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ルキウス・タルクィニウス・コッラティヌス(生没年不詳)

執政官就任後 執政官となったコッラティヌスに対し、人々はその名前が暴虐な前王を思い出させるという理由から辞任するよう嘆願した。コッラティヌスは余りに理不尽なその要求になかなか首を縦には振らなかったが、舅のルクレティウスの説得を受けて結局辞任し、更に今後また同様の言いがかりを付けられる事を恐れてローマを引き払い、ラヌウィウムへと移り住んだという。コッラティヌスの辞任を受け、初の補充執政官としてプブリウス・ウァレリウス・プブリコラが選出された。

エピメニデス(生没年不詳)

エピメニデスのパラドックス エピメニデスが言ったことが真実かどうかを考えることで、一般に自己言及のパラドックスが生じる。ただし、エピメニデスが自身以外に正直者のクレタ人を少なくとも1人知っていたとしたら、彼のこの言は単なる嘘であってパラドックスではなく、論理的矛盾を生じない。「全てのクレタ人は嘘つきだ」の否定は「クレタ人には嘘をつかない人もいる」であり、「クレタ人には噓つきもいる」という文と同時に真となることがある。

男谷信友(1798~1864)

剣術界を改革 見栄えや形式を重んじるあまり沈滞した剣術界を立て直すため、竹刀試合を奨励し、信友自身も申し込まれた試合は一度も拒まず、江戸府内に立ち合わなかった者はいないといわれるほどであった。試合は、どんな相手でも三本のうち一本は相手に花を持たせるが、いかに強敵でも「花」の一本より勝ちを取ることができず、底知れぬ実力と評された。天保から弘化にかけての一時期、島田虎之助、大石進と並んで「天保の三剣豪」と謳われた。その信友も、大石進との試合で初戦は勝ったものの、再戦では大石得意の左片手突きをかわすことができなかったという。

ジョージ・ハリスン(1943~2001)

”静かなビートル” ビートルズのメンバーでは最も年下で、主にリードギターとコーラス、ヴォーカルを担当した。自作曲も20曲以上発表している。また、各種楽器の導入にも積極的であり、初期においてはエレクトリック12弦ギターを、中期にはインド楽器であるシタールを取り入れ、楽器の導入に留まらず、インド音楽とロックの融合を試みて、後のラーガ・ロックに大きな影響を与えた。また、後期には初期の型のシンセサイザーをいち早く導入している。

丸山晩霞(1867~1942)

平和の初夏

柳家小さん(1915~2002)

落語 滑稽噺を専ら得意とし、巧みな話芸と豊富な表情で、1979年に6代目三遊亭圓生が死去してからは落語界の第一人者となる。特に蕎麦をすする芸は有名であり、日本一であるとの声も多い。本人も蕎麦を実際に食する際は、職業柄周囲の目を意識して落語の登場人物さながら汁を蕎麦の端にのみ付けていたらしく、最晩年になってから、「汁を最後まで付けてみたかった」と登場人物さながらの後悔を語った。

山本一清(1889~1959)

理学部教授 1926年山本等の「天文学の発展のためには、専門家でなくても天体観察ができる天文台が必要」だとする主張に啓発され、倉敷紡績専務原澄治の出資により倉敷天文台が竣工した。1929年10月には京都帝国大学における前任者新城新蔵博士から受け継いだ花山天文台が開台され、山本は初代台長に就任した。1935年、パリで開催された国際天文学連合第36回総会において黄道光委員会初代委員長に就任した。IAU委員会において日本人が専門部会の委員長となったのは山本が最初であった。1937年3月には勲三等に叙され、同年に広島県瀬戸村で黄道光観測所が開所した。

井伊直澄(1625~1676)

井伊直澄の人物 穏やかながら機知に富んだ性格であった。ある日、徳川光圀の伴として徳川家綱の茶会に出席したことがあったが、家綱は茶を点てるのに不慣れで、一人では飲みきれない量を光圀に出してしまった。光圀も将軍じきじきに出された茶を残すわけにいかず、困り果てた。そこで直澄が進み出て光圀に「上様がお点てになったお茶など頂戴する機会はなかなかございません。もしお飲み残しでしたら是非拙者にも賜れないでしょうか」と申し出たため、家綱も「余ればそのまま直澄へ」と言ってその場が収まったという。

新門辰五郎(1800~1875)

新門辰五郎の人物 江戸の侠客の中でも図抜けた資金力を誇り、支配下の的屋が納める場所代などで、押入の床が抜けたとされる。幕末期には、江戸のほか、京都に2軒、大坂堂島に屋敷を構えていた。

オーリーオーン(神)

キオス島の獅子退治 妻を失ったオーリーオーンは旅人となり一人で諸国を放浪していた。キオス島に立ち寄ったオーリーオーンは、その島の王オイノピオーンの娘メロペーに一目惚れする。そして何とかメロペーの愛を得ようとしたオーリーオーンは、得意の狩りに出掛けては獲物を彼女に献上し、やがて結婚を申し入れた。しかし、メロペーもオイノピオーンもオーリーオーンを好ましく思わず、困った王はオーリーオーンの死を望み、島を荒し廻っているライオンを退治するすることを条件に、娘との結婚を承諾すると述べた。王は当然不可能な条件と考えたが、オーリーオーンは難なくライオンを殴り殺し、その皮を王への贈り物にした。

トマス・ヘンリー・ハクスリー(1825~1895)

ダーウィンの番犬 彼は1860年2月に王立科学研究所における講義でこれを支持し、そして6月にオックスフォード大学博物館で行われた王立科学研究所のミーティングにおける討論において自然淘汰のダーウィンの理論に賛成した。彼の友人フッカーはこの時賛成に付いたが、オックスフォードの司教、サミュエル・ウィルバーフォースとHMSビーグル号の船長ロバート・フィッツロイが反対した。これ以降ハクスリーは、人間が猿と関係があったと主張して、人間の起源の主題に集中した。このために彼は、人間が脳の解剖学的構造によってすべての他の動物から明らかに異なっていると主張するリチャード・オーウェンから反対された。これは実際には周知の事実と一致していなかったので、種々の論文や講義で効果的にハクスリーによって反論され、1863年に「自然界における人間の位置についての証拠」でまとめられた。この論文の口絵で初めて、ハクスリーは猿の骨格と人間の骨格を比較する有名な絵を印刷した。

徳田球一(1894~1953)

日本共産党 徳田は第二次世界大戦終戦後の1945年10月10日に、府中刑務所を訪れたフランス人ジャーナリストのロベール・ギランによって発見され出獄、連合軍を「解放軍」と呼んだ。日本共産党を再建し、同年12月の第4回党大会で書記長に就任する。1946年には中華民国から帰国した野坂参三と共に衆議院議員に当選。同年、従兄・耕作の未亡人である徳田たつと結婚した。翌年1947年には二・一ゼネストに関与し、連合軍との蜜月は解消された。

アルフォンス・ミュシャ(1860~1939)

ジスモンダ

テレサ・テン(1953~1995)

日本進出と国外退去処分 1974年、21歳の時に日本での歌手活動を開始する。すでにアジアのスターだった彼女は、アイドル歌謡曲路線の「今夜かしら明日かしら」により鳴り物入りで日本デビューを果たすが、売れ行きは思わしくなく、不発に終わった。そこで演歌歌謡曲路線に転向したところ、日本でのデビュー2作目となる「空港」が大ヒットする。第16回日本レコード大賞新人賞を獲得しても日本でもトップ・スターの仲間入りを果たし、歌手活動も軌道に乗った。その後も香港を拠点に、台湾や日本などアジア各地を行き来する多忙な日々を送る。

黒駒勝蔵(1832~1871)

出生から博徒時代 勝蔵は甲斐国外の駿河・伊豆・伊勢の博徒とも関係を深め、駿河の宮島年蔵や伊豆の赤鬼金平・大場久八、伊勢の丹波屋伝兵衛と同盟を結んでいる。1861年10月、東海道の菊川宿において、駿河の博徒・清水次郎長と伊豆下田の赤鬼金平の手打ち式が行われる。勝蔵はこの手打ち式に金平派として出席しており、このとき次郎長とも対面している。1862年には、竹居安五郎が関東取締出役道案内の国分三蔵により捕縛され獄死する。勝蔵は安五郎の手下を黒駒一家としてまとめ、上黒駒村戸倉を拠点に甲州博徒の大親分として勇名を関八州に轟かせた。

清水次郎長(1820~1893)

次郎長と博徒間抗争 1858年12月29日には甲州における出入りにおいて役人に追われ、逃亡先の尾張国名古屋で保下田久六の裏切りに遭い、女房のおちょうを失う。1859年には尾張知多亀崎乙川において久六を殺害する。同年9月16日には下田金平・吉兵衛らが沼津から清水港へ上陸し、次郎長を急襲する。1861年1月15日には駿河国江尻追分において石松の敵である都田吉兵衛を殺害する。同年10月に菊川において下田金平と手打ちを行う。1863年5月10日には天竜川において甲斐国の黒駒勝蔵と対陣する。

広沢虎造(1899~1964)

虎造ブーム 1926年5月30日ラジオ初放送。演目は「次郎長と勝蔵」。虎造を一躍有名にしたのは、既に次郎長伝を皮切りにラジオに出演し、売り出し中のこの時期に、自身も巻き込まれた交通事故である。1933年、世田谷区碑文谷の電車踏切で、寄席掛け持ちのため一行が移動中のタクシーが電車と正面衝突、虎造のマネージャーが即死、運転手の助手も危篤、運転手は2週間の重傷、虎造も瀕死の重傷を負うものの、命は助かった。この事故を新聞各紙が報道する。その後、1938年後楽園球場で独演会を開くなど、その名調子は虎造節として一世を風靡、また戦前から映画に積極的に出演し、劇中でしばしば浪花節を演じていた。映画出演に関して吉本興業のマネジメントを受けるだけでなく、浅草花月など当時吉本が東京に持っていた多くの劇場にも出演、半ば吉本の専属状態となっていた。当時の出演映画には、出演者として「廣澤虎造」とクレジットされているものもある。1940年晩夏、広沢虎造映画出演問題を巡っての、浅草田島町殺傷事件は、浪曲家の伝統生活中の、最も悪質に属する部分のあらわれと見てよい。

瀬川如皐(1806~1881)

与話情浮名横櫛 命の綱の切れたのをどう取り留めてか木更津からめぐる月日も三年越し江戸の親にやぁ感動うけ拠所なく鎌倉の谷七郷は喰い詰めても面に受けたる看板の疵が勿怪の幸いに切られ与三と異名を取り押借り強請りも習おうより慣れた時代の源氏店その白化けか黒塀に格子造りの囲いもの死んだと思ったお富たぁお釈迦さまでも気がつくめぇよくまぁお主ゃぁ達者でいたなぁ安やいこれじゃぁ一分じゃぁ帰られめぇじゃねぇか。

今井嘉幸(1878~1951)

普選博士 1917年の第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。普選運動に加わり、「普選博士」と呼ばれたという。1918年には吉野作造らと黎明会の結成にも関わった。その後は社会大衆党の顧問を務めた。1942年の第21回衆議院議員総選挙で再び議員に返り咲いた。戦後、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となった。

落合直文(1861~1903)

孝女白菊の歌 阿蘇の山里秋ふけて、眺めさびしき夕まぐれいずこの寺の鐘ならむ、諸行無常とつげわたるをりしもひとり門を出て、父を待つなる少女あり。年は十四の春あさく、色香ふくめるそのさまは梅かさくらかわからねども、末たのもしく見えにけり父は先つ日遊猟にで、今猶おとずれなしとかや軒に落ちくる木の葉にも、かけひの水のひびきにも、父やかへるとうたがわれ、夜な夜なねむるひまもなしわきて雨ふるさ夜中は、庭の芭蕉の音しげく、鳴くなる虫のこえごえに、いとどあわれを添えにけりかかるさびしき夜半なれば、ひとりおもいにたえざらむ菅の小笠に杖とりて、いでゆるさまぞあはれなる

小栗虫太郎(1901~1946)

黒死館殺人事件 降矢木家は、天正遣欧少年使節の千々石ミゲルが、カテリナ・ディ・メディチの隠し子といわれるトスカーナ大公妃ビアンカ・カペルロに生ませた私生児の興した家で、四重奏団の西洋人4人は幼少時、黒死館の創設者、降矢木算哲によって黒死館に連れてこられ、以来一度も黒死館から出たことがなかった。のみならず黒死館では過去に三度も変死事件があり、その最後が算哲の昨年の自殺で、それ以降、館内に不穏な空気が流れ出した。

橘嘉智子(786~850)

学館院 学館院は847年嵯峨天皇の太皇太后橘嘉智子と右大臣橘氏公によって平安京の右京二条西大宮大路に創建され、964年には大学別曹として公認された。しかし、もともと財政基盤が脆弱だったうえ、橘氏の没落によって衰退していった。しかし、橘氏と縁戚関係にあった藤原氏が是定として相続した。12世紀には既に荒廃していたが、付属の荘園群や地方官への推薦権は中世まで残り、学館院別当の称号も名誉職として残った。

川上操六(1848~1899)

明治陸軍の三羽烏 1893年から清国に出張の後、同年10月に参謀本部次長に就任し、設置された大本営で陸軍上席参謀兼兵站総監につき日清戦争開戦に大きく関わる。1895年3月には征清総督府参謀長に任命される。日清戦争では、それまで川上が推し進めた軍の近代化が功を奏した。その功により8月に勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章を賜り、子爵を授けられる。

テクラ・バダジェフスカ(1834~1861)

乙女の祈り~カントリーミュージック~ アメリカの音楽家ボブ・ウィルズはニューメキシコ州のロイにある理髪店にいる時にフィドルで「乙女の祈り」を演奏しているのを聴き、その曲をウェスタンスウィング風に編曲した。ウィルズはまず、1935年に器楽曲としてそれを公表し、すぐにウィルズの定番曲になった。後に、バック・オーウェンスの1965年のナンバーワンアルバムI've Got a Tiger By the Tailをはじめとして、多くのカントリーアーティストが演奏するスタンダードな楽曲になった。今でもウェスタンスウィングのバンドのレパートリーの定番である。

宗良親王(1311~1385)

桔梗ヶ原の戦い なお、桔梗ヶ原の戦いに関しては、諏訪大社権祝の家系である矢島氏の「矢島文書」など極少数の資料しか記述がなく、確定された事実ではない。ただ、当時の基本資料である園太暦には「信濃での戦乱」に関する記述があり、この時期に「都にまで伝わるぐらいの規模の戦い」があった事は確実とされる。また、その後の南朝方の活動が停滞・沈静化するなどの傍証から、その戦いが南朝方の敗北であったこともほぼ確実とされている。

ケイレブ・クッシング(1800~1879)

清との外交 1843年末、クッシングはタイラー大統領から清国の駐在弁務官に任命された。クッシングはその後1844年6月に特命全権大使として信任を受け、最終的に1844年8月まで清国担当の外交官を務めた。クッシングは中国との間で交渉を行い、米中間の最初の条約である望厦条約を締結した。またクッシングは弁務官を務めている間、日本との通商航海条約を交渉する権限を与えられた。

ジョン・カルフーン(1782~1850)

副大統領職~無効化~ 更に彼は1828年の選挙でアンドリュー・ジャクソンの伴走候補者になり、再び副大統領に就任した。ジャクソンは連邦法無効論に反対し、有名な提唱「我々の連邦同盟は保存されるべきものだ」を行った。カルフーンは彼の提唱「我々の同盟は、最も愛しい我々の自由に次ぐ」で返答した。カルフーンとジャクソンの間に生じた亀裂はフローリデ夫人がジョン・ヘンリー・イートン陸軍長官夫人、マーガレット・オニール・イートンの答礼訪問を拒否し、彼女を政権から追い出そうとして混乱に陥れたペティコート事件によって悪化した。

ジョージ・グレンヴィル(1712~1770)

アメリカ植民地との対立 印紙税をはじめとする植民地人の本国に対する反感は最終的にアメリカ独立戦争という形で爆発するが、この時のイギリス本国議会にはその重大性が理解できていなかった。大ピットなどごく一部の議員を除き、印紙税に反対する議員はほとんどいなかったことにそれが表れている。想像以上の植民地からの強い反発でイギリス議会も危機意識を持ち、グレンヴィル退陣からまもない1766年3月には印紙法は廃止された。だがその時にはすでに手遅れであり、本国と植民地の関係が修復されることはなかった。

伊達秀宗(1591~1658)

江戸時代と宇和島藩主 1602年9月、徳川家康に拝謁し、徳川氏の人質として江戸に向かった。だが正室である愛姫との間に虎菊丸が生まれ、夭逝せずに無事に育ったため、1603年1月に政宗は虎菊丸を家康に拝謁させ、秀宗の立場は微妙になりだした。1609年、秀宗は家康の命令で徳川四天王で重臣の井伊直政の娘の亀を正室として、徳川陣営に取り込まれる事になる。だが弟の虎菊丸が1611年12月に江戸城で元服し、将軍秀忠から一字を賜って忠宗と名乗った事により、事実上秀宗は伊達家の家督相続者から除外されることになった。この事情に関しては政宗の長男であったが、生母の飯坂氏が側室だったために本家の家督を嗣ぐことができなかったとされてきたがこれは誤りと言われており、「秀」の通字を受けて秀吉・秀頼の側に仕え、一時は豊臣姓まで賜った秀宗が徳川氏の世では仙台藩主としてふさわしくないという理由で実際には除外されたとされている。

山上宗二(1544~1590)

山上宗二記 主に茶入、茶壺、掛軸といった茶道具とその所持者を評価の高い順序に従って列挙しており、これにより当時の茶道具のヒエラルキーが判明する。またそれぞれの道具に関しての心得が記されているが、要所要所で「口伝」と言って筆を止めており、金子による口伝の伝授が行われていたと推測されている。後半になると「茶湯者覚悟十躰」として、「一期に一度」など茶人の心構えが説かれる。しかし特に重要視されているのは、「名物」を持たない「侘数寄」であっても名士などに気後れをしてはならないといった態度であって、『南方録』のような禅宗を特別に強調した過剰な精神論ではない。

姚広孝(1335~1418)

靖難の変 1399年7月、朱棣は軍師の姚広孝の進言を容れ、北平において挙兵した。朱棣は「皇明祖訓」に基づき、建文帝の側近である斉泰と黄子澄の両名を「君側の奸」として討伐することを大義名分としている。皇帝側は50万の大軍を擁し、はじめは優勢であったが敗退を重ね、斉秦は敗戦の咎により司令官を解任される。李景隆は燕軍に降伏、方孝孺が指揮する軍も大敗を喫し、1402年6月には南京が陥落した。建文帝は宮殿に火を放って自害したとされるが、遺体は発見されなかった。その後、建文帝は南京落城の混乱の中で僧侶に変装し、雲南に逃亡した、とする生存説が流れることになった。

相原求一朗(1918~1999)

雪の停車場

姜桂題(1844~1922)

清代の活動 1883年、毅軍の一員として旅順を守備した。しかし、1894年の日清戦争では、上陸した日本軍と戦おうとせず、旅順を放棄して退却した。そのため軍職から罷免されてしまう。1895年、姜桂題は袁世凱により再起用され、新建陸軍の編制に従事した。翌年には、右翼軍長に任命されている。1899年に袁世凱が署理山東巡撫となると、姜も山東省に駐屯した。1900年の義和団の乱では、姜は義和団を討伐し、西太后、光緒帝を北京に迎え入れる上で貢献した。

エドガー(942~975)

平和王 エドマンド1世の死後はエドガーの叔父エドレッド、兄エドウィ王が即位したが、デーン人侵入などの混乱により、952年にエドガーが即位した。「平和王」という名は、その治世が統一の完成期であり、イングランドを脅かしていたデーン人や国内の混乱などから解放された”平和”時代であったことを意味する。エドガーの死後、息子のエドワードとエゼルレッドが即位する。

ターリク・イブン・ズィヤード(不明~720)

イベリア半島~イスラーム支配下~ ローマ帝国滅亡後はゲルマン系の西ゴート王国の支配下に置かれるが、711年のウマイヤ朝のターリク・イブン・ズィヤードにより西ゴート王国は滅亡、イスラーム史上最初の世襲王朝であるウマイヤ朝が西ゴート王国に代わって半島を支配することになる。ウマイヤ朝が滅亡するとその子孫がイベリア半島へ逃亡し、後ウマイヤ朝を建てる。

カルロ・ドルチ(1616~1686)

悲しみの聖母

オーガスタス・フィッツロイ(1735~1811)

グラフトン公爵内閣 1768年10月に内閣を発足させたグラフトン公爵だったが、1768年2月には大陸亡命中だったジョン・ウィルクスが帰国し、3月の総選挙に出馬して当選したが投獄されたため、ウィルクス釈放運動が再燃した。1769年2月の庶民院はグラフトン公爵らの働きかけによりウィルクスを議員から除名する決議をしたが、民衆のウィルクス支援熱は収まらず、補欠選挙でウィルクスを再選させた。庶民院での除名と補欠選挙での再選が二回繰り返された後、庶民院は選挙に介入してウィルクスを落選処分とした。

ヘンリー・クレイ(1777~1852)

1850年の妥協 1848年のホイッグ党大統領候補指名争いでザカリー・テイラーに敗れた後、クレイはケンタッキー州のアッシュランド庭園に隠棲することにした。引退してから1年足らず後の1849年、再度ケンタッキー州から上院議員に選ばれた。この任期の間に北部州と南部州は再度奴隷制の拡張に関して論争を始め、クレイが予測していたようにこのときは、米墨戦争の結果メキシコから最近獲得した領土に奴隷制を認めるか排除するかという問題になった。クレイは常に「偉大な調停者」だったが、1850年の妥協と呼ばれる誤った決着を導き出すことに力を貸した。

ザカリー・テイラー(1784~1850)

大統領職 戦後、メキシコから奪還したカリフォルニア州でゴールドラッシュがおき人口が増加したため、カリフォルニアを奴隷制度のない自由州としての州への昇格を望んだ。これに対し、南部奴隷州は当時の連邦議会における「奴隷州」と「自由州」のバランス15:15の比率が破られることを恐れ、反対した。これに対し、テイラーは仮に南部が反乱をおこした場合は武力鎮圧も辞さずという姿勢で応じた。これは後に、南北戦争の伏線ともなった。

アルトゥール・ルービンシュタイン(1887~1982)

ルービンシュタインと室内楽 ハイフェッツ及びエマーヌエル・フォイアーマンとのピアノ・トリオは有名で、ラヴィニアの音楽祭で共演した際に、宣伝担当者が、「百万ドルトリオ」と名づけた。しかし、ハイフェッツとは作品の解釈や、どちらの名が先にレコードのジャケットに表記されるべきかをめぐって常に揉み、芸術的にも人間的にも対立点が多く、1950年を境に2度と共演はおこなわなかった。

レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(1872~1958)

ロンドン交響曲 初演は1914年3月27日のロンドンのクイーンズ・ホールにおいてジェフリー・トイの指揮による。演奏は成功したが、第一次世界大戦勃発後の1ヵ月前にドイツの指揮者フリッツ・ブッシュのもとに初稿の総譜を郵送した際、これが失われてしまう。作曲者はパート譜を手がかりに、作曲の際にも後押しした友人ジョージ・バターワースの協力も得て総譜を再構成し、多少の改訂を施した稿が1915年から1918年までの演奏に使われた。その後、長年にわたって何度も改訂された上で、1928年に初版が出されたが、最終決定版に辿り着くのは1936年ごろのことである。なお、この曲は第一次世界大戦で戦死したバターワースに献呈されている。

ベンジャミン・ブリテン(1913~1976)

戦争レクイエム ブリテンはこの大作の初演のソリストを、ソ連のソプラノ、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ、イギリスのテノール、ピーター・ピアーズ、ドイツのバリトン、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウとすることを初めから考慮して作曲したといわれる。第二次世界大戦ヨーロッパ戦線の中心的交戦国であり、戦争の恐怖と被害を身に沁みて体験したこれらの三国の最も優秀な歌手を一堂に集めることで、真の和解を確認して平和への誓いを固めたいという願いからだった。折りしも1962年といえば冷戦の真っ只中であり、そうした時代に初演を迎えるからこそ意義のあった作品である。

フレデリック・ディーリアス(1862~1934)

フロリダ組曲 羊毛業を営む家系に生まれたディーリアスは、息子をビジネスマンに育て上げようという父の意向により各地へ武者修行に送られたが、仕事を投げ出しては音楽に浸っていた。1884年、最終的にディーリアスはオレンジのプランテーションを学ぶという名目で、アメリカ合衆国、フロリダ州のソラノ・グローヴへと赴くことになる。渡米が本人の意志によるものだったのか、父の命令であったのかは不確かながら、故郷のイギリス、ブラッドフォードから遠く離れた土地での生活は彼にとって逃避の意味合いもあったと考えられている。彼はこの地でも仕事をそっちのけにして、ジャクソンビルのオルガニストに教えを乞うなど音楽に没頭していた。彼が過ごしたフロリダのセントジョンズ川の周囲に広がる風景、文化、とりわけアフリカ系アメリカ人の労働者の歌う霊歌からの影響は大きく、音楽の専門教育を受けるべくライプツィヒへ移った後にあってフロリダで得た霊感を曲にまとめた。

ヴィルヘルム・フォン・プロイセン(1882~1951)

ヴァイマル共和政 しかし、ヴィルヘルムはシュトレーゼマンとの約束を破り政治活動を始め、1928年にはベニート・ムッソリーニのファシズムを称賛し、1930年には鉄兜団、前線兵士同盟に加わりハルツブルク戦線の結成に参加した。1932年ドイツ大統領選挙ではヒンデンブルクとナチ党のアドルフ・ヒトラーの競合で右翼の票が分散することを防ぐため、統一候補として出馬することをドイツ国家人民党と協議したが、オランダに亡命中の父から反対され中止し、ヒトラーを支持するようになる。

フニ(生没年不詳)

統治 フニはメイドゥームに、ジェセルのものより大きな階段ピラミッドを建設したと言われることがある。これは、彼の死までに完成せず、後継者のスネフェルの在位期間中に完成したと言われている。しかしこの説は、フニに帰する巨大なモニュメントが欲しいという単純な願望から出たものである。メイドゥームのピラミッドがフニの墓所であるといういかなる根拠も存在しない。しかしスネフェルの名前はメイドゥームから見つかっており、スネフェルの子供の多く、特にネフェルマートやラーヘテプは、メイドゥームのネクロポリスであるマスタバに葬られている。そのため、当地にピラミッドを建設したのはスネフェルである可能性が高く、治世の後期に階段ピラミッドを真性ピラミッドに作り替えたと考えられる。ピラミッドはその後崩壊し、核の部分だけが残った。

アイン・ランド(1905~1982)

肩をすくめるアトラス ハンク・リアーデンとダグニー・タッガートは、「ジョン・ゴールト線」と名付けた鉄道でリアーデン・メタルの信頼性を証明した後、肉体関係を持つようになる。その後ハンクとダグニーは、廃棄された工場の廃墟で、大気中の静電気を運動エネルギーに変換するモニターの、未完成試作を発見する。彼らはこのモニターの発明者を探し始める。調査の過程で、ダグニーがある科学者を追いかけて、「ゴールト峡谷」にたどり着いた時、ビジネス・リーダーたちの失踪理由がついに明らかになる。そこではジョン・ゴールトという人物が、政府に対するビジネス・リーダーたちの「ストライキ」に組織していた。

フリードリヒ・ハイエク(1899~1992)

自由の条件 本書は第1部、自由の価値、第2部、自由と法、そして第3部、福祉国家における自由という3部構成になっている。自由の価値では自由主義の政治理論の基礎となる自由の哲学的な意味を明らかにし、自由と法では個々人の自由を保障するための制度の歴史を詳説する。そして最後の福祉国家における自由では、自由の原理を現代社会の諸問題に適用することで自由主義の具体的なあり方を論じる。