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ピンダロス(前522~前442)

ピンダロスの作風 ピンダロスは孤高の詩人で、豊かな詩才を誇り時勢に超然として生きた。「戦いは知らざる人には甘美なれど、知る人はその近づくをあまりにも怖れる」と歌った彼は、ペルシア戦争の際には愛国の歌を作ることなく中立を守り、その後のアテナイの発展や学問に関心を持たず、「いっさいを人間のために造りたもう神」への信仰を守り、ピタゴラスの神秘主義に近い世界観に止まった。

ロクサネ(前343~前310)

ロクサネの人生 ロクサネは、バクトリアのオクシュアルテスの娘としてバルフで生まれ、16歳の時にアレクサンドロス3世と結婚した。バルフは最後にアレクサンドロス3世の手に落ちたペルシア帝国の地域であった。古代の文献は、紀元前326年に行われたアレクサンドロス3世のインド北部への遠征に同行した。

ジョゼフ・プルースト(1754~1826)

定比例の法則 1799年にジョゼフ・プルーストによって発表された。これに対し、クロード・ルイ・ベルトレーは、鉱物の組成などを例にあげ、化合物を構成する成分元素の比は産地や製法によって変化するとして反対した。当時はまだ混合物と化合物の違いが明確に区別されていなかったため、ベルトレーの考え方が主流であった。プルーストはこれに対し、炭酸銅が鉱物のクジャク石から得られたものも実験室で合成したものも同じ組成を持つことや、酸化銅や酸化スズに2種類のものがあることを示し、組成が変化するように見えるのはこれらの混合物であるためであることを示し反論した。

バシレイオス2世(958~1025)

正帝即位後 976年のヨハネス1世の死によって、成人していたバシレイオスは晴れて正帝となったが、軍事貴族の相次ぐ反乱、第一次ブルガリア帝国との戦争などに悩まされ、一時は軍事貴族バルダス・フォカスが率いる反乱軍によって絶体絶命の危機に陥った。しかし軍事貴族の反乱はキエフ大公国の援軍を得て平定。第一次ブルガリア帝国に対しては幾度もの戦いの末、1014年にクレディオン峠の戦いで大勝した。

カルロ1世(1227~1285)

十字軍 1248年、兄のフランス王ルイ9世は第7回十字軍を起こしエジプトに攻め入った。末弟としてシャルルもこれに参加し勇戦したが、共に捕虜となった。解放された後はフランスに戻り、兄のトゥールーズ伯アルフォンスや母ブランシュと共に摂政を務めた。また、1270年の第8回十字軍にも参加し、自己の勢力拡大を狙ってチュニジアを攻撃するよう仕向けたが、ルイ9世が遠征先で病没する結果となった。

ダマスコのイオアン(676~749)

対イコン破壊運動 丁度その頃、東ローマ帝国ではイコノクラスムが行われていた。イオアンはこれに対してイコン擁護の論陣を張り、信徒達に手紙を送り続けた。これに対して東ローマ帝国皇帝レオーン3世は怒り、策を講じてイオアンの抹殺を図った。これは、イオアンが東ローマ帝国皇帝と内通して皇帝にダマスコを乗っ取る事を勧める内容の手紙を偽造し、イスラーム側の支配者にその偽造した手紙が渡るように仕向けたものである。

聖マクシモス(580~662)

単意論への反駁の旅路 東方が広く単性論・単意論に影響されている事に危機感を抱いたマクシモスは、626年ペルシア、スラヴの侵入のためコンスタンティノープルを去り、流浪の旅を余儀なくされ、アレクサンドリアからクレタ島を経て北アフリカのカルタゴに着き、反単意論者ソフロニオスと出会う。自らの単性論・単意論への反駁を広める事に務め、聖職者のみならず一般信徒からも幅広い支持者を獲得していった。

智顗(538~597)

摩訶止観 摩訶止観は、仏教の論書の1つで、止観についての解説書。10巻。594年に中国荊州玉泉寺で天台智顗によって講義され、弟子の章安灌頂によってまとめられた。天台三大部の1つ。

顔之推(531~591)

顔氏家訓 顔之推は梁に生まれ、江陵で蕭繹のために働いていたが、侯景の乱で捕えられ、その後西魏が江陵に侵入したときに再び拉致された後、弘農に移った。その後北斉へ脱走した。北斉が北周に滅ぼされて以降は北周・隋に仕えた。

飯沼貞吉(1854~1931)

白虎隊 旧暦8月22日、白虎士中二番隊は戸ノ口原に出撃。翌23日の早朝四時頃、副隊長格の教導、篠田義三郎の指揮の下で戦ったが敗走。飯盛山に至り、城に戻り戦うか、敵の側面を付いて反撃するか等の議論の末、敵に生け捕らえることを避けるべく一同は自刃を決意した。貞吉も、皆に遅れじと咽喉に脇差を突き立てたが死にきれずにいた。

元田永孚(1818~1891)

親政運動の推進 天皇の教育は漢学を重視して『論語』『日本外史』を進講し君徳培養に努め、1872年に太政大臣三条実美に宛てた手紙で儒教による天皇の精神的成長を願う反面、文明開化を批判的に見ていた。また宮中と府中の分離も気に食わず、両者一体となり天皇の輔導に尽くすべきと主張、名実共に天皇を頂点とした政治体制を主張し始めた。その後は侍講となり1877年に侍補も兼務し、共に侍補となった吉井友実・土方久元や、翌1878年3月に新たに加わった佐々木高行と共に天皇の輔導を更に推し進めていく。

一条天皇(980~1011)

一条天皇の略歴 一条天皇の時代は道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。天皇自身、文芸に深い関心を示し、『本朝文粋』などに詩文を残している。音楽にも堪能で、笛を能くしたという。また、人柄は温和で好学だったといい、多くの人に慕われた。

藤原兼家(929~990)

次兄との確執 同年、重病の伊尹が辞表を提出すると、翌日には参内した兼家と兼通は後任の関白職を望むあまり円融天皇の御前で口論しだした。兼通から「関白、宜しく兄弟相及ぶべし」との円融天皇の生母安子の遺言を献じられた天皇は、孝心厚く遺言に従い、兼通の内覧を許し、次いで関白となった。

畠山重忠(1164~1205)

幕府創業の功臣 1189年夏の奥州合戦で先陣を務める。阿津賀志山の戦いで、三浦義村、葛西清重らが陣を抜け出して抜け駆けをしようとした。これを知った重忠の郎党が注進するが、「先陣を賜っている以上は功績はすべて自分のものである。先登をせんと張り切っている者たちを止めるのは武略の本意ではあるまい」と悠然としていた。この戦いで重忠は勝利し、藤原泰衡は平泉を焼いて逃亡し、奥州藤原氏は滅びた。

ビリー・ザ・キッド(1859~1881)

闇討ちにより死亡 1881年7月14日、ニューメキシコ州フォートサムナーにてギャレットに射殺される。その時ビリーは丸腰で、寝室から食べ物を取りに部屋を出たところを闇討ちされたと言われる。寸前に発した最期の言葉はスペイン語の「誰だ?」だとされている。だが死の不況に不自然な点も多く、後に自分こそがビリー・ザ・キッドだったと名乗り出た人物などもいて、生存説も根強く残されている。

ジャン=フランソワ・シャンポリオン(1790~1832)

ヒエログリフ ヒエログリフとは、ヒエラティック、デモティックと並んで古代エジプトで使われた3種のエジプト文字のうちの1つ。エジプトの遺跡に多く記されており、紀元4世紀頃までは読み手がいたと考えられているが、その後読み方は忘れ去られてしまった。19世紀になって、フランスのシャンポリオンのロゼッタ・ストーン解読以降読めるようになった。ロゼッタストーンによるとくずし字もあるとされている。

マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ(1635~1719)

宮廷へ ヌイヤン夫人との道中、フランソワーズはポール・スカロンと出会った。2人は面会後、それぞれ調和するものを感じた。スカロンはフランソワーズより25歳年上で、リウマチ性の関節炎によって身体障害の状態にあった。2人の組み合わせは良い縁談と目論まれたものではないが、貧しく資産のない天涯孤独の少女には選択の余地はなかった。しかしスカロンは、彼女が女子修道院へ修道女として入ろうとした時、自分が持参金を払うので結婚しようと申し出たのである。フランソワーズはスカロンの申し出を受けて、1651年にスカロン夫人となった。

マリア・ジビーラ・メーリアン(1647~1717)

昆虫のスケッチ

サンジェルマン伯爵(1691~1784)

ルイ15世の寵愛とショワズールの関係 サン・ジェルマンは王と親しい関係を結ぶが、ルイ15世の重臣ショワズール公爵が彼を疎み、その信頼を貶めようと策を巡らせた。ショワズールはゴヴと云う名の道化を雇ってサン・ジェルマンに変装させたという。ゴヴはサン・ジェルマンの風体で各地のサロンに顔を出し、ありそうもないほら話を吹聴した。アレクサンダー大王と杯を交わしたであるとか、イエス・キリストに恐るべき末期を予言された、などといった大言壮語である。

ジョン・モンタギュー(1718~1792)

サンドウィッチ諸島 サンドウィッチ伯はジェームズ・クックの太平洋探検の有力な支持者で、探検隊の帆船の購入と艤装には海軍本部の予算が充てられた。クックは伯爵にちなんで、1778年に発見した今日のハワイ諸島をサンドウィッチ諸島と命名した。サウスサンドウィッチ諸島とアラスカのモンタギュー島にも伯爵の名前が残っている。

アンリ2世(1519~1559)

カトー・カンブレジ条約 カトー・カンブレジ条約は、16世紀前半のイタリアを巡る戦争を争ったヴァロワ朝とハプスブルク家が1559年に結んだ講和条約。同年にスペインのフェリペ2世がフランス王アンリ2世の娘エリザベートと結婚したおかげで実現した。カトー・カンブレジは、フランス北部ノール県の町で、アンリ・マティスの生地でもある。

ジョン・ホークウッド(1320~1394)

イタリアへ その後ホークウッドはフランスのブルゴーニュに移り小さな傭兵団に加入した。その後、アヴィニョン近郊で教皇勢力と戦う傭兵集団の一部となった。1360年代の初めごろに、彼はドイツ人傭兵隊長アルベルト・ステルツに代わり白衣団の指揮官になったとされる。1363年、ホークウッドと彼の手勢はモンフェッラート侯の傭兵集団の一部となり、ミラノとの間におけるアルプスの戦いで指揮を取った。その後、彼とその手勢はイタリアにとどまることになった。

ハインリヒ6世(1165~1197)

シチリア王即位 1194年1月にハインリヒは北イタリアのコムーネと協定を結んで通行許可を得、同年4月にはハインリヒ獅子公と講和する。同年2月にシチリアではタンクレーディが没し、彼の幼少の子グリエルモ3世がシチリア王位を継承していた。ピサ、ジェノヴァの協力を得て、ハインリヒは5月12日に南イタリア遠征に向かう。この遠征の途上でコンスタンツェの妊娠が発覚し、彼女は別の進路を通って移動した。

ヨハネス22世(1244~1334)

皇帝ルートヴィヒとの対立 ヨハネス22世が皇帝ルートヴィヒ4世に帝冠を授けようとしなかったため、両者の関係はきわめて悪化した。ルートヴィヒは教皇を廃位させるための教会会議の開催を求めた。弾圧され、雌伏を余儀なくされたフランシスコ会聖霊派もまた、皇帝ルートヴィヒ4世との連携に救いを見いだし、1328年、上述のように、フランシスコ会員のピエトロ・ライナルドゥッキを対立教皇のニコラウス5世としてローマに擁立した。

サウェリン・アプ・グリフィズ(1228~1282)

バロン戦争と第2次バロン戦争 おりしもイングランドではヘンリー3世と諸侯の争いが続いており、その間隙を縫ってウェールズ辺境の諸侯領に侵攻し領土を拡大し、レスター伯シモン・ド・モンフォールと同盟を結んでイングランド王と対抗した。1265年にシモン・ド・モンフォールが政権を握ると有利な条件で講和し、ウェールズ大公を承認された。

アレクシオス3世アンゲロス(1156~1211)

暴政から追放へ アレクシオス3世は兄以上に無能な皇帝で、それに暴君・暗愚を加えてもいい人物だった。兄時代から対立関係にあった神聖ローマ皇帝・ハインリヒ6世の圧力に屈して膨大な献納金を要求されると、歴代皇帝の墓所を暴いて装飾品を尽く処分する暴挙を行なった。さらに兄が財政再建のために交易の利害から優遇していたヴェネツィア共和国との関係を冷却化し、かえって敵対していた諸都市を優遇するなどして対外的に多くの敵を作るなど、失政を重ねた。このため1203年7月、兄の息子で神聖ローマ帝国に亡命していたアレクシオス4世が、第4回十字軍を味方に引き込んで首都コンスタンティノープルに侵攻してくると、皇位を奪われて追放された。

ポール・ドラローシュ(1797~1856)

アルプスを越えるボナパルト

ニケフォロス2世フォカス(913~969)

皇帝即位 963年、皇帝ロマノス2世が死去した。後継者バシレイオスが幼年だったため、国政の実権をめぐって軍事権を握るニケフォロスとロマノス2世の下で行政の実権を握っていた宦官のヨセフ・ブリンガスとの間で争いが起きたが、首都コンスタンティノープルの市民はニケフォロスを支持し、首都での市街戦を制したニケフォロスが市民の歓呼に迎えられて入城した。そして、絶世の美女として知られたロマノスの皇后でバシレイオスとコンスタンティノスの母テオファノと結婚し、バシレイオスおよびコンスタンティノスを共同皇帝として、自らはマケドニア朝の正統皇室の子供達の義父という立場で皇帝ニケフォロス2世として即位した。

イサキオス2世アンゲロス(1156~1204)

失政から廃位へ アンドロニコス1世時代に始まっていたノルマン人の侵攻は防いだものの、1186年、支配下にあったブルガリアがペタルとアセン兄弟の下に独立を果たした第二次ブルガリア帝国を建国し、東ローマ帝国と敵対した。1188年には小アジア南西部フィラデルフィアの帝国貴族テオドロス・マンカファースが帝国を裏切って自ら皇帝を僭称するなど、対外的な混乱が相次いだ。このため、イサキオスは帝国の威信回復を目指して大規模な遠征を計画し、1193年までにマンカファースの反乱は鎮圧したものの、2度に渡るブルガリア遠征は失敗に終わった。1195年、3度目のブルガリア遠征を計画したが、反対した弟のアレクシオスによって廃位・幽閉されて皇位を奪われた。後にイサキオスは弟によって盲目にされた。

カリストゥス2世(1065~1124)

ヴォルムス協約 ギーの勢力がイタリアで台頭してくる中、ギーはハインリヒ5世と奉仕の問題について、交渉を行うことが決められた。ハインリヒ5世は、ドイツで皇帝の権威が低下した論争に終止符を打つことを計画していた。そして、3つの枢機卿の大使館が、ギーにより、ドイツへ送られた。1121年10月、ヴュルツブルクにて、叙任闘争の和解のための交渉が始まり、やがて、ドイツは休戦宣言を下し、教会における財産の利用が自由になり、反乱が修復されることに同意することとなった。これらのことはドイツを通してギーにも伝わり、条約についての会議に、助手としてホノリウス2世が派遣されて1122年9月23日に、ヴォルムス協約として知られている契約が締結した。この条約の結果、司教の選挙の皇帝の影響力が保たれることとなった。

ハインリヒ5世(1086~1125)

ポンテ・マンモロ協約 ハインリヒ5世は、父より続いていた叙任権闘争の解決を図り、1110年よりローマ遠征を決行した。そして翌1111年2月4日、ローマ教皇パスカリス2世と急進的な内容の合意を成立させた。その内容は、国王が完全に教会の叙任権を放棄することと、教会が世俗的な土地、財産および諸権利を返還することから成り立っていた。

イシュトヴァーン1世(969~1038)

王国の統治政策 イシュトヴァーンは、父ゲーザ以来続いていたハンガリーのキリスト教化を進展させた。エステルゴムとカロチャに大司教座を設置し、その他にも8つの司教座を置いた。修道院付属の学校が創設され、ラテン語の普及など文化の振興が進んだ。こうしたハンガリーの教会組織は、オットー1世以来その勢力を強める帝国から独立した地位にあった。また、彼は王国を県に分け、各県に地方長官を配置した。そして、王国統治の根幹となる法令をラテン語で制定、発布した。

サムイル(958~1014)

西ブルガリア帝国 しかし、地方長官の息子だったサムイルら4人の兄弟は、ヨハネス1世死後の東ローマの内紛に乗じてブルガリアで反乱を起こした。サムイルはボリス2世の弟ロマン1世の共同統治者として皇帝を称し、オフリダに首都をおいた。西ブルガリア帝国は瞬く間に勢力を拡大し、バルカン半島の西北部を制圧、さらにはギリシャの都市ラリサを占領した。

エイレーネー(752~803)

即位 780年、夫レオーン4世が死去したため、子のコンスタンティノス6世がわずか9歳で即位することとなった。コンスタンティノス5世を崇拝していたレオーンの異母弟たちが後ろ盾として機能するはずであったが、レオーン4世の義弟を旗印にクーデターが画策されたことなどから、エイレーネーが摂政に就任し、政治を執りしきった。

海北友松(1533~1615)

楼閣山水図

ジョセフ・グルー(1880~1965)

駐トルコ大使 1927年5月、グルーはトルコ大使に任命され、9月に就任した。この人事に関して、議会では外交官の自己昇進であるとの批判が起こった。ケロッグ長官は、職責と能力でグルーを推薦したと型通りの援護を行ったが、グルーは秘書官に宛てた書簡で、「私はコンスタンチノープルを望んだ訳ではない。私の印象では、政権は私が去ることを望んでいるのだ」と記した。

原マルティノ(1569~1629)

原マルティノの経歴 巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、キリシタン大名・大村純忠と知り合い、財政難に陥っていた日本の布教事業を立て直しと、次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣しようと考えた。そこでセミナリヨで学んでいたマルティノを含む4人の少年たちに白羽の矢が当てられ、マルティノは副使となった。

中浦ジュリアン(1568~1633)

帰国 1590年に日本に戻ってきた彼らは翌1591年、聚楽第で豊臣秀吉と謁見した。秀吉は彼らを気に入り、士官を勧めたが、みなそれを断った。その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた。1593年7月25日、他の3人とともにイエズス会に入会した。1601年には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移った。1608年に、伊東マンショ、原マルティノとともに司祭に叙階された。

千々石ミゲル(1569~1633)

遣欧と棄教 1582年、巡察師として日本を訪れたイエズス会司祭のアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、既にキリシタン大名であった有馬氏および大村氏に接近し、日本での布教活動を知らしめるためにカトリック教会の本山であるローマに使節を送りたいと提案した。ヴァリニャーノは原マルティノ、伊東マンショ、中浦ジュリアン、そして大村純忠の甥でもある千々石ミゲルをセミナリヨから選び、正使として共にヨーロッパへと渡った。東洋からの信徒として教皇グレゴリウス13世と謁見し、フェリペ2世から世俗当主からの歓迎を受けながら見聞を広めた。

閔妃(1851~1895)

乙未事変 日清戦争後、勝者である日本側の推す大院君の勢力が強くなり、後ろ盾となっていた清が大きな打撃を受けた閔妃の勢力は衰退していく。そのため閔妃は清への事大主義に代わり親露政策を更に推し進め、今度は7月6日にロシア軍の助力を得て権力奪還に成功する。この一件後の反閔妃派の不穏な動きを察し、反対勢力の武装解除等を行った。

武市瑞山(1829~1865)

土佐勤王党結成 1861年4月、半平太は江戸で諸藩の攘夷派と交際を持っていた大石弥太郎の招請に応じて剣術修行の名目で出立、7月に江戸に到着し、長州藩の木戸孝允や久坂玄瑞、高杉晋作、薩摩藩の樺山三円、水戸藩の岩間金平ら尊王攘夷派と交流する。半平太は特に久坂に心服し、久坂の師である吉田松陰の「草莽崛起」の思想に共鳴した。

片倉景綱(1557~1615)

片倉景綱の生涯 1585年の人取橋の戦いや1588年の郡山合戦、1589年の摺上原の戦い、1590年の小田原征伐、1593年の文禄・慶長の役、1600年の関ヶ原の戦いなど政宗の主要な戦争の大半に参加して、いずれも伊達氏の危難を救っている。小田原征伐に際しては豊臣秀吉方へ参陣するよう述べ、伊達政宗に小田原参陣を決意させた。

伊東マンショ(1569~1612)

天正遣欧少年使節 天正遣欧少年使節は1582年に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われたキリシタン版と呼ばれる。

楢崎龍(1841~1906)

寺田屋遭難と薩摩旅行 各地を奔走していた龍馬は、懇意にしていた伏見寺田屋のお登勢にお龍を預け、お龍は「お春」の変名でお登勢の娘分になった。この時期についてお龍は龍馬と2人で歩いていたら新選組と遭遇し、龍馬が慌てて隠れてしまった話や、桐野利秋に寝床を襲われた話などを、後年回顧している。また、新選組局長の近藤勇がお龍に懸想して、櫛や簪を買って来たりしたという話も伝えている。

橋本左内(1834~1859)

橋本左内の生涯 江戸幕府14代将軍を巡る将軍継嗣問題では、春嶽を助け徳川慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。また幕藩体制は維持した上で西欧の先進技術の導入を構想し、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者でもあった。

千葉周作(1793~1856)

北辰一刀流兵法 周作5歳の頃、父は周作だけ連れて家出をし、宮城県栗原郡荒谷村の斗瑩稲荷神社境内に居を構える。周作は、ここで北辰夢想流を学んだ。15,6歳の時に、父と共に松戸に移り、中西派一刀流の浅利義信に入門した。その後、一刀流中西道場に入門、中西子正、寺田宗有などの指南を受けて腕を磨き、一時は浅利義信の婿となって後を継いだ。後に組太刀の改変を考え、浅利義信の立場を重んじ、妻を連れて独立して、北辰夢想流と中西派一刀流を合法して、北辰一刀流を創始した。合法を示す物証として、北辰夢想流免状の中にある和歌が、初期の北辰一刀流免状の中に記されている事が確認されており、その影響力を伺い知ることができる。

横井小楠(1809~1869)

開塾・福井藩出仕 1855年5月、農村の沼山津に転居し、自宅を「四時軒」と名づけ、自身の号も地名にちなんで「沼山」とする。坂本龍馬、井上毅、由利公正、元田永孚など、明治維新の立役者や後の明治新政府の中枢の多くが後にここを訪問している。

山脇東洋(1706~1762)

蔵志