スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

3月, 2020の投稿を表示しています

アルキタス(前428~前347)

伝説 5世紀後の著作家アウルス・ゲッリウスの本だけに書かれてあることだが、アルキタスは鳥の形をした、おそらく蒸気ジェットで推進する、最初の人造自走式飛行機械を設計・製作し、その機械は約200m飛んだという噂があったという。アルキタス自身によって「鳩」と命名されたこの機械はワイヤーが軸で吊られていたという説もある。

ヴィルヘルム・ヴィンデルバント(1848~1915)

業績 ヴィンデルバントは、なかんずく自然科学と文化科学の間の線引き問題にも努力を傾注した。自然科学は、法則定立的な方法を用いる。つまり、自然科学は、その対象を普遍妥当的な法則を通して記述する。これに対して文化科学は、一回限りのもの、個別的なもの、そして特殊なものと関わり、個性記述的な方法をとる。

志村けん(1950~2020)

「東村山音頭」でヒット 転機となったのは、『8時だョ!全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで「東村山音頭」を歌ったことで、これにより一躍人気者となる。きっかけは1976年3月6日の新潟県民会館での公開生放送での同コーナーで、新潟にちなんだ歌として「佐渡おけさ」を全員で歌い、その後にゲストやドリフメンバーの故郷の歌をそれぞれ歌うという趣向だった。そこで志村は地元の「東村山音頭」を披露することになり、制作段階でリメイクを施して4丁目が完成。これに手応えを感じ、さらにリーダーのいかりやが3丁目を作詞・作曲し、志村の作詞・作曲による1丁目が加えられて、この3曲を本番でまとめて歌った。すると「毎日このコーナーの最後に歌った方がいい」ということになり、ついには各丁目ごとの衣装が作られるまでになり、特に1丁目は毎回様々な衣装で観客や視聴者を笑わせた。志村の「東村山音頭」は東村山市の知名度向上にも大きく寄与した。

ジョセフ・パトリック・ケネディ(1888~1969)

戦後の政治活動~マッカーシー議員との関係~ ジョーは共和党のジョセフ・マッカーシー上院議員と親しかった。二人の間にはアイリッシュという共通点があった。ジョーはマッカーシーを気に入り、1940年代から自宅によく招いていた。マッカーシーが1950年代に「赤狩り」で名をはせると、ジョーはマッカーシーに資金援助を行い公然とこれを支持した。ジョーは息子のボビーを上院政府活動委員会常設調査小委員会の主任弁護士とさせようとしたが、マッカーシーはロイ・コーンを主任弁護士としてボビーは補佐弁護士とした。マッカーシーのやり方が信用を失い1954年12月2日に上院で彼の問責決議が行われたとき、ジャックは民主党の上院議員として賛成票を投ずべき立場だったが、入院中ということで投票を放棄し、マッカーシーとの友情を守った。

ジェフリー・ハウ(1926~2015)

サッチャー内閣 1979年にサッチャー内閣が誕生すると財務大臣に就任した。ハウはサッチャリズムの熱心な信奉者として知られ、大蔵省副大臣ナイジェル・ローソンの起草からなる中期金融財政戦略を採用した。これはインフレの抑制を最重要目標とし、経済管理にマネタリストのアプローチを用いようという物であった。インフレの抑制の他、歳出削減による財政赤字縮小、間接税への移行、為替管理廃止、非課税企業地域の創設、民営化などを推進した。

ポウハタン酋長(1545~1618)

ジョン・スミスによる逸話 ジョン・スミスはイギリスに戻って1624年になって突然、「1607年12月、ポウハタン酋長の弟であるオペチャンカナウらの狩猟遠征隊に捉えられ、ヨーク川沿いにあったポウハタン族の村である「ウェロウォコモコ」に連行された。ここで百叩きの刑で殺されるところを、ポウハタン酋長の幼い娘であるポカホンタスが命乞いの懇願をしてくれたおかげで、その父であるポウハタン酋長はこの処刑をやめさせた」と吹聴し始めた。

ジョン・スミス(1580~1631)

バージニア植民地 天候が荒れ、水は不足し、アルゴンキン語族インディアンの攻撃を受け、植民地はほとんど破壊された。スミスはイギリス本国に戻った10年近く後になって、突然「1607年12月、食糧を求めてチカホミニー川沿いを進んでいるときに、ポウハタン族に捕まり、その酋長ワフンソナコックに「ウェローコモコ」という彼らの集落に連れて行かれた」と吹聴し始めた。

堀尾忠晴(1599~1633)

大坂の陣 1611年、祖父が死去すると親政を開始し、忠晴と名乗った。藩主としてこれといった治績は伝わっていない。1614年の大坂の陣では鴫野の戦いなどに出陣して武功を立てたほか、軍令違反を咎めた徳川家の軍奉行を器量で圧倒して黙らせている。1619年、福島正則が幕命によって信州川中島に減転封された際には、広島城の城受け取りを務めた。

岩成友通(不明~1573)

最期 この後、信長に臣従し、信長から細川藤孝宛ての書状で「表裏なき仁」などと書かれるなど信頼関係が築かれたようだが、後に将軍・義昭が各地の大名に指令を送り信長に敵対すると、これに反応して信長に再び対立姿勢を打ち出した。しかし、1573年、信長の命を受けた三淵藤英・細川藤孝らの軍勢に山城淀城を攻められて奮戦したものの、内通していた味方の裏切りに遭い敵中に孤立し、藤孝の家臣の下津権内と組み合いとなり堀に落下、水中で討ち取られ戦死した。享年は詳らかでないが、今谷明は43歳と推定している。また、友通と併せて、岩成方の軍勢340名が戦死した。

李方子(1901~1989)

戦後、韓国人として 1945年の日本の敗戦による朝鮮領有権喪失と1947年5月3日の日本国憲法施行に伴って王公族の身分を喪失し、1952年4月28日の日本国との平和条約発効による日本の主権回復とともに日本国籍を喪失した。邸宅・資産を売却しながら、細々と生活を送っていた。

ジュール・アルドゥアン=マンサール(1646~1708)

サン=ジェルマン=アン=レー城

ピーリー・レイース(1465~1554)

海洋の書 ピーリー・レイースは、海軍軍人としての職務のかたわらで詳細な世界地図と航海案内書キターブ・バフリエを作成してオスマン皇帝に献呈したことで、艦隊司令官としてよりも、地図作成者として後世に名を残した。世界地図は、それぞれ1513年と1526年の記年をもつ2種類の断簡が現存し、いずれもアメリカ大陸を詳細に描いていることで高い評価を受けている。また、1521年と1526年の記年をもつ2写本が伝存する航海案内書『海洋の書』は、エーゲ海から地中海全域にわたる諸海域について、海域ごとに200図以上の詳細な航海地図と海域の航行法、地誌、歴史情報などを記しており、地理書、歴史書としても高く評価されている。

カロル2世(1893~1953)

即位後 1930年6月7日、カロルは不意に帰国し、当日中に自身が国王であることを宣言した。続く10年間ルーマニアの政治に影響を及ぼした。最初に敵対する農民党と自由党、そして反セム派を巧みに操り、すぐに自身の内閣を組閣した。そして2月27日の憲法とともに、自身の王位への最終的な権力を得た。1938年には自身を支援して続けてきた鉄衛団を活動禁止にし、指導者のコルネリウ・コドレアヌを投獄したうえで脱走未遂を口実に暗殺した。

李牧(不明~前229)

斜陽の趙を守る 閼与の戦いで秦を破った名将趙奢を亡くし、政治外交で秦に対抗し得た藺相如が病で伏せていた趙は、紀元前260年に長平の戦いで秦に大敗し、その後藺相如も世を去り衰亡の一途をたどっていた。また、折りしも紀元前245年に廉頗が楽乗と争い出奔したことから、秦の侵攻が激しくなり、紀元前234年には趙将扈輒が指揮を執る軍勢が武遂で敗れ、10万人が犠牲になった。そのため、北辺の功を認められた李牧は同年、幽繆王の命により大将軍に任じられ、中央に召還された。

ヨハン・ヴィルヘルム・リッター(1776~1810)

紫外線の発見 17世紀に、アイザック・ニュートンがプリズムを用いて、可視光線から赤から紫に至る多数の色の光線から成り立っていることを証明したが、その後、この見える光線のほかに、見えない光線が存在すると考えられるようになった。1800年、イギリスのウィリアム・ハーシェルによって赤外線が発見され、この考えが立証されるとすぎ、ドイツの物理学者ヨハン・ヴィルヘルム・リッターが、スペクトルの反対側である、紫より短いスペクトルを探し始めた。1801年、リッターは光に反応する塩化銀を塗った紙を使用して、紫の外側の目に見えない光を発見した。これは化学光と呼ばれた。その頃、リッターを含めた科学者は、光は「酸化発熱要素」、「照明要素」、「水素化還元要素」の三つから構成されていると結論づけていた。スペクトルの他の領域との統合はマセドニオ・メローニ、アレクサンドル・エドモン・ベクレルらの研究まで分からなかった。その間、紫外線は、「化学線放射」とも呼ばれていた。その後、1893年にドイツのヴィクトール・シューマンによって真空紫外線が発見された。

イドリース1世(745~793)

イドリース朝 第4代カリフのアリーとその妻のムハンマドの娘ファーティマの血を引くというイドリース・イブン・アブドゥッラーが、メディナでアッバース朝のカリフのハールーン・アッ=ラシードに対する反乱を起こして失敗し、西に逃れてマグリブ地方の西端のモロッコに渡り、その地のベルベル人の支持を受けて、789年にイドリース1世として建国した。従ってイドリース朝は、史上最初のシーア派の国家とされるが、この段階ではシーア派としての特色を持ってはいなかった。イドリース1世は都のフェスを建設、ベルベル人の女性との間に生まれたイドリース2世は周辺に領域を広げ、実質的なモロッコ最初の王となった。しかしその死後はチュニジアに起こったファーティマ朝と、イベリアの後ウマイヤ朝の間にあって苦慮し、内紛が生じて弱体化し、926年にファーティマ朝によってフェスを占領されて滅んだ。なお、最終的には985年にイベリア半島の後ウマイヤ朝に滅ぼされたともされている。フェスはその後も西方イスラーム世界の文化の中心として重要で、現在も独自の都市形態を保持し、世界遺産に登録されている。

シウサガル・ラングーラム(1900~1985)

モーリシャス~独立~ 1968年に英連邦王国として独立を達成し、首相にシウサガル・ラングーラムが就任した。独立時には高失業率に悩み民族対立も起こっていたものの、ラングーラム政権は1971年の輸出加工区の設置を皮切りに積極的な産業振興政策を進め、繊維産業や観光業の発展で経済成長を実現した。政治面では独立以来、自由選挙に基づく民主的な政治が継続されている。1969年にはポール・ベランジェが中心となってモーリシャス闘争運動を結成し、ラングーラムの与党モーリシャス労働党との2大政党ブロック体制となった。1982年の選挙ではモーリシャス闘争運動とモーリシャス社会党の連合が大勝利を収めて政権交代が起こり、アヌルード・ジュグノートが首相に就任したものの、党内の内紛によって1983年にはジュグノートがモーリシャス社会主義運動を結成し、労働党と連立を組んで政権を維持した。

源氏鶏太(1912~1985)

三等重役 「三等重役」とは「サラリーマン重役」のことで、創業社長でもオーナー社長でもなく、一般社員と意識的にも能力的にもさほど変わりのない人物が取締役、あるいは社長になったことを目指し、源氏鶏太の本作によって広まった語である。本作の場合は、前社長が戦争協力者として公職追放され、思いもよらなかった人物が社長になる話である。

阿久悠(1937~2007)

津軽海峡・冬景色 上野発の夜行列車おりた時から青森駅は雪の中北へ帰る人の群れは誰も無口で海鳴りだけをきいている私もひとり連絡船に乗りこごえそうな鴎見つめ泣いていましたああ津軽海峡冬景色ごらんあれが竜飛岬北のはずれと見知らぬ人が指をさす息でくもる窓のガラスふいてみたけどはるかにかすみ見えるだけさよならあなた私は帰ります風の音が胸をゆする泣けとばかりにああ津軽海峡冬景色さよならあなた私は帰ります風の音が胸をゆする泣けとばかりにああ津軽海峡冬景色

シャルル・ガルニエ(1825~1898)

モンテカルロ歌劇場

平尾昌晃(1937~2017)

ソロ・デビュー 1957年、ジャズ喫茶「テネシー」に出演していた際、ステージを見た渡辺プロの渡辺美佐と映画監督井上梅次に見初められ、同年に公開された石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』に出演する。自身としても、翌1958年1月、キングレコードより「リトル・ダーリン」でソロ・デビューする。同曲の売上は芳しくなかったが、続いて同年3月に発表した「監獄ロック」が10万枚を売り上げるヒットとなる。その後、ミッキー・カーチス、山下敬二郎と「ロカビリー三人男」として「日劇ウエスタンカーニバル」などで爆発的な大人気を博した。1958年には、キングレコードからオリジナルメンバーである「星は何でも知っている」1960年4月には「ミヨチャン」を発表し、2曲共に100万枚を売り上げる大ヒットとなった。売上に関しては、「星は何でも知っている」は50万枚、「ミヨちゃん」は40万枚とする文献もある。

ヴィットリオ・グレゴッティ(1927~2020)

ベレン文化センター

王勃(647~675)

滕王閣 滕王の高閣江渚に臨み珮玉鳴鸞歌舞罷む画棟朝に飛ぶ南浦の雲珠簾暮に捲く西山の雨閑雲潭に影りて日に悠悠物換り星移りて幾度の秋ぞ閣中の帝子今何くにか在る檻外の長江空しく自から流る

ポッパエア・サビナ(30~65)

皇帝の妃として 歴史家タキトゥスの彼女に対する見方は厳しく、野心があり、非情な女性と述べている。ポッパエアはネロに近付きたいがために、オトと結婚したと言い、またネロの母小アグリッピナの殺害をネロに後押ししたのも彼女だと言う。62年にブッルスが死去、後任のプラエフェクトゥス・プラエトリオの1人ガイウス・オフォニウス・ティゲッリヌスと組んでルキウス・アンナエウス・セネカを政界引退へ追い込み、ネロと妻クラウディア・オクタウィアの離縁に反対する人物が退くと、ネロはオクタウィアを離婚し、さらに自殺された。ポッパエアはその年の内にネロと結婚し、娘が1人生まれた。ネロの喜びは大きく母と娘に「アウグスタ」の称号を与える。しかし娘は数カ月のちに夭折した。

コンラト1世(1187~1247)

マルボルク城~城の建設~ 1226年、ポーランドのコンラト1世は異教徒プルーセン人に対する征討と教化に手を焼いて、クルムラント領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招聘した。騎士団はプロイセンを征服し教皇とフリードリヒ王の両方から承認を得た騎士団は、1230年からプロイセンのキリスト教化を開始、その後プロイセンはドイツ騎士団国となり、騎士団は教皇の名の基にプロイセンを統治した。マリーエンブルク城はこの期間にドイツ騎士団のバルト海沿岸地方征服の拠点として建設され、1274年に第一次建設が終わった。1308年、騎士団がグダニスクとポメラニアを征服した後、マルボルクは重要なエリアとなった。エルブロンクから騎士団の事務所が移され、ヴェニスから来た騎士団総長が城の次の建設に着手した。1309年、騎士団国家の本部をプロイセンのマリーエンブルク城に移した。騎士の人数増加に伴い城は増築されていった。

アリエル・シャロン(1928~2014)

和平推進に転換 その後、2001年に首相となったが、就任後は和平推進に立場を変え、イスラエル首相として初めてパレスチナ人の国家の存在を容認し、2003年のロードマップに合意、さらにイスラエルの占領地ガザ地区からの完全撤退を推進した。そのためリクード内で対立が生じ、シャロンは2005年11月、リクードを離党して中道政党ガディマを結成した。この結果、イスラエルは右派のリクード、中道派のガディマ、左派の労働党という三党が争うこととなった。シャロン政権はガディマと労働党の連立を組み、和平実現に国際的にも期待が高まったが、2006年1月シャロン首相が脳溢血で倒れガザ完全撤退は頓挫した。その後、イスラエルではガディマのオルメルトが首相となったが、リクードも力を増し、一方のガザ地区のパレスチナ人の中でも自治政府のアッバース議長の和平路線に反対する強硬派のハマスが台頭し、2008年末には軍事的緊張が高まった。

イドリース1世(1889~1983)

西側諸国への接近 即位後は冷戦下において、旧宗主国のイギリスやアメリカと緊密な関係を保ち続け、アーマンド・ハマー率いるオクシデンタル・ペトロリウムやロイヤル・ダッチ・シェルなどの両国の石油関連企業が同国内で石油の掘削を行う際の後見人的立場となり、西側諸国への安定した石油供給に協力し続けた。

ニコライ・ゲー(1831~1894)

最後の晩餐

ミハイル・レールモントフ(1814~1841)

詩人の死 「詩人の死」はロシアの文豪アレクサンドル・プーシキンの決闘による死に際して、彼をことのほか尊敬していた若きミハイル・レールモントフが書いた72行の詩の題名。最後の16行で当時ロシア帝国の上流階級を批判したもので、このため彼はカフカースへ流刑された。

ボリス・クストーディエフ(1878~1927)

復活祭の挨拶

モンゴルフィエ兄弟(兄1740~1810、弟1745~1799)

熱気球の発明 熱気球による初の有人飛行を成功させたのはフランスのモンゴルフィエ兄弟である。二人は煙突から立ち上る煙から、温めた気体を袋に詰め空を飛ぶというアイデアを着想したと言われる。最初は暖炉の煙を紙袋に詰めて実験し、自分たちの理論が正しいことを確かめると、より大きな袋を作成する。1783年6月5日に無人での飛行に成功。同年9月19日にはベルサイユ宮殿でルイ16世やマリー・アントワネットの前で動物を乗せたデモンストレーション飛行に成功、同年11月21日にピラトール・ド・ロジェとフランソワ・ダルランド侯爵の二人をのせた気球がブローニュの森から飛び立ち90mの高さで25分間、約8.8kmを飛行した。発明者たちの名を取ってフランス語などでは「モンゴルフィエール」が熱気球を意味する一般名詞となってもいる。

アルテュール・オネゲル(1892~1955)

夏の牧歌 1920年の夏、作曲家28歳のとき、両親の故郷でもあるベルナー・オーバーラント地方の景勝地、ヴェンゲンで書かれた。オネゲルは、1916年にフランス6人組としてデビューしたが、この曲の好評が作曲家としての名声を固める一歩となった。作曲のきっかけは、スイスの楽器制作者レオ・シルの依頼による。レオ・シルは、独自に製作した特殊な弦楽器を普及する目的があったらしく、伝統的な弦楽四重奏に加えて、通常より小さなヴァイオリンやより大型のコントラバスなどとのアンサンブル曲として依頼した。しかし、オネゲルは、結局通常のオーケストラ編成によって作曲した。レオ・シルの楽器は現在残っていない。

フリードリヒ・レフラー(1852~1915)

ジフテリア菌 感染部位によって咽頭・扁桃ジフテリア、喉頭ジフテリア、鼻ジフテリア、皮膚ジフテリア、眼結膜ジフテリア、生殖器ジフテリアなどに分類できる。腎臓、脳、眼の結膜・中耳などがおかされることもあり、保菌者の咳などによって飛沫感染する。発症するのは10%程度で、他の90%には症状の出ない不顕性感染であるが、ワクチンにより予防可能で、予防接種を受けていれば感染を起こさない、すべてのジフテリア菌が毒素を産生するわけではなく、ジフテリア毒素遺伝子を保有するバクテリオファージが感染した菌のみが、ジフテリア毒素を産生する。

河井寛次郎(1890~1966)

民芸運動、日用の美へ 1926年、柳、濱田とともに日本民芸美術館設立趣意書を発表。古い日用品を発掘しその制作のための技術を復活させ、無名職人による日用の美を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようとした「民藝運動」に深く関わるようになる。富本憲吉、黒田辰秋、バーナード・リーチらとも合流し、1929年に長い沈黙を破って開いた高島屋の個展では、古典から日用の器へと路線を変更した。寛次郎は各地を訪れ、手仕事の制作現場や、日本や朝鮮やイギリスの器から受けた影響をもとに、実用的で簡素な造形に釉薬の技術を生かし、美しい発色の器を次々と生み出して再び注目を浴びた。この時期以降、寛次郎は作家としての銘を作品に入れないようにする。

カーブース・ビン・サイード(1940~2020)

アラブの春 カーブースはこれに対して雇用創出、失業手当の支給、社会保障費の増額、公務員の給与・年金・退職金増額などの政策を決定した他、大幅な政治改革を実施した。国王即位以来、側近として自身を支えていた国家経済相、商工相、宮内相、王宮府長官、王立警察長官を含む閣僚20名を罷免したが、一方で閣僚の汚職容疑については証拠不十分で起訴を見送っている。また、それまで諮問機関に過ぎなかった議会に立法権と行政監査権を付与した他、国家経済省の廃止、財務省・消費者庁の設置、検察庁の独立、地方議会・国立大学・イスラーム銀行の設置を決定し、これ以降反政府デモは鎮静化した。

朝丘雪路(1935~2018)

テレビ番組~夜のヒットスタジオ~ しかし、司会に就任した初回は体調不良のためスタジオには来れず、電話で出演。1974年7月以降も、舞台の長期公演が決まり度々番組出演を見合わせるようになった。朝丘がいない回は三波が朝丘の代役を務め、1975年3月の降板まではスケジュールが空いている場合などに断続的に出演。降板後もゲスト歌手の客面や対面ゲストとして出演した。

フラウィウス・ヨセフス(37~100)

ユダヤ戦記 『ユダヤ戦記』は、1世紀にユダヤ人フラウィウス・ヨセフスによって書かれたユダヤ戦争の記録、全7巻。著者の都合に合わせて事実をゆがめているなどの批判はあるものの、ユダヤ戦争の目撃者による貴重な記録である。もともとギリシャ語で書かれていたが、古代においてラテン語に訳され、さらに近代に入ると各国語に訳されて多くの読者を得た。

ルネ・レオミュール(1683~1757)

レオミュール度 1730年にフランスの物理学者のルネ・レオミュールが発表した。水の凝固点を0°Reとしてこれを温度基準点とし、このときのアルコール体積を1000単位としてアルコール体積が1単位増加するごとに温度も1度ずつ増えるとする。このように加熱していくと沸騰水に浸した開管の中のアルコールが沸騰し始める値は+80となる。

アントワーヌ・アルノー(1612~1694)

ポール・ロワイヤル文法 ポール・ロワイヤル文法は、言語哲学における先駆的著作である。アントワーヌ・アルノーとクロード・ランスロの手になる著作で、ポール・ロワイヤル論理学の言語学側の対をなす。この通称は、両者が属していたジャンセニスムの中心であったポール・ロワイヤル修道院にちなんでいる。この書は、ルネ・デカルトの『精神指導の規則』につよい影響を受けており、ノーム・チョムスキーによって、デカルト派言語学の最良のものという評価を受けている。この書の主題は、「文法とは、単純に、精神活動の一部であって、精神活動とは普遍的なものである;すなわち、文法は普遍的である」ということを論ずることにある。

ウラースロー2世(1456~1516)

ウィーン二重結婚 ウィーン二重結婚は、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、ハンガリー王およびボヘミア王のウラースロー2世、その弟でポーランド王兼リトアニア大公のジグムント1世の3者が1515年に開いた会談。両家の婚姻による同盟締結が結論されたが、これがハプスブルク家の興隆とヤギェウォ家の衰退を招く結果を生み、ハプスブルク君主国の誕生で中央ヨーロッパの歴史における転換点となった。

ミカエル・アグリコラ(1510~1557)

学問を追求 ミカエルがヴィボルグで勉強していたとき、彼は姓をアグリコラに変えた。当時、学者の1代目が父の社会地位と職業に基づく姓を用いることはよくあることだった。彼が宗教改革と人文主義をはじめて知ったのは恐らくヴィープリでの出来事であった。ヴィープリ城の統治者は当時のスウェーデン王グスタフ・ヴァーサの部下でドイツ人の伯爵ヨハン7世・フォン・ホヤが統治していた。ヨハン7世は宗教改革を支持しており、礼拝をルター派の流儀で行っていた。

フランシスコ・デ・オレリャーナ(1511~1546)

アマゾン川~名称の由来~ アマゾンの名の由来は定かではない。一般には、アマゾンの名はギリシャ神話の女人族アマゾネスにちなみ、初期の探検者フランシスコ・デ・オレリャーナによって命名されたという説が流布している。別の説では現地語で似た音をもつ名があり、それによってアマゾネスと名づけられたという。他に、インディオの言葉で「水の音」を意味する "Amassunu" に由来するともいう。アマゾン川にちなむ地名としては、アマゾン盆地のほか、ブラジル、ベネズエラ、コロンビアの行政区画がある。

モーリス・セーヴ(1500~1564)

デリー 『デリー』は、449篇の十行詩から成り、それに先行する形で "A sa Delie" と題された献辞的な八行詩が収められている。詩篇は、50のエンブレムと交互に収められている。エンブレムには、絵と格言が含まれており、続く十行詩で取り上げられている。こうして、本書は、16世紀のエンブレム・ブックのより一般的なブームを反映するものとなっている。

児玉花外(1874~1943)

菜の花物語 大和めぐりと畿内では名高い名所廻りなのだ。吉野の花の盛りの頃を人は説くが、私は黄な菜の花が殆んど広い大和国中を彩色する様な、落花後を愛するのである、で私が大和めぐりを為たのも丁度この菜の花の頃であった。浄瑠璃に哀情のたっぷりある盲人沢一お里の、夢か浮世かの壺坂寺に詣でて、私はただひとり草鞋の紐のゆるんだのを気にしながら、四月の黄な菜の花匂うほこりの路をスタスタと、疲れてしかし夢みつつ歩いて行った。不思議なほど濃紫に晴上がった大和の空、晩春四月の薄紅の華やかな絵の如な太陽は、宛ら陽気にふるえる様に暖かく黄味な光線を注落とす。

芳賀矢一(1867~1927)

国民性十論 評論。一巻。芳賀矢一著。1907年刊。日露戦争後の社会を背景に、日本人の性格10項を列挙し、主に西欧人との客観的な比較から、国民性を論じたもの。