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内藤豊次(1889~1978)

エーザイ~創業~ 創業者は、内藤豊次で、現社長、内藤晴夫の祖父にあたる。内藤豊次が、旧:東京田辺製薬を57歳で退職し、起業した。創業当初は、ビタミンEから始まり、ネオサンプーン、チョコラシリーズなどを手がけていった。この「チョコラ」とは、チョコレートとコーラをもじったもので、チョコレートやコーラのようによく売れますようにと、願って考えたネーミングであると、2代目社長の内藤祐次の著書にある。

レニ・リーフェンシュタール(1902~2003)

ナチス・ドイツ時代 ナチスが政権を獲得した1933年、リーフェンシュタールの才能を高く評価したアドルフ・ヒトラー直々の依頼により、ニュルンベルク党大会の映画、『信念の勝利』を監督した。翌1934年には『意志の勝利』を撮影した。この映画は国外でも高い評価を受け、1937年のパリ国際博覧会で金メダルを獲得した。さらに、国際オリンピック委員会のオットー・マイヤーから依頼を受けて撮影したベルリンオリンピックの記録映画『オリンピア』でヴェネツィア映画祭最高賞を受賞した。

松野鶴平(1883~1962)

吉田茂とともに 1946年5月に鳩山が公職追放となったため、後継総裁をめぐり古島一雄、松平恒雄、外務大臣の吉田茂らの名前が取りざたされる中で、鳩山とともに吉田を訪問し、後継を打診するが拒否される。鳩山はあきらめたが、松野はそれから夜な夜な吉田のもとを訪れて「総理概論」とでもいうべき講義を行い、ついには吉田をその気にさせてゆく。

イザドラ・ダンカン(1877~1927)

イザドラの生涯 ドイツのベルリンとフランスのパリ、そしてロシア革命後のモスクワにダンス学校を創立、20世紀のダンス、舞踊だけでなく身体表現の形そのものを変革したといわれ、「裸足のイザドラ」のあだ名で呼ばれた。演出家ゴードン・クレイグとは恋愛関係にあった。

野坂参三(1892~1993)

帰国と戦後の活動 先立つ14日に「愛される共産党」というキャッチフレーズや、信仰対象としての皇室を容認した、中央委員会との共同声明を発表した。また在満邦人の困窮を無視した講演での発言が発端になって、のちに葫芦島在留日本人大送還が開始された。

ガートルード・ベル(1868~1926)

第一次世界大戦と政治キャリア~アルメニア人虐殺~ 中東にあったガートルード・ベルはアルメニア人虐殺の目撃者であった。彼女はそれまでの虐殺と比較しても「1915年とその翌年に行われた虐殺とは比較にならない」と書いている。また、ベルはダマスカスで「オスマン人はアルメニア人女性を公然と市場で売っていた」と報告している。ベルは情報報告書の中で書いた。

左甚五郎(1594~1651)

三井の大黒 江戸の神田八丁堀。大工が作業をしているところに半纏を着た男が現れ、大工の仕事ぶりにけちをつけた。男は怒った大工たちに暴行を受けた。棟梁・政五郎が仲裁して男にたずねると、男は西の国の番匠だ、という。男は気に入られ、棟梁の居候となった。

ヴィクトル・ハルトマン(1834~1873)

パリのカタコンベ  

河上丈太郎(1889~1965)

右派社会党委員長として 1951年、公職追放を解除されると、翌1952年に右派社会党の委員長に推された。このとき、河上は「委員長は十字架である」と演説して、「十字架委員長」の異名をつけられた。「十字架委員長」と呼ばれてからまもなく丈太郎は国会内の祈禱会を始めた。毎週木曜の午前八時十分から、第二会館議員会議室で、クリスチャンの議員が集まり続けられるようになった。

フィリップ・バーン=ジョーンズ(1861~1926)

夏の海辺で

赤坂小梅(1906~1992)

炭坑節 月が出た出た月が出た(ヨイヨイ)三池炭坑の上に出たあまり煙突が高いのでさぞやお月さんけむたかろ(サノヨイヨイ)あなたがその気で云うのなら(ヨイヨイ)思い切ります別れますもとの娘の十八に返してくれたら別れます(サノヨイヨイ)一山二山三山越え(ヨイヨイ)奥に咲いたる八重つばきなんぼ色よく咲いたとてサマちゃんが通わにゃ仇の花(サノヨイヨイ)晴れて添う日が来るまでは(ヨイヨイ)心一つ身は二つ離れ離れの切なさに夢でサマちゃんと語りたい(サノヨイヨイ)

エドワード・バーン=ジョーンズ(1833~1898)

アーサー王最後の眠り

宮良長包(1883~1939)

作品の特徴 宮良の作品は「旋律基雛の音階は、長調閑については、沖縄・本土諸音階の混同があり、短調については、本土芸術歌謡の影響が強い」「旋律、伴奏も含め覇楽曲購成法は、沖縄音楽の特質を反映する」「リズム現象は、沖縄音楽の特質を直接反映する」「伴奏の発想は対沖縄音楽、特に八重山古謡の特質に根差す」「歌唱旋律の偏重が支配的である」という特徴を持つ。

フェルナン・ブローデル(1902~1985)

『地中海』の刊行と「長期継続」 1949年、ブローデル47歳のとき『地中海』が刊行され、公開に供された。自費出版であった。三部構成であるが初版は一冊本になっており、1,600ページに達した。当時の印刷事情を反映して、図版や写真は一切なかった。「全体史」を目指したこの大作は、その後の歴史学に多大な影響をおよぼし、「新しい歴史学」のさきがけとなった。なお、17年後の1966年には、豊富な図表や地図、グラフ、挿図なども組み込まれ、二冊本の改訂版『地中海』が出版された。ここでは、イスラーム世界研究の進展や新しい史料の出現にもとづいてオスマン帝国に関する記載が大幅に変更されている。

徳川忠長(1606~1634)

改易 秀忠死後、忠長は改易となり、領国全てを没収され、10月20日に安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ逼塞の処分が下される。また、その際に御附家老の朝倉宣正、鳥居成次も連座して改易している。将軍の実弟が改易に至った理由として、甲府に台徳院殿供養の寺院建立や、加藤忠広改易の際に風説を流布した、大坂城と畿内55万石の所領を求めた、等の話は江戸中期頃から既にあり、『徳川実紀』に載る家光との後継者争いの逸話と併せて、家光による計画的な排除とする説がある。

ポッジョ・ブラッチョリーニ(1380~1459)

文献の探索 ポッジョは各地の修道院を訪ね、古代のラテン語文献を探索した。その中でも1417年にドイツでルクレティウスの『物の本質について』を見出したことが知られている。ポッジョはフィレンツェに人脈を持っており、これらの古典は写本で伝えられ、ルネサンス期の思想に大きな影響を与えた。

肥田浜五郎(1830~1889)

維新前 帰国後、1861年、軍艦操練所頭取手伝出役を経て、軍艦頭取出役となる。1862年、幕府軍艦としては最初となる蒸気軍艦千代田形の蒸気機関を設計。1863年、小十人格軍艦頭取、海路上洛する徳川家茂の御座舟翔鶴丸艦長を務めた。1864年、両番格軍艦頭取となる。

ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダ(1170~1247)

辺境防衛と支援に奔走 ナバス・デ・トロサの戦いが終わった後は辺境防衛に赴き、1214年に飢餓に苦しむカラトラバの守備隊やカラトラバ騎士団へ様々な援助を与え、金銭・食糧補給や砦の構築、負傷兵をトレドへ運ばせて治療まで施し、重病で満足に動けないアルフォンソ8世に代わって辺境防衛を維持、恩賞としてトレドへ20の村を王から授けられた。王国の国境やラ・マンチャ司教区の土地の画定にも奔走している。

鳥居忠広(不明~1573)

三方ヶ原の戦い~湯水の行水~ 三方ヶ原の戦いにおいて家康が武田信玄に決戦を挑もうとしたときは、兵力の差などを考慮して籠城するように進言したが受け入れられず、そのことで成瀬正義に腰抜けと呼ばれ喧嘩となる。予想通りに徳川軍が大敗すると、新井本坂で殿軍を務めたが武田二十四将の一人、土屋昌続と一騎打ちの末、討ち取られた。戒名:宗鑑。徳川十六神将の一人として数えられている。子孫は小田原藩大久保氏の家臣となって存続した。

アヴィニョンのベネゼ(1165~1184)

伝説 伝説によると、ベネゼは1177年の日食の際にお告げを受けたが、誰にも相手にされず皆の物笑いの種となった。やむなく羊の世話を天使に任せ、独りで建造を始めたベネゼが最初の巨大な礎石をたった一人で肩に担ぎ上げてみせると、観衆から「奇跡だ! 奇跡だ!」との声が上がった。その後も目の見えない者や耳の聞こえない者、足の不自由な者や背中の曲がった者を次々と治癒するなど、合わせて18もの奇跡を起こしてみせた。これにより裕福な援助者たちが現れて兄弟団が結成されたことになっている。1669年の洪水で橋が流された際には、ベネゼの聖遺物も一緒に流されてしまったが、見つかった聖遺物は全く損壊していなかったという。

毛利秀就(1595~1651)

大坂の陣 1614年10月11日、徳川家康が駿府を発して大坂城攻撃の途に上ると、同年10月18日に輝元の命を受けた神村元種が密かに下野小山藩主・本多正純と会見し、秀就の弟・就隆も出陣すべきかを協議した。その結果、就隆だけでなく輝元、秀就、秀元も出陣することで意見が一致したため、正純は10月24日に輝元へ出陣を要請した。さらに秀忠が11月10日に伏見に到着すると、秀忠に従軍する酒井忠世、土井利勝、安藤重信は江戸にいる秀就と秀元に早々に西上するよう要請した。

デヴィッド・ブルース(1855~1931)

アフリカ睡眠病 1902年、王立協会はウガンダのビクトリア湖北岸における睡眠病アウトブレイクの調査隊を派遣する。しかし3名の科学者のうちイタリアの微生物学者アルド・カステラーニを除く2名が帰還してしまうなど、うまく機能しなかった。そこで1903年ブルースらが派遣されることになる。アフリカ睡眠病は、昼夜逆転のような睡眠障害から始まって最終的には昏睡したまま死に至る病気であり、アフリカのサハラ以南各地でみられる原因不明の風土病であった。

杉村楚人冠(1872~1945)

新聞記者として 楚人冠は制度改革のみならず、情報媒体としての新聞の研究にも関心を寄せており、名著『最近新聞紙学』や『新聞の話』を世に送り出した。外遊中に広めた知見を活かしたこれらの著作により、彼は日本における新聞学に先鞭をつけた。1910年に中央大学に新聞研究科が設置されたが、それは同校学員の楚人冠らの発案によるものである。同研究科においては、自らも講師を務める。その際の講義案を下敷きに著された書物が『最近新聞紙学』である。

ジャン=カルロ・メノッティ(1911~2007)

アマールと夜の訪問者~あらすじ~ 肢体不自由の少年アマールは愉快で優しい心根の子どもだったが、ほら話をするのが大好きという困った一面も持っていた。ある夜「お母さん! うちの窓をびっちり覆うくらい大きな星が出ているよ!」と言い出した彼の話を、母親は全く信じない。その夜遅く、ドアをノックする音に母は「出て行って誰だか見ておいで」とアマールに頼む。少年が戸口に見たものは、なんと立派な身なりの3人の王様。王たちがアマールと母に告げたのは「すばらしい子どもに貢ぎ物を捧げるため、もう長いこと旅を続けている。ここでしばらく休ませてもらえないか。」という話。母は村人たちの手を借り、一行に食べ物を施し座興を催す。

吉岡隆徳(1909~1984)

選手としての特徴 吉岡の走りで特に優れていた部分はスタートダッシュで、中間疾走の前半でスピードがピークに達した。そのかわり、ラスト20メートルでは速力が落ちた。スタート時は体を低くして足を「八」にした構えから、強靭な筋力によって強いダッシュをかけた。

テオフィル・デルカッセ(1852~1923)

外相時代~「デルカッセ体制」の構築~ 就任当時、アフリカ・スーダンのファショダで、イギリスとの軍事衝突が懸念されていたが、デルカッセは対英宥和策をとって両国関係の改善に務めた。ロシアに対しては、露仏同盟の強化を図って1899年8月と1901年4月の2度にわたり、サンクトペテルブルクを訪問した。また、水面下でイタリアと交渉し、1902年に両国間で密約を締結して三国同盟に揺さぶりをかけた。1903年7月には大統領ルーベと共にロンドンを訪問し、イギリスとの友好関係の構築を図った。翌1904年に締結された英仏協商は、彼の成し遂げた外交的成功の1つで、これによりイギリスのエジプトにおける優先権を認めた代償として、フランスのモロッコにおける優先権を確認させた。また、英露の緊張緩和を図り、両者の接近を進めさせた。

駒姫(1581~1595)

安土桃山時代の女性 同時代を生きた伊達成実による「成実記」では、駒姫は最上義光によって秀次に献上されたとあり、その行為から義光は「天下の嘲弄」を買ったと記されている。江戸時代中期に成立した「奥羽永慶軍記」では、逆に秀次が、東国一の美少女と名高かった駒姫の噂を聞き、側室に差し出すよう義光に迫り、義光は断ったものの度重なる要求に折れ、15歳になったら娘を山形から京へと嫁がせる約束をしたと記述している。奥羽永慶軍記がそう記述した根拠は不明であるが、以降の軍記物では奥羽永慶軍記の説を踏襲する事が多くなり、現代でも秀次による求婚説が一般的に語られている。

ダグラス・エンゲルバート(1925~2013)

経歴と業績~ARPANET~ ARCは世界初のネットワークインフォメーションセンターとなり、全ARPANETノードの接続を管理することとなった。またARCは初期のRFCのかなりの部分を担っていた。NICは当初NLSを使って運営されていたが、エンゲルバートは革新的な研究に集中し続けた。このためNIC運営と研究の両立が困難となり、NICはグループとして独立し Elizabeth J. Feinler が指揮することになった。

阿部定(1905~1971)

阿部定事件 阿部定事件は、仲居であった阿部定が1936年5月18日に東京市荒川区尾久の待合で、性交中に愛人の男性を扼殺し、局部を切り取った事件。事件の猟奇性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕後に号外が出されるなど、当時の庶民の興味を強く惹いた事件である。

トトメス1世(生没年不詳)

治世 優秀な軍人であり、シリア、ヌビアへの遠征軍を指揮して信頼を勝ち取り、その後、アメンホテプ1世の絶大な信頼を受けて共同統治者として実績を積み、各方面に遠征を行って領土を拡大し第18王朝の最初の絶頂期を現出させた。宗教政策ではアメンホテプ1世によって後ろ盾としてつけられたアメン神官団と良好な関係を維持し、カルナックのアメン大神殿の造営を継続するなどしている。二代にわたるファラオの後援を得て、この時代以降アメン神官団の権力は飛躍的に拡大していくことになる。

孫基禎(1912~2002)

ベルリンオリンピック 1936年8月のベルリンオリンピックに、日本代表として出場し、当時のオリンピック記録となる2時間29分19秒2で金メダルを獲得した。オリンピックの男子マラソンで、世界記録保持者として出場した選手が金メダルを獲得した例は、彼と2020年東京オリンピックのエリウド・キプチョゲだけである。

ジェームズ・スターレー(1830~1881)

ディファレンシャルの発明 さらに1877年には、ディファレンシャルも発明している。三輪タンデム車で、一方に年をとったジェームズが、もう一方に若い息子が乗りペダルを踏むと、直進性に難があった。等しくないペダルの漕ぎ具合=入力を等しく駆動輪に伝えられるように作られたのがディファレンシャルであった。これは現在でも三輪車に使われることがあるだけでなく、自動車に広く使われている。自動車が発明され、それを必要とした時、ディファレンシャルはすでに用意されていたのである。

田島直人(1912~1990)

1936年ベルリンオリンピック金メダルリスト 現役引退後は三井砂川鉱山に就職してサラリーマンとなる傍ら、日本陸上競技連盟常務理事、日本オリンピック委員会常任委員を歴任、メルボルンオリンピック、1964年東京オリンピックでは日本陸上チームのコーチを務めるなど後進の指導に尽力し、日本陸上界の発展に大きく貢献した。

ヨハン・ティティウス(1729~1796)

ティティウス・ボーデの法則~発見~ 1766年、ヨハン・ダニエル・ティティウスが発見し、訳書シャルル・ボネ『自然の思想』第2版の訳注に書き加えたが、惑星がなぜその数列に従って配置されているのかという根拠に乏しかったため、学会からの反応は冷たく、単なるパズルであるとして批判された。

堀尾忠氏(1578~1604)

藩政 1600年11月に堀尾家は出雲に入国する。忠氏は月山富田城を居城としたが、この城が山に囲まれて地理的に偏った場所になり、水上交通には不便である事や城下町を広く建設できない事などから、1603年に江戸幕府から新城建設の許可を得て、城地の選定に乗り出した。

フリードリヒ・ジルヒャー(1789~1860)

別れの歌 現在歌われているドイツ語の歌は、「ローレライ」なども作曲したフリードリヒ・ジルヒャーが採譜・編曲して1827年に発表した本に載っている。彼の友人ハインリッヒ・ヴァグナーが歌詞の2番、3番を1824年に付け足したとある。

朝比奈泰朝(1538~不明)

駿河侵攻 1568年12月、甲斐国の武田信玄が同盟を一方的に破棄して駿河国に侵攻。それによって氏真が駿河を追われると、泰朝は氏真を掛川城に迎えて保護した。同年末には三河の徳川家康が遠江に攻め寄せている。家康は曳馬城を陥落させるなど順調に遠州を制圧し、掛川城を攻囲した。こうした状況の下で、今川氏の重臣の大半は氏真を見限って甲斐武田氏や徳川氏に寝返ったが、泰朝は今川氏に最後まで忠義を尽くしている。

カール・フォン・ドライス(1785~1851)

ドライジーネの発明 1813年に4輪車の改造を試みた後、1817年に、自転車の原型となった「ドライジーネ」を発明した。ドライジーネは木星の二輪車で、ペダルはついておらず、足で地面を蹴って進む乗り物だった。初の走行は1817年6月12日にマンハイムで約7キロ離れた場所を往復する形で行われ、ほぼ時速15kmを出したと言われる。

千葉真一(1939~2021)

海外進出 1998年に出演した香港映画『風雲 ストームライダーズ』では、ラスボス“雄覇”を演じた。原作のイメージを彷彿とさせるその演技は話題に上り、翌年の第18回香港電影金像奨では、外国人として初めて優秀主演男優賞にもノミネートされた。2001年には台湾でも連続ドラマ化された。

ダニエル・キイス(1927~2014)

アルジャーノンに花束を~あらすじ~ 彼は叔父の知り合いが営むパン屋で働くかたわら、知的障害者専門の学習クラスに通っていた。ある日、クラスの担任である大学教授・アリスから、開発されたばかりの脳手術を受けるよう勧められる。先に動物実験で対象となったハツカネズミの「アルジャーノン」は、驚くべき記憶・思考力を発揮し、チャーリイと難関の迷路実験で対決し、彼に勝ってしまう。彼は手術を受けることを快諾し、この手術の人間に対する臨床試験の被験者第1号に選ばれたのだった。

服部金太郎(1860~1934)

世間より一歩先に 服部時計店が国産初の腕時計を発売して以来100周年となる2013年、これを記念した腕時計として「服部金太郎特別限定モデル」が発売されることがセイコーウォッチ株式会社より発表された。これは前年にセイコーが発売した世界初のGPSソーラー腕時計「アストロン」の特別モデルで、裏蓋の中央に1900年に金太郎が商標登録した「丸角Sマーク」を配し、その周囲に「時代の一歩先を行く」の英文が刻印されている。創業以来、金太郎の名が冠されたモデルはこれが初めてとなる。

チャールズ・ウィンダム(1710~1763)

貴族院議員 1750年2月7日に母方の伯父にあたる第7代サマセット公爵アルジャーノン・シーモアが死去すると、エグレモント伯爵位の特別残余権に基づき爵位を継承した。このとき、公爵が所有していたコッカーマスとペットワースの領地も継承したものの、イングランド北部での領地はほとんど顧みず、ペットワースに住んだという。

相馬愛蔵(1870~1954)

クリームパン シュークリームの美味しさに感銘を受けた中村屋の創業者である相馬愛蔵がこれをパンに応用することを考え、1904年にクリームパンの製造・販売を始めたのが元祖である。発売されたクリームパンは体力向上が叫ばれていた時代に栄養価の高い食べ物として受け入れられ、次第に全国へ広まっていた。

アシュラフ・カーイトバーイ(不明~1495)

オスマン朝への対策とマムルーク朝最後の安定期 この頃のマムルーク朝では内紛で国力は衰退し、国外では小アジアや東欧でオスマン朝が急速に拡大して矛先をマムルーク朝に向けつつあった。マムルーク朝では第14代・アシュラフ・イーナールの時代にオスマン朝と交戦していた諸国の援軍要請を拒絶するという外交政策の失敗から半ば孤立しており、単独でオスマン朝に対する軍備増強を進めていく。

木村安兵衛(1817~1889)

あんパンの開発 銀座が煉瓦街として再開発される最中、仮店舗での営業中には日本人に受け入れられるパンの研究を行い、饅頭にあんが入っていたことからヒントを経て、あんを入れるパンを作る事にする。小豆餡をパン生地でくるみ、外は西洋で中は和風、発酵に酒種酵母を使用した「あんパン」を開発する。

ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルール(1786~1889)

脂肪酸の研究 化学の分野の業績には動物脂肪の研究があり、動物性脂肪や植物性脂肪の成分としてステアリンやオレインを発見し、さらにステアリン酸、オレイン酸、セタノールを分離し、命名した。これらの研究はろうそく製造業を進歩させた。

ジョン・ラーベ(1882~1950)

日中戦争~南京攻略戦~ 1937年、日中戦争が勃発し、日本軍による南京攻略戦の際に、他の十数人の外国人と共同で組織した南京安全区国際委員会の委員長となって、中国民間人の保護に努める。そのほか自分の所有する土地にハーケンクロイツ旗を掲げ、602人といわれる避難してきた民間人を戦禍から守ろうとした。南京陥落後は、約20万人ともされる中国人避難民が殺到した安全区の代表として、非人道的行為の防止に尽力する。