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アウルス・コルネリウス・ケルスス(前25~50)

医学論 病気の治療に関するケルススの手法の原則は、健常な身体の働きをよく観察し、患者の身体がそこから外れていれば矯正するというものである。彼は発熱を、病的な何かを体外に追い出そうとする自然の作用であると認識しており、それを闇雲に止めようとすることは却って健康に害があると考えていた。ただしケルススは瀉血と瀉下薬の使用を詳細な説明と共に推薦しているほか、彼の処方は多くの点で19世紀以降の医学とは隔たりがある。ケルススは阿片を用いた調薬についても詳細に述べている。さらに、彼は1世紀のローマにおける様々な外科治療について書き残している。例えば白内障の除去、結石の処置、骨折の治療などである。

ギルガメシュ(生没年不詳)

古代オリエント界最大の英雄~遠見~ エンキドゥがウルクへやって来る前にギルガメシュが見た「星が自分に降ってきた」は、古代メソポタミアの一般的な夢占いにおいて凶とされがちだが、この夢をニンスンは「友の到来」と解きギルガメシュが彼を深く愛するだろう事だけを伝えた。ニンスンはその後の未来である、エンキドゥの死とそれに伴ってギルガメシュ自身が悲しみに暮れるという、ある種の悲劇が待ち受けていることを見通していながらあえて言うのを差し控えたのか、単に凶の判断を避けたのかについては不明である。

鈴木長吉(1848~1919)

孔雀大香炉

小林清親(1847~1915)

東京名所図

西山志澄(1842~1911)

国会期成同盟~結成大会と国会開設請願~ 1880年3月15日に第4回愛国社大会が大阪の喜多福亭で開かれた。2府22県から愛国社以外の政治結社代表を含む114人が参加し、国会開設請願を求める約8万7000人の署名が集まった。3月17日には会場を太融寺に移し大会は4月9日まで続いた。大会では議長に片岡健吉、副議長に西山志澄が選ばれた。そして、19条からなる規約が作成されて愛国社が拡大発展する形で国会期成同盟が発足することになった。こうして第4回愛国社大会は第1回国会期成同盟大会に衣替えとなった。

ジェイムズ・ブルーデネル(1797~1868)

バラクラヴァの戦い~軽騎兵旅団の突撃~ ロシア砲兵が連合軍補給路を攻撃出来る場所へ展開することを防ぐために、ラグラン男爵フィッツロイ・サマセットは軽騎兵旅団に対してロシア砲兵の移動を阻止するよう命令を出した。しかし、連絡将校ルイス・ノーラン大尉が命令を誤って伝えたため、第7代カーディガン伯爵ジェイムズ・ブルーデネル率いる軽騎兵旅団673名がロシア軍砲兵陣地に正面から突撃し、死傷者278名という大損害を破った。この突撃は軽騎兵旅団の突撃と呼ばれ、無謀ではあるが勇敢であると評価されており、数多くの絵画や文学、音楽等の創作の題材となっている。アルフレッド・テニスンも物語詩「The Charge of the Light Brigade」でその勇敢さを讃えている。また、1936年と1938年には同じ題名で映画化されている。イギリスのヘヴィメタルバンド、アイアン・メイデンはテニスンの詩に着想を得て「明日なき戦い」を書いた。

ウォルター・バジョット(1826~1877)

最後の貸し手 最後の貸し手とは、他に貸し手が居なくなったときに最後に貸す貸し手。特に、破綻に瀕した金融機関に対して、発動される中央銀行の機能のことを指す。1873年恐慌のときにウォルター・バジョットが中央銀行の責務として主張したものであり、数年後からイングランド銀行の不文律と化した。日本銀行が発動するものは日銀特融とよばれる。預金者の保護を目的に発動され、対象の金融機関に対し無担保で融資が行われる。預金者の保護を目的に行われるものであるが、反面モラル・ハザードを起こすことが懸念される。

クリストフ・ボイス・バロット(1817~1890)

ボイス・バロットの法則 ボイス・バロットの法則は、北半球において、風を背にして立つと低気圧の中心が左手の方向にあるという法則で、アメリカの気象学者ウィリアム・フェレルが少し早く発見したが、学会誌にボイス・バロットが発表したので、ボイス・バロットの名前で呼ばれる。

絵島(1681~1741)

江島生島事件 1714年2月26日、時の徳川家第七代将軍である家継の母月光院に仕える御年寄・江島は、主人の名代として同じ年寄の宮路と共に上野・寛永寺、芝・増上寺へ前将軍家宣の墓参りに赴いた。その帰途に懇意にしていた呉服商後藤縫殿助の誘いで木挽町の芝居小屋・山村座にて生島の芝居を見た。芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開いたが、宴会に夢中になり大奥の門限に遅れてしまった。大奥七ツ口の前で通せ通さぬの押し問答をしている内にこの事が江戸城中に知れ渡り、評定所が審理することになった。だが審理する理由は門限に遅れたことではなく、大奥の規律の弛緩を重要視したためとなっており、判決には門限は重要視されなかった。

結城政勝(1503~1559)

結城氏新法度 政勝の最大の功績は領土拡大よりも有名な分国法である『結城氏新法度』を制定したことにあった。1556年に定められたこの法は、飲食や衣類にまで及ぶ具体的な規定や、喧嘩口論に関する罰則などが定められた斬新的なものであったと言われている。

毛利秀包(1567~1601)

大名取立て 久留米を居城とした後は大友宗麟の娘を妻とした縁もあり。受洗。洗礼名をシマオとした。以後はキリシタン大名としての活動が目立つようになり、1591年には大友家の依頼により高良山座主・麟圭・了巴父子を誘殺し、城下に天主堂を建設、キリスト教信者は7,000人と言われる。もっとも麟圭を滅ぼしたのは宗教対立からではなく、純粋な武力抗争の結果である。後に秀包は麟圭の末子・秀虎丸を召し出して高良山座主尊能としている。

アントニオ・ヴァン・ディーメン(1593~1645)

ブレスケンス号事件~金銀島~ 古来よりヨーロッパでは、金銀を豊富に産する「金島」・「銀島」の伝説があった。1635年、平戸のオランダ商館の職員であったウィレム・フルステーヘンは、オランダ領東インド総督のアントニオ・ヴァン・ディーメンに宛て、「日本の東方北緯47度半、海岸からおよそ380-390マイル」に金銀島があると聞いたと報告している。この金銀島の報告に基づき、後に2回の探検隊が派遣されることとなった。最初の探検は、1639年にマチス・クアストとアベル・タスマンによってなされたが、金銀島は発見されなかった。

松永尺五(1592~1657)

尺五堂先生全集 松永尺五は江戸期朱子学の祖と称せられる藤原惺窩の高弟で惺窩四天王の一人である。また、江戸初期に俳諧「貞門派」を確立した松永貞徳の子でもある。彼の弟子木下順庵はその門下に、新井白石、室鳩巣などの大儒を輩出している。そのような意味で、日本朱子学の発展期にあって重要な史的位置を占めた人物として注目される。

エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス(1764~1794)

フランス革命 パリへ連れ戻されたエリザベートと国王一家はタンプル塔に幽閉された。1793年1月21日のルイ16世の処刑、同年7月3日に甥ルイ・シャルルが連れ去られた時も、エリザベートは義姉マリー・アントワネット、姪マリー・テレーズ・シャルロットとともに塔内に取り残されていた。王妃は8月2日にコンシェルジュリー監獄に連行され、10月16日に処刑された。処刑の朝、王妃が義妹エリザベートに宛てて書いた遺書は彼女の元には届けられず、幽閉された2人は王妃の死を知らされないまま1年近く同室で幽閉され続けた。

ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト(1755~1813)

プロイセンの敗北と再建 1805年、フランスはアウステルリッツの戦いに勝利し、第三次対仏大同盟を崩壊させた。ナポレオンはライン同盟を結成し、これによって彼の覇権はドイツ中部へと及ぶこととなった。これに危機感を抱いたプロイセンは、1806年、第四次対仏大同盟に参加し、フランスへ宣戦布告した。しかしながら、プロイセン軍は10月14日のイエナ・アウエルシュタットの戦いでフランス軍に大敗した。敗走の中、シャルンホルストはブリュッヘルの軍と合流した。フランス軍はプロイセン本土まで侵攻し、全土がフランスの制圧下に置かれた。11月5日、ブリュッヘルとシャルンホルストの軍はリューベックで降伏、翌11月6日、マクデブルクでヴァイマール公とグナイゼナウの軍が降伏し、国内のプロイセン軍は消滅した。国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は側近とともにケーニヒスベルクへ逃れた。

ヴィルジニア・オルドイーニ(1837~1899)

ナポレオン3世への誘惑 伯爵夫人は、ナルシストで自己陶酔的、あるいは気まぐれで、皇帝が宮廷秘密資金から提供する贈り物を公に誇ったりしたが、皇帝が自分自身を無愛想にし、新しい愛人マリアンヌ・ヴァレフスカ伯爵夫人に心変わりした皇帝を相手にすることに疲れた。また、このような形で欧州王室社交界にデビュタントをしたため、半社交界の婦人ないしクルチザンヌとも括られる。けれども伯爵夫人ヴィルジニアは、従兄にあたるカヴールに依頼されナポレオン3世の愛人となり、別れた後もその影響力でフランスとサルデーニャとの同盟関係に結びつけたと主張していた。ナポレオン3世との関係が続く間、というよりこのスキャンダルのおかげで、彼女は後に普仏戦争により"統一ドイツ皇帝"となるヴィルヘルム1世の王妃アウグスタ・フォン・ザクセンやプロイセン宰相ビスマルク、後にフランス第三共和政の初代大統領となるアドルフ・ティエール、その他当時の大物王侯貴族らと接触することができた。

竹内綱(1840~1922)

明治時代~自由民権運動~ 1881年、後藤象二郎の残した借金の重圧に抗し切れず、三菱財閥の岩崎弥太郎に端島・大島・香焼の炭鉱と高島炭鉱を譲り渡す。同年、板垣退助を総裁とする自由党が創設され、竹内も参加する。翌年に起こった岐阜事件の際は板垣に同行していた。第1次伊藤内閣は広がりつつあった自由民権運動に危機感を抱き、1887年12月25日に保安条例を公布し、竹内はこの適用を受け東京から3年間の退去を命ぜられる。このとき彼が退去先として身を寄せたのが横浜太田町にある吉田健三邸であった。

林有造(1842~1921)

自由民権運動 出獄後に板垣に協力し自由党結成に尽力する。自由党土佐派の領袖として自由民権運動に参画した。1890年、第1回衆議院議員総選挙に立候補し当選し、以後8回当選。1898年、第1次大隈内閣で逓信大臣を勧めた。また、1900年には第4次伊藤内閣の農商務大臣として入閣した。1908年、政界を引退。余生を郷里の宿毛で送る。

梶原一騎(1936~1987)

巨人の星 一徹と飛雄馬の父子特訓から、ライバル達と出逢い甲子園での激闘、巨人入団後に大リーグホールを開発して更なる激闘、左腕が崩壊し完全試合を達成、父子の闘い終焉までが描かれているのが本作のメインストーリーである。本作のアニメ化に際して梶原一騎が楠部大吉郎に「この作品をなんとか世に出してください!」と頭を下げたという。

ウォリス・シンプソン(1896~1986)

ヒトラーとの関係 フランスに暮らし、王族でありながら無視された存在の2人に目をつけたのは、ドイツの指導者のアドルフ・ヒトラーだった。イギリスには好意を持ちながらも自ら進める急速な勢力拡大によりヨーロッパで孤立を深めていたヒトラーは、イギリスの前国王を、「私的な賓客」として自国へ招いたのである。夫妻は、ドイツで熱狂的な歓迎を受けた。結婚以来、ウォリスを好意的に受け入れてくれたのはドイツが初めてだった。

高柳健次郎(1899~1990)

戦後 1946年産官学共同でテレビ技術の研究開発を行う団体として組織されたテレビジョン同好会の委員長に就任。同学会はその後文部省認可の社団法人テレビジョン学会に改組された。同学会は初代会長・丹羽保次郎とともに健次郎の功績を記念して、優れた研究・業績に対する丹羽高柳賞を設定している。

フランシス・プランケット(1835~1907)

駐日公使としての働き 駐日公使在任以前から日本では西洋列強との不平等条約撤廃の世論が高まっており、さらに在任中の1886年にはイギリス船籍の貨物船によるノルマントン号事件が起きている。居留地のイギリス商人は領事裁判権の継続を望んでいたが、プランケットは条約改訂に柔軟な姿勢を見せ、商人たちとの対立を招いた。また、知人であったドイツ公使フォン・ホルレーベンとは共に条約改正会議の合同覚書を提出するなど不平等条約の改訂に向けて協調する一方、伊藤博文や青木周蔵ら日本政府の要人がドイツよりの政策をとっていることへの抗議を行った。

足利義嗣(1393~1418)

若宮 容姿端麗で才気があり異例の昇進を見て、義満が義嗣を後継者と考えている予測した武将や公家も多かったようである。義満の皇位簒奪の意図を指摘する立場からは、義嗣を皇位につける意図があったのではないかとする見解も存在する。この立場に立つ今谷明は義嗣の元服は立太子に基づくものであると推測しているが、森茂暁は皇太子ではなく親王扱いに過ぎないと否定している。また桜井英治は義嗣が皇位についたとしても、犬猿の仲である将軍義持と並立する形となるのは不可能だとしている。石原比伊呂は義満の皇位簒奪を否定する立場から、自身の公家としての役割のうち将軍職とは関わりのない部分を義嗣に担わせて、後継者である義持の負担を軽減させる方針の下で行われたと見ている。だが、義持は足利将軍家は「裏方」に徹するべきとの考えから義満の朝廷関与のあり方を否定し、義嗣の排除に至る要因になったとみている。

北条朝時(1193~1245)

父・兄との関係 正室・姫の前を母に持つ朝時は、祖父・時政の名越邸を継承しており、細川重男は時政が朝時を後継者に考えていたのではないかと推測している。ただし、名越邸継承の時期は不明で、朝時の元服の前年に時政は失脚しており、時政の真意は定かでない。父義時は朝時を一時義絶し、同母弟の重時が1219年に小侍所別当、1223年に駿河守に任じられて朝時の官位を超越していることから、父子関係は良好ではなかったとする見解もあるが、一方で和田合戦、承久の乱で活躍して義時の遺領配分では大量の所領を与えられ、朝時の名越流は一族内でも高い家格を持つ有力な家となる。

アドルフ・ダスラー(1900~1978)

プーマ~前史~ プーマの創設であるルドルフは、ヘルツォーゲンアウラハで製職人として働く父クリストフと小さな洗濯屋を営む母パウリーナの次男として生まれた。1924年、ルドルフは弟アドルフ・ダスラーが設立した製靴工場に参加するためヘルツォーゲンアウラハに帰った。彼らは新しい事業を行うにあたってダスラー兄弟製靴工場という名前を付けた。兄弟は彼らの母が使っていた洗濯室でこのベンチャーを開始した。当時、町の電力供給は心もとなかったので、兄弟はしばしば据え付け自転車のペダルを漕いで機材を動かしていた。アディはスーツケース一杯のスパイクを携えて1936年夏季オリンピックが開催されるベルリンに向かい、アメリカ合衆国の短距離走者ジェシー・オーエンスを口説いた。オーエンスはこの大会で4つの金メダルを獲得した。事業は波に乗り、ダスラー兄弟は第二次世界大戦前に年間20万足の靴を販売していた。

基(632~682)

三車法師 出家するにあたって、師の玄奘に、女色と酒肉を断たないことを条件として要求し、僧となってからは酒、女、そして経典をのせる三つの車を率いたという逸話から、三車法師というあだ名がつけられたという。しかし、「宋高僧伝」における玄奘と基とのエピソードは学術的には信頼性に欠けるものとされ、この逸話を記載する「宋高僧伝」自身も、基自らが「自序」において語る来歴との齟齬から、もし基が事実を述べているとするなら、誹謗中傷の説であると述べている。

ベリサリウス(500~565)

評価 常に寡兵をもって勝利を収めてきたべリサリウスは東ローマ帝国最高の名将と言っても過言ではない。強固な防御陣地、従来は主力とされてきた重装歩兵などを囮にすることで自らに有利な戦場へと巧みに敵を誘導し、騎兵によって撃破するという戦術は、その後の東ローマ帝国の将星やナポレオンの戦術にも多大な影響を与えた。また「間接アプローチ」の提唱者である20世紀の著名な軍事史家リデル・ハートは、彼の「用兵の才」を賞賛している。ベリサリウスの軍事的才能と皇帝への愚直なまでの忠誠心がなければ、ユスティニアヌス1世による地中海統一事業は到底実現し得なかっただろう。

ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス(前228~前174)

第二次マケドニア戦争 執政官として軍団指揮権を保持した彼はプブリウス・スルピキウス・ガルバ・マクシムスの後継としてアンティゴノス朝との第二次マケドニア戦争に従軍、マケドニア王ピリッポス5世を追撃し、アオウスの戦いで勝利した。しかしながら戦役の最中に彼の執政官の任期が切れ掛かっていたために休戦交渉を始め、この休戦期間を利用して彼は前執政官に就任、戦争を継続し、紀元前197年にキュノスケファライの戦いでマケドニアを破った。この戦いでローマで生まれた軍制であるレギオはギリシャ古来の軍制ファランクスよりも優れていることが証明された。ピリッポス5世はローマに降伏、彼が攻め落としたすべての都市を放棄することとさらに1,000タレントゥムの賠償金をローマに支払う約束をさせられた。このローマが下した判断は、しかしながら、マケドニアを敵視していたアカイア同盟には不満であった。紀元前196年にはフラミニヌスはコリントスの運動競技会に出席、ここでマケドニアからのギリシャの解放を宣言する。フラミニヌスはギリシャ語に堪能で、またギリシャ文化の信奉者であったため、ギリシャ人は彼を解放者として一部の都市では神と崇められるまでに褒め称え、横顔を刻印した硬貨を発行するほどであった。

スタン・リー(1922~2018)

マーベル・メソッド 一時期、マーベルコミックのライターはほぼスタンしかおらず、1950年代には多いときで月に82本のコミックの脚本を担当していたこともあった。そうした状況から偶然生み出されたのが「マーベル・メソッド」である。スタンはアーティストたちに仕事を滞りなく与えるため、まず物語のプロットだけを渡し、作画ができ上がった状態で具体的な台詞を入れていった。最初は苦肉の策に過ぎなかったが、でき上がってみると以前よりも作品の質は向上し、この手法を導入してからコミックの売り上げも上昇した。その後もアーティストと脚本家間で物語をフィードバックする目的で用いられ、1970年代にはDCコミックスにもマーベル・メソッドは取り入れられることとなった。

ジェームズ・フィッツジェームズ(1670~1734)

第3次バルセロナ包囲戦 1709年にフランス南部のドーフィネに回され、マルプラケの戦いの後にネーデルラントに転任してヴィラールと共に防衛線を固め、1710年にフランス南部に移り1714年まで守備を務め、7月にスペインへ移動、9月11日にバルセロナを落としてスペイン戦線を終結させた。同年に金羊毛騎士となった。それからすぐにギュイエンヌの軍司令官となり、モンテスキューと親交を深めた。

オリュンピアス(前375~前316)

名前について オリュンピアスは、エピロスにおける古代ギリシャ系氏族モロッソイの王ネオプトレモス1世の娘で、エピロス王アレクサンドロス1世の姉妹である。オリュンピアスの一族は、アキレウスの息子ネオプトレモスの後裔でアイアキダイであるとされ、エピロスで尊敬を集めていた。プルタルコス『倫理論集』での言及によると、彼女はもともとはポリュクセナと名づけられたらしい。その後マケドニア王ピリッポス2世との婚姻にあたりミュルタレに名を変えた。この改名はとある密儀宗教への入信儀式の一幕だった。

ジェームス・ブラウン(1933~2006)

1980年代~アイム・バック~ 1980年、映画『ブルース・ブラザース』に出演。1984年、ラップのアフリカ・バンバータとのデュオ「ユニティ」がスマッシュ・ヒット。久々に音楽シーンの注目を集めた。1986年1月23日にはロックの殿堂入りした他、映画「ロッキー4/炎の友情」に「ソウル界のゴッドファーザー」として出演した。そして86年「リビング・イン・アメリカ」が久々のヒットとなる。さらに1988年には、フルフォースのプロデュースによる傑作「アイル・リアル」を発表した。ラップ・ヒップホップのミュージシャンたちから「我が師、我が父」として尊敬された。この時期、ブラウンの曲はラッパーたちによって非常に多くサンプリングされた。しかし、そんな矢先にトラブルが発生してしまう。1988年には、薬物吸引中に妻とケンカし、銃を乱射し、駆けつけた警察とカーチェイスを行った末、ガス欠となって逮捕され実刑判決を受けた。

ムワタリ2世(不明~前1272)

カデシュの戦い ムルシリ2世の長男として生まれ、父の跡を継いでヒッタイト王となった。祖父であり3代前の王シュッピルリウマ1世の時代から続くシリアへの拡大政策を継承した。エジプト第19王朝のファラオのセティ1世はヒッタイトの宗主権下にあったアムル王国とカデシュ王国に軍を進め、両王国を影響下に置いた。ムワタリは反撃に出てアムルを再びヒッタイトの影響下に置いたが、以後ヒッタイトとエジプトは恒常的な戦争状態に突入した。

メアリー・アニング(1799~1847)

イクチオサウルスの化石の発見 メアリーと科学界との関係が最初にできたのは、父の死の数か月後の1811年、彼女がイクチオサウルスの骨格の化石を見つけた時であった。恐竜の存在は当時はまだそれほど世間に知られてはおらず、ジョセフが一年前に大きなワニのように見える頭蓋骨の化石を見つけていたが、骨格の残りの部分は始めは見つかっていなかった。しかしメアリーが嵐の後に来てみると、化石を含んだ崖の一部が削り取られていた。イクチオサウルスの化石自体は1699年にウェールズですでに発見されていたが、彼女が発見したのは最初の全身化石であった。これは重要な発見で、化石はすぐに王立協会の手に渡ったが、メアリーはこの時わずか12歳であった。彼女はその後も2体の別のイクチオサウルスの化石を発見している。

エメリン・パンクハースト(1858~1928)

イギリスの女性参政権~第一次世界大戦と女性運動~ 第一次世界大戦が始まると、軍需品の生産に女性がかり出されるという総力戦が展開されたことから、政府はWSPUを利用するため投獄中のサフラジェット全員を釈放し、軍需相ロイド・ジョージを通じてパンクハーストに2000ポンドを与え、パンクハーストはその金で女性も戦争に奉仕する権利があるとして軍需工場で働くことを呼びかけるデモを行った。事実、戦争中に女性は軍需工場、電車・バスの車掌、男性が出征した後の会社の事務などに動員され、戦争を支えた。この戦争での女性の活躍が、戦争前の女性参政権獲得闘争では達成できなかった女性の投票権を実現させた、とよく言われる。戦前のパンクハーストの運動は、穏健な男女双方から顰蹙を買っていたのかもしれないが、それが無駄であったとは言えないだろう。

ジョゼ・サラマーゴ(1922~2010)

白の闇 とある都市の住人ほぼ全員を失明させた原因不明の感染症。「医者の妻」、彼女の夫の医者と、その患者を含む数人の命運を中心に追いながら、感染爆発に伴う社会秩序の崩壊を描く。感染症の唐突な発生や原因が解明されない事への不安から大規模なパニックが生じ、政府の封じ込めや治安維持策は後手に回る。政府の対応が時を追う毎に抑圧的で稚拙になってゆく中で、最初の感染者達である「医者の妻」達は家族のように団結し、各々の知恵と何故か一人だけ失われなかった「医者の妻」の視力を頼りに生き残りを図る。

マイケル・クライトン(1942~2008)

タイムライン ニューメキシコ州の砂漠の真っ只中で一人で彷徨っていた老人が、担ぎ込まれた病院で急死した。検視を行った医師たちは、信じがたい現象に驚愕する。老人の体内は臓器や血管など、あらゆる組織がずれ欠損していた。老人の正体は、早熟の天才の物理学者で億万長者のロバート・ドニガーが興した巨大企業ITCに所属する物理学者だった。

ウゴリーノ・デッラ・ゲラルデスカ(1220~1289)

伝説 しかし、なぜダンテはウゴリーノを裏切り者の中においたのかという理由、どんな意味があるのか不明である。メローリアの海戦での逃亡は、16世紀以前のどの作家も反逆罪とみなしていないのである。ダニエッラ・バルトリはその著作の中で、ウゴリーノがギベリンと同盟を結んでいたことが動機であると示唆している。城の譲渡は反逆ではないが必要に迫られての行いで、ピサの絶望的な状況のためであるとする。

フェデリコ・フェリーニ(1920~1993)

魂のジュリエッタ 興信所に夫の調査を依頼した結果、夫の浮気が真実だとわかり、ジュリエッタはショックを受ける。友人に相談すると、自分も浮気したらいいと美少年を紹介されるが、子供の頃に見た炎に焼かれる天使像のイメージが浮かんで逃げて帰る。思い切ってガブリエッラの家に行くが相手は留守。夫に直接問いただすこともできず、今まで以上に幻覚に苛まれる。追い詰められるジュリエッタだが、壁の向こうに自分らしさを見つけ、ようやく心の平安を得る。

石川藤八(1864~1914)

乙川綿布合資会社 藤八は軽い気持ちで佐吉を二階に住まわせたが、佐吉は昼も夜もなく発明に没頭した。佐吉は研究にのめり込むと、周りのことには全く無頓着であった。藤八家の家人や使用人は目に入らず、時無しに階段を上り下りした。だが、藤八自身はだんだんと佐吉の人柄を気に入り始めていた。藤八は家人と揉め事になる前に解決をしようと考えた。佐吉の住む二階へは玄関横の土間から直接行くことができるように階段をつくって揉め事の芽を摘んだ。

内藤魯一(1846~1911)

私擬憲法 1879年には愛知で旧重原藩士と周辺の豪農を中心とした三河交親社を設立、翌年には組織を拡大改組し愛知県交親社を設立した。同年の3月の大阪で開催された愛国社第4回大会にはこの愛知県交親社の代表として参加している。県下の民権運動の指導者として活躍し、「三河板垣」の名前で呼ばれた。後に自由党の設立に関わって幹事に選出され、「大日本国憲草案」を起草。また、板垣退助の秘書となり、板垣が岐阜で遭難した時には、暴漢を投げ飛ばして取り押さえ、窮地を救ったとも言われる。この遭難事件の際に板垣が叫んだとされる「板垣死ストモ自由ハ死セズ」は、内藤が叫んだものという説もある。

竹中重固(1828~1891)

戊辰戦争 1868年、鳥羽・伏見の戦いでは主戦派として伏見奉行所へ出陣するが、幕府軍敗北によって罷免・官位剥奪される。一時は出家したものの、のちに純忠隊を結成し、彰義隊の支部隊として新政府と交戦した。彰義隊の敗退後は輪王寺宮を奉じて奥羽を転戦し、のちに蝦夷共和国の海陸裁判所頭取に就任した。1869年、箱館戦争終結前に英国汽船で東京へ向かい、5月28日、養父竹中図書の薦めにより投降した。

フレッド・アステア(1899~1987)

MGM時代 1948年、若手のダンサー兼振付師として「ポスト・アステア」の地位にあった同じMGM所属のジーン・ケリーが撮影中に怪我を負ったため、代わってアステアが『イースター・パレード』の主役を引き受けた。この『イースター・パレード』が世界的なヒットと成功をおさめ、「過去の人」となりかけていたアステアの人気は三たび急上昇する。MGMの二枚看板としてジーン・ケリーと共に活躍したが、2人の共演は『ジーグフェルド・フォリーズ』と、『ザッツ・エンターテインメント パート2』の2作にとどまる。

いぬいとみこ(1924~2002)

北極のムーシカミーシカ~第1部~ ホッキョクグマのものしりのムーは、妊娠して雪の下で冬眠に入るかあさんグマに、女の子ならマーシカ、男の子ならムーシカと名付けるように言って、餌のある海へと遠出する。しかし生まれたのは雄の双子で、兄はムーシカ、弟はミーシカと名付けた。ある日、白い鳥を追って迷子になったミーシカはアザラシの子供オーラと友達になる。ムーシカはミーシカを追って氷の割れ目に落ちて行方不明。かあさんグマは2人を探していたところオーラとミーシカを見つけた。熊に警戒心を露にする母アザラシに、かあさんグマはミーシカの友達だから手出しをしない事を約束する。一方、氷の割れ目を登り湖の傍に出たムーシカは白鳥の卵を壊して怒られた。事情を知った白鳥の娘ユーリはムーシカを許し、疲れたムーシカを眠りに就かせた。いつものように白鳥の湖の中の氷の上ではなく氷原で眠ったため、ユーリはホッキョクギツネに襲われてしまう。そこでムーシカは必死に戦って狐を追い返し、ユーリの兄達からも認められ、家まで送ってもらう事になった。

植芝盛平(1883~1969)

戦後・合気会設立 1948年65歳。2月9日に「皇武会」は「財団法人合気会」と改称、岩間の合気苑を本部とし、改めて文部省の認可を受けた。この時はじめて正式に「合気道」を名乗る。これにより盛平は初代合気道「道主」となる。1950年67歳。4月、合気会機関紙・月刊『合気会報』発行開始。この頃より全国各地の道場を盛平が訪れ指導を行うようになった。

伊東祐亨(1843~1914)

威海衛の戦い~清軍の降伏~ 抗戦派幹部の自決後、包囲されていた清側は、伊東祐亨連合艦隊司令部に丁汝昌名義の請降書を提出した。14日、清軍の降伏と陸海軍将兵の解放について両軍が合意し、15日に調印が行われた。17日、清の陸兵すべてが日本軍の前哨線外に解放され、商船「康済号」が丁汝昌の亡骸と清国海軍将兵1,000余りと、清国側の外国人軍事顧問将校を乗せて威海衛湾から出航した。作戦を完了した日本軍は、劉公島だけを保持することとし、砲台など軍事施設を爆破した。作戦に参加した第2・第6の両師団は、第二期作戦にそなえて旅順に移動した。

松平信康(1559~1579)

信康自刃事件について~三河物語に基づいた通説~ 信康の切腹については幕府成立後の所謂徳川史観による三河物語が通説化している。それによると、織田信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、1579年、父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣・酒井忠次に託した。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていたとされる。信長は使者の忠次に糺したが、忠次は信康を全く庇わず、すべてを事実と認めた。この結果、信長は家康に信康の切腹を要求した。家康はやむを得ず信康の処断を決断。8月29日、まず築山殿が二俣城への護送中に佐鳴湖の畔で、徳川家家臣の岡本時仲、野中重政により殺害された。さらに9月15日、二俣城に幽閉されていた信康に切腹を命じた。

江原素六(1842~1922)

私立駿東高等女学校の設立発起人・顧問として 1889年の高等女学校令公布以降、駿東郡において女学校の設立をめざす機運が高まり、1890年3月26日沼津高等小学校第一回卒業式において、当時の駿東郡長河野鎗治郎が、高等女学校経営の意志があることを表明する。1891年1月9日、河野駿東郡長が町村長会を召集し、高等女学校を郡内に設置することを決定、推進役として調査委員を選出した。調査委員は駿東郡長、松崎郡長、沼津町長、楊原村長、金岡村長の5名である。調査委員は、静岡県会・郡会議員などに寄付募集への協力を求めたり、江原素六ほか代議士に創立発起人となるよう依頼状を送った。同年2月25日、高等女学校の設立の発起人として有志者の会合が開かれ、江原素六はこれに出席している。

少弐景資(1246~1285)

元寇~赤坂の戦い~ 一方、日本軍は総大将・少弐景資の下、博多の息の浜に集結して、そこで元軍を迎撃しようと待ち受けていた。日本側が博多で元軍を迎え撃つ作戦を立てた理由は、元軍が陣を布く赤坂は馬の足場が悪く、騎射を基本戦法とする日本の戦法で戦うには不向きであるため、元軍が博多に攻めてくるのを待って、一斉に騎射を加えようという判断からであった。

樋口季一郎(1888~1970)

アッツ島玉砕、キスカ島撤退 1942年8月1日、札幌に司令部を置く北部軍司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。1943年アッツ島玉砕、キスカ島撤退を指揮した。キスカ島撤退作戦に際しては、海軍側からの要請に応じ、陸軍中央の決裁を仰がずに自らの一存で「救援艦隊がキスカに入港し、大発動艇に乗って陸を離れ次第、兵員は携行する小銃を全て海中投棄すべし」という旨をキスカ島守備隊に命じ、収容時間を短縮させ、無血撤退の成功に貢献した。帝国陸軍では菊花紋章の刻まれた小銃を神聖視しており、撤退成功の後、小銃の海中投棄が陸軍中央に伝わり、陸軍次官の富永恭次中将がこれを問題視したが、富永は陸士の4期先輩である樋口を以前から苦手にしていたため、小銃の海中投棄を命じたのが樋口であると知ると矛を収めたという。

セーチェーニ・イシュトヴァーン(1791~1860)

セーチェーニ鎖橋~橋の建設にいたる動き~ 19世紀になると伯爵セーチェーニ・イシュトヴァーンが恒常的な橋の建設を本格的に検討するようになる。彼が恒常的な橋の必要を痛感したのは、1820年のことだったとされている。その年の12月に父の訃報を受け取ったセーチェーニは、急いで駆けつけようと川を渡ろうとしたが、舟橋などはすでに解体されていた。その一方で、まだ川の上を歩けるほどには凍結しておらず、氷を避けて向こう岸に届けてくれる渡し守を手配するのに時間がかかった。彼はこのときの経験から、恒常的な橋の重要性を認識するようになった。

ヨゼフィーネ・ブルンスヴィック(1779~1821)

1812年 数々の法廷闘争に敗れ、精神をすり減らす紛争と諍いの末、ヨゼフィーネは自暴自棄となりシュタッケルベルクは彼女の元を去った。これはおそらく1812年のことと思われ、突然の宗教的衝動により祈りと信仰的思索に慰めを見出そうとしたらしい。これは緊急に資金を必要としていたヨゼフィーネの助けにはならず、彼女は常にもがき苦しんでいた。