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岸清一(1867~1933)

日本スポーツ界の功労者 1911年に大日本体育協会が嘉納治五郎によって設立された際には維持員として参画し、1916年には副会長に就任。1921年3月に第2代会長に就任した。

ヴァルデマー1世(1131~1182)

ヴァルデマーの治世 1158年、ヴァルデマーの盟友アブサロンがロスキレ司教に選出され、ヴァルデマーは彼を筆頭顧問に任命した。ヴァルデマー王は相次ぐ戦争で疲弊したデンマーク王国を立て直すべく奔走した。彼は王国南部のダニーパーク要塞を補強し、アルス・スンド海峡中の小島をSonderborg 城を建築することで要塞化した。その後この小島はアルス島と地続きとなった。また、ヴァルデマー王は王国南東部で影響力を強めるヴェンド人に対処するために、かつてデーン人ヴァイキングが用いていた襲撃戦術を刷新した重騎兵を用いた水陸両面戦術をもってヴェンド人に対抗した。この水陸両用戦術は彼の後継者であるクヌーズ6世の頃により改良されることとなる。  

小泉又次郎(1865~1951)

政治家として 1907年横須賀市会議員に当選、後に議長をつとめた。神奈川県会議員を経て、1908年衆議院議員選挙に立候補して初当選、以来戦後の公職追放となるまで連続当選12回、通算38年間の代議士生活を過ごす。政治家として本領を発揮した又次郎は「野人の又さん」としてその名を轟かせるようになっていく。

サルヴァトーレ・フェラガモ(1898~1960)

ブランドとしてのフェラガモ 彼の死後もブランド「サルヴァトーレ・フェラガモ」はフィレンツェを本拠地とした同族経営の会社として妻ワンダや子供たちに受け継がれ、世界でも有数のトータルファッションブランドとなっている。本社と博物館がフィレンツェ、スピーニ・フェローニ宮殿にある。

神功皇后(169~269)

事績~三韓征伐~ 367年4月、松浦郡で誓約を行った皇后は渡海遠征の成功を確信し、神田を作ったのちに橿日宮へ戻った。そして角髪を結って男装すると渡海遠征の全責任を負うことを宣言した。9月には筑紫夜須にて大三輪神を祀り矛と刀を奉し船と兵を集めた。また草という海人を派遣して新羅までの道を確かめさせた。さらに軍規を定めて略奪、婦女暴行、敵前逃亡などを禁じ、依網吾彦男垂見に航海の無事を祈らせた。

張献忠(1606~1647)

四川での大虐殺 多くの記録で張献忠は残酷な殺戮を好み、「屠蜀」もしくは「屠川」と呼ばれる無差別殺戮により、四川人口を著しく減じたとされている。1578年に人口310万2073人だった四川は、1685年には1万8090人となった。このため清朝の前半、1671年から1776年までの間にかけて湖北省・湖南省・広東省などからの移民数百万人が四川省へと移民した。現在の四川人の方言が北京普通話に近いのもこの時の張献忠による四川人殲滅殺戮によって古代四川人が壊滅したことが大きいとされる。

鈴木貞一(1888~1989)

中央復帰と政界入り 1941年4月4日、予備役編入となる。それと同時に、第2次近衛内閣国務大臣兼企画院総裁に就任した。以後、第3次近衛内閣・東条内閣でそれぞれ国務大臣を務める。東条内閣の際には、イギリスのインド植民省を真似て大東亜省を設立して、外務省のアジア関係の権限を事実上陸軍に移管し、自らが事実上の外務大臣になろうとしたが、大臣には青木一男が任命されて、失敗に終わっている。

ヨーゼフ・メンゲレ(1911~1979)

戦後~南米へ逃亡~ 1949年、戦争犯罪追及を逃れようとする元ナチ党員の多くとともに、メンゲレはアルゼンチンに逃亡し、中絶手術医など種々の仕事に就いたのち、母国の富裕な家族の支えで薬品会社の共同経営者になる。1949年から1959年の間、彼はブエノスアイレスに住み、家族の財政的支援を受けた。

松倉勝家(1597~1638)

改易・斬首 乱の鎮圧後、1638年5月17日、勝家は肥前唐津藩主・寺沢堅高と共に反乱惹起の責任を問われた。勝家は改易、所領を没収され、4月12日には美作津山藩主・森長継に預けられた。『嶋原一揆松倉記』によれば、屋敷にあった桶の中から農民と思われる死体が出てきたため、これが決め手となり、5月になって取り調べのため江戸に護送され、同年7月19日に江戸の森家下屋敷で斬首刑に処せられた。大名の身分でありながら武士としての名誉の刑である切腹さえも許されず一介の罪人として斬首刑に処せられたのは、江戸時代全体を通しても勝家ただ一人だけである。

バートリ・エルジェーベト(1560~1614)

残虐行為 オスマン帝国との戦争により夫が留守がちの中、エルジェーベトは性別を問わず多くの愛人を持ち、贅を尽くすことと自らの美貌を保つことに執着したというが、夫婦仲は良かった。1604年に夫が亡くなると、夫から贈与されて彼女自身の所有となっていたチェイテ城に居を移した。

池田満寿夫(1934~1997)

エーゲ海に捧ぐ ギリシャの片田舎からローマへ絵を学びに来ているニコスは、大学に通いもせず毎日向いの部屋に住む娼婦の裸体を覗き見し楽しんでいた。そんなニコスが住む下宿には、30歳すぎのエルダと彼女の妹で聴覚障害者のリーザが暮らしていた。そしてニコスは、アンという恋人がいるにもかかわらず、エルダと肉体関係を持つ。

ルナリロ(1835~1874)

政治 親米派の政治家で、閣僚にアメリカ人を採用するなどの政策を実行した。ただし、在位期間が短いため、親米政治の影響は生前には出なかった。死後、保守・親日のカラカウア王が即位したが、その頃にはハワイ王国は事実上の傀儡政権となっていた。このことから、ルナリロの即位がハワイ革命の遠因といえる。

蔡温(1682~1762)

冊封への対応 1716年、尚敬王就任に伴う冊封使を求める使節団の副使に選ばれ、2月25日に35歳で甲口座、7月23日には末吉地頭職となった。11月15日に那覇を発ち北京へ向かったが、途中で暴風に遭い12月2日に久米島へ漂着した。翌年の1月20日に久米島を発ち、2月2日から7月12日まで福州に滞在し、10月28日に北京へ到着した。翌年1月8日に北京王府へ貢物を納め、2月27日に勅書を受け取った。2月29日に北京を発ち、福州を経て8月9日に帰国した。

ポール・ヴァレリー(1871~1945)

文学的沈黙 1892年9月から11月、母方の親戚の住むジェノヴァに滞在した。この頃詩人としての才能を疑い、文学的な営みに対して激しい嫌悪を抱くに至ったヴァレリーは次第に文学から遠ざかった。そして片思いの恋慕など、雑多な思考を切り捨て、知性のみを崇拝することを決意した。この決意はジェノバ滞在中の記録的な嵐があった晩と同時期とされる為、「ジェノバの夜」と呼ばれている。そして1894年から『カイエ』と呼ばれる公表を前提としない思索の記録をつづり始め、その量は膨大な量となった。1895年に評論『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』を発表、1896年に小説『テスト氏との夜会』を発表の後、『カイエ』の活動を基軸とした20年に及ぶ文学的沈黙期に入る。

浜野弥四郎(1869~1932)

台湾での業績 台北と南部で衛生状況調査、台中で都市計画調査を行う傍ら、同時並行でイギリス統治下の上海、香港、シンガポールなどを視察し英国式の衛生行政を学んだ。そしてバートンと浜野は台湾で衛生問題を解決する方策は上下水道の整備にあると結論付けた。

カメハメハ4世(1834~1863)

クリスマスの祝日制定 1856年、カメハメハ4世は12月25日を「感謝祭」の祝日とした。これは当時の宣教師たちは保守派が多くて、クリスマスは異教の祭りだというからであった。しかし、6年後にはこの日を「クリスマス」の祝日に改めた。

奥村土牛(1889~1990)

富士宮の富士  

デューク・カハナモク(1890~1968)

オリンピックメダリスト 1911年、デュークはアマチュアの水泳競技会にて、自由形100ヤードで当時の世界記録を4.6秒も縮める驚異的な記録を叩き出し、注目を浴びる。同時に彼は220ヤードの世界記録も破り、50ヤードでは世界タイ記録を出した。しかも会場はホノルル港の海水である。