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シモーニデース(前556~前468)

倫理 シモーニデースは威厳ある不動の公正さの規範を必要としなかった。「それは難しいことだ」とシモーニデースは述べ、さらに次のような内容が続く。「真に良き人間になることは、世の非難を受けぬよう、手も足も魂も完全に公正でなければならない。邪悪とは言わずとも、まったく悪くない人間がいようか。正義を、都市国家への恩人を知っていれば、それは健全な人間である。少なくとも私はその人物のあらを探すまい。なぜなら愚か者たちの仲間は数え切れぬから。私は自ら進んで罪を犯さぬ者たちすべてを讃え、愛そう。しかし、その宿命とは神々さえも争えまい」。

レーモン4世(1052~1105)

1101年の十字軍~ロンバルディア集団~ さらに、第1回十字軍の立役者の一人だったトゥールーズ伯レーモンも合流した。彼はアスカロンの戦い以後、十字軍に参加した諸侯との争いがもとでエルサレムを去ってコンスタンティノープルに滞在しており、東ローマ皇帝の依頼でこの軍団の総指揮官に任命されていた。東ローマ皇帝は Tzitas 将軍に率いられたペチェネグ人傭兵部隊も同行させた。

ラースロー1世(1040~1095)

聖王 一方で、1089年にクロアチアで王家が断絶したことを受け、クロアチア王家と姻戚関係にあったラースローはクロアチアを征服した。さらに、アドリア海沿岸のダルマチア諸都市にまで影響力を行使した。しかし、アドリア海沿岸への進出は、ハンガリーが複雑な対外関係に巻き込まれる結果も招いた。当時ダルマチアを狙っていた勢力としては、東ローマ帝国、ローマ教皇、ヴェネツィアなどがあったため、こうした勢力拡大は諸勢力との間に抗争を引き起こした。当時の教皇ウルバヌス2世がダルマチア支配を認めなかったため、ラースロー1世は対立教皇クレメンス3世を支持することになった。

ピエール・ガッサンディ(1592~1655)

思想 ガッサンディの哲学史上最も大きな功績は、ローマ共和国にギリシャ哲学が輸入されて以来エピクロスが被っていた誹謗を斥け、その唯物論を復権したことである。ガッサンディはなにより物理学者であり、経験論者であったのでエピクロスの原子論を好む下地が備わっていた。その好みは言語学界で長らく賞賛されていたルクレティウスを研究することで強まった。ガッサンディはエピクロスの「快楽主義」にまつわる偏見を取り除き、エピクロスの道徳的な純潔さを擁護した。さらに唯物論と「無神論」が同一ではないことを、エピクロスが神々に犠牲を捧げた事実や、神が第一原因であり世界すべてを創造したというガッサンディ自身の説によって論証しようとした。

エルンスト・クレッチマー(1888~1964)

クレッチマーの3気質~神経質タイプ~ このタイプは感受性が鋭く、自分の外側、内側の変化を敏感に感じとる。一般的に知性の高い人が多い。また内省過剰な面もあり、良い意味では常に自分の内面を見つめることができるが、その反面、必要以上に感じとったことを気にしすぎ不安定な状態になりやすい。普段とは異なる場面で消極的で弱気な面が出てしまい、自分の力を発揮出来ないことが多々見受けられる。対人関係においては、攻撃的になることがなく信頼のおけるタイプ。

リュステム・パシャ(1500~1561)

リュステム・パシャ・モスク~内装~ リュステム・パシャ・モスクは膨大な量の優美なイズニックタイルで知られている。多種に渡る美しい花柄や幾何学模様によって、ポーチの前面だけでなく、ミフラーブ、ミンバル、壁、円柱、ポーチの外側にいたるまで覆われている。これらのタイルには、イズニック陶器の特徴となるトマトレッドの初期の使い方を見ることができる。特にポルチコからメインエントランスにかけての大きなパネルにおいては、初期のダマスカス陶器の配色の特徴である。セージグリーンやダークマンガンパープルで装飾されている。このようなタイルを惜し気なく使い作られたモスクは、イスタンブールにおいて他にはない。

ハーリド・イブン・アル=ワリード(592~642)

ムウタの戦い ムハンマドがアラブ世界を統一・膨張すると、イスラームはサーサーン朝ペルシアや東ローマ帝国と争うようになる。629年9月にムハンマドはザイドを司令官とする軍勢をシリアへ派遣したが、時の東ローマ軍の待ち伏せ攻撃にあい、イスラーム軍は敗北し、ザイドは戦死してしまう。この時に機転を働かせて潰走するイスラーム軍をまとめ上げ、無事に撤退させた。ムハンマドはハーリドの活躍に感激し、アッラーの剣と褒め称えた。

ウィリアム・ギルバート(1544~1603)

磁気の研究 ギルバートは電気と磁気は異なるものだと主張した。その証拠としてギルバートは、静電気を帯びたものを熱すると静電気は消えるが、磁石を熱しても磁気は消えないとした。ただし、実際には磁力は熱すると弱まる。電気と磁気が1つの力の別の側面だということを明らかにしたのはハンス・クリスティアン・エルステッドとジェームズ・クラーク・マクスウェルである。しかし、ギルバートが電気と磁気を明確に区別したことで、その後250年間の科学の進歩に寄与したとも言える。

コンラート・ゲスナー(1516~1565)

業績 存命中は植物学者として著名で、生前刊行された植物学書には、ラテン語・ギリシャ語・ドイツ語・フランス語による『植物名目録』 Catalogus plantarum などがある。本格的な『植物誌』は、自ら約1,500の図を描いた大著だが、没後かなり経った1751-1771年に刊行された。植物名について、古典語と当時の言語とを比較対照するうち、文献学や言語学に関心を抱いた。1545年『ギリシャ・ラテン語辞典』を編纂し、その十年後の1555年に著した『ミトリダテス』では、55種の言語間の関係を研究し、比較言語学的な言語論を展開した。

ヨーハン・ヴァイヤー(1515~1588)

悪魔の偽王国 このグリモワールには『ソロモンの小鍵』の第一章である『ゴエティア』と同様に悪魔の一覧と召喚するのに適した時間と儀式が記されている。『ソロモンの小鍵』の現存する既知の写本は17世紀以降のもので、本書はそれ以前の16世紀に書かれたものである。しかし『ゴエティア』の原形の成立年代についてはっきりしたことは判明しておらず、いずれが先行する文献かは意見が分かれる。フレッド・ゲティングズは『悪魔の事典』の中で、『ソロモンの小鍵』の初期の版は15世紀初頭に遡ると仮定し、『悪魔の偽王国』は『レメゲトン』の初期の版を基に作られたと記している。ジョゼフ・ピーターソンは、レジナルド・スコットが英訳した『悪魔の偽王国』には『ゴエティア』と同様にプルフラスの記載がないことから、『悪魔の偽王国』にプルフラスの脱落した版が存在した可能性を指摘し、その版が現行の『ゴエティア』の編成に影響を与えた可能性を示唆した。

ベトレン・ガーボル(1580~1629)

三十年戦争 ハプスブルク家は王領ハンガリーに対抗宗教改革を導入することに成功しつつあり、同地域に住むプロテスタント達の財産を没収するようになり、ベトレンはプロテスタント信仰の自由を守ることに非常に敏感であった。また、ハプスブルク政府は、かつてボチュカイ・イシュトヴァーンが起こした反乱を終わらせるために結んだウィーンの和約での取り決めを無視するようになり、1615年にベトレンと交わした秘密協定をも無視してトルコとの和平を延長させ、ベトレンと敵対する上部ハンガリーの太守ドルジェト・ジェルジと同盟を結ぶに至っていた。こうしたことが、ベトレンの出兵につながったといえる。

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(1849~1917)

人魚

ドメニキーノ(1581~1641)

処女と一角獣

ファトフ・アリー・シャー(1772~1834)

ロシア・イラン戦争 ファトフ・アリー統治の初期は、ロシア帝国がグルジアへの南下を開始していた時期であった。グルジアは、もともと、ペルシアが自らの勢力圏として定めていた地域であった。1804年、ファトフ・アリーがグルジアへの進出を開始したことにより、ロシアとペルシアの間で戦争が勃発した。この開戦は、シーア派聖職者の反対を押し切って、強行された。戦争の初期は、ペルシア軍が優勢に展開していたが、戦局は、武器や大砲といった面で近代的であったロシア軍優勢に変化していった。

ヴェルフ2世(1072~1120)

教皇派と皇帝派 当時、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世が叙任権闘争で争っていたが、父は教皇派に与して1077年、ハインリヒ4世によってバイエルン公位を剥奪された。1089年にヴェルフ2世はトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサと結婚したが、教皇派との関係を強めたい父の意向があった。また、この結婚で教皇派はヴェルフと呼ばれていった。

サンチョ1世(935~966)

レコンキスタ~カスティーリャ伯領の設置とマンスールの台頭~ 951年、フェルナン・ゴンザレスはレオンの王位を要求し、カスティーリャとレオン王国の間に戦端が開かれた。958年、レオン王のサンチョ1世はカスティーリャ軍に国を追われた。サンチョ1世は後ウマイヤ朝に通じ、王位復帰後の臣従と領土の割譲を約束して、援軍を引き出すことに成功した。960年、レオンの王位に復帰したサンチョ1世は、後ウマイヤ朝との約束を全て無視した。北アフリカ戦線が停滞していた後ウマイヤ朝は、これを機に主攻をイベリア戦線に切り替えた。キリスト教勢力は連合を結び、シマンカスの戦いの再現を狙った。しかし、北アフリカとの二正面で作戦していた前回と違い、後ウマイヤ軍は戦力を集中させていた。連合軍は大敗し、一時はバルセロナやパンプローナまで危機に陥った。劣勢となった連合は講和を願い出た。後ウマイヤ朝は貢納と引き換えに講和を了承した。

ジェームズ・マーシャル(1810~1885)

ゴールドラッシュ~金鉱の発見~ アメリカ合衆国で1848年1月24日、カリフォルニアのサクラメントの開拓拠点の一つであったサッター砦から、製材所のあったコロマに派遣されていたマーシャルは、朝食前の散歩に出かけ、近くの水路の中に輝くものを見つけた。ひろいあげてみるとエンドウ豆を半分にしたような金の塊だった。4日後、そのことを砦の責任者のサッター大尉に報告、大尉は実物を見て驚喜し、その報せはたちまちカリフォルニアの白人に広まり、多数の人間がこのシエラネバダ山脈の山中に殺到した。これが「ゴールドラッシュ」の始まりとなった。カリフォルニア金鉱の金はまもなく取り尽くされ、現在は廃墟が残っているだけである。

ギルバート・キース・チェスタトン(1874~1936)

ブラウン神父の知恵~ヒルシュ博士の決闘~ フランスの科学者であるヒルシュ博士の元に、デュボスク大佐という軍人が暴れこんでくる。博士はドイツに国家機密を売り渡した裏切り者だというのだ。民衆が博士の家に押しかけると、博士はこの軍人と決闘することを申し出た。たまたまそこにいたフランボウは大佐の介添人になったが、調査すると妙なことが分かった。国家機密の隠し場所が、筆跡は博士のものなのに内容が完全に間違っているのだ。さらに驚くべきことに、大佐が決闘を取りやめてしまう。屈強な軍人が小男の学者から逃げ出すとは信じられないとフランボウは怒るが、神父は情報の間違い方や二人の外観から、恐るべき真実を突き止める。

カール・ベンツ(1844~1929)

ベンツ・パテント・モトールヴァーゲン ベンツ・パテント・モトールヴァーゲンは1886年に製造され、内燃機関で走行するように設計された世界初の自動車として幅広く認識される。オリジナルの製作に要した費用は1885年で$1,000であった。車両はカール・ベンツが1886年1月29日に出願したドイツの特許37435号を取得した。公式資料によると、これは出願の日付で、この発明に対する特許が成立したのは同年11月とされる。

出口王仁三郎(1871~1948)

大本の成長 1906年9月、王仁三郎は妻子を残して教団を離れ、京都に向かった。教団合法化の道を探るべく遊学した時期は高天原を追放されたスサノオに例えられる。「皇典講究所」教育部本科2年に入学。翌年3年卒業して建勲神社の主典となるのが半年で退職。12月には伏見稲荷山御嶽教西部教庁主事、1908年3月同教大阪大教会長に抜擢、生玉御嶽大教会詰として奉職する。さらに神道大成教、キリスト教、大石凝真素美など様々な交流により見識を高める。その後は御嶽教西部本庁に勤務しつつ、困窮していた教団の活性化に手腕を尽くす。教団合法化の布石として6月8日に神道大成教直轄直霊教会を、6月21日に御嶽教大本教会を設立、8月1日に金明霊学会を「大日本修斎会」に改めた。12月末に御嶽教を辞職して綾部の教団発展に専念する。そして「神道の研究」を団体の目的とし、内務省に管理された公認教派神道に不満を持つ人々の人気を得た。

役小角(634~701)

伝説 役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという。

アーラムギール2世(1699~1759)

帝国主義とイギリスの勢力拡大 こうした事情から、ヨーロッパの列強諸国はインドや東南アジアにおける植民地を問題にしてたびたび争った。インドでは、フランスとイギリスの勢力が激しい戦争を繰り広げた。1757年6月にベンガル太守と結んだフランス東インド会社の軍隊はロバート・クライヴ率いるイギリス東インド会社の軍隊に敗れた。ベンガルにおけるイギリスの支配権はこれで確定し、第三次カーナティック戦争にも敗北したフランスの勢力はインドから撤退し、主に東南アジアへと移った。

チャールズ・オースティン(1779~1852)

指揮官として その後5年間を北アメリカ艦隊で過ごしたオースティンは、1810年5月10日に74門艦スウィストシュアの艦長となった。その当時この艦はボルラス・ウォーレンの旗艦だった。その年の9月にはクレオパトラに乗艦し、1811年の11月から1814年の9月まではナムールの艦長として任務についた。この艦はノアを基地としており、トマス・ウィリアムズの旗艦だった。その後36門フリゲートのフェニックスをまかされ、百日天下が終わって、アンドーンテッド、ガーランドと共に、アドリア海で勢力を伸ばしつつあると思われるナポリ軍をくまなく探すために、戦隊の指揮官として派遣された。ナポリ軍を降伏させた後は、ブリンデイジでの封鎖に加わった。その後エドワード・ペリューから、フランス戦隊の様子を探る任務を受けたが、フランスとの戦争が終わったこともあり、オースティンはしばらくの間、この地域の海賊行為の鎮圧の方に注意を向けた。そしてパヴォス港で2隻の私掠船を拿捕することに成功したが、「フェニックス」が1816年2月20日にスミルナで難破するという災難に見舞われた。これは案内人を無視したのが原因だった。

森繁久彌(1913~2009)

人気タレント・俳優として 1950年、ムーラン・ルージュを退団。同年に古川の推薦でNHKのラジオ番組『愉快な仲間』にレギュラー出演。メインの藤山一郎の相手役を演じ、2人のコンビネーションが人気を呼んで、3年近く続く人気番組となった。この番組で才能に注目が集まり、映画や舞台に次々と声が掛かるようになる。同年、並木鏡太郎監督の喜劇映画『腰抜け二刀流』で映画初主演。以来B級喜劇映画に多数出演する。1951年、再び菊田に起用され、帝劇ミュージカル『モルガンお雪』で古川、越路吹雪と共演。

ヴィルヘルム・ヴント(1832~1920)

ヴントの学説 ヴントは、心理学は経験科学であるとし、形而上学を攻撃した。心理学は直接経験の学であると論じている。心理学と物的科学の差別は経験を眺める見地にあるのであって、扱う「経験」の定義そのものが違うのではないとした。そこでヴントは、心理学の研究法は自己観察にあるとした。しかし、彼は二元論者であり、精神と肉体は別物、並行して存在する物とした。また、心理学の目標は、心を簡単に分析して、それらの質から成り立っている各種の形式を決定することであると述べた。つまり、自分の精神の内面を観察する内観という方法を用いて意識を観察・分析し、意識の要素と構成法則を明らかにしようとしたのだ。ゆえに、ヴントの心理学は要素主義と呼ばれる。さまざまな感覚が統覚によって統合されるとした。

エドゥアルト・シュプランガー(1882~1963)

思想 特に有名なのは、「郷土科」の教育的価値についての講演で、この中で彼はかなり早く精神的な根源感情や土地の繋がりあった感情といった概念を使って見せている。これらは後に彼の意図とは反してドイツ国家社会主義の思想の中核部分に取り込まれていった。1945年以後も、『郷土科』において、この講演はたびたび版を重ねている。こうした文化的な遺産の教育価値を高く評価するところで、彼の教育学の立場を文化教育学と評する。

プロメーテウス(神)

神話 ゼウスが人間と神を区別しようと考えた際、プロメーテウスはその役割を自分に任せて欲しいと懇願し了承を得た。彼は大きな牛を殺して二つに分け、一方は肉と内臓を食べられない皮で包み、もう一方は骨の周りに脂身を巻きつけて美味しそうに見せた。そしてゼウスを呼ぶと、どちらかを神々の取り分として選ぶよう求めた。プロメーテウスはゼウスが美味しそうに見える脂身に巻かれた骨を選び、人間の取り分が美味しくて栄養のある肉や内臓になるように計画していた。ゼウスは騙されて脂身に包まれた骨を選んでしまい、怒って人類から火を取り上げた。この時から人間は、肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命を持つようになった。

法正(176~220)

法正の逸話 劉備が曹操と争っていた際のこと、軍が前進を躊躇し、後退すべきであった。劉備は大いに怒って後退を許さなかった。劉備の周りまで矢が雨のように降り注ぎ危険であったが、群臣にあえて諌めるものはいなかった。そこで法正が劉備の前に立つと、劉備は法正に矢を避けるようにと命じた。「名公が矢や石の飛び交う中におられるのに、どうして私ごときが避けられましょうか」と法正が答えると、劉備はやっと法正とともに共に後退した。

アンドルー・ラング(1844~1912)

あおいろの童話集~美女と野獣~ 森の奥にある城に、若く美しいがとても我儘で傲慢な王子が住んでいた。ある夜、醜い老女が城を訪ね、一輪のバラを宿代わりに差し出し城に一晩泊めてほしいと頼む。しかし王子は老女の醜さを理由にそれを断る。老女は「見かけで人を判断すると、心の奥底の真実が見えなくなってしまう」と忠告するが、王子は聞く耳を持たず再び追い返そうとした。するとその瞬間に老女は美しい魔女に変わり、優しい心を持たず人を見た目で判断する王子と、王子をそのように育てた召使いたち、さらにその城全体に魔法をかけ、王子を恐ろしい野獣の姿に、召使いたちを家財道具の姿に変えてしまった。魔女はどんな物をも映し出す魔法の鏡と初めに見せた一輪のバラの花を置き消えていった。そのバラの花びらが全部散るまでに、王子が人を愛し人に愛されるという「真実の愛」を見つけなければ、王子たちにかけられた魔法が解けることはない。王子は己の醜い姿を恥じて城に閉じこもり、絶望と失意の内に十年の歳月が流れた。

ジェイムズ・スコット(1649~1685)

王位排除法案 1678年にいわゆる「カトリック陰謀事件」が勃発すると、カトリックに対する反感が高まり、シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーを中心とする地方派と呼ばれる人々はジェームズに王位継承を行わせることに不安を抱き、ジェームズの王位継承権を剥奪する一方、本来は王位継承権の無いチャールズ2世の庶子であるモンマス公ジェームズ・スコットに王位継承を認めるように働きかけを強めた。

カール・ヴィルヘルム・フェルディナント(1735~1806)

ブラウンシュヴァイクの宣言 ブラウンシュヴァイクの宣言は、フランス革命戦争中の1792年7月25日に同盟軍司令官ブラウンシュヴァイク公爵が発した宣言である。パリ市民が国王ルイ16世に少しでも危害を加えればパリ市の全面破壊も辞さないという内容の脅迫であったが、より一層市民を怒らせ、敵に守護される国王の廃位要求に彼らをかき立てる結果になった。

棚橋小虎(1889~1973)

ヨーロッパ外遊 1921年末に麻生の提案で棚橋の外遊資金調達のために、渡欧記念論集として『新社会的秩序へ』の出版を行った。この論集は、棚橋小虎を知っている学者や評論家、社会主義者らに寄稿してもらい、印税を棚橋の外遊資金に充てることとしていた。尚、論集には、山川均・高野岩三郎・北沢新次郎・荒畑勝二・赤松克麿・堺利彦・上田貞次郎・長谷川万次郎・米田庄太郎・大山郁夫・片上伸・安倍磯雄・佐野学・新居格・石本恵吉・末弘厳太郎に加えて麻生が寄稿している。この記念論集の印税のほか、棚橋は三高時代の先輩の中俣正男や、孝子の父である岸井品八などから支援を受けて洋行費用を工面した。こうして棚橋は渡欧の目途が立つこととなり、1922年7月13日に門司を出港して上海、8月24日にマルセイユを経て、9月10日にベルリンに到着した。

伊東祐兵(1559~1600)

羽柴秀吉の付属 その頃、かつて伊東家に世話になり、伊東氏が国を追われた後は祐長から伊東家再興の祈祷を度々頼まれていた山伏三峯という者が、巡行先の播磨姫路にて羽柴秀吉の黄母衣衆の一人・伊東掃部助と出会った。遠祖を同じくする同族である尾張伊東氏の紹介により、祐兵の主従は織田氏に仕官することとなり、与力として羽柴秀吉の付属となった。

セイイェド・アリー・モハンマド(1819~1850)

モッラー・ホセインへの言明 ハディージェが目撃したバーブの最初の宗教的なインスピレーション体験は、1844年4月3日の夕べであった。バーブの使命の公の接触はシーラーズでモッラー・ホセインが到着したときに起こった。5月22日の夜、モッラー・ホセインはバーブに家を招かれた。モッラー・ホセインは、カーゼム・ラシュティーの相応しい後継者、約束された者を探していると告げた。バーブはモッラー・ホセインに、自分がカーゼム・ラシュティーの後継者であり、神秘の知識の所有者であると語った。モッラー・ホセインは、バーブの主張を最初に受け入れた。バーブはモッラー・ホセインの質問に満足いく返答をし、彼の目の前において、『カイユーム・ル・アスマー』という名で知られるようになったクルアーン・ユースフ章の解説の最初の一章を書き表した。

シャルル3世(879~929)

単純王 同じ911年、東フランク王国ではルートヴィヒ4世が没してカロリング家の世襲が絶えると、ロタリンギアには親西フランクの派閥が形成され、シャルルはロタリンギア貴族の臣従を受け、ロタリンギア王となった。しかし、ロタリンギアへの執着と部下の処遇の不公平などから、シャルルはロレーヌ公ジルベールと不仲になり、西フランク王国の諸侯にも嫌われた。そして922年に叛かれて廃位され、その反乱を指揮したロベールが王に選ばれ、シャルルはロレーヌへ逃げた。

ピピン2世(640~714)

テルトリーの戦い 681年にピピン2世はネウストリア宮宰ワラトーとの争いを終わらせ和平を結んでいたが、ワラトーの死後彼の後継者ベルカルが抗争を再燃させた。ベルカルとテウデリク3世は687年にアウストラシアに侵攻したが、テルトリーの戦いで今度はピピン2世に惨敗した。ピピン2世はベルカルを宮廷から追放し、腹心のノルデベルトと共にネウストリアとブルグンディアの宮宰となった。テウデリク3世は、ピピン2世をアウストラシア、ネウストリア、ブルグンディア3国の宮宰かつ事実上の統治者として認めさせられた。

カルロ・スピノラ(1564~1622)

元和の大殉教~事件の概要~ その内訳は、火刑された者が25名であった。その中にはイエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の司祭9人と修道士数名が含まれていた。イエズス会員カルロ・スピノラ神父もそのうちの1人であり、彼は数学と科学に精通し、1612年に長崎で日本初の月食の科学的観察を行って緯度を測定したことで知られている。また、残る30人は斬首となった。斬首された者の中には、日本人だけでなくスピノラをかくまったことで逮捕・処刑されていたポルトガル人ドミンゴス・ジョルジの夫人・イサベラと彼の忘れ形見である4歳のイグナシオもいた。

コスメ・デ・トーレス(1510~1570)

南蛮貿易 トーレスの地道な活動は実をむすんだ。山口や九州の各地で徐々にキリスト教が広まり始めたのである。彼は戦乱に翻弄されて山口、豊後、肥前などを転々としながら、後続の宣教師たちを教育し、日本人協力者を養成し、信徒の世話をし、仏僧たちの議論に答えた。1556年には商人だったルイス・デ・アルメイダがトーレスの感化によってイエズス会に入会、以後宣教師として盛んに活躍することになる。トーレス自身も九州各地で宣教を続け、1563年には大村純忠に洗礼を授けて初のキリシタン大名とし、またキリシタン布教と不可分の関係にあった南蛮貿易の拠点として横瀬浦、ついで長崎の開港に尽力した。

いずみたく(1930~1992)

手のひらを太陽に ぼくらはみんな生きている生きているから歌うんだぼくらはみんな生きている生きているからかなしいんだ手のひらを太陽にすかしてみればまっかに流れるぼくの血潮ミミズだってオケラだってアメンボだってみんなみんな生きているんだ友だちなんだぼくらはみんな生きている生きているから笑うんだぼくらはみんな生きている生きているからうれしいんだ手のひらを太陽にすかしてみればまっかに流れるぼくの血潮トンボだってカエルだってミツバチだってみんなみんな生きているんだ友だちなんだぼくらはみんな生きている生きているからおどるんだぼくらはみんな生きている生きているから愛するんだ手のひらを太陽にすかしてみればまっかに流れるぼくの血潮スズメだってイナゴだってカゲロウだってみんなみんな生きているんだ友だちなんだ

三木たかし(1945~2009)

アンパンマンのマーチ そうだうれしいんだ生きるよろこび例え胸の傷がいたんでもなんのために生まれてなにをして生きるのかこたえられないなんてそんなのはいやだ!今を生きることで熱いこころ燃えるだから君はいくんだほほえんでそうだうれしいんだ生きるよろこびたとえ胸の傷がいたんでもああアンパンマンやさしい君はいけ!みんなの夢まもるためなにが君のしあわせなにをしてよろこぶわからないままおわるそんなのはいやだ!忘れないで夢をこぼさないで涙だから君はとぶんだどこまでもそうだおそれないでみんなのために愛と勇気だけがともだちさああアンパンマンやさしい君はいけ!みんなの夢まもるため時ははやくすぎる光る星は消えるだから君はいくんだほほえんでそうだうれしいんだ生きるよろこびたとえどんな敵があいてでもああアンパンマンやさしい君はいけ!みんなの夢まもるため

ダリウス・ミヨー(1892~1974)

フランス組曲 ミヨーは、「若いアメリカの人々に、連合軍とフランス軍が開放したそれぞれの地方で歌われているメロディーを聴いてもらいたい。」とし、それぞれの曲に、かつてドイツ軍が占領していたフランスの地方とその民謡を題材にした曲を作った。それゆえに内容も親しみやすいものになっている。また、アメリカのスクールバンドを意識して作曲されたため高度な演奏技術をあまり必要とせず、編成も小規模である。

ジョゼフ=マリー・アミオ(1718~1793)

アミオ以後の北京の西洋人 アミオ以降、イエズス会が禁止される1770年代までイエズス会士は北京入りしており、画家のルイ・ド・ポワロは1813年まで生きていた。それ以降はラザリスト会は取ってかわり、欽天監で働いた畢学源は1838年に北京で没した。しかし、嘉慶・道光年間には禁教はより厳格になり、宣教は困難だった。乾隆帝の時代に残されていた北京の教会も、19世紀初頭に閉鎖された。

安倍宗任(1032~1108)

前九年の役 奥州奥六郡を基盤とし、父・頼時、兄・貞任とともに源頼義と戦う。一族は奮戦し、貞任らは最北の砦厨川柵で殺害されるが、宗任らは降服し一命をとりとめ、源義家に都へ連行された。その際、奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろうと侮蔑した貴族が、梅の花を見せて何かと嘲笑したところ、「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と歌で答えて都人を驚かせたという。

ユースフ・ハーッス・ハージブ(1018~1070)

クタドゥグ・ビリグ 『クタドゥグ・ビリグ』は教訓詩に分類され、キュン・トゥグドゥ王と3人の家臣の対話を通して、読み手である君主に道徳的・実用的な知識を与えることが意図されている。主要な登場人物である王、宰相、宰相の子、宰相の兄弟はそれぞれ「公正、正義」「幸福」「知恵、理性」「終末」の象徴であり、「幸福」「公正」「知恵」といった抽象的なテーマや「人付き合いの方法」「結婚について注意するべきこと」「育児」といった具体的なテーマについての問答を行っている。作品の全体を通して、国家・統治は宗教のみに依拠することはできず、正義と理性に基づいて行うべきだという主張が述べられている。

カール・ロベルト・ネッセルローデ(1780~1862)

クリミア戦争~諸国の策略とイギリス外交の不調~ モンテネグロがこのような危機的状況に陥ったことを受けて、汎スラヴ主義を掲げる体裁上バルカン半島を無視できなくなったロシアは、プロイセンを仲介としてオスマン帝国に使節団を送って双方に停戦を合意させた。この時点でロシア皇帝ニコライ1世はこの問題に関して、オスマン帝国と対立する側に立てば必ず英国やフランスとも対立することになるにせよ、オスマン帝国領を分割することで妥協できると踏んでいた。この認識がロシアのt強気の行動を助長することにつながった。しかし、外相カール・ロベルト・ネッセルローデが苦言を呈したように利害関係が複雑化してしまっている以上、いたずらに各国の疑惑を呼ぶような行為は賢明でなかった。

伊達綱宗(1640~1711)

50年の余生 綱宗自身はその後、品川の大井屋敷に隠居して、作刀などの芸術に傾倒していったといわれる。綱宗が酒色に溺れ、僅か2歳の長男・綱村が藩主となったことは、後の伊達騒動のきっかけになった。しかし、伊達騒動を題材にした読本や芝居に見られる、吉原三浦屋の高尾太夫の身請けやつるし斬りなどは俗説とされる。これに対して、綱宗は後西天皇の従兄弟であることから幕府から警戒されており、藩主交代そのものが、仙台藩と朝廷の連携を恐れた幕府の圧力であるとの説もある。実際の綱宗は風流人で諸芸に通じ、画は狩野探幽に学び、和歌、書、蒔絵、刀剣などに優れた作品を残しており、「花鳥図屏風」を始めとした作品が仙台市博物館に所蔵されている。

バーラージー・バージー・ラーオ(1720~1761)

全権掌握 また、1749年12月15日、マラーター王シャーフーが死亡した。彼は死に際して、宰相に全権を委ねる遺言を残しており、この時点でバーラージー・バージー・ラーオは王国の全権を掌握した。シャーフーは死に際して男子がおらず、マラーター王国ではシヴァージー2世の息子ラージャーラーム2世が即位した。だが、ラージャーラーム2世と対立したターラー・バーイーがラージャーラーム2世は自身の孫ではないと言い出したため、マラーター王国では混乱が起きた。

林鳳岡(1645~1732)

湯島聖堂 1691年、それまで上野不忍池の池畔にあった家塾が、湯島に移された湯島聖堂として竣工したのにあわせて大学頭に任じられた。このときまで儒者は仏僧の風にしたがい、士籍に入ることもできなかったが、鳳岡は強くこれに反対の意を表明した。これにより、同年、束髪改服を命じられ、従五位下に叙せられた。以後、鳳岡は聖堂学問所を管掌し、大学頭の官職も林家が世襲することとなり、また、それまで僧形で勧めていた儒官の制度も終わりを告げて、儒学者は一般に士として扱われるようになった。

クルチ・アリ(1519~1587)

レパントの海戦 1571年8月7日、レパントの海戦において、クルチ・アリ・パシャはメジンザード・アリ・パシャ艦隊の左翼を率いた。彼は乱戦の最中も自隊をひとかたまりに留め、対峙した敵指揮官ジャナンドレア・ドーリアの裏をかいてマルタ騎士団艦隊の旗艦を拿捕し、その将帥旗を奪取した。オスマン側の敗色濃厚となると、彼は自船を離脱させ、オスマン艦隊の残存船らを集めてイスタンブールへ向かった。到着時には87隻があったとされる。彼はマルタ騎士団の将帥旗をセリム2世へ献上し、これによりクルチの称号を与えられた。そして1571年8月29日、彼はカプタン・パシャ・「多島海のイヤーレット」に指名された。この時から彼はクルチ・アリ・パシャの名で知られるようになる。

マルグリット・ド・ヴァロワ(1553~1615)

政略結婚とサン・バルテルミの虐殺 何不自由なく成長したマルグリットには、大勢の男性が求婚をした。彼女が結婚したいと願ったのは、ギーズ公アンリであった。しかし、彼女の望みは母カトリーヌ・ド・メディシスによって打ち砕かれる。母は、激化するカトリックとユグノーの宗教対立を解消するため、ユグノーの指導者であるナバラ女王ジャンヌ・ダルブレに、ジャンヌの息子アンリ・ド・ブルボンとマルグリットの縁談を持ちかけた。

エルンスト・アウグスト(1629~1698)

大同盟戦争~前期~ ライン川から下流で北のモーゼル川流域はブーフレールが進出、コブレンツを砲撃したが、ドイツ諸侯の救援により陥落を阻止された。ドイツ諸侯も対策を取る必要に迫られ、モーゼル川流域はブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世が、マインツから東のライン川支流・マイン川流域はカレンベルク侯エルンスト・アウグスト、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク3世、ヘッセン=カッセル方伯カールが防衛に回った。