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モリス・ガラン(1871~1957)

自転車競技 1903年の第1回ツールでは全長2428km、6区間の行程を94時間33分14秒で走破。総合2位のリュシアン・ポティエに2時間49分21秒の差をつけ、ツール・ド・フランス初代優勝者となった。1904年の第2回ツールでも、ガランは当初総合1位でフィニッシュした。しかし、リュシアン・ポティエ、セザル・ガラン、イポリト・オクテュリエとともに、走破途中に列車を利用していたことが同年12月に発覚したため、ガランを含めて前記の4人の順位が剥奪され、加えて、ガランには2年間の出場停止処分が下された。

シルヴィア・プラス(1932~1963)

『ベル・ジャー』 プラスは『ベル・ジャー』が「わたしが過去から自分を解き放つために、書かなくてはならなかった自伝的習作」であると述べた。プラスは大学3年生のときにイェール大学の4年に在籍していたディック・ノートンという名前の学生とデートした。ノートンは『ベル・ジャー』の中ではバディーという登場人物のモデルとなった人物であり、結核をわずらい、ニューヨーク州のサラナック湖畔にあるサナトリウムで療養した。プラスはノートンを見舞いにサナトリウムを訪れたとき、ついでにスキーを楽しんだが、足の骨を折ってしまった。この事故の経験は『ベル・ジャー』の中の一エピソードとして生かされた。

五所平之助(1902~1981)

マダムと女房 劇作家の芝野新作は、脚本を書くために静かな環境を探すうちに画家と言い争いになる。そんな折、道でお風呂から出てきたのお客さんのマダムにぶつかってしまう。そのマダムは、新作と画家の言い争いを仲裁したのだった。後に芝野夫婦は田園調布に転居するが、新作は雑音に妨げられて仕事に集中できない。隣家のジャズの演奏がうるさいと、隣家に怒鳴り込む。しかし、先日言い争いを止めにきたマダムに魅せられてしまい、彼もジャズに入れ込んだ挙句、最後に演奏された曲『ブロードウェイ・メロディ』を口ずさみながら帰って来る始末。帰宅後、女房が怒っているのにも気が付かず脚本を書き始める。女房は新作に隣家のマダムについて質問した。女房はマダムに嫉妬していた。自分の部屋に行ってミシンを弄りながら新作にドレスを買ってもらおうとする。

加藤勘十(1892~1978)

火の玉勘十 1946年、戦後初の総選挙である第22回衆議院議員総選挙に立候補し夫婦で当選する。この選挙ではシヅエ夫人も全国最高得票で当選し政界のおしどり議員として知られるようになる。国会対策委員長に就任する。1948年芦田均内閣では労働大臣として入閣、野溝勝と共に党内左派として入閣したため「現実左派」と呼ばれた。労相として公務員の争議権禁止を「政令201号」として布告するなど、従来の立場と閣内とで板ばさみになる局面も出来したが、芦田内閣は昭和電工事件で倒れる。

有田八郎(1884~1965)

有田八郎の人物 戦前は「欧米協調派」に対する「アジア派」の外交官として知られ、1936年の広田内閣時代に何度も蒋介石の国民政府との防共協定を提案しており、近衛内閣時代に東亜新秩序の建設表明をした。日独伊三国同盟には最後まで反対したが戦後は公職追放。追放解除後は革新陣営に属し日本の再軍備に反対したことで有名である。

青野季吉(1890~1961)

百万人のそして唯一人の文学 純小説と通俗小説の限界が、戦後いよいよ曖昧になつて来た。これは日本に限つた現象ではないらしい。この現象は、いろいろな意味にとられるが、根本的には、純小説をしつかり支へてゐた個人主義、ないしは個人性が、それだけ崩れてきたのだとみられる。そしてそれだけ、小説がジャーナリスチックになり、ジャーナリズムに征服されたのだとみられる。昨年のことだが、わたしは妙な経験をした。一人の文学青年が原稿を見てくれと云つて玄関に置いていつた。

烏丸光広(1579~1638)

光広流 光広は寛永の三筆とほぼ同時期に活躍した書人で、その書は寛永の三筆とならび称される。ただし、光広の書はその後の人々が習うことがなかったため書流とはなり得えず、光悦流に含められることがほとんどである。しかし、筆跡研究家の渡部清はそのユニークな書に対し、著書『影印 日本の書流』の中で、あえて「光広流」の章を設けている。

紀友則(845~907)

古今和歌集 久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ

建春門院中納言(1157~不明)

たまきはる~写本~ 本書は写本がほとんど存在せず、長く知られることがなかった。わずかに現存する写本にも複数の者の注釈が書き込まれており、成立過程に未詳の点が多い。九州久留米藩の津慈氏をへて、同藩家老であった有馬守居の頃、有馬家の所蔵に帰したものと思われる。以後有馬家の血縁者によって伝えられた。1933年重要美術品に認定され、1936年、当時の国宝に指定された。1950年の文化財保護法施行にともない重要文化財となっている。第二次世界大戦時に当時の所有者であった有馬秀雄から金沢文庫に寄託され、1999年に同人の孫から神奈川県立金沢文庫に寄贈された。

山口瞳(1926~1995)

江分利満氏の優雅な生活 江分利満は、東西電機の宣伝部員で、典型的な日本のサラリーマン。大正15年生まれなので、数え年は昭和の元号と一致している戦中派である。そんな江分利が生きた昭和30年代の日常を、コミカルに描いている。連作短編の形をとっており、章立ては「しぶい結婚」「おもしろい?」「マンハント」「困ってしまう」「おふくろのうた」「ステレオがやってきた」「いろいろ有難う」「東と西」「カーテンの売れる街」「これからどうなる」「昭和の日本人」。

成瀬仁蔵(1858~1919)

日本女子大学校設立へ 第5代梅花女学校校長を務め、女子高等教育機関の設立に着手。成瀬はこの梅花女学校校長時代に日本初となる「球籠遊戯」をカリキュラムに採用、後に自らが創立した日本女子大学校でも「球籠遊戯」をカリキュラムに採用していることから、成瀬はバスケットボール紹介者のひとりと言われている。大阪市東区清水谷東之町で建設を進めたが、その後、広岡浅子の働きかけで三井財閥から東京・目白の地を寄贈され、1901年、日本女子大学校を創設した。

アン・ラドクリフ(1764~1823)

ユードルフォの秘密 1584年のフランス、ガスコーニュ地方、ガロンヌを舞台に話は始まる。母親の死後にエミリーと父親は地中海へ向けて旅行する。彼女はそこでヴァランコートという若い男性と知り合い恋に落ちる。その後父親は死亡、孤児となったエミリーはおばの所に預けられるが、恋仲にあった二人の仲を義理のおじモントーニ伯爵が無理矢理引き裂いて、エミリーをユードルフォ城に監禁してしまった。そのカラクリ屋敷で彼女は様々な奇怪現象に襲われる。その後に逃亡してかつての恋人と再会し、結婚する。因みにジェーン・オースティンはこの作品を参考に『ノーサンガー僧院』を書いた。

許仲琳(生没年不詳)

封神演義 人界は時に殷の紂王の治世。紂王は名君とされていたが、慢心から女媧廟の祭祀において「女媧は人間界のどの人間より美しい、この女媧が私のものであったらいいのに」という意味の詩を詠んだ。この「神」と「人」を混同した無礼な行為に女媧は怒り、千年生きた狐狸の精に紂王を陥れるよう命じた。狐狸精は、朝歌の後宮に入ることになっていた美女、冀州侯の娘妲己の魂魄を滅ぼして身体を手に入れ、紂王を籠絡しはじめた。これ以降紂王は、妲己に操られるまま次第に暴政を行うようになっていった。

石濤(1642~1707)

黄山八勝画冊

八大山人(1626~1705)

安晩帖

ロートレアモン伯爵(1846~1870)

マルドロールの歌 第一から第六の歌からなる作品。登場人物であるマルドロールを中心に繰り広げられる物語。しかしマルドロールに関する描写や物語の舞台となる場所など、常に変化し首尾一貫したものではない。またマルドロールは多くの場面において変身を繰り返す。フランスのノーベル賞作家ル・クレジオはこの点に注目し、評論を執筆している。マルドロールは物語の中で繰り返す残虐な行為の数々から悪の化身と言っても過言ではない。なお、第一の歌は出版事情から三つの版が存在する。

ジョセフ・マッカーシー(1908~1957)

失脚~上院譴責決議~ マッカーシーはその後も、アメリカ陸軍を追及する委員会において、コーンとともに陸軍内の「共産主義シンパ」の浸透を許したと、アメリカ軍の上層部を告発したが、6月9日に全米へ中継された公聴会では、マッカーシーの攻撃的かつ侮辱的な問責が目立ち、喚問された陸軍側弁護士のジョセフ・ウェルチから、逆に告発の内容の信憑性の低さを指摘された上に終いには、この様に叱責されるお粗末さだった。

フレドリク1世(1676~1751)

ハット党戦争 スウェーデンの国政は、有力貴族のメッソナ党とハッタナ党が交互に政権に就いた。初期はメッソナ党のアルヴィド・ホルンの指導のもと、大北方戦争後の国家復興に努め、国力をある程度回復する。やがてメッソナ党は親ロシア派ということで失脚し、ハッタナ党が政権を握る。ハッタナ党は親西欧派で、特にフランスとの結び付きが強く、1741年にフランスの支持のもとに対ロシア復讐戦に打って出たが無惨にも敗北、カレリア地方の一部を奪われた。それでもハッタナ党は国民の愛国心を高めさせ、政権を維持することに成功した。敗北にめげることもなく、ハッタナ党は国防と福祉に力を入れ、重商主義を取り、スウェーデンの国力回復に推進した。

耿精忠(1644~1682)

耿精忠の概要 耿精忠は粛親王豪格の娘と結婚し、和碩額駙に封じられた。王位継承後、耿精忠の側近は「天下分身火耳」の謡という讖緯があるとしたので、耿精忠は部下の将兵に変事が起きるのを待たせるようにした。1673年、尚可喜が平南王の継承を許されず藩が廃止され、遼東に帰還することになったので、耿精忠と呉三桂とともに清朝朝廷の態度を探るべく、藩の撤廃を具申したところ、康熙帝はそれを許可した。そのため、呉三桂と耿精忠はともに挙兵し、耿精忠は総統兵馬代将軍と自称し、辮髪をやめ、衣冠を変更した。福州において、閩折総督の范承謨をとその幕僚50余人を殺害、呉三桂とともに江西に進出し、鄭氏台湾の鄭経も沿岸部を攻撃したことから、一時的ではあるが反乱の勢いは盛んだった。

葛洪(283~343)

抱朴子 葛洪は、祖父が三国時代の呉の国において大臣にまで登り、父も地方長官についたという役人の家系に生まれた。葛洪の祖父のいとこの葛玄は呉の有名な道士で、左慈の弟子であった。葛洪は葛玄の弟子の鄭隠に学び、後にはまた鮑靚に師事した。『抱朴子』は葛洪が20歳をこえたころに書きはじめ、東晋の317年に完成した。

ベッソス(不明~前329)

ベッソスの来歴 しかしアレクサンドロスはダレイオス3世の死体を発見すると盛大な葬儀を執り行ってダレイオス3世を葬り、その仇を討つという名目によってベッソス追討の命令を出し、更に東へと進んだ。アレクサンドロスがヒンドゥークシュ山脈を越えてバクトリアに侵入すると、ベッソスは抵抗を諦めて逃亡し、スピタメネスやオクシュアルテスとともにオクサス川の船を焼き払ってナウタクへと逃れた。

ウァレンス(328~378)

ハドリアノポリスの戦い~直前の状況~ 378年春、ウァレンスはアンティオキアからドナウ川南岸に近いコンスタンティノポリスに向けて出立したが、途中軍を集めながら行軍したため、到着に5月末までかかった。コンスタンティノポリス滞在中、共同のローマ皇帝で帝国の西半分を任されていた甥のグラティアヌスから援軍に関する書簡が届いたが、ウァレンスは自分より戦功を遂げていた甥に対し負い目があったためこれを拒否した。この間、西ゴート族側も、渡河をしていなかった部族に招集をかけた上でトラキアから一路コンスタンティノポリスを目指し南下を始めた。迎え撃つ形のローマ軍もエグナティア街道を東進し、両軍の中間に当たるハドリアノポリスで戦端が開かれた。

マスウーディー(不明~956)

黄金の牧場と宝石の鉱山 本書の内容は当時のイスラーム圏に知られていた全世界の文化全般にわたり、近代的な学問分野の分け方で言うと「地理」と「歴史」に該当する。預言者時代からアッバース朝カリフ・ムティー・リッラーヒの時代に至るまでの歴史をアラビア語で記述した、中世バグダッドの歴史家マスウーディーによる著作。この書物の最初の版は947年に成立したとされているが、マスウーディーはその後も人生のほとんどの時間を使ってこの書物の加筆と編集に取り組んだ。

ジェム・スルタン(1459~1495)

流浪の生活 カイロでは、兄バヤズィト2世から帝位を諦める見返りとして、100万アクチェ分の銀貨の提供を申し入れる文書を受け取るが、ジェムはこれを拒否して、翌年にアナトリアに出兵する。1482年5月27日にコンヤを攻囲するが、支持者であるアンカラの知事トラブゾンル・メフメト・ベイが戦死し、アンカラに引き下がらざるを得なくなった。遠征を断念してカイロに戻ろうとするが、エジプトへの道のりはすべてバヤズィト2世の手に落ちていた。

ニコラウス・クザーヌス(1401~1464)

思想 クザーヌスは「知ある無知」や「反対の一致」などという独創的な思想を唱えた。クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。無限の中では極大と極小が一致する。すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。

藤原豊成(704~766)

紫微令 同年7月に孝謙天皇が即位すると、弟の藤原仲麻呂が参議から一挙に大納言に昇進して紫微令と中衛大将を兼ね、光明皇后と孝謙天皇の信頼を背景に急速に台頭し、仲麻呂の権勢は両大臣である諸兄・豊成を凌ぐほどになる。この頃仲麻呂は兄の豊成を中傷・讒言しようとしていたが、豊成の天性の資質が広く厚く、人々の衆望を集めていたため、乗ずる隙を得られなかったと伝わる。

後円融天皇(1359~1393)

足利義満の皇位簒奪計画 近年の説として、朝廷の再建を巡る方針などで足利義満と後円融天皇が対立した結果、義満は後円融天皇を退位させて治天の権限を剥奪した上で、自らが新帝・後小松天皇の後見になって朝廷再建を進める路線に至ったとして、従来"足利義満の皇位簒奪計画"の証拠とされてきた事項の多くは「足利義満と後円融天皇の対立」という個人的な対立を「幕府と朝廷の対立」に拡大解釈したものに過ぎないとする説がある。

千姫(1597~1666)

千姫事件 1616年、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。この時、津和野藩主・坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は家臣により殺害され、それを直盛が自害したように見せかけたが、坂崎家は改易処分となった。

メリウェザー・ルイス(1774~1809)

ルイス・クラーク探検隊 その後ルイスはルイス・クラーク探検隊の隊長に任命され、太平洋到達を果たした。1806年8月11日、探検任務も終盤に差し掛かったころ、ルイスは探検隊の部下であった視力の低いハンター、ピエール・クルザットに「誤って」腿を撃たれてしまった。残りの探検の間、彼はその負傷が原因であまり身動きが取れなくなってしまった。探検から帰還後、ルイスは報酬として6平方キロメートルの土地を受け取った。1807年、ジェファーソンは彼をルイジアナ領の統治者に任命し、ルイスはミズーリ州セントルイスに移住した。

ランブイエ侯爵夫人カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌ(1588~1665)

生涯とそのサロンについて サロンは広く世間に受け入れられた。世の中が求めていた優雅な風俗を提供することができたし、カトリーヌ自身が当時ヨーロッパの社交の中心地であったイタリアで育ち、その洗練をよく知っていたため、それをもたらすことができる魅力を備えていたからである。このサロンには多くの人が集まることとなり、これまでの社会に通用していた道徳とはまた違った社交界のしきたりが生まれた。他人に不快を与えないよう、態度、服装などに注意し、一切の過激さを排除する。こうしてオネットムと呼ばれる社交人の典型が生まれた。貴族たちはこの社交人の典型を理想とし、ここに武勇に代わる拠り所を見出した。貴族の優越は生き方、話し方、振舞いなどによって決定されるようになり、交際や会話、文通の官能化、快楽の追及などが行われ、かくして「ギャラントリー」を体現するに至ったのである。

ウード(852~898)

西フランク国王 パリ伯ウードは、885年から886に掛けての冬、パリを包囲したノルマン人を撃退し、シャルル2世が廃位された翌年の888年2月、領邦諸侯と司教等に推されて西フランク王国の王位に就き、コンピエーニュで戴冠した。カロリング一族でない最初の王だった。彼はヴァイキングと戦い続け、アルゴンヌのモンフォーコンで更に敵を破った。

献帝(181~234)

後漢最後の皇帝 190年春正月、董卓の専横に反発した袁紹ら各地の刺史や太守が兵を起こすと、朝廷は翌月に遷都を決め、献帝を長安へ移した。192年夏4月、献帝の病気回復を祝い、未央殿で大規模な集会が行われた。そこで董卓は腹心の呂布に暗殺された。その後、王充が朝廷の政治を取り仕切った。ところが、一月余りで長安は董卓残党の攻撃を受けて陥落し、政治の実権が李傕や郭汜らに奪われたため、元の木阿弥となった。この頃、反董卓の兵を挙げた諸侯らが各地に戻って割拠したため、後漢王朝は内乱状態に陥った。

武宗(814~846)

会昌の廃仏~仏教弾圧の背景~ 背景には武宗が道教を篤く信仰していたことと、当時の寺院の中に腐敗堕落したものがあったことなどもあるが、財政難に苦しむ唐王朝が寺院の財産を没収し、税収を増加させようとしたねらいもあった。事実、この時破壊された寺院の荘園などの財産は国家に没収され、還俗僧と解放された奴婢は一般農民に編入され両税法の負担戸とされた。また没収された仏具は銅銭と農具の材料に回された。このようにこの廃仏は経済的な理由によるものであり、仏教そのものが否定されたわけではなく、長安と洛陽にはそれぞれ4寺院、各州に1寺院は残された。それにしても仏教にとっては大打撃であり、これにより鎮護国家仏教の時代は終わったと言える。

ザハ・ハディッド(1950~2016)

ベルクイーゼルシャンツェ

アレクサンドル・ポポフ(1859~1906)

無線通信の発明者 1900年1月、ポポフはキュミのクーツァロ村にあるフィンランド初の電波塔で、キュミ、ゴーグラント島間の救命通信無線の連絡実験をした。これは世界で最も早く敷かれた救命通信無線の一つである。同時期にマルコーニも特許出願しており、一般的な知名度はこちらの方が高いが、ポポフの公開実験はマルコーニが成功する実験より4月ほど早かった。また、マルコーニは実際に実験に成功したのではなく、ポポフの公開実験をボローニャ大学の教授アウグスト・リーギから聞いて出願したという説がある。しかし、当時の海軍上層部が先見性に欠けていたため普及に時間がかかり、1905年の日露戦争では、ロシア海軍は三六式無線機を使用した大日本帝国海軍に敗北した。敗因は多々あるが、さまざまな分野に技術的・科学的先駆者を抱えながら、保守的な為、彼らに十分に力を発揮させられなかった当時のロシアの国情はその一つと言えよう。

ドニ・パパン(1647~1712)

蒸気機関の原型 1690年に彼が提案した蒸気機関を右図に示す。金属のシリンダ A の底に少量の水を入れ、ピストン B を水に接するように乗せる。ピストンの下の空気はピストンの小孔を通じて排出した後、小孔を栓 M で塞ぐ。シリンダの下に火を当てて中の水を加熱して蒸発させると、蒸気がピストンをシリンダの頂上まで押し上げる。そこで、ラッチ E がピストンの柄 H のノッチに入って、ピストンを固定する。シリンダの下から火を取り除いて、シリンダを冷却すると中の蒸気は凝縮し、シリンダー内は空気のない状態となる。この状態で、ラッチ E をはずせば、ピストンは上に作用する空気の重さにより、シリンダの中を下方へ押される。ピストンの柄 H に結んだロープ L で、プーリ T を介して重りを持ち上げることができる。

オットー・ハーン(1879~1968)

マイトナーとの関係 ハーンは30年以上にわたってリーゼ・マイトナーと一緒に研究を行ってきたが、ユダヤ系であったマイトナーはナチスの迫害を避けるために1938年にスウェーデンに移らざるをえなくなった。その後も2人は連絡を取り合い、同年、ハーンはマイトナーに「ウランの原子核に中性子を照射しても核が大きくならず、しかもウランより小さい原子であるラジウムの存在が確認された。何が起きているのか意見を聞きたい」という手紙を送った。マイトナーは、甥で物理学者であるオットー・ロベルト・フリッシュと共に核分裂が起きたことを証明して、連名で発表した。

いかりや長介(1931~2004)

コメディアンとして 『全員集合』の打ち合わせは2日前の木曜日に行われていたが、いかりやを中心にネタが決められていて、いかりやがネタを思いつくまで皆が黙っていることが多かった。他の作家がアイデアを出しても、「つまらねぇ」と却下することも多かった。この事について「彼らのネタは机上でしか考えてないようだったり、面白くてもドリフではできない内容ばかりだった」と著書で述べており、加藤も後に「作家が考えたネタより、自分達で考えた方が観客には受けた」とコメントしている。当時、駆け出しだった高田文夫は『全員集合』のスタッフとして参加していたが、打ち合わせ時の、あまりにも静かで重い空気に耐えられず、逃げ出した経緯をスポーツ紙の連載に記している。

フェルナンド1世(1380~1416)

アラゴンの王子たち カスティーリャ王位は1390年に兄エンリケ3世が継いだが、1406年に27歳で早世し、甥で2歳足らずの遺児フアン2世が王位につくと、その母后カタリナと共に摂政を務めた。摂政としての事績はレコンキスタを主導したことが挙げられ、1407年からナスル朝グラナダを西から攻撃してサアーラを攻略、一旦引き上げた後の1410年に北西からグラナダへ再進出、9月にアンテケーラも落とし名声を獲得した。また、息子たちもカスティーリャにおける影響力をフェルナンドのアラゴン王位継承以降にも保ち、「アラゴンの王子たち」と呼ばれた。宮廷で増大する親フェルナンド派に圧迫されたフアン2世とその支持者たちは、後に寵臣政治を展開して彼らに対抗していくことになる。

ダヴィド4世(1073~1125)

建設王 治世中、長年にわたってコーカサス各地でセルジューク朝との戦いに費やす。ダヴィド4世は大幅な軍事改革などを行った。1121年8月12日にダヴィド4世率いるグルジア軍は、トビリシの西方40キロにあるディドゴルで起きたディドゴルの戦いでセルジューク・トルコ軍を撃破、決定的勝利を修めた。その後、グルジア軍はコーカサスの南方に兵を進め、領域を拡大。さらに当時の主要都市アニを攻略した。また、1122年に首都をクタイシからトビリシに遷都している。

アレクサンドル・ボロディン(1833~1887)

中央アジアの草原にて 荒涼としたコーカサスの草原で、ロシア人と東洋人の交流の様子が描かれている。まず、ロシアを表す主題が呈示され、次に東洋風の主題がこれに答える。この二つの主題が対話しながら発展し、クライマックスでは二つの旋律が同時に重ねられる。ロシアと東方の歌がハーモニーを奏で、そしてやがて辺りは静まる。

ロベール・ドローネー(1885~1941)

エッフェル塔

ホセ・デ・リベーラ(1591~1652)

えび足の少年

フラ・バルトロメオ(1472~1517)

聖ベルナルドゥスの幻視

ウィリアム・フリス(1819~1909)

鉄道の駅