スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

2月, 2019の投稿を表示しています

アンドラーシュ1世(1015~1060)

王位継承の危機 1057年、アンドラーシュ1世は当時5歳の嫡子シャラモンを王として戴冠させ、後継とするのを確実にしようとしていた。しかし、シャラモンの戴冠はベーラ公を激怒させた。彼はアンドラーシュの後継としてかつて任命されており、立腹したベーラは宮廷を去り領地を放置した。1058年9月、アンドラーシュは新皇帝ハインリヒ4世とマルヒフェルトで私的に会合し、和平を確定させた。和平の証として、幼いシャラモンとハインリヒ4世の妹ユディトの婚約が決められた。

窪田空穂(1877~1967)

冬至の南瓜 十二月二十二日、冬日ざしが眩しく照つてはゐるが、めつきりと寒くなつた日の午後、A君といふ、青年と中年の中間年輩の人が、用足しに来た。事が済んだあと、「今日はいよいよ南瓜を食べる日になつたね」と、歳末の挨拶気分で云つた。するとA君は急に笑ひ出して、「すこし以前のことですがね、出入をしてゐた百姓が、冬至前に南瓜を持つて来たんです。私はそれを見て、何だこんなうらなりの南瓜なんかを、うまくもない物つて、怒つたんです。私の内では、冬至の南瓜つて物を食べたことがないので、それまで知らなかつたんです」と云つた。

古賀精里(1750~1817)

古賀精里の生涯 佐賀藩士の子として生まれ、京都に遊学して横井小車に朱子学を、西依成斎に山崎闇斎の学を学ぶ。大坂に塾を開き尾藤二洲や頼春水らと親しく交わる。帰藩して藩主・鍋島治茂に仕え、1781年に藩校・弘道館が設立されると教授となり、学規と学則を定めてその基礎を確立した。

小此木啓吾(1930~2003)

モラトリアム~心理社会的モラトリアム~ 学生など社会に出て一人前の人間となるのを猶予されている状態を指す。心理学者エリク・ホーンブルガー・エリクソンによって心理学に導入された概念。本来は、大人になるために必要であって、社会的にも認められた猶予期間を指す。日本では、小此木啓吾の『モラトリアム人間の時代』などの影響で、社会的に認められた期間を徒過したにもかかわらず猶予を求める状態を指して、否定的意味で用いられることが多い。

原田直次郎(1863~1899)

靴屋の阿爺

ルース・ベネディクト(1887~1948)

菊と刀 『菊と刀』は日本文化の価値体系の独自性を強調する。しかし、懐疑する傾向も見られる。すなわち日本文化が西洋文化とは対極の位置に置かれていることに、批判の目が向けられている。また、日本の文化を外的な批判を意識する「恥の文化」と決め付け、欧米の文化を内的な良心意識する「罪の文化」と定義したことへの批判もある。

酒井忠次(1527~1596)

背に目を持つごとし 1570年の姉川の戦いでは姉川沿いに陣取り、小笠原信興の部隊と共に朝倉軍に突入して火蓋を切った。1573年の三方ヶ原の戦いでは右翼を担い、敵軍の小山田信茂隊と激突し、打ち破っている。1575年の長篠の戦いでは分遣隊を率いて武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦からの強襲を敢行、鳶巣山砦を陥落させて長篠城を救出した上に勝頼の叔父・河窪信実等を討ち取り、有海村の武田支軍をも討つ大功を挙げている。戦後に信長から「背に目を持つごとし」と賞賛された。

ラヨシュ1世(1326~1382)

ラヨシュ1世のナポリ遠征 1346年5月、アンドレアの兄のラヨシュ1世騎士王はクレメンス6世のもとに使節を送って、ジョヴァンナ1世の廃位を求めた。教皇から満足した回答を得られなかったことから、ラヨシュ1世は兵を召集してダルマチアのザラで乗船させた。しかしこの時、アドリア海沿岸の都市はヴェネツィアに対して反乱を起こしていたことから、ラヨシュ1世の艦隊は港で足止めされた。足止め状態からの解放の試みに失敗した末にラヨシュ1世は遠征を延期し、この間にザラはヴェネツィアの保護下に戻った。

ピピン2世(823~864)

ヴァイキング誘引と敗北 844年、ピピン2世はヤール・オスカルという探検隊の率いるヴァイキングを味方につけようと、彼らがガロンヌ川をトゥールーズまで上っていくのを案内した。しかしこれはピピン2世にとって致命的な失策だった。ヴァイキング達に、略奪に適した土地を易々と偵察させてしまったのである。845年、ピピン2世は皇帝の陣営から離脱してきたボルドー伯セガン2世を迎え、ヴァスコニア公として彼のサンシュ2世に対する戦いを支援した。サンシュ2世はピピン2世の父ピピン1世の敵でもあった。

エルヴィン・ロンメル(1891~1944)

第二次世界大戦~ポーランド戦中の総統警護~ 1939年9月1日にドイツ軍のポーランド侵攻、続く英仏のドイツへの宣戦布告をもって第二次世界大戦が開戦した。ロンメルは熱狂をもって戦争を迎えた。妻に「君は9月1日のこと、つまりヒトラーの演説をどう思うかな?我々がこのような人物を持っている事は実にすばらしいではないか。」と書き送っている。彼は一次大戦の敗戦でポーランドに奪われたポーランド回廊と国連の管理下に置かれたダンツィヒをドイツの手に取り戻す必要性を感じていた。

チャールズ・ブロンソン(1921~2003)

プライベート 私生活では、1949年、女優ハリエット・テンドラーと結婚したが、1967年に離婚。翌1968年、ジル・アイアランドと再婚して多数の作品で共演。1990年にジルが乳癌で亡くなりブロンソンも俳優業からの引退を宣言したが、後に復帰し、以降はテレビドラマを中心に活動した。1998年にFamily of Copsシリーズで共演したキム・ウィークスと再婚。

マーガレット・オブ・ヨーク(1446~1503)

ブルゴーニュ公妃 1468年7月9日、マーガレットがブルッヘでブルゴーニュ公シャルルと結婚したのは、イングランドとブルゴーニュ公国の同盟のためという政治的な理由があった。すでにシャルルの政敵であるヴァロア朝フランス王ルイ11世はフランス統一を着々と進めており、それに対抗するシャルルは大きく後れを取っていたのである。「世紀の結婚」と言われるほど結婚式は豪華を極め、当時ブルゴーニュで最も裕福だったブルゴーニュ公国の宮廷の標準から見ても贅沢なものだったと言われている。

曹植(192~232)

文学作品 漢詩の詩型の一つである五言詩は、後漢の頃から次第に制作されるようになるが、それは無名の民衆や彼らに擬した文学者が、素朴な思いを詠った歌謡に過ぎなかった。しかし後漢末建安年間から、それまでの文学の主流であった辞賦に代わり、父や兄、または王粲・劉楨らの建安七子によって、個人の感慨や政治信条といった精神を詠うものとされるようになり、後世にわたって中国文学の主流となりうる体裁が整えられた。彼らより後に生まれた曹植は、そうした先人たちの成果を吸収し、その表現技法をさらに深化させた。

鮎川義介(1880~1967)

満州国へ 1937年、野口遵、森矗昶など当時の「財界新人三羽烏」の一人として、満州国の経済運営で巨大な満鉄が影響力を持つことを嫌った関東軍の求めに応じ日本産業を満州国に移し、満州重工業開発株式会社として初代総裁・相談役に就任。同時に満州国顧問・貴族院勅撰議員・内閣顧問を兼務した。当時の満州国の軍・官・財界の実力者弐キ参スケの1人とされた。弐キ参スケとは東条英機・星野直樹、鮎川義介、岸信介、松岡洋右である。鮎川・岸・松岡の3人は満州三角同盟とも称された。

藤山一郎(1911~1993)

丘を越えて 丘を越えて行こうよ真澄の空は朗らかに晴れて楽しい心鳴るのは胸の血潮よ讃えよわが青春をいざ行け遥か希望の丘を越えて丘を越えて行こうよ小春の空は麗かに澄みて嬉しい心湧くのは胸の泉よ讃えよわが青春をいざ聞け遠く希望の鐘は鳴るよ

高倉健(1931~2014)

任侠映画 1963年に『人生劇場 飛車角』で高倉は準主役に抜擢された。本格的な対策の準主役は初の抜擢だった。高倉は本作で任侠映画のスターとしての足掛かりをつかむが、さらに翌1964年の『日本侠客伝』では降板した中村錦之助に代わり、高倉が主演し、寡黙な立ち姿と目力が任侠シリーズでその威力を発揮した。

大石良金(1688~1703)

討ち入り前後 その後、7月に良雄が京都山科へ移り住むと、りくや良金たちも山科へ移る。このとき良雄は浪人となった旧赤穂藩士たちから誓紙血判状を受けて、浅野家御家再興運動に尽力中であった。良金は、12月に元服して義盟に加わった。翌1702年4月、良雄は妻りくを離別して幼い子どもたちとともに再び実家の豊岡へ帰したが、良金は山科に残り父と行動を共にする。

フリードリッヒ・モース(1773~1839)

モース硬度 ここで言う硬さの基準は「あるものでひっかいたときの傷のつきにくさ」であり、「たたいて壊れるかどうか」の堅牢さではない。モース硬度が最高のダイヤモンドであっても衝撃には弱く、ハンマーなどである一定の方向からたたくことによって容易に砕ける。また、これらの硬度は相対的なものであるため、モース硬度4.5と示されている2つの鉱物があったとしても、それらは同じ硬度とは限らない。これは、蛍石で引っかくと傷がつかず、燐灰石で引っかくと傷つくということを示すのみである。

ゴットフリート・ケラー(1819~1890)

緑のハインリヒ 主人公ハインリヒ・レーはスイスの建築家の息子で、幼い頃に父を亡くし母一人子一人で育つ。父の緑色の服の仕立て直しばかり着ていたため、「緑のハインリヒ」のあだ名で呼ばれた。豊かな感受性を持っていた彼は14歳のとき、空想癖が原因で騒動の首謀者という濡れ衣を着せられて放校される。叔父の家に預けられた彼は、独学のうちに絵の才能に目覚めて風景画家を志すようになるが、自身の資質に迷い、また同い年の娘アンナ、美しい未亡人ユーディトへの愛に対しても一歩を踏み出すことができない。やがて本格的な画家修業のためにミュンヘンに出るものの、成功を手に入れられないまま学資がつき志望を断念、失意と貧困のうちに故郷にもどると、母は困窮のうちに死去している。旧版ではここからハインリヒが自責の念に駆られ、母の後を追うようにして絶望のうちに死んでいくが、新版では母の死に目に間に合い、ハインリヒはそれから公職につき静かな人生を送る。

サフィエ・スルタン(1550~1618)

息子の即位 1595年、ムラト3世の死去に伴い、サーフィエの息子のメフメト皇子が、メフメト3世として即位した。サーフィエはついに母后となった。その後、即位した皇帝の兄弟達は全て抹殺するという「帝国の掟」により、前皇帝の息子達でメフメト3世の、19人の異母兄弟達は死刑執行人により、紐で絞殺された。また、これも帝国の掟により、ムラト3世の40人の愛妾達の内、妊娠していた7人は、生きたまま袋に詰められ、真夜中のボスフォラス海峡に沈められた。

寺沢広高(1563~1633)

島原の乱 1601年、関ヶ原の戦いの戦功報償として肥後天草を加増されたおり、広高は天草の石高を合計約42,000石と算定したが、これは天草の実状を無視しており、実態の倍という過大な値だった。このため以後の徴税が過酷となり、広高の没後、嫡子・寺沢堅高の代に島原の乱が勃発する原因の一つとなった。乱の平定後、寺沢家は責任を問われ天草領は没収、失意の堅高は後に自殺し寺沢家は断絶した。しかし根本原因である過大な石高の半減を幕府が認めるには1659年まで掛かった。更に1671年に、天草はそもそも私領に適さないとして幕府直轄領となった。

ジュール・ブリュネ(1838~1911)

箱館戦争 ブリュネは、箱館で江戸幕府の海軍副総裁であった榎本武揚を総裁とする、いわゆる「蝦夷共和国」の創設を支援した。ブリュネは陸軍奉行の大鳥圭介を補佐して箱館の防衛を軍事的に支援し、4個の列士満はフランス人下士官を指揮官としていた。1869年6月、五稜郭に立て籠もる箱館政権軍を明治新政府軍が攻撃し、五稜郭は陥落、総裁・榎本武揚らは新政府軍に投降する。フランス人らは陥落前に箱館港に停泊中のフランス船に逃れた。6月20日にブリュネは離日した。明治維新後は日本の使節より日本刀を贈答されている。

野口遵(1873~1944)

日窒コンツェルン 1906年野口遵が曾木電気株式会社創立。1908年日本カーバイド商会と合併し、日本窒素肥料を設立。石灰窒素・硫安の製造に成功し拡大した。その後、人絹工業、合成アンモニアの製造にも成功。朝鮮にも進出し巨大化。工業中心の財閥を形成。設立者の苗字を取って「野口財閥」とも呼ばれていた。第二次世界大戦の敗北により、総資産の90%近くを失い、戦後の財閥解体により日窒コンツェルンは解散した。

ステファン・ネマニャ(1113~1200)

セルビア王国~ネマニッチ朝の成立~ 南スラブの一派であるセルビア人は7世紀初め頃にバルカン西部に南下し、9世紀後半には東ローマ帝国の影響下で正教会を受入れた。セルビア人は長くジューバと呼ばれる部族共同体に分立していたが、12世紀後半に東ローマ帝国の衰退に乗じてステファン・ネマニャが1168年に諸部族を統一してセルビア侯となる。その後、拡大した勢力を背景として1171年には国王として即位し、ネマニッチ朝を開いた。なお、始祖の名前は「ネマニャ」であるが、第二世代以降は指小語icを付けて「ネマニッチ」とするので王朝の名前も「ネマニッチ朝」となる。第二代のステファン・ネマニッチは1217年にローマ教皇ホノリウス3世から王冠を授与されて「王国」としての地位を国際的に認めさせ、実質的なセルビア王国の建国者となった。

フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(1744~1797)

ピルニッツ宣言 ヴァレンヌ事件でのルイ16世の失敗を知った直後、ハプスブルク家のレオポルト2世は激しく動揺し、憤って、妹マリー・アントワネットと甥たち、すなわちフランス王室の身を案じて心を痛めた。そこで彼は1791年7月5日にパドヴァから回状を発して、ヨーロッパの君主国にブルボン家への援助を呼びかけたが、これにはイギリスはもちろん、ブルボン家の分家であったスペイン、および別の妹マリア・カロリーナの嫁ぎ先でもあったナポリ、ブルボン家の旧同盟国サルデーニャも協力を断った。ロシアのエカチェリーナ2世は反革命に協力的だったが、ちょうど卒中を起こして動けなかった。僅かに呼びかけに応じたのが、スウェーデン王グスタフ3世と、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世で、7月25日にオーストリアとプロイセンは軍事同盟を結んだ。

グユク(1206~1248)

即位までの経緯 こうした中、グユクはモンゴル本国へ召喚中に、1241年1月に発せられたオゴデイの訃報に接し、加えてグユクの生母ドレゲネが摂政としてオゴデイの後継者を選出するクリルタイの招請にも接した。モンケはヨーロッパ遠征軍に従軍しグユクが本国へ召還したことに伴い、これに随伴したという。オゴデイが没した直後にチンギスの弟テムゲ・オッチギンがハーン位に就こうと試みたが、行動を起こす前にグユクがエミルに到着したためにオッチギンはハーン位を諦めた。

七田眞(1929~2009)

七田式教育~七田式教育の特徴~ 子供の心、他者への愛情、夢、志を育てる「魂の教育」を提唱し、知育、徳育、体育、食育をベースに全人格的教育を目指す。人間が生来持つ右脳の優れた能力に、イメージトレーニング、カードフラッシュ、記憶法など脳の発達理論に基づく様々な取り組みで働きかけ、読み、書き、プリント学習など左脳を使う取り組むとも併せて、能力や知識の定着を図る。親からの愛情が子供の成長に不可欠という考えから、「認めてほめて愛して育てる」を教育理念とし、親への子育てのアドバイスやサポート等も行う。

オーギュスタン・ジャン・フレネル(1788~1827)

フレネルレンズ~光学機器~ 簡易な拡大鏡などに使用される。この種のもは無色透明なプラスチックを同心円状の溝を持つ薄板に形成することにより、平板なカードの様な形状でありながらレンズの役割を果たすようになっていることが多い。近年は断面を非球面とすることで、同心円状の溝を目立たなく、像を明るくしている製品がある。

コンラート・フォン・テューリンゲン(1206~1240)

ドイツ騎士団総長 1234年11月、コンラートはグーデンスベルク伯の地位を捨ててドイツ騎士団に加盟した。その頃エリーザベトの列聖調査が進んでおり、コンラートはマールブルクでその調査団を迎えると共に、自ら教皇の許に赴いたと思われる。翌1235年の聖霊降臨祭の日、教皇はペルージャでエリーザベトを列聖した。マールブルクは巡礼地として経済的繁栄を享受することになる。

アグネス・フォン・ポワトゥー(1025~1077)

摂政として 1056年、イタリアから帰国して間もなく夫ハインリヒ3世が死去した。ハインリヒ4世はまだ6歳であり、教皇ウィクトル2世の庇護のもとアグネスが摂政となった。アグネスは前ロートリンゲン公ゴットフリート3世にはロートリンゲンとトスカーナの領有権を与え、フランドル伯ボードゥアン5世父子にエノー伯領の領有を安堵するなど、諸侯との関係改善に努めた。また、空席であった司教や修道院長の座に有能な聖職者を就けた。一方、アグネスは宮廷内ではミニステリアーレを重用したが、このことが有力貴族の反感を強めることとなった。アグネスは有力貴族からの支持を得るため、まず1057年にルドルフ・フォン・ラインフェルデンにシュヴァーベン公位を与えた。これに対してハインリヒ3世にシュヴァーベン公位授与を約束されていたベルトルト・フォン・ツェーリンゲンが異議を唱えたが、アグネスはいずれケルンテン公位を与えることを約束した。そして、1061年には自らの持つバイエルン公位をオットー・フォン・ノルトハイムに、空位となったケルンテン公位を約束通りベルトルト・フォン・ツェーリンゲンに与えた。この3人の公は後にハインリヒ4世と対立することになる。

カマルッディーン・ハーン(1671~1748)

ボーパールの戦いとマールワー割譲 デカンにおいてニザーム王国が敗れたのち、バージー・ラーオの軍勢は毎年のようにムガル帝国の領土に攻め入り、マールワーなどからチャウタを徴収していたが、1730年代後半にはデリー近郊にまで進出していた。バージー・ラーオはムガル帝国のデカンの領土を支配下に入れ、それまで略奪先だった中部インドのマールワーや西インドのグジャラート、デリー近郊までもマラーター同盟の支配下に置いた。

クリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714~1787)

オルフェオとエウリディーチェ~第1幕~ 月桂樹と糸杉の木立がエウリディーチェの墓を取り巻いている。オルフェオは友人と共に妻エウリディーチェの死を悼んでいる。オルフェオは泣き崩れ、「エウリディーチェ」と悲痛な声をあげる。絶望のあまり妻を連れ戻しに黄泉の国に下がる神々たちに言う。そこに愛の神が現れ、オルフェオの嘆きに心を動かされたゼウス神たち神々は憐れみ、彼が黄泉の国に行って妻を連れてくることを許すという。ただし愛の神は、彼の歌によって地獄の番人たちをなだめること、そして何があっても決してエウリディーチェを振り返って見ないことが条件である。もしオルフェオが自分の事態を説明しようとしたり、振り返ったりすると彼女は永久に失うという。オルフェオはこの難しい試練に挑み、黄泉の国へと向う。

ガイ・フォークス(1570~1606)

火薬陰謀事件~海外の動向~ 再度海外からの支援を取り付けるため、1605年にフォークスは大陸に渡りヒュー・オーウェンに計画を語った。同じ頃、ロバート・セシルはフォークスの名前を、ヨーロッパに張り巡らしたスパイ網によって知ることになる。ウィリアム・ターナーは、そういったスパイの一人であったが、大抵の報告は漠然とした侵攻の可能性を超えるものではなく、陰謀計画に関する情報も含まれていなかった。しかし、4月21日の報告では、フランドルの有名な傭兵であるフォークスがテシモンドによってイングランドに送られたこと、そして「ミスター・ケイツビー」と「高貴な武装および騎乗を準備している友人たち」に紹介されるだろうと報告している。しかし、フォークスはイングランドではジョン・ジョンソンの偽名を使っていたことにより、ターナーの報告書は気に留められなかった。セシルは陰謀事件発覚後の11月の終わりまで、この件に気づくことはなかった。

ストーンウォール・ジャクソン(1824~1863)

石の壁ジャクソン 7月、マクドウェル率いる32,000の北軍が南下を開始する。ボーリガード率いる28,000の南軍がこれを迎え撃ち、7月21日、第一次ブランドの戦いが開始された。数に勝る北軍の攻勢の前に南軍の戦線は破られそうになる中、頑強に抵抗を続ける部隊がジャクソン旅団であった。ジャクソンは激しい戦闘が続く戦場にあって直立不動で指揮にあたっていた。これに勇気付けられたビーが叫んだ。「石の壁のようにジャクソンが頑張っているぞ。あのバージニア人たちに続け!」。南軍は反撃に移り、北軍は総崩れとなった。ジャクソンはストーンウォール・ジャクソンという渾名で呼ばれることになった。

海江田信義(1832~1906)

志士として 尊王の志高く江戸では小石川の水戸藩邸に出入りし、水戸の両田として名高い、藤田東湖、戸田忠太夫に師事し尊王を学んだ。特に藤田には目をかけられた和漢の書に親しむ傍ら、西郷を藤田に引き合わせている。大老井伊直弼による安政の大獄が始まると、俊斎も尊王の志士とみなされて追われ、1858年、西郷と共に僧侶・月照を保護して帰国、その後、大久保利通ら在藩の「精忠組」各士、脱藩「突出」して関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義を暗殺することを計画するも、藩に知られるところとなり、藩主島津忠義から、彼らを「精忠の士」と認めたうえで軽挙妄動を諌める親書を受けたことにより、「突出」は中止となり、以降、藩政に従うこととなる。ただ、攘夷派に対する慰撫はすべての藩士にいきわたらず、1860年、三弟・有村次左衛門が井伊直弼を桜田門外にて水戸浪士とともに襲撃し自刃、また、水戸浪士と行動を共にしていた次弟の雄助は、幕府に遠慮した藩の意向で、鹿児島にて母、大久保利通ら精忠組の面々の立ち会いの下、自害している。

高橋至時(1764~1804)

寛政暦 宝暦暦が出来の悪い暦法であったことから、幕府は西洋天文学を取り入れた暦法に改暦をしようとし、高橋至時を幕府天文方に登用し、同門の間重富とともに改暦の準備に当たらせた。高橋至時らは先任の天文方と協力し、1797年に暦法を完成させた。この暦法では、西洋天文学の書物の漢文訳である『暦象考成後編』を元に、月や太陽の運行に楕円軌道法や消長法を採用した。

水野忠成(1763~1834)

文政・天保の改鋳 老中・水野忠成主導により、約80年ぶりに1818年から天保にかけての貨幣改鋳が実施される。1818年から1832年にかけての改鋳は11代将軍・徳川家斉の浪費が、1833年から1836年にかけての大凶作による支出増がその理由とされる。

芥川也寸志(1925~1989)

交響曲第1番 全曲を通じて、作曲者が傾倒していたショスタコーヴィチ、プロコフィエフなどのソ連音楽の影響が感じられる。それと共に、それまでの作風と違いこの曲が全体的に半音階進行の多用などにより重苦しい雰囲気になっているのには、作曲当時の世相を反映しているからであり、当初曲のタイトルも「交響的嘆歌」としたという芥川自身の発言が乗っている。なお、1954年の初演後、作曲者は東欧経由で当時まだ日本と国交のなかったソ連へ入国し、ショスタコーヴィチ、カバレフスキー、ハチャトゥリアンといった主要作曲家と交流している。

長谷川秀一(不明~1594)

豊臣家臣時代 1582年6月2日、本能寺の変の一報は当日の深夜には堺の遊覧を終えて飯盛山の麓に在った一行に茶屋四郎次郎によって届けられた。秀一は土地勘に乏しい一行の案内を買って出て、河内国から山城国、近江国を経て伊賀国へと抜ける道取りを説明した。また、急使を飛ばして大和国衆の十市遠光に護衛の兵の派遣を要請し、行く先として想定した山城の宇治田原城主の山口甚介にも書状を送り事を説明すると山口は家臣の新末景と市野辺出雲守を派遣して草内の渡しの渡河を助け、宇治田原城へと一行を導いた。その後、これも秀一旧知の近江信楽の代官である多羅尾光俊の所領を通って伊賀越えで京を脱出し、秀一は安全圏の尾張熱田まで家康一行に同行して逃げ、窮地を脱した。

日野資朝(1290~1332)

正中の変 しかし、いよいよ自身の思いの通りの政治をすることを期待していた後醍醐天皇は、自分の立場が中継ぎの天皇にすぎないことを知ると、邦良親王や持明院統はもとより、幕府に対しても激しく反発した。そこで後醍醐天皇は、六波羅探題南方・北条維貞が鎌倉へ赴いている隙に討幕を行うことを企て、これをうけて側近の日野資朝や日野俊基らは諸国を巡って各地の武士や有力者に討幕を呼びかけるに至った。当時は畿内をはじめ各地で悪党の動きが活発になっており、また奥州では安藤氏の乱が燃え上がって得宗家を震撼させていた背景もあり、こうして政情不安に乗じて後醍醐天皇は倒幕という承久の乱以後絶えてなかった具体的な行動を模索したもと考えられている。

イーサン・アレン(1738~1789)

投獄 グリーン・マウンテン・ボーイズの指導者にはアレンの従兄弟、セス・ワーナーが選ばれた。アレンは1775年のカナダ侵攻作戦に参加し小さな民兵隊を率いた。この時連絡ミスと判断ミスの結果として、アレンは一握りの部隊でモントリオール攻撃中にイギリス軍に捕まってしまった。アレンはイギリス本国に送られ、コーンウォールのペンデニス城に収監されかなりの虐待も味わった。1778年5月3日、アレンはニューヨーク港のスループ型帆船に乗せられ、スタテンアイランドに送られた。そこでは、キャンベル将軍の宿舎に行き、イギリス軍の将軍や数名の士官と飲食を共にし、2日間丁重にもてなされた。3日目に、ジョージ・ワシントン将軍に指名された大陸軍の捕虜兵站総監であるエリアス・ブーディノット大佐が差配した捕虜交換によって、アレンはアーチボールド・キャンベル大佐と交換された。

デイビッド・ウースター(1710~1777)

アメリカ独立戦争 ウースターは1775年5月10日のタイコンデロガ砦占領作戦の立案者であった。砦はニューヨーク植民地のシャンプレーン湖の畔にあった。この砦占領の軍功は、イーサン・アレンやベネディクト・アーノルドに帰されることが多い。占領の際には一人の命も失われることは無かった。砦占領に続いて、ウースターはリチャード・モントゴメリー将軍とともに大陸軍を指揮してカナダに向かった。モントゴメリー将軍が戦死するとカナダ方面軍の指揮官となった。

ジョン・サリバン(1740~1795)

アメリカ独立戦争~主部隊での従軍~ サリバンは捕虜交換で釈放され、ワシントンが指揮した12月のトレントンの戦いに間に合った。この戦いではサリバンの部隊がトレントンの北にあるアッサンピンク・クリークに架かる重要な橋を確保した。このことでドイツ人傭兵部隊の逃げ道を塞ぎ、多くの捕虜を捕らえることに成功した。この時サリバンが採った進路は、現在サリバン・ウェイと呼ばれる主要道路になっている。1777年1月のプリンストンの戦いでも、サリバンは活躍した。

ハインリヒ3世(1215~1288)

テューリンゲン継承戦争 1247年に叔父ハインリヒ・ラスペが亡くなるとすぐに、テューリンゲンでの権利を主張する従妹ゾフィー・フォン・ブラバントやアンハルト=ツェルプスト侯ジークフリート1世を武力で退けた。1250年に一旦和睦するも、1254年に再戦、ゾフィーの息子のヘッセン方伯ハインリヒ1世や婿のブラウンシュヴァイク公アルブレヒト1世の加勢もあって一時的に追い詰められるも反撃、1263年に長男アルブレヒトと次男ディートリヒの活躍で決戦に勝利、翌1264年に和睦、テューリンゲンはハインリヒ3世が相続、ヘッセンはハインリヒ1世が領有する事に取り決められた。

ゾフィー・フォン・ブラバント(1224~1275)

遺産相続戦争 1248年にゾフィーの夫、アンリ2世が亡くなった、ゾフィーは4月23日にドイツ騎士団が防御を固めるマールブルクに拠点を構え、彼ら全員のルードヴィング家への忠誠を確認した。こうしてゾフィーはテューリンゲンおよびヘッセンの女領主として、ドイツ騎士団の支援で安全を確保した。彼女はこれにより、1244年に生まれたハインリヒが、後にヘッセン方伯領となる、ルードヴィング家のヘッセンの所領へ移行する基礎を固めたのであった。