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阿部正外(1828~1887)

白河藩主時代 1865年、発言権を強めていた朝廷から14代将軍徳川家茂の上洛と攘夷決行が要請されたため、京都の攘夷派公家・浪士らの牽制として、阿部と本庄宗秀は2月5日に兵4000を率いて上洛し、22日に参内し朝廷との交渉にあたる。この上洛は軍事力を背景に朝廷を牽制、一会桑政権の解体を目論んだとされるが、朝廷の反感を買い、逆に関白二条斉敬に家茂が上洛しないことを叱責され、交渉後の24日に朝廷側の要請を一旦江戸に戻って家茂に仕えた。4月に上洛反対派の老中稲葉正邦・諏訪忠誠・牧野忠恭を同僚の松前崇広・水野忠精や大老酒井忠績と結託して失脚させ、5月16日の家茂3度目の上洛に随行、派兵を命じた白河藩兵も約1200人が陸路・海路に分かれて大坂城に集結した。

セザール・リッツ(1850~1918)

名声の確立 1877年、セザールはモンテカルロのグランドホテルの支配人になると、1年で収益を倍にするなど敏腕を振るった。しかし、リビエラにコレラが蔓延し、客足はすっかり遠のいてしまった。このことが影響し、以降、セザールは偏執狂的と言って良いほど衛生面に厳しくなった。自身も多い時は1日に4回もスーツを着替えるほどだったという。

オルダス・ハクスリー(1894~1963)

すばらしい新世界 西暦2049年に「九年戦争」と呼ばれる最終戦争が勃発し、その戦争が終結した後、全世界から暴力をなくすため、安定至上主義の世界が形成された。その過程で文化人は絶滅し、それ以前の歴史や宗教は抹殺され、世界統制官と呼ばれる10人の統治者による『世界統制官評議会』によって支配されている。この世界では、大量生産・大量消費が是とされており、キリスト教の神やイエス・キリストに代わって、T型フォードの大量生産で名を馳せた自動車王フォードが神として崇められている。そのため胸で十字を切るかわりにT字を切り、西暦に代わってT型フォードが発売された1908年を元年とした「フォード紀元」が採用されている。

エイブラハム・ダービー2世(1711~1763)

ダービー父子~子、ダービー2世~ その子のダービーは、父が死んだとは幼く、家業は義兄が継いでいたが、19歳で経営に加わり、親子二代で製鉄業の事業拡大に努めた。彼のもとでコークス製鉄法は1753年に完成し、1750年ごろ蒸気機関を利用して送風して高炉をつねに高温を保つことに成功し、銑鉄製造技術を飛躍的に発展させ、親子二代の製鉄所のあったシュロップシャー州のコールブルックデールは、現在でもイギリス製鉄業の聖地として存在しており、1779年に作られた世界最初の鉄橋が現存し、ダービー親子記念館も開設されている。

エイブラハム・ダービー1世(1678~1717)

ダービー父子~父、ダービー1世~ 父のダービーはブルストルで鋳物製造を行っていたが、砂型鋳物製造の特許を取り、事業を安定させ、1709年に石炭をコークス化して燃料として用い、鉄鉱石を熔解する高炉を成功させた。コークスは石炭を蒸し焼きにしてつくり、香炉の中で鉄鉱石と一緒に入れて燃やすと、不純物を除去することができる。また高炉はつねに高温を保たなければならないが、そのために従来は「ふいご」が使われていたがダービーは送風シリンダーを考案し、その問題も解決した。こうして本格的な製鉄業を興し、鍋などの生活用具からニューコメンの蒸気機関用の部品まで製造し、事業を成功させた。

カール・カウツキー(1854~1938)

主な業績~マルクス主義の法王~ 生前のマルクス、エンゲルスと直接意見交換する機会を持つばかりか、エンゲルスの死後にはマルクスの遺稿の整理・編集の仕事を引き継ぎ、『経済学批判への序説』、『剰余価値学説史』、『資本論・民衆版』を編集・刊行した。また、ベーベルやベルンシュタインなどと綱領策定に関わったことから、マルクス主義理論の正統的な後継者の地位を確立。自ら編集主幹を務めた「Die Neue Zeit」を足場として、社会主義の最も重要で影響力のある理論家の一人となりマルクス主義の法王と渾名された。

セバスチャン・カボット(1474~1557)

新しい土地への冒険商人会社 しかし、父子ともども庇護を受けたヘンリー7世の死後、後を継いだヘンリー8世が出資に消極的であったためにイギリスでの活動を諦め、1513年に英国王の使節として赴いたスペインにそのまま移住。宮廷に仕えて主席水先案内人の地位を得る。1526年から翌年にかけては南アメリカのラプラタ川流域も探検したが、成果を挙げられずに帰国したためカルロス1世の怒りを買って投獄され、次いでアフリカへと追放された。1553年に赦免された後はイギリスへ戻り、「新しい土地への冒険商人会社」といった会社の総支配人や製図業者として北極海を通したロシア貿易航路探検隊や北東航路探検隊を組織し晩年を過ごした。

ジョン・カボット(1450~1498)

大航海時代~ヨーロッパ北部諸国による探検~ 後発海運国の最初の探検は、イタリア人ジョン・カボットを雇ったイギリスによる北米探検であり、イギリス・フランス・オランダによる一連の北米探検のはじまりとなった。スペインは、より多くの天然資源の見つかる中央アメリカおよび南アメリカの探検に人的資源を集中させていたため、北アメリカの探検に注いだ努力は限られていた。1525年には、フランスによって派遣されたイタリア人ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノが現在のアメリカ合衆国東海岸を探検しており、記録に残る最初に北米東海岸を探検したヨーロッパ人となった。フランス人ジャック・カルティエは1534年にカナダへの最初の航海を行った。南米航路では、1522年のマゼラン艦隊の世界初の世界一周でフィリピンが発見され、1580年のフランシス・ドレークの2番目の世界一周ではホーン岬やドレーク海峡が発見された。

ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ(1485~1528)

伝記 1524年、フランス王フランソワ1世が北アメリカを貫き太平洋やアジアへ出る航路を探るために、ヴェラッツァーノを派遣してフロリダとニューファンドランドの間の地域を探検させた。ヴェラッツァーノは、その航海記録によれば、3月1日ころケープ・フェア近くに上陸した。初めのうちは現在のサウスカロライナ州海岸に沿って南に下り、転じて北へ向かった。現在のノースカロライナ州アウターバンクスに沿って航海していると、細い帯状の陸があり、その向こうに大洋が開けているように考えた。実際にはパムリコ湾とアルベマール湾の入江に過ぎなかった。この勘違いにより、1527年のヴィスコンテ・マッジョーロや1529年のヴェラッツァーノの弟ジロラーモ・ダ・ヴェラッツァーノが作成した地図では、北アメリカが「ヴェラッツァーノ海」によって2つに分かれており、その2つが東海岸にある細い陸橋で繋がれているように描かれた。この誤りが訂正されるまでにおよそ1世紀を要した。

ショタ・ルスタヴェリ(1172~1216)

豹皮の騎士 アラブ王ロステワンの家臣アフタンディルが、旅先で出会ったインドの王子タリエルがインドの王女ネスタン・ダレジャンを捜し求めるのを助け、自身もアラブの王女ティナティンと結ばれるまでを描いた物語。現在知られているもっとも古い写本は16世紀のものである。1712年にトビリシで王ワフタング6世によって初めて印刷された。これまで、日本語を含む数多くの外国語に翻訳されている。

アルマウェル・ハンセン(1841~1912)

ハンセン病 病名は、1873年にらい菌を発見したノルウェーの医師、アルマウェル・ハンセンに由来する。かつての日本では「癩」、「癩病」、「らい病」とも呼ばれていたが、それらを差別的に感じる人も多く、歴史的な文脈以外での使用は避けられるのが一般的である。その理由は、「医療や病気への理解が乏しい時代に、その外見や感染への恐怖心などから、患者への過剰な差別が生じた時に使われた呼称である」ためで、それに関連する映画なども作成されている。

アブー・ヌワース(757~810)

ハールーン・ラシードのころ おそらくはワーリバに連れられて、アブー・ヌワースは建設されたばかりのアッバース朝の首都バグダードに行き、ハールーン・ラシードに、その徳を讃えるマディーフを献上したところ、気に入られ、お目通りが許された。そのとき、バルマク家出身の宮廷詩人アバーン・ブン・アブドゥルハミード・ラーヒキーと仲良くなり、バルマク家にも出入りするようになった。もっとも、このバルマク家とのつながりは、ラーヒキーが自分のメセナ、ハールーン・ラシードから、潜在的なライバル、アブー・ヌワースを引き離しておこうとする打算の産物だった。

ハンス・スローン(1660~1753)

チョコレート飲料 スローンはジャマイカでココアと出会った。原住民はそれを水と混ぜて飲んでいたが、スローンはまずくて飲めたものではないと記している。しかし、彼はそれを牛乳と混ぜると飲みやすいことを発見した。イングランドに戻ると、彼はチョコレートミルク飲料のレシピを広めた。当初チョコレート飲料は薬局で薬として売られていたが、19世紀にはジョージ・キャドバリーが缶入りチョコレートミルク飲料を発売するようになった。

ジョン・フラムスティード(1646~1719)

天球図譜 フラムスティード天球図譜は、恒星につけられる番号が独特である。星座の西の端から1から順に番号をつけるというもので、この方式はフラムスティード名と呼ばれ現在も使われている。たとえば、オリオン座α星は、フラムスティード記号ではオリオン座58番星となる。フラムスティード天球図譜では、星座の形はすべて地球から見える形で描かれた。それまでの天球図は、天球の外側から見える形で書くのが通常であった。

アントワーヌ・ガラン(1646~1715)

千夜一夜物語 昔々、サーサーン朝にシャフリヤールという王がいた。王はインドと中国も治めていた。ある時、王は、妻の不貞を知り、妻と相手の奴隷たちの首をはねて殺した。女性不信となった王は、街の生娘を宮殿に呼び一夜を過ごしては、翌朝にはその首をはねた。こうして街から次々と若い女性がいなくなっていた。王の側近の大臣は困り果てたが、その大臣の娘シェヘラザードが名乗り出て、これを止めるため、王の元に嫁ぎ妻となった。

吉川広嘉(1621~1679)

錦帯橋~創建時~ 3代領主の広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手する。橋脚を無くすことで流失を避けられるとのアイディアのもと、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、橋脚がない跳ね橋である猿橋の調査を命じた。しかし、川幅30メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は200メートルもあるため、同様の刎橋とするのは困難であった。広嘉は、ある日かき餅を焼いていたところ、弓なりに反ったかき餅を見て橋の形のヒントを得たという。また、明の帰化僧である独立性易から、杭州の西湖には島づたいに架けられた6連のアーチがあることを知り、これをもとに、連続したアーチ橋という基本構想に至ったともいわれている。アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで、洪水に耐えられるというのである。

吉川経幹(1829~1867)

幕末の動乱 岩国領の領主は初代領主・吉川広家以来、本家の長州藩毛利家とは疎遠な関係にあったが、経幹はその融和に努めており、幕末の動乱の中で懸命に本家を輔け、1864年の第一次長州征伐では幕府との間で仲介役として奔走する。1866年の第二次長州征伐でも芸州口の戦いで功績を挙げ、幕府軍を撃退することに貢献した。

東久世通禧(1834~1912)

ガルトネル開墾条約事件 1869年7月8日に明治新政府により蝦夷地及び樺太の開拓を掌る開拓使が設置された。9月には蝦夷地は「北海道」に、箱館は「函館」にそれぞれ改称され、旧箱館府は、「開拓使出張所」と改称され本格業務も開始された。その中で、開拓使は本件を問題視し、東京の中央政府にもこの開墾条約の存在が知らされた。この契約が定められた居留地外の案件であることや、この土地を足掛かりに蝦夷地が植民地化されるおそれもあることから、外務省は11月に開拓使へガルトネル条約の契約を破棄するように伝えた。その後、開拓長官となった東久世通禧とガルトネルとの厳しい交渉がおこなわれた結果、1870年11月に62,500両の賠償金を支払うことで契約を解消した。取り戻した土地には同月に開拓使により七重開墾場が設けられたが、その本格的な活用1873年以降のこととなる。

ヤックス・スペックス(1585~1652)

1609年平戸オランダ商館の設立 家康は江戸に近い浦賀での交易を期待していたようだが、船上会議において、平戸に1軒の家を借り、オランダ商館を設立することが決定された。当時太平洋側の航路は十分開拓されておらず、またスペイン・ポルトガルの交易地である長崎に近く情報収集に便利であるということがその理由であった。スペックスは初代の商館長に任命された。スペックス含め6人が平戸に残ることとなった。スペックスはウィリアム・アダムスの協力を得ることができ、1613年まで商館長を勤めた。1610年、スペックスは朝鮮にも船を派遣している。

藤原真楯(715~766)

藤原真楯の経歴 756年の聖武上皇の崩御後まもなく、兄・永手が非参議ら一躍権中納言に任ぜられ、八束は官途で先を越される。しかしながら、758年の唐風への官名改称に賛同、760年には唐風名「真楯」の̪賜与を受ける等、藤原仲麻呂政権下で仲麻呂の施策に協力姿勢を見せたほか、その官歴を踏まえると永手は仲麻呂政権の中枢にあったと見られる。760年従三位、762年中納言と順調に昇進を続けた。またこの間、758年に来朝した第4回渤海使の楊承慶が帰国する際に、八束は餞別の宴を開催し、楊承慶はこれに感動し賞賛している。

ヨハネス1世(470~526)

選任の背景 西ローマ帝国滅亡後、その地の支配者は東ゴート族のテオドリックとなる。彼はアリウス派に属していたが、東ローマ帝国のユスティヌス1世がアリウス派の弾圧を始めると、両派の和解のため助祭ヨハネス1世を教皇位につけて使節団と共に東ローマ帝国に派遣した。

ワリード1世(674~715)

ウマイヤ・モスク~ウマイヤ・モスクの建設~ 706年にムアーウィヤから数えて6代目のウマイヤ朝カリフ、ワリード1世は、ダマスクスにモスクを建てる計画を立てた。ここでいう「モスク」は屋根のあるイスラーム教の礼拝所のことである。簡易な礼拝所ムサッラーなら、洗礼者ヨハネ聖堂の中庭の南東部に設けられてはいた。ワリードは自ら工事を監督し、カテドラルのほとんどを一旦壊すことを指示した。新しく建設されたモスクは、カテドラルのレイアウトに連関しないもになった。キリスト教会であったときは矩形で仕切られた聖域内の中心にカテドラルが設けられていたのに対し、モスクへの改築後の主たる礼拝空間は、南壁に面する位置に設けられることになった。キリスト教会のアーケードとそれを支える柱は、一旦取り外された後に再配置された。改築後の建物は、金曜日に市民が集会を開くための公共の施設となるように設計された。キリスト教徒は移転に反対したため、ワリードが没した直後の西暦715年、次代カリフのスライマーン・ブン・アブドゥルマリクの時代に完成した。

リュシアス(前445~前380)

弁論第12番~エラストテネス告発~ 現存するリュシアスの作品は、ほとんどが民主政復活後の紀元前403年以降に書かれたものである。リュシアス自身は内戦で民主派を支援したが、寡頭派の人々の弁論作成も引き受けている。リュシアス自身が演説をした弁論は『弁論第12番』だけであり、これは三十人僭主の一人であるエラストテネスを攻撃した内容である。リュシアスの弁論術はアテナイで高く評価された。そのため、プラトンの『国家』と『パイドロス』にもリュシアスが言及されている。

ヘルモクラテス(前450~前407)

アテナイのシチリア遠征と祖国防衛 紀元前415年、アテナイはシチリアにおけるアテナイ同盟国であるエゲスタとレオンティノイを救うため、アルキビアデス、ニキアス、ラマコスの三名を総指揮官とする大軍をシケリアへ派遣した。アテナイ派兵の噂がシケリアに届くと、ヘルモクラテスは防衛体制の拡充を訴えた。アテナイ軍がイタリア南端のレギオンに集結すると、ヘルモクラテスはシケリアの諸都市に共闘を訴えた。アテナイ軍が武力を背景にシケリアのカタネを拠点とした直後、ヘルメス神の石柱像の破壊事件の首謀者の疑いをかけられたアルキビアデスは、アテナイ本国への送還命令を受け、スパルタに亡命した。秋になってニキアスの率いるアテナイ軍とシュラクサイ軍は、シュラクサイ近郊のオリュンペイオンで最初の戦闘を交え、シュラクサイ軍は敗走した。ヘルモクラテスがシュラクサイ軍の指揮系統の効率化を演説で訴えたところ、ヘラクレイデス、シカノスらとともにシュラクサイの最高司令官に選ばれ、全権を任された。アテナイ軍がメッセネで冬を越している間、シュラクサイは町を取り囲む城壁を建築し、ヘルモクラテスはシケリアの都市カマリナへ出向いて中立を約束させた。

パウサニアス(不明~470)

プラタイアの戦い~背景~ 無論、スパルタもアテナイからの救援要請を受けていたが、当時スパルタの指揮権を握っていた王族パウサニアスはアテナイに向けて援軍を送るか迷っていた。スパルタ国内の膨大な奴隷たちがペルシア戦争に乗じて不穏な気配を漂わせていたため、遠征中の奴隷反乱を恐れたのである。パウサニアスは神託を伺い、神々にその決定を委ねることにした。その時の神託は「レオニダスの仇を討て」というものであった。これを聞いたパウサニアスは援軍を送ることを決意し、指揮下のスパルタ軍と共にアテナイの援護へと向かった。

アンワールッディーン・ハーン(1672~1749)

第一次カーナティック戦争の勃発と関与 当時、インドの覇権をめぐって争っていたマドラスを拠点としたイギリスとポンディシェリーを拠点としたフランスの争いが持ち込まれ、同年に第一次カーナティック戦争が勃発した。その際、アンワールッディーン・ハーンは両軍に陸上における戦いを禁じた。イギリスとフランスは南インドの地で4年にわたり争い、フランスはジョゼフ・フランソワ・デュプレクスのもと優勢に戦い、1746年9月21日にはマドラスの戦いでマドラスを占領した。

植木等(1927~2007)

黄金時代 映画に関しては、最初はスーダラ節の大ヒットを受けて大映で2本の映画が作られたが、こちらでの植木やクレージーキャッツは主役の川崎敬三や川口浩に花を添える脇役、ゲスト出演であり、植木に主役を演じさせたいと熱望する渡辺プロダクション社長の渡辺晋が自らの足で企画を持ち回った結果、東宝からゴー・サインが出される。そして作られた2部作『ニッポン無責任時代』『ニッポン無責任野郎』は、「無責任」という流行語とともに当時社会現象となった。

上村彦之丞(1840~1916)

日露戦争~常陸丸事件~ 開戦当初、第二艦隊司令長官として補給航路防衛の任に当たっていたが、日本海特有の濃霧やウラジオストク艦隊側の神出鬼没な攻撃に苦しめられた。常陸丸、佐渡丸が相次いで撃沈される常陸丸事件が発生すると、防衛責任者として糾弾された。議会では野党代議士から「濃霧濃霧と弁解しているが、濃霧は逆さに読むと無能なり、上村は無能である」と批判され、また民衆からは「露探提督」と誹謗中傷されたうえ、自宅に投石された。この事態に部下たちは憤慨したが、上村は「家の女房は度胸が据わっているから大丈夫」と笑って取り合わなかったといわれる。上村の妻は毎日寺参りをして敵艦隊発見を祈願していた。

ルキウス・リキニウス・ルクッルス(前118~前56)

美食家 引退後のルクッルスは、共和政時代随一と言われた豪邸を各所に建て、中近東から持ち帰った膨大な美術品や書物を並べた。引退後の彼の暮らしの贅沢さは有名で、プルタルコスの「ルクッルス伝」によれば「トーガを纏ったクセルクセス」と呼ばれた。また、ルクッルスは、ヨーロッパでは食通の代名詞とされる。現在でも豪華な食事を「ルクッルス式」という。ルクッルスは良質な材料を確保するため、海水を引いた池で魚を育て、鳥や牛を飼育し、野菜や果物やチーズを自家の農園で作らせた。また、食事をとる部屋の装飾、食事中の音楽や詩文、交わされる会話、これらにふさわしい客の選別などにこだわったと言われる。

ウラジーミル・ココツェフ(1853~1943)

ヴィッテとの関係 ヴィッテは彼の回想録の中で、ココツェフを大蔵省改革の良き片腕として紹介している。しかし、ヴィッテは日露戦争の影響による政情不安から金融政策を巡りココツェフと対立し、国家評議会で数度に渡り議論を交わしている。この対立は、首相に復帰することを目指していたヴィッテにとって、長年政治的同志として関わってきたココツェフが首相候補のライバルとなっていたためと言われている。政治的に対立することもあったが、ココツェフとヴィッテの関係は続き、ココツェフは1915年に死去する直前のヴィッテを見舞いに訪れている。

ロベール2世(972~1031)

敬虔王 ロベール2世は自身の結婚問題で一時ローマ教皇グレゴリウス5世によって破門されたことがあるにも拘わらず、「敬虔王」の名が示すとおり極めて信心深い王だった。彼は宮殿の一角に礼拝所を作り、王服をまとって朝課と晩課を行ったほか、異教徒に対して厳しい政策をとった。当時のフランス王国は極めて狭い範囲しか統治していなかった。ロベール2世は王領を拡大すべく継承者不在となった諸侯領を併合しようとしたが、これは対立する継承権者との戦いを招いた。1003年のブルゴーニュ公領への出兵は強い抵抗を受け、教会の支援を得てこの地を手に入れたのは1016年だった。

バイラム・ハーン(1501~1561)

フマーユーン、アクバルの重臣として 1555年7月にフマーユーンがデリーに戻るまで、バイラム・ハーンはその帰還までに多大な尽力を惜しまず、スール朝の軍勢と戦い、バイラム・ハーンはシルヒンドの戦いで功を上げた。6月にフマーユーンが皇子アクバルを後継者に決めた際、ムヌイム・ハーンをその後見人にしていたが、バイラム・ハーンがこの戦功で交代する形で後見人となり、ムヌイム・ハーンはカーブルにいた別の皇子ミールザー・ハキームの後見人となった。

イヴァン・スラツィミル(1324~1397)

ハンガリーによるヴィディン占領 「ブルガリア王」を自称するハンガリー王ラヨシュ1世がヴィディンに臣従を求めたとき、イヴァン・スラツィミルはイヴァン・アレクサンダルの暗黙の了解を得て、1365年までラヨシュ1世の宗主権を承認した。しかし、1365年5月にハンガリー軍はブルガリアに進軍し、短期の包囲を追えて6月2日にヴィディンを占領した。ヴィディンの陥落から3か月後、ヴィディンを除いたイヴァン・スラツィミルの領地もハンガリー軍の占領下に置かれる。捕らえられたイヴァン・スラツィミルと彼の家族は現在のクロアチアに位置するHumnik城に監禁され、ヴィディン帝国の領地はハンガリー王国が任命したバンによって直接統治を受けた。イヴァン・スラツィミルは4年間ハンガリーの保護下で暮らし、彼と家族はカトリックへの改宗を余儀なくされ、ハンガリー王国はフランシスコ会の宣教師をヴィディン帝国に派遣した。フランシスコ会の宣教師によって200,000人以上の住民、あるいは帝国の人口の3分の1がカトリックに改宗したことをハンガリー側の史料は誇らしげに記しているが、この活動はブルガリア人の間に大きな不満をもたらし、最終的に布教は失敗に終わる。

人見絹枝(1907~1931)

陸上競技選手 1928年アムステルダムオリンピックに日本女子選手として初出場し、女子の個人種目全てにエントリーした。7月30日、100m予選は1着で通過したものの、同日準決勝は12秒8で4着となり決勝進出を逃した。8月1日、800m予選を2分26秒2で通過する。8月2日、800m決勝は2分17秒6でドイツのリナ・ラトケに次ぐ2着となり、日本人女性初のオリンピックメダリストとなった。8月5日、走高跳の予選に出場するも1m40で予選落ちとなった。

ウィリアム・モリス(1834~1896)

モリスの活動 ヴィクトリア朝のイギリスでは産業革命の成果により工場で大量生産された商品があふれるようになった。反面、かつての職人はプロレタリアートになり、労働の喜びや手仕事の美しさも失われてしまった。モリスは中世に憧れて、モリス商会を設立し、インテリア製品や美しい書籍を作り出した。生活と芸術を一致させようとするモリスのデザイン思想とその実践は各国に大きな影響を与え、20世紀のモダンデザインの源流にもなったといわれる。

ジョチ(1177~1225)

ジョチ・ウルス~成立期~ 1224年頃、ジョチが父に先立って死去した後、次男のバトゥがジョチ家の家長となり、ジョチがチンギスに命じられていた、南シベリアから黒海北岸に至る諸地方の征服の任を受け継いだ。1235年、クリルタイでの決定に従って、第2代皇帝オゴデイ・カアンはバトゥを総司令官とするヨーロッパ遠征軍を派遣し、バトゥはヴォルガ中流域のブルガール、草原地帯のキプチャクなどのテュルク系、フィン・ウゴル系の諸民族、北カフカスまで征服して支配下に置き、ルーシ、ポーランド、ハンガリーまで進撃した。1242年、バトゥはオゴデイの訃報を受けて引き返し、オゴデイの後継が決まらず紛糾するのを見て、ヴォルガ川下流に留まることを決め、サライを都とするとともに、周辺の草原地帯を諸兄弟に分封して自立政権を築いた。

ジャン・ジェルソン(1363~1429)

コンスタンツ公会議へ 最終的に事態は、公会議の強力なイニシアティブによってしか解決できないところにまで追い込まれていた。というのも新たに教皇ヨハネス23世を選出したピサ教会会議が教皇対立の解決どころか、第3の教皇をたてるという最悪の結果を引き起こしてしまったのである。ダイイはここにいたって公会議でも解決はできないと失望したが、ジェルソンはあきらめなかった。彼はまたもう1つの理由で公会議の実施を熱望した。それは同じころに起こったオルレアン公ルイの暗殺を合法的なものとして支持した神学者ジャン・プティに対するパリ大学とパリ司教の弾劾の実効性を公会議で確認しようとしたからである。

ファーラービー(870~950)

第二の師 彼は特にアリストテレスの研究に力を注ぎ、その研究書は後の世にも多くの影響を与えた。彼は、イスラームの哲学の概念を導入させる事により、イスラーム理解をより深められると考えていた。そのためには、イスラームでは真理を獲得することこそが真の目的で、人はこれにより真の幸福を得られると説いた。彼は論理学にも優れており、彼の哲学は後のヨーロッパで大いに論じられた諸問題提起の下地を作った。また、スーフィズムの信奉者でもあった。

モーシェ・ベン=マイモーン(1135~1204)

ユダヤ神学、哲学~迷える人々の為の導き~ また、哲学書『迷える人々の為の導き』は、信仰を失った哲学者たちに呼びかけた著作で、その目的は、アリストテレスとユダヤ教神学とを宥和させることにあった。トーラーの聖句に隠された意味についてアリストテレス派と、ファーラービーやイブン・スィーナーらアラブ哲学者の見解を用いて読み解こうと試み、ユダヤ教神学を合理的に解釈した。アリストテレスは月下の世界に関する権威だが、啓示というものは天上の世界に関する権威である、と彼はいう。しかし神に関する知識において哲学と啓示とは合一するのであり、真理の追求は宗教的な義務であるという。イスラーム世界では物議をかもし、保守的な思想を持つユダヤ人の一派はモーシェの哲学書を焼却した。その思想はあまりにも合理的すぎると批判もされたが、聖書の哲学的解釈の先駆けとして後世に影響を与えた。

オタカル1世(1155~1230)

シチリアの金印勅書 1212年、フリードリヒ2世はシチリアの金印勅書をボヘミアに対して発布し、以下のことを取り決めた。この文書はボヘミア王位がオタカル1世とその子孫に属することを保証していた。ボヘミア王位はもはや皇帝の任命によって決められることはなく、ボヘミア国境付近で開催される帝国議会に出席する義務を負うのみである。神聖ローマ帝国には従属するものの、ボヘミア王は帝国内の指導的な選挙侯となり、今後即位する全ての皇帝の戴冠のためローマへの遠征旅行には、護衛のための300人の騎士を提供する。

アドルフ(1250~1298)

ゲルハイムの戦い しかし上述の経緯から傀儡に近い立場であったことを良しとせず、アドルフは王権の強化を目指して領土拡大を積極的に推進した。これは王権の強化を嫌うドイツ諸侯からの反発を招いた。1298年6月23日マインツにおいて、アドルフは選帝侯らにより廃位され、同年7月2日にゲルハイムの戦いにおいて、宿敵アルブレヒト1世と戦って敗れ、戦死した。シュパイアー大聖堂に葬られた。

忌野清志郎(1951~2009)

RCサクセション 忌野清志郎をリーダーとし、「King of Rock」「King of Live」の異名をとるなど「日本語ロック」の成立や、現在日本で普通に見られるロックコンサート、ライブパフォーマンスのスタイルの確立に大きな影響を及ぼした。実際、RCサクセションに影響を受けたと公言するミュージシャンは非常に多い。

田部井淳子(1939~2016)

エベレストの女性初登頂 エベレスト登山の費用は当時、総額4300万円。準備期間は実質4年。荷物を軽くするために乾燥食品を持参した。高所訓練中、隊長の久野英子が一時帰国、副隊長だった田部井に重圧がかかった。テントを飲み込んだ雪崩にあったにもかかわらず生還、下山をせずアタックすることを主張し計画は続行された。企業からの献金を使わないという方針転換で行われたので予算が減少、当初2回アタックの予定が1回に変更になった。ヒラリー・ステップを見たときに、髪の毛が逆立ったと表現した。

アン・ボニー(1700~1782)

海賊生活 ラカムが襲った船の乗組員で新たに海賊として加わった中に、美しい顔立ちの少年が居た。アンはその少年が気に入り、誘惑しようとするが、実にそれは男装して船に乗り込んでいたメアリ・リードであった。2人の関係を男女関係として問題視したラカムに説明を求められたが、ラカムは説得されて、他の船員には女であるとの事実は公開せずに、そのまま共に海賊行為を続けることとなった。

トマ=アレクサンドル・デュマ(1762~1806)

軍人として 国王軍から革命軍へ転じ、数々の武勲をあげ、陸軍中将にまで昇進する。しかし、ナポレオン・ボナパルトと共にエジプト遠征に従軍していた際、エジプト遠征を「ナポレオンの個人的野心に基づくもの」と批判したため、ナポレオンとの関係が悪化し、フランスに帰国することとなった。しかし、乗った船が嵐にあって、ナポリ王国まで流され、ナポリ王国で、彼は現地の軍隊に捕虜として捕らえられ、2年間にわたって監禁された。その間、食事に砒素が混入されたため、1801年に解放されたときには心身ともに衰弱していたという。

ジェイムズ・ブルース(1811~1863)

アロー戦争 天津条約まで エルギン伯はフランスに渡って英仏軍共同での中国出兵を確認した後、5月9日に5000人の遠征軍とともに中国へ出発した。しかしその間にインドでセポイの反乱が発生したため、6月3日にエルギン伯がシンガポールに到着した際、インド総督チャールズ・カニングの要請で中国遠征軍の一部をカルカッタへ送ることになった。そのため7月2日に香港に到着した際にエルギン伯が率いる中国遠征軍は1500人規模まで縮小されていた。本国の外相第4代クラレンドン伯爵ジョージ・ヴィリアーズもインド危機の前には中国遠征など二義的な問題であるとして、当面武力行使は広東に限定して北京への進攻は見合わせるようエルギン伯爵への訓令を修正した。

マーティン・ヴァン・ビューレン(1782~1862)

初期の政治経歴 1832年に副大統領に指名され、ジャクソンが2期務めて引退すると前任のジャクソンに最も能力が近いということで、民主党の大統領候補として選出された。対抗する国民共和党はイギリスの同名の政党にあやかって「ホイッグ党」と命名したが、ウィリアム・ハリソン、ダニエル・ウェブスター、ヒュー・ホワイトと有力候補を乱立させたのが失敗となり、ヴァン・ビューレンが選挙人170を得て大統領に当選した。

ヴワディスワフ4世(1595~1648)

無原罪の聖母マリア騎士団 ヴワディスワフ4世の治世は本格的にシュラフタによって王権が制限され、軍事行動などは度々阻止された。国王は王権の政治的権限を強化すべくマグナートの一部と結んで、「無原罪の聖母マリア騎士団」創設を始めとする王権強化政策を試みたが、シュラフタ達が国王の絶対主義志向に拒絶反応を示したことで完全な失敗に終わった。一方でポーランド・リトアニア共和国の誇った議会制民主主義は国王の図った王権強化による絶対主義と対抗するもう一つの近代化手段となりえるはずであったが、セイム議員の自由拒否権の行使あるいはその行使をめぐる取引によってその健全な発展が妨げられた。

クロード=アドリアン・エルヴェシウス(1715~1771)

エルヴェシウスの思想 社会道徳の分野では、公共にとっての利益が善の基準であると考え、ベンサムの功利主義やウィリアム・ゴドウィンに影響を与えている。徳はエルヴェシウスにとって、他者を考慮する政治的な感情・行動である。また、個人的利益を追求するように見える物理的感覚から公共の利益への志向は、「将来の予想や期待」「教育」によって道徳的感情を涵養することで形成しうるとエルヴェシウスは考えた。そこでエルヴェシウスは『人間論』で快楽論に基づきつつ名誉心を重視し、名誉心を媒介として、個人的欲望と公共福祉の調和を図る道徳論を主張した。

ヴィクター・ブルワー=リットン(1876~1947)

リットン調査団~調査団派遣の経緯~ 1931年、南満州鉄道が爆破される柳条湖事件が発生した。翌年、関東軍は清朝最後の皇帝溥儀を執政として満州国を建国した。同年3月、中華民国の提訴と日本の提案により連盟からリットン卿を団長とする調査団が派遣され、3カ月にわたり満州を調査、9月に報告書を提出した。