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7月, 2021の投稿を表示しています

赤松小三郎(1831~1867)

洋式兵学者としての業績 1855年より勝海舟の門人として長崎海軍伝習所に赴く。長崎で最新式のミエニー銃の性能を知り、新銃が戦闘方法も一変させると考え、関心は海軍から陸軍に移っていった。1857年にはオランダ語の原書から新式のミエニー銃の性能を詳述した『新銃射放論』を、1858年にはオランダ陸軍の銃の使い方の教則である『矢ごろのかね 小銃彀率』を、それぞれ翻訳出版している。当初は勝海舟の従者として活動していたが、途中で勝のもとを離れ、1858年からは第3期伝習生として長崎入りしていた旗本の小笠原鐘次郎に従って騎兵学を学んでいる。

ミハイル・バフチン(1895~1975)

主要概念~対話主義とポリフォニー~ 「ドストエフスキーの詩学」初版において、バフチンは、それまでのドストエフスキー研究を、登場人物の思想や心情と研究者が台頭にたって、実在の人物のように批評・批判するものや、逆に、登場人物の思想や人格を作者の思想や人格の「表現」として分析したものであって、どちらのやり方も、小説のテキストをそれ自体として捉えたものではないとして批判した。

上総広常(不明~1184)

源頼朝挙兵 同年11月の富士川の戦いの勝利の後、上洛しようとする頼朝に対して、広常は常陸源氏の佐竹氏討伐を主張した。広常はその佐竹氏とも姻戚関係があり、佐竹義政・秀義兄弟に会見を申し入れたが、秀義は「すぐには参上できない」と言って金砂城に引きこもる。兄の義政はやってきたが、互いに家人を退けて2人だけで話そうと橋の上に義政を呼び、そこで広常は義政を殺す。その後、頼朝軍は金砂城の秀義を攻め、これを敗走させる。

コラン・ド・プランシー(1794~1881)

地獄の辞典 『地獄の辞典』は、1818年、プランシーが20代のときに発表した作品であり、以後何度も版を重ねたプランシーの代表作かつ成功作である。悪魔学・迷信および占い・人物を3本柱として構成されており、辞書形式で多数の項目が記載されている。項目数は、1863年に発行された第6版では3799項目に至っている。

浦辺粂子(1902~1989)

日活へ 同年8月、当時日活の装置部にいた波多野安正から日活京都撮影所の女優採用試験を受けるよう薦められ、同撮影所に入社する。池永浩久撮影所長から「ちどりなんて、波間に漂っている宿無し島で縁起が悪い。静浦の浦を残して浦辺、それに本名のくめは縁起がいいから、子をつけて粂子」と改名を言渡され、芸名を浦辺粂子とした。同年公開の尾上松之助主演『馬子唄』がデビュー作となり、日活旧劇女優とては岩井咲子に続く第2号ということになったが、ついた役は女中や腰元ばかりであった。同年11月、日活向島撮影所が閉鎖され、向島の所属者が京都撮影所に合流して、第二部の名称で現代劇部が設立されると、浦辺も第二部へ移る。

アダム・ダンカン(1731~1804)

軍法会議とジブラルタル包囲戦 この時期、ダンカンは主にダンディーに住み、1777年6月6日に、スコットランド最高裁判所の首席裁判官であるロバート・ダンダスの娘ヘンリエッタと結婚した。おそらくダンカンは、この有力な家族だが、15年間も職務をむなしく探している自分に、何らかの仕事を得させてくれるだろうと考えたと思われる。1778年も押し詰まったころ、ダンカンはサフォークに乗艦し、ほどなくしてモナークに異動した。

石井四郎(1892~1959)

ノモンハン事件 1939年5月11日、ノモンハン事件が勃発すると、関東軍防疫部長として出動。7月8日から10日間、海拉爾・将軍廟方面にて防疫給水部隊を指導。10月1日、ノモンハン事件での防疫給水への貢献が評価され、石井が長を務める関東軍防疫部は、第6軍司令官の荻洲立兵中将から部隊感状感状を授与され、石井の顔写真付きで新聞報道された。

ウルフ・トーン(1763~1798)

オッシュの遠征軍と1798年の反乱 フランスの総裁政府はトーンが予言したアイルランドの革命を支持するためアイルランドに軍隊を派遣することを計画していた。総裁政府はフィッツジェラルド伯爵とアーサー・オコナーからトーンの話を裏付ける情報を手に入れ、ルイ=ラザール・オッシュの指揮下に遠征隊を派遣した。1796年11月15日、43艘の船と、アイルランドで展開するための大量の軍事物資を持った1,4450人の兵で構成された遠征隊はブレストを出発した。トーンは「副将軍 スミス」として同行した。そして強風で上陸できないフランスの航海士の航海術を軽視した。強風が収まるのをバントリー湾で数日待ったが、結局フランスに戻った。トーンはノイヴィートの戦いでオーストリア軍を破った後、フランスの軍事大臣となったオッシュの下、フランス軍のために数ヶ月間働いていた。1797年1月、バタヴィア革命の際作られた衛星国であるローランド地方のバタヴィア共和国よりアイルランドへの遠征隊の準備に従事した。しかし副将ヤン・ウィレム下の海軍が、テセル島の港において夏に吹く不利な東風や8月半ばからのイギリス北海艦隊の妨害により遅れていた。結局、10月の第一週も海上にとどまり、ダンカン提督の率いるイギリス艦隊にキャンパーダウンの海戦で敗北した。トーンはそれからパリに戻った。かつてアイルランドへの遠征軍指揮の任務を担っていたオッシュ将軍は、ライン川のフランス軍前線における任務から帰還した後、ヴェッツラーで結核により1797年9月に死亡した。

静御前(生没年不詳)

吾妻鏡における静御前 11月17日義経が大和国吉野山に隠れているとの噂があるので、吉野山の執行僧兵によって捜索するも見つからなかったところ、夜10時頃、義経の妾の静が藤尾坂を下り蔵王堂にたどり着く。その姿がいかにも怪しいので衆徒達はこれを見咎め、執行坊に連れてきて詳細を問う。静「私は九朗大夫判官の妾です。大物浜より豫州はこの山に来ました。5日間逗留しましたが、衆徒蜂起の噂を聞いて、伊豫守は山伏の姿を借りて逐電してしまいました。その時数多くの金銀類をわたしに与え、雑色男たちを付けて京に送ろうとされました。しかし彼らは財宝を奪い取り、深い峯雪の中に捨て置いて行ってしまったので、このように迷って来たのです。」

ムスタファ1世(1592~1639)

即位と廃位 1617年に兄のアフメト1世が死去した。この時のイスラーム長老のエサト・エフェンディと大宰相代理のソフ・メフメト・パシャら宮廷派閥はアフメトの息子ではなくムスタファを推したため即位した。特にソフ・メフメト・パシャらはオスマン皇子は若すぎると主張したためであった。ムスタファの即位に唯一反対したのが黒人宦官のムスタファ・アガのでムスタファ皇子の精神的な問題を理由にオスマン皇子を推薦した。

アンリ・ファルマン(1874~1958)

日本とのかかわり 日本において、最初の航空機の飛行を行った機体は、グラーデ単葉機とこの1910年製の製のファルマン機「アンリ・ファルマン号」であった。徳川好敏大尉が行った。代々木練兵場と陸軍所沢飛行場において試験飛行が行われこれが日本航空の発祥とされている。現在では跡地の代々木公園では記念碑が、所沢航空記念公園では航空発祥記念館が建っている。所沢では彼にあやかった洋菓子「ファルマン」が作られている。ファルマン通りなど、その名を冠した名称も多い。2015年には、アンティークの航空機部品インテリアの販売業を営む孫のピエール・ファルマンが来日し、アンリ・ファルマン機が保存されている航空自衛隊入間基地の修武台記念館を訪問した。

エカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァ(1847~1922)

貴賤結婚 1880年6月8日に皇后マリア・アレクサンドロヴナが死ぬと、皇帝は妻の死から1か月も経たない7月6日にエカチェリーナと再婚した。この結婚は皇帝の家族からも民衆からも祝福されないものだったが、皇帝は無理に再婚を急いだ。貴賤結婚のため、エカチェリーナの子供たちは帝位継承権を与えられなかったが、アレクサンドル2世は彼女に「ユーリエフスカヤ公女」の称号を与えた。

石井桃子(1907~2008)

ノンちゃん雲に乗る 8歳の女の子、田代信子は、ある春の朝、お母さんと兄ちゃんが自分に黙って出かけたので、悲しくて泣いていた。木の上からひょうたん池に映る空を覗いているうちに、誤って池に落ちてしまう。気がつくとそこは水の中の空の上。雲の上には白いひげを生やしたおじいさんがいて、熊手ですくって助けてくれた。ノンちゃんはおじいさんに、自分や家族の身の上を打ち明ける。

ワシーリー・チュイコフ(1900~1982)

独ソ戦 1939年のポーランド侵攻では第4軍司令官として参戦し、続く冬戦争では第9軍司令官を務めたが、スオムッサルミの戦いでフィンランド軍に敗北している。戦後の1940年12月に第4軍司令官に任命された後、在華ソビエト軍事顧問団の一員として中華民国に赴任し、1942年5月に帰国。同年6月に中将に昇進し、第64軍司令官に就任した。9月10日には第62軍司令官に就任し、スターリングラード攻防戦でゲリラ戦を展開しドイツ国防軍を降伏に追い込んだ。前述の通り、この戦闘では敵が潜む可能性のある部屋に手榴弾を投げ入れ、爆発直後に自動小銃を構えて突入し、粉塵の中を手当たり次第に乱射して制圧し、さらに次の部屋の制圧に向かうという後にCQBと呼ばれる室内戦においての効果的な戦術を編み出し戦後には様々な国の特殊部隊での模範となった。

二階堂トクヨ(1880~1941)

二階堂体操塾の創立 1922年4月15日、私財を投げ打ち、日本女子体育大学の前身となる「二階堂体操塾」を開いた。女子体育の研究機関と女子体育家の養成機関を兼ねた塾で、トクヨを中心として入塾生とともに創り上げていく共同体であった。この時トクヨは41歳であった。校舎は東京・下代々木に借りた庭園付きの邸宅を利用し、設立前から住み込みで準備していた。トクヨ塾長が自ら授業を行ったほか、トクヨの弟・二階堂真寿が国語と和歌を担当し、軍人や軍医ら軍関係者、野口源三郎・大谷武一ら体育界の重鎮も教鞭を執った。また、トクヨの母・二階堂キンとお手伝いさん2人が家事を行って塾生を支えた。

ウィリアム・ブース(1829~1912)

救世軍の起源 1865年7月2日ブースは12人の有志の招きに応じてロンドン東部の貧民窟に入った。最初の予定では、向こう数週間ここで魂の救済を説くのが目的であって、これが救世軍の起源となるとは、他人はもちろんブース自身も思っていなかった。しかし、この救済活動の最中、ある夜ブースは居酒屋の前を通り、そこに集まった人々の有様を見て、彼らが最も救いを必要とする人々であり、これらのならず者や娼婦のために一身を投じたい感じた。彼は帰って妻にその理由語り、遂にこの貧民窟にとどまってながく彼らの魂のために働こうという決心した。

与那嶺要(1925~2011)

現役時代 翌1952年にはリーグ2位の打率.344・38盗塁を残し、オールスターゲームにも初出場を果たす。オールスターには以後8年連続で選出された。この年までは、中堅手であった3番打者・青田昇の存在があり、与那嶺は主に左翼手を務めていたが、青田の移籍に伴って1953年以降は中堅手を務めるようになった。同年シーズンもリーグ5位の打率を残し、1954年には打率.361という自己最高の成績で自身初の首位打者を獲得。1955年もリーグ4位の打率を記録するなど活躍した。

アンヌ・ド・ブルターニュ(1477~1514)

結婚 フランソワ2世が亡くなった数日後、ブルターニュ=フランス戦争の新たな危機の時代が幕を開けた。1490年、アンヌの妹イザボーが12歳で早世した。同年12月19日、ブルターニュ公位を継承していたアンヌは、レンヌで当時ローマ王であったハプスブルク家のマクシミリアンと代理結婚した。そうすることで、彼女は亡き父の方針に従って王妃となったのである。しかし、この結婚は、ヴェルジェ条約に違反していると考えるフランス側にとって深刻な挑発行為であった。それまでブルターニュは14世紀から15世紀にはフランスを刺激する状況をつくらないよう腐心してきたというのに、ブルターニュの中にフランス王の敵を導入することにほかならなかった。おまけに、時期を誤っていた。ブルターニュの同盟国は別の前線にあって、十分な援軍を組織できなかった。

宇喜多忠家(1533~1609)

兄・直家との関係 兄の直家を古くから補佐していたとされ、また兄の死後は甥である秀家の補佐に務めた。反面、策謀家であった兄を信頼しておらず、直家の前へ出る時は着衣の下に鎖帷子を着けていたと言われるほど、兄を警戒していた。

ロビン・フッド(生没年不詳)

成立と変容 14世紀のウィリアム・ラングランドの長編詩「農夫ピアズの夢」の中で、まとまった物語として登場する。古い伝承では、ロビン・フッドはノルマン・コンクエスト後に、ノルマン人に抵抗する、サクソン人の非小作農民ヨーマンとなっており、その後エドワード1世時代の設定になり、ノルマン人に所領を奪われた貴族、義賊、マリアンとのロマンス、あるいは十字軍帰りなどの設定が加わった。16世紀以降、リチャード1世時代の人物となり、リチャード1世が十字軍遠征に赴いている間にジョン王の暴政に反抗した人物として描かれるようになった。

南村梅軒(不明~1579)

三十六策問 天文年間に土佐国に渡って程朱学を弘岡城主・吉良宣経に講じたという。谷時中の南学は彼の学の系統といわれている。主な著書に『三十六策問』がある。

マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(前234~前149)

大カトといわれる マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウスは、元老院を基盤としたローマ共和政の「よき伝統」である民主制を守ろうとした点、またギリシャを征服したことからギリシャ風の文化がローマに流行したことに反発したり、では保守派と言える。その本領は、第2回ポエニ戦争のザマの戦いでローマを勝利に導いたスキピオが戦利品を不当に独占し、個人崇拝を得ようとしたことに強く反対し、元老院で告発したことであろう。また、カルタゴに対しては妥協、共存を否定し、「カルタゴは滅ぼされなければならない」とつねに演説した。ローマの民主政の伝統を守ろうという姿勢は、彼の曾孫のカトにも引き継がれる。前46年にカエサルの独裁に反対して殺害された。ストア派哲学者であったこの小カトと区別して、大カトと言われる。

河上彦斎(1834~1872)

明治 1868年、明治新政府の参与となった藩主細川護久の弟長岡護美に従って上京。この頃より、暗殺を気遣った長岡護美の助言で、高田源兵衛に改名し、その名前を用いるようになった。これは当時より、佐久間象山の息子で新選組隊士の佐久間恪二郎が彦斎の命を狙っていると噂されていたためである。彦斎はこの年、中山道や東北地方を遊説して尊皇を説いた。

ジョージ・ハミルトン=ゴードン(1784~1860)

政界にて 1834年から1835年の第一次ピール内閣では陸軍・植民地大臣として入閣し、1841年の第二次ピール内閣でも再び外相になる。清に南京条約を締結させてメルバーン子爵前政権下で勃発したアヘン戦争を終結させると、ヨーロッパ列強とアメリカと宥和外交を展開した。特にアメリカとの関係を重視して、ウェブスター=アッシュバートン条約を結び国境問題の解決にあたる。フランス外相フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーとの関係も強化し、タヒチ問題ではフランスに譲歩した。アフガニスタン問題でもロシアに譲歩している。外務省出身だったアバディーン伯は、長く軍事関係の役職をやっていた前任者で同年齢のパーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルとは正反対の外交観を持っていた。

三好長逸(生没年不詳)

長慶死後の内乱 長慶と義興の死後は長慶の甥で幼少の当主・三好義継を他の三人衆や松永久秀らと共に補佐し、1565年5月19日には三好氏の障害となっていた足利義輝を殺害した。長逸は襲撃に加わり義輝の正室である近衛稙家女を保護し近衛邸に護送している。

アイケ・フォン・レプゴー(1180~1235)

ザクセンシュピーゲル ザクセンの騎士アイケ・フォン・レプゴーによって1225年にまとめられた。当初はラテン語で記されていたが、ファルケン伯ホイアーの要請によってドイツ語に書き改められた。なお、本書は低地ドイツ語で書かれた最初の散文文書である。本書の題名は「ザクセンシュピーゲル」は、「ザクセンの鏡」という意味である。「ザクセン法鑑」と訳されることもある。

天野芳太郎(1898~1982)

第二次世界大戦・再び南米へ 第二次世界大戦から、1941年12月7日の日米開戦と同時に、敵国人してアメリカ官憲により逮捕、バルボア収容所に収容される。パナマ運河を租借するアメリカはここを軍事的・経済的要衝とみており、パナマに在住する日本人は総じてスパイ疑惑がかけられることとなったのである。天野の資産は没収され、アメリカオクラホマ州フォート・シル収容所、ルイジアナ州リビングストン収容所を経て1942年6月14日にニューヨークに移送され、日本とアメリカの残留者を互いに交換する交換船に乗せられた。交換船の中継地であるポルトガル領ロレンソ・マルケスを経て1942年8月に帰国し、藤沢市鵠沼に住んだ。翌年、二番目の夫人が病没し、二人の子どもを養育することになった。

ヘンリー・ベッセマー(1813~1898)

ベッセマー転炉による鋼の精錬法~特許紛争~ もちろん、そのような重要な特許がほうっておかれるはずもなく、その特許に対する無効性の訴えが様々な形で起きた。しかしベッセマーはそれらを訴訟に持ち込むことなく処理し、ある特許を買い取らざるを得ないということも生じたが、その特許は1859年に消滅し、心配がなくなった。ただ1つ、ロバート・フォレスター・マシェットの件だけが残った。

酒井忠勝(1587~1662)

幕政、家光・家綱の信任 忠勝は家光から駿府18万石への加増を打診されたことがあったが、家康が保有していた土地を拝領するのは勿体無いと辞退した。その後、甲府24万石への加増も提案されたが、これも辞退した。家光が辞退した理由を問い質したところ、忠勝は、大録を食めば驕りが生じ、本多正純のように失脚への道を歩むかもしれない。加増を受けたとして、自分の代は驕りが生じなかったとしても、自分の後の藩主たちが驕らないとも限らない、ゆえに謹んで辞退したと述べた。また、忠勝には別の思慮もあった。大老の忠勝でさえ12万石の所領しか得なかったといえば、周囲の幕臣たちも出世することに没頭せず、後世への模範となるだろうと、忠勝は考えていた。しかし晩年には、何か大事が起こった時、12万石では幕府を守り立てるのに役立てないから、もう少し加増を得ておくべきであったとも述懐している。

アラン・シェパード(1923~1998)

マーキュリー・レッドストーン3号 マーキュリー・レッドストーン3号は、アメリカ合衆国初の有人宇宙飛行である。宇宙飛行士アラン・シェパードを搭乗させ、1961年5月5日に発射された。MR-3はマーキュリー計画における最初の有人飛行であり、同計画の主眼は飛行士を地球周回軌道に到達させ、かつ安全に地球に帰還させることにあった。シェパードのフライトは15分間の弾道飛行であり、その主な目的は発射時や大気圏再突入時の強烈な加速度に人体が耐えられるか否かを検証することであった。

松前崇広(1829~1866)

老中就任 一方、幕府は西洋通の崇広を1863年4月23日に寺社奉行に起用し、その後、1864年7月7日老中格兼陸海軍総奉行になり、同年11月10日老中に抜擢した。また同年11月19日、天領となっていた松前西在の乙部より熊石までの8ヵ村の還付を受けた。手当金700両が削減された。1865年5月には第二次長州征討に家茂の供をして京都、ついで大坂に至り、9月に陸軍兼海軍総裁となった。当時、幕府は英・米・仏・蘭の4ヶ国と兵庫開港、大坂の市場開放開放を内容とする条約を締結したが、朝廷から勅許が得られず、条約内容が履行されない事態だった。4ヶ国は軍艦を率いて兵庫に進出、兵庫開港を要求した。

メスロプ・マシュトツ(362~440)

文字の創始 アルメニアの歴史書によれば、メスロプ・マシュトツがアルメニア文字を創り出したのは404年から406年ごろのことである。彼がさらにグルジア文字やアルバニア文字も創ったという説もあるが、その信憑性は否定されている。文字が創始されたのはアルメニアがローマとペルシャに分割支配されていた時期であった。文字は思考・創造の武器として民族に多大な影響を与えたものはなかった。文字が創始されるまでは、ギリシャ文字やアッシリア文字を使って書いていた。聖書のアルメニア語訳が伝導に必要であったので、民族の文字が必要であった。

岸洋子(1934~1992)

希望 希望という名のあなたをたずねて遠い国へとまた汽車にのるあなたは昔の私の思い出ふるさとの夢はじめての恋けれど私がおとなになった日にだまってどこかへ立ち去ったあなたいつかあなたにまたあうまでは私の旅は終わりのない旅希望という名のあなたをたずねて今日もあてなくまた汽車にのるあれから私はただひとりきりあしたはどんな町につくやらあなたのうわさも時折聞くけど見知らぬ誰かにすれ違うだけいつもあなたの名を呼びながら私の旅は返事のない旅希望という名のあなたをたずねて寒い夜更けにまた汽車にのる悲しみだけが私の道づれとなりの席にあなたがいれば涙ぐむ時その時聞こえる希望という名のあなたのあの歌そうよあなたにまた逢うために私の旅は今またはじまる

ジェシー・オーエンス(1913~1980)

ベルリンオリンピック ベルリンオリンピックにおいてオーエンスは、まず100mの予選でオリンピック新記録を樹立する。決勝では、号砲とともに飛び出しリードし追いすがってくる同じアメリカのラルフ・メトカーフを約1m加え、1つめの金メダルを獲得した。

原市之進(1830~1867)

兵庫開港問題 将軍就任のわずか3ヶ月後、慶喜に絶大な信頼を寄せていた孝明天皇が急死する。列強諸国が幕府に対してたびたび開港を求める兵庫開港の難題にあたり、1867年3月、朝廷に開港の勅許を奏請するが2度に渡って却下した。薩摩藩の大久保利通は慶喜を追い落とすべく朝廷や四賢侯を使って妨害工作を行っており、市之進はそれに対抗して各藩の諸大名や公卿らに働きかけて慶喜の意見への賛同を取り付けた。5月23日の朝議において、開港の勅許が出される。

オーギュスト・ジャン=ガブリエル・ド・コランクール(1776~1812)

ボロジノでの活躍 ボロジノの戦いで、コランクールは突撃中に戦死したモンブラン将軍の重騎兵師団を引き継いだ。ミュラ元帥は彼は「角面堡を重騎兵で制圧せよ」と命令を下した。コランクールは意気消沈している味方を大喝し、士気を一気に上げると、そのままロシア歩兵の大軍に向かって正面突撃を仕掛けた。ロシア歩兵は次々と切り倒され、ついに退却を始めた。その後、急いで馬首を繰って角面堡の背後に回り、間髪入れずに守備隊を猛襲した。守備隊はこの「通説を覆す」騎兵突撃に大いに動揺したものの、陣形を崩さず一斉射撃を行った。この時に先頭を駆っていたコランクールは戦死した。しかし、もはや守備隊には彼らを止める術が無かった。重騎兵隊はついに守備隊を壊滅させ、後続の胸甲騎兵部隊と共に角面堡を占領した。さらにウジェーヌ公の歩兵師団が増援として送り込まれ、勝負は決定的となった。この活躍により今までロシア優勢だった戦況は一時的に大きくフランス側に傾いた。

三浦綾子(1922~1999)

氷点 1946年、旭川市在住の医師辻口啓造は、妻の夏枝が村井靖夫と密会中に、佐石土雄によって3歳の娘ルリ子を殺される不幸に遭う。啓造は夏枝を詰問することもできず、内に妬心を秘める。ルリ子の代わりに女の子が欲しいとねだる夏枝に対し、啓造はそれとは知らせずに殺人犯佐石の娘とされる幼い女の子を引き取る。女の子は陽子と名付けられ、夏枝の愛情を受けて明るく素直に育つ。

アンブローズ・ビアス(1842~1914)

悪魔の辞典 『悪魔の辞典』は、1911年にアメリカ合衆国で発表された書籍。アンブローズ・ビアス著。ふつうの辞典の体裁をもってさまざまな単語に再定義を行ったものだが、その定義が痛烈な皮肉やブラックユーモアに満ち溢れており、辞書パロディの元祖的存在となっている。

北原キヨ(1925~1989)

学校法人武蔵野東学園 学校法人武蔵野東学園は、東京都武蔵野市にある学校法人。健常児のほか、自閉症の生徒・児童・園児を積極的に受け入れている。1964年設立。

ポール・クリューガー(1825~1904)

トランスヴァール大統領 1883年の大統領選挙にはクリューガーとジュベールが立候補し、クリューガー3431票、ジュベール1171票でクリューガーが選挙に勝利。クリューガーはトランスヴァール大統領に就任し、以後4期連続当選を果たし、1900年までトランスヴァールの大統領を務めた。政治家としては保守的であり、あまり洗練されてはいないが飾らない態度と、トランスヴァールの独立を力強く訴える政治姿勢が地方の保守的ボーア人から強く支持された。

石田波郷(1913~1969)

波郷の俳句 六月の女すわれる荒筵 紫蘇濃ゆき一途に母を恋ふ日かな 照りそめし楓の空の朝曇 遠足や出羽の童に出羽の山 春暁のまだ人ごゑをきかずめる 雁や残るものみな美しさ 名月や門の欅も武蔵ぶり 風の樹々プールの子らに騒ぎ添ふ 立春の米こぼれをり葛西橋 秋風や夢の如くに棗の実 プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ 君たちの恋句ばかりの夜の萩 蛍籠われに安心あらしめよ ことごとく枯れし涯なり船の中 日々名曲南瓜ばかりを食はさるる 草負うて男もどりぬ星祭 栗食むや若く哀しき背を曲げて 霜柱俳句は切字響きけり 手花火を命継ぐ如燃やすなり 昼顔のほとりによべの渚あり 天地に妻が薪割る春の暮 吹き起こる秋風鶴をあゆましむ 槇の空秋押移りゐたりけり バスを待ち大路の春をうたがはず 七夕竹惜命の文字隠れなし 芍薬や枕の下の金減りゆく 胸の上に雁ゆきし空残りけり 黄菊白菊自前の呼吸すぐあへぐ 蝉の朝愛憎は悉く我に還る 秋の暮れ溲罎泉のこゑをなす 牛の顔大いなるとき青梅落つ 日出前五月のポスト町に町に 牡丹雪その夜の妻のにほふかな 坂の上たそがれ長き五月憂し 糸長き蓑虫安静時間過ぐ 春夕べ襖に手かけ母来給ふ うつむきて歩くや蓼の花 優曇華や昨日の如き熱の中 くらがりの合歓を知りゐる端居かな 夜桜やうらわかき月本郷に 雀らも海かけて飛べ吹流し 噴水のしぶけり四方に風の街

オスカル・フォン・ミラー(1855~1934)

博覧会 オスカルはミュンヘンポリテクニクムで建築学を専攻していたし、初めての仕事も土木業だった。しかし電気学の興隆を察知して研究するようになり、1881年のパリ国際電気博覧会ではエミール・ラーテナウと知り合った。刺激されたオスカルはミュンヘンでも博覧会を主催してしまい、マルセル・ドプレの57km を超える交流送電を演出した。1883年にラーテナウと仕事をすることになり、ドイツエジソン社のマネージャーとなった。1890年に自分の電気店を構えた。翌年、フランクフルトの国際電気博覧会を世話した。そこではミハイルの三相交流が176km の長距離にもかかわらずエネルギーを変換効率3/4をキープした。

林房雄(1903~1975)

大東亜戦争肯定論 大東亜戦争肯定論は、林房雄の著作の題名。林は、大東亜戦争の開始を1845年とし、西欧勢力の東漸に対する反撃として"大東亜百年戦争"を本質は解放戦争であると主張した。林は、公職追放を受け、中間小説などを発表していたが、昭和三十八年、『中央公論』九月号に「大東亜戦争肯定論」を発表して論壇再登場となった。

ドナルド・ラムズフェルド(1932~2021)

クリントン政権 1998年に連邦議会の嘱託による超党派の「弾道ミサイル脅威評価委員会」で委員長を務め、北朝鮮などが開発する弾道ミサイルの脅威と、アメリカ本土ミサイル防衛の必要性を指摘した報告書を7月に提出した。クリントン政権はその脅威を差し迫ったものではないと評価していたが、翌8月に北朝鮮がテポドン1号の発射実験を行ったことで報告書の分析は裏付けられ、NMD計画が推進されることになる。また、2001年1月にはこの委員会で、「宇宙における真珠湾攻撃」を提起した。

徳大寺実定(1139~1192)

歌人として 詩歌管絃に優れ、教養豊かな文化人だったと伝わる。また文才があり治承・寿永年間の行幸に関する記録の抄録『庭槐抄』を残した。他にも『掌函補抄』10巻の著述が存在したらしいが、現存していない。

クン・エルジェーベト(1239~1290)

結婚 父のケテニュは死んだが、結婚の約束はまだ有効だった。ケテニュの死後クマン族はブルガリア王国へ去っていたが、ベーラ4世は結婚によって再びクマン族との結びつきを強め、彼らの軍事力を利用しようとした。イシュトヴァーン5世との婚儀は1253年に執り行われた。エルジェーベトは結婚の準備の過程でカトリックに改宗した。新郎は12歳であり、花嫁エルジェーベトもまた同じくらいの年齢だった。1262年、イシュトヴァーンは、ボヘミア王オタカル2世に対する戦争に援軍を送った褒章として、29の管区を父に要求した。領土を得、イシュトヴァーンは「若王」として戴冠された。若王とは国王の在位中に戴冠したアールパード朝ハンガリー王国の皇太子に冠された称号であり、東ハンガリーにおいて王権を行使することができた。つまり実質的には、彼の得た管区は独立した王国として統治された。エルジェーベトは王妃となった。