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アンブローズ・バーンサイド(1824~1881)

南北戦争~フレデリックスバーグの戦い~
アンティータムから撤退するリー軍を追撃できなかったマクレランは軍隊指揮から外され、1862年11月7日、バーンサイドはポトマック軍の指揮官を任された。バーンサイドはその短い経歴では3度目となるこの命令に、躊躇いながら従った。エイブラハム・リンカーン大統領はバーンサイドに攻撃的姿勢を採るよう圧力を掛け、11月14日、南軍の首都リッチモンドを占領するというバーンサイドの作戦を承認した。この作戦は12月13日のフレデリックスバーグの戦いで北軍の屈辱的なまた損失の多い敗北に繋がった。フレデリックスバーグへの侵攻は急速だったが、ラッパハノック川を渉るためのはしけを連ねた橋を並べる手配がお粗末であったために、また渡河地点での部隊配置を躊躇したために遅れを生じ、ロバート・エドワード・リーが南軍部隊に到着して町の直ぐ西にあるメアリー高地に部隊を集中させることを許し、北軍は容易に撃退された。攻撃の主要経路となることが予測された町の南への攻撃も、手配がうまく行かず、最初の北軍による突破も支援が無いままになった。バーンサイドは、その作戦の失敗と繰り返し無益な正面攻撃を行わせたために莫大な損失を出したことで動揺し、自分の以前からの軍団を使って自ら突撃を率いると宣言した。その軍団の指揮官達はそれを止めるよう説得したが、バーンサイドとその部下の関係に歪みを生じた。バーンサイドは全ての責任を認め、アメリカ陸軍からの退役を申し出たか、これは拒否された。

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体操~ドイツ体操~ ドイツ体操はバゼドー、フィヒテらの思想を継いだフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンによって1811年に創始された。バゼドーは神学教師であったが、哲学者ルソーの『エミール』に触発され、身体と精神は互いに助け合わなければならないと考え、その実現の場として1771年にデッサウに汎愛学校を設立し、平均台や徒歩競争などを含む体育法「ギリシャ体育」を生徒に施した。ヤーンは教育所を設立して高跳び用のスタンドなど体操用の器械を考案し、『ドイツ体操術』の著し、運動を愛国心に結び付け、旅先や公園で指導し、その発展と普及に努めた。今日の器械体操競技種目の大部分がヤーンの創案によるものである。その後スピースに引き継がれ、号令による運動や性別・年令に応じた段階的・組織的運動などを採り入れ、ドイツ初の器具装備の体操場を造った。1860年にはドイツ体操祭が開催され、今も4年に一度開催されている。スウェーデン体操の研究家ロートシュタインにより、青少年の体育手段として有害であるなどの批判を受け、激しい論争が行われたが、医者などの支持を得て、今日に至っている。