的狂歌作者である四方赤良、朱楽菅江らが軽視されており、この頃の狂歌壇の事情を示している。

金森重近(1584~1657)

武芸者 伊予国大洲藩主の加藤泰興は、備中国足守藩主の木下利当に槍術を学び、自ら槍の流派を開いたほどの武芸の達人であった。この加藤が宗和に、茶会の開催を依頼した。加藤は茶道の心得は無く、さほどの興味もなかったが、名高い宗和の茶道とは一体どれほどのものであるかを体験したく、加えてこの席上に武芸者から観てなんらかの隙があれば、それを指摘をしてやろうとすら意気込んで参加した。当日の宗和の席は加藤にとって僅かの綻びもなく、一切の隙も感じられなかった。帰宅した加藤は、確かに宗和は「名人」であったと語った。これが慈胤法親王の耳に届き、法親王は「そうであろう」と大変喜んだ。後陽成天皇の皇子であった慈胤法親王は宗和から茶の指導を受けていた弟子筋にあたり、法親王らが後に続く公家の茶を確立させていった。

浅井了意(不明~1691)

浮世物語 氏素性の分からない元武士で守銭奴の父に育てられた主人公、瓢太郎は、武術や手習いなど何をやらせても冴えない少年だった。一人前の年齢となった後も、賭博や傾城にうつつを抜かし家を売るような有り様だった。その後、どうにか武家の若党になり、算盤の腕を買われて御咄衆に取り立てられる。しかし、悪政に荷担する無情な姦臣として世の人々に恨まれる。調子に乗った瓢太郎は軽はずみに同僚の侍を怒らせ、痛めつけられ怖くなって逃走してしまう。武士の面目を失った瓢太郎は出家して「浮世坊」を名乗り京都や大阪近辺を遍歴する。物語の後半にはとある大名の御咄衆になるが、最後には仙人になって何処かへ姿を消す。

菊池武時(1292~1333)

挙兵 1333年3月11日、博多に到着した武時は鎮西探題に出仕したが、侍所から遅参を非難され、口論となった。13日、武時は挙兵し、博多の所々に火をつけて焼き払った。そして少弐貞経、大友貞宗らに使者を使わし、隠岐を脱出した後醍醐天皇の綸旨を受けているので同調するように告げる。しかし両者の反応は冷たく、少弐貞経は堅粕で菊池の使者を斬り、大友貞宗も使者を斬ろうとして逃走された。武時は鎮西探題に押し寄せ、探題配下と合戦となるが敗れ、子の菊池頼隆以下菊池一族と共に討たれた。享年42。一族200名あまりの首が犬射馬場に懸けられた。

トトメス4世(不明~前1391)

永遠はるかなラー神の出現 史実と関連付けた解釈では、スフィンクスとはヘリオポリスの太陽神崇拝を示すという研究もある。事実即位後のトトメス4世はアメン神官団の影響力の排除を試み、アメン大神官が就任する慣例であった要職に腹心を任じるなどの施策を行っている。これらの施策は息子アメンホテプ3世の時代になって、テーベからマルカタヘの遷都という形でいっそう顕在化する。また、墓所にも様々な神と対話する姿が描かれており、アメン神官団との間には相当の確執があったようである。軍事面ではヒッタイトの危機に対抗するため、ミタンニをはじめとする諸国との間に同盟を締結、シリア方面の情勢を安定させる成果を挙げている。

ギヤースッディーン・バルバン(不明~1287)

恐怖政治 奴隷王朝で3つめの王統となるバルバン家の支配を開始したバルバンであるが、即位後はスルターンの権威向上のために厳格な政治を断行した。知人であろうと見知らぬ人であろうと親しく接することはな冗談を言うことも許さなかった。笑うこともなく、また大声で笑うことも許さなかった。また領土全体にスパイ網を整備して密告を奨励し貴族の弱体化を図り、スルターン権力の神聖化、一族の優遇などを通してスルターン権力を強化した。中でもラージプートにおける正統クシャトリヤとして社会的地位を求めていたメオ族に対しては2度にわたって軍を送り、殺害するという残虐さだったという。デリーから東方170キロのカテヘルで暴動が起こった際には男は全員殺せと命令し、バラニーの記録では「暴徒たちの血は川となって流れ、どの村にも、どの密林にも、惨殺された死体が山と積まれた。その死臭はガンジス川まで漂うほどだった」とある。こうして自身の独裁権力の構築に邁進した。

聖モニカ(331~387)

アウグスティヌスの母 この祈りが届いたのか、夫は死の前年に回心してキリスト教徒となった。夫の死後、息子を追ってイタリアに渡っていたモニカは親子共にミラノ司教であったアンブロジウスの知己となり、大きな影響を受けた。ここでアウグスティヌスはアンブロジウスから洗礼を受けた。モニカには息子のアウグスティヌスがキリスト教に改宗し、放蕩な生活を悔い改めたことがうれしかった。アウグスティヌスの回心のためにモニカが悩み、その回心が果たされたことを喜ぶさまは『告白』に感動的に描かれている。息子の洗礼後ほどなくしてモニカはオスティアで没した。

ペタル4世(不明~1197)

ブルガリア正教会 反乱軍はタルノヴォを新たなブルガリアの首都に定め、独立した教会を持った。テオドルたちはタルノヴォの聖ディミタル教会に集まった民衆の前でブルガリアの再独立を宣言し、テオドルはブルガリア教会の大主教となったヴァシリイから戴冠を受けた。この時にテオドルは第一次ブルガリア帝国の皇帝ペタル1世にあやかってペタルを名乗った。

イザベラ・オブ・フランス(1295~1358)

国政主導 スコットランドロバート1世は少年王の即位を好機とみてイングランド北部への侵攻を開始した。軍資金の確保に苦しむイザベラとモーティマーは、戦争継続は不可能と判断してロバート1世に講和を懇願し、エディンバラ=ノーサンプトン条約を締結した。これによりイングランドはスコットランドが独立国であることとロバート1世がスコットランド王であることを承認した。さらにエドワード3世の妹ジョーンとロバート1世の長男デイヴィッドの結婚が取り決められた。しかしこの講和は国内的な合意を得ないまま進められた物であったため、「屈辱外交」として国内の強い反発を招いた。

トク・テムル(1304~1332)

政策 復位後3年にわたったトク・テムルの治世には、エル・テムルが独裁権力をふるい、ハーンはまったくその傀儡に過ぎなかった。内政・外政ともにエル・テムルを頂点とする軍閥間の利権政治に終始し、政治的には元朝の衰退がはっきりとし始めた時代である。トク・テムルはチベット仏教の寺院に多額の寄付をし、儒学を保護してその地位をひきあげた。元の政治制度を漢文によって集大成した『経世大典』の編纂が、トク・テムルの実施した文化事業として挙げられる。

孝宗(1127~1194)

乾道和約 南宋は金の要求により毎年多額の歳幣を献上していたが、この時期は1161年の海陵王の南宋遠征、そして海陵王死後の南宋による金への逆侵攻によって、戦争状態にあった。金では世宗が即位し、南宋の逆侵攻を撃退した。その後の世宗は南宋との関係修復に務め、孝宗も友好関係に務める中、1165年に和議が成立。この時の講和条件により、金へ送られる歳幣負担は軽減されることとなった。

ダムディン・スフバートル(1894~1923)

モンゴル人民共和国~モンゴル革命~ 1917年、ロシア革命が起こると社会主義の影響が強まったが、中国政府は社会主義の進出を恐れ、モンゴルの自治を撤回した。その後ロシア革命に敗れた白軍が侵入し、モンゴルを支配したが、1921年にスフバートルやチョイバルサンらが結成したモンゴル人民党はソビエト赤軍の支援を受けて、外モンゴル人民臨時政府を樹立した。これがモンゴル革命といわれる動きである。この政府はモンゴル人の象徴であるチベット仏教のラマ僧を活仏として国家元首にあてたが、1924年に活仏が死去したため、モンゴル人民共和国として社会主義国家となった。これは1922年のソビエト社会主義共和国連邦に次ぐ世界で二番目の社会主義国家の成立であった。この時、首都を従来のクーロンからウランバートルに改称した。

ジョン・ホーキンス(1532~1595)

第2回航海 2度目の航海は、成功だった。1564年、女王エリザベス1世はホーキンスと提携し、700トンと巨大キャラック船ジーザス・オブ・リューベック号を提供した。ホーキンスは3隻の小型船と共に、1回目よりも長期間でより遠くまでの航海を開始した。ホーキンスは海賊行為を働きながら、バルブラタに向かった。バルブラタに到着するまでに、彼は400人程の奴隷を捕まえていた。バルブラタの後、リオ・デ・ラ・ハチャに向かった。スペイン当局者は、税をかけてホーキンスが奴隷を売ることを妨害しようとした。ホーキンスは税の支払いを拒み、「町を燃やすぞ」と脅した。奴隷を売却した後、彼は休息のため、フロリダのフランス人植民地に向かった。1566年9月、イングランドに帰還した。遠征は成功し、彼に投資した人たちは60%の利益を得た。

フレデリク4世(1671~1730)

フレデリクスボー条約 最も重要な結果はシュレースヴィヒ公国内のゴットルプ公領の滅亡であった。以後、公国はデンマークの宗主下に置かれるが、ホルシュタイン=ゴットルプ家を通じてロシア帝国の影響も受ける様になるのである。幸運だったのは、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国から、1714年にヘルゴランド島を獲得し、戦争終結後にスウェーデンがエーレスンド海峡の通行税の負担を申し出たことで、フレデリク4世の体面だけは保てたと言える。これによってデンマークは国力を維持させることに成功した。

ジェプツンタンパ1世(1635~1723)

ハルハの内紛、ガルダンの標的に 1680年半ばに至り、清朝の康熙帝、チベットのダライ・ラマ、オイラトの盟主でジュンガル部の首長ガルダンらが仲介し、ジャサクト・ハン部とトゥシェート・ハン部の講和をはかるフレーンビルチェール会盟が1686年に開催された。この際、ジェプツンタンパ1世がダライ・ラマの名代としてこの会盟に派遣されたガンデン・ティパと同じ高さの座にすわった件について、ガルダンの激しい怒りを招く。

平正盛(不明~1121)

北面武士 従来、院の警護を担当していた武者所は機能を吸収され、北面武士の郎党となる者も現れてその地位は低落した。また白河法皇は北面武士を次々に検非違使に抜擢し、検非違使別当を介さず直接に指示を下したため、検非違使庁の形骸化も進行した。平正盛・忠盛父子は北面武士の筆頭となり、それをテコに院庁での地位を上昇させていった。

平貞盛(不明~989)

平国香の嫡男 939年12月には将門が「新皇」を自称する。940年、常陸国北部にて5000の兵を率いて貞盛、為憲らの捜索が行なわれるも当人らは発見出来ず、代わりに貞盛と源扶の妻が捕らえられたのみで、将門は彼女らを放免して捜索を中断し兵を各地に帰した。これを知った貞盛らは、母方の叔父の藤原秀郷の協力を得て4000余の兵を集めると将門を攻め、迎撃に来た将門勢を破り次第に追い詰め、2月14日「北山の決戦」にて、ついにこれを討ち取った。将門討伐後の論功行賞では、将門ら謀反人を討つことができたのも、多年の苦難を経て努力した貞盛の為すところも大きいとして、従五位上に叙せられた。

田中長兵衛(1834~1901)

釜石鉱山製鉄所の操業以後 1888年7月には大橋分工場、1892年には栗橋分工場の建設に着工。1894年には全国の銑鉄生産の6割以上を釜石鉱山製鉄所が占めていた。1893年には、日本で3番目の鉄道として1880年9月に開業したものの、官営製鉄所の廃止で運行停止していた釜石鉱山鉄道を馬車鉄道として再開業させる。

財部彪(1867~1949)

「財部親王」 帝国海軍の人事制度では、海軍兵学校の卒業席次を基礎とするハンモックナンバーが大きく影響し、兵学校同期生の間で進級や補職に差がついた。ただし、兵学校の下の期のクラスヘッドが、前の期のクラスヘッドを超えて進級することはなかった。また、皇族の海軍士官は例外であった。中佐まではクラスヘッドと同時に進級し、それ以降はクラスヘッドを超えて進級した。

川合義虎(1902~1923)

亀戸事件 同年9月1日、関東大震災発生時、川合は東京市麻布区により、東京府南葛飾郡亀戸町の自宅に帰る途中母子が家の下敷きになっているのに遭い、母親は助け出せなかったが3人の幼児を救い出し、食べ物を与えたりして一晩下谷区上野公園で抱いて過ごした。ところが、9月3日午後10時過ぎ、亀戸の南葛労働協会本部に、川合らを以前から労働争議で要注意人物として監視していた亀戸警察署の高等係の署員が来て、震災の混乱に乗じ、他の被災者救護に献身していた労働運動活動家らとともに川合を検束、連行。停電のため真暗であった留置場で、川合は革命歌を高唱して気勢をあげており、他の検束者を煽動して騒ぎが大きくなるのを恐れた亀戸署は、近くに駐屯していた軍隊に応援を求めた。9月4日亀戸署の中庭で近衛師団習志野騎兵第13連隊によって他の活動家らとともに銃剣で殺害された。遺体は近くの川原に遺棄・埋葬された。

ハワード・ヒューズ(1905~1976)

映画製作者~RKO~ 1948年、ヒューズは当時の有力映画会社の一つで、経営危機に陥っていたRKO社を880万ドルで買収し、映画制作・配給体制を強化した。買収後は『征服者』や『ジェット・パイロット』などのヒット作を送り出すものの、RKOの経営状態を改善するまでには至らなかった。最終的にはトランス・ワールド航空の経営資金を捻出するため、RKOは売却された。

ジョン・ポープ(1822~1892)

南北戦争 エイブラハム・リンカーンが大統領に選ばれたとき、ポープは灯台建設の任務にあり、リンカーンがワシントンD.C.に入る時にその護衛をする4人の士官の一人に選ばれた。リンカーンの副官となることを申し出たが、1861年6月14日、志願兵隊の准将に指名され、イリノイ州で志願兵の募集を命じられた。

アルフレッド・ハウゼ(1920~2005)

ディスコグラフィー 若干の例外を除いて、1952年から1989年まで、ドイツ・ポリドールと日本ポリドールで活躍した、1990年以降、日本はビクターエンタテインメントが取り扱っている。アルフレッド・ハウゼ楽団の音盤の販売時期は判明しているが、録音年月日は多くの場合、不明である。

川本喜八郎(1925~2010)

人形歴史スペクタクル 平家物語 『ひげよさらば』以来8年ぶりに製作されたNHK人形劇で、吉川英治の『新・平家物語』を基本に、平清盛や源義経の足跡をたどったストーリーである。『新・平家物語』は1972年に放送された同名のNHK大河ドラマの原作にもなっており、本作はNHKでの2度目の映像化作品となる。『人形劇 三国志』同様、専門の声優に限らず実力派の俳優を多数キャスティングした。原作では長く描かれる壇の浦の戦い以降の物語が大幅に省略され『勧進帳』などのエピソードは描かれなかったが、清盛の青春時代から始まり老境の麻鳥夫婦の姿で終わるのは原作と同様で長大な物語の全体を収めた構成になっている。

アレクセイ・クロパトキン(1848~1925)

日露戦争時の戦術 日本軍の能力を高く評価していたクロパトキンは、日本軍との全面直接対決を極力避けた上でシベリア鉄道の輸送力を活用し、兵力と物資の蓄積を図りつつ、日本軍を北方に吊り上げて補給路が伸びきり疲労が激しくなった所を一挙に殲滅するという作戦を計画した。しかし会戦においては敗北を繰り返し結果的に後退したのみだった。そして後退を繰り返した結果、各兵士の士気低下を招き終始指揮系統が混乱した。またクロパトキン自身も時勢に流されたその場しのぎの作戦指揮を展開したため、日露戦争においてロシア軍が敗北する結果に繋がった。

徳川家達(1863~1940)

明治維新後 1922年、海軍大臣の加藤友三郎や駐米大使の幣原喜重郎などとともにワシントン軍縮会議全権を務め、イギリス・アメリカ・日本の海軍主力艦保有比率を10:10:6にする条約を締結した。この決定は欧米列強の軍事的緊張を是正して国際関係を安定化させることが目的だったが、国内では海軍軍令部や右翼から「軟弱外交」との批判を受けた。

マフムード・ジブリール(1952~2020)

リビア国民評議会 リビア内戦で反カダフィ勢力によってリビア国民評議会が組織されると、カダフィ政権から離反し、国民評議会に参加した。2011年3月23日、暫定内閣として同評議会内に執行委員会が設置されると、委員長に選出され、事実上の暫定首相に就任した。暫定首相として、ニコラ・サルコジ、フランス大統領と会談しリビア国民評議会をリビアを代表する唯一の正統政府に承認させるよう交渉し、成功した。またウィリアム・ヘイグ英外相やジーン・クレッツ駐リビア米国大使と会談し、交渉の結果、米英両国の国民評議会に対する公式支持で一致した。

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト(1890~1937)

インスマウスの影 着いてみると、建物はどれも廃屋のようで鎧戸が閉めきられている。しかし誰か住んでいる気配もある。まばらに会う人たちは、不気味な魚めいた顔立ちをした者が少なくない。主人公は、酔いどれの老人から街が荒廃した真の原因を聞く。かつてオーベッド・マーシュという船長が、遠い南の海で、謎の海洋生物と混血すればその子孫は、歳をとるにつれ体が海中生活向きに変化を来たし、いずれは海中都市で不死の生活がおくれるという風習を金を受け取るとの交換条件でインスマウスに持ち帰り、その後それとの混血に反対する人間は粛清されてしまったためだというのだ。しかしそれは部外者には語ってはいけない秘密だった。今語っているところを何者かに見られたと老人は狂ったように走り去る。

アンブローズ・バーンサイド(1824~1881)

南北戦争~フレデリックスバーグの戦い~ アンティータムから撤退するリー軍を追撃できなかったマクレランは軍隊指揮から外され、1862年11月7日、バーンサイドはポトマック軍の指揮官を任された。バーンサイドはその短い経歴では3度目となるこの命令に、躊躇いながら従った。エイブラハム・リンカーン大統領はバーンサイドに攻撃的姿勢を採るよう圧力を掛け、11月14日、南軍の首都リッチモンドを占領するというバーンサイドの作戦を承認した。この作戦は12月13日のフレデリックスバーグの戦いで北軍の屈辱的なまた損失の多い敗北に繋がった。フレデリックスバーグへの侵攻は急速だったが、ラッパハノック川を渉るためのはしけを連ねた橋を並べる手配がお粗末であったために、また渡河地点での部隊配置を躊躇したために遅れを生じ、ロバート・エドワード・リーが南軍部隊に到着して町の直ぐ西にあるメアリー高地に部隊を集中させることを許し、北軍は容易に撃退された。攻撃の主要経路となることが予測された町の南への攻撃も、手配がうまく行かず、最初の北軍による突破も支援が無いままになった。バーンサイドは、その作戦の失敗と繰り返し無益な正面攻撃を行わせたために莫大な損失を出したことで動揺し、自分の以前からの軍団を使って自ら突撃を率いると宣言した。その軍団の指揮官達はそれを止めるよう説得したが、バーンサイドとその部下の関係に歪みを生じた。バーンサイドは全ての責任を認め、アメリカ陸軍からの退役を申し出たか、これは拒否された。