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石川五右衛門(1558~1594)

釜入れの刑 安土桃山時代に出没した盗賊。都市部を中心に荒らしあわり、時の為政者である豊臣秀吉の手勢に捕えられ、京都三条河原で一子と共に処刑された。墓は京都の大雲院にある。これは五右衛門が処刑の前に市中を引き回され、大雲院の前に至った際、そこで住職に引導を渡された縁による。

ターシャ・テューダー(1915~2008)

ターシャの庭

グレース・ケリー(1929~1982)

モナコ大聖堂 1956年1月5日、婚約を発表。同年4月18日、モナコ大公宮殿にて法的な結婚式が行われた。翌4月19日、モナコ大聖堂にて、カトリック式の挙式が行われた。これらの模様は、ヨーロッパ諸国で生中継された。

勝海舟(1823~1899)

長州征討と宮島談判 1866年5月28日、長州藩と幕府の緊張関係が頂点に達する直前に軍艦奉行に復帰して大坂へ向かい、老中板倉勝静の命令で出兵を拒否した薩摩藩と会津藩の対立解消、および薩摩藩を出兵させる約束を取り付けることにした。この任務は成功したと後年海舟は語っているが、実際は薩摩藩は拒否したままであり、会津藩と薩摩藩の対立も続いたままだったため完全に失敗していた。

上杉謙信(1530~1578)

手取川の戦い 1576年、越後国の上杉謙信は能登国を支配下に置くべく、2万余の軍を率いて侵攻した。これに対し当時の能登の領主能登畠山氏は七尾城に籠城する。七尾城は北陸でも屈指の堅城だったため、戦いは翌年までもつれこんだ。姉は綾御前。

額田王(630~690)

万葉集 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故にわれ恋ひめやも

安倍晴明(921~1005)

陰陽師 陰陽師として名声を極めた晴明は、天文道で培った計算能力をかわれて主計寮に異動し主計権助を務めた。その後、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官職を歴任し、位階は後四位下に昇った。さらに晴明の2人の息子安倍吉昌と安倍吉平が天文博士や陰陽助に任ぜられるなど、安倍氏は晴明一代の間に師である忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立した。

清少納言(966~1025)

枕草子 春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて紫だちたる雲の細くたなびきたる。うつくしきもの瓜に描きたる児の顔。雀の子の、鼠鳴きするに、躍り来る。

今川義元(1519~1560)

狐橋の戦い 7月24日、今川義元は富士川を越え、善得寺に陣をはった。武田軍は8月15日に大石寺に着陣するが、和睦調停が目的であったため戦いに不参加であった。8月22日、義元率いる今川軍は、狐橋の戦いで氏康率いる北条軍を打ち破った。勢いに乗った義元は、この後さらに9月に吉原城を自落させ、長久保城をも攻略する。子は今川氏真。

松平容保(1836~1893)

八月十八日の政変 8月13日、大和行興の詔が発せられる。しかしこれは真木保臣による討幕のための偽勅であり、長州藩はすでに錦旗・武器を準備し、有力六藩に対し軍用金を醵出させる勅令も発せられる。容保は驚愕し、急ぎ公武合体派の中川宮に奏請。近衛前関白・二条右大臣の賛成を取り付ける。

杉田玄白(1733~1817)

蘭学事始 高齢になった日本洋学の先駆者・杉田玄白は、自身の死後に洋学草創期の史実が後世に誤り伝わることを懸念し、自らの記憶する当時のことを書き残そうと決意した。1814年にいちおう書き終わり、高弟の大槻玄沢に校訂させる。1815年に完成を見、このとき玄白83歳。2年後の1817年に玄白85歳で死去。

千利休(1522~1591)

わび茶 千利休はわび茶をさらに発展させ、国産の道具を用いるだけではなく自身で器具を積極的にデザインし、職人につくらせた。利休の時代、利休が作らせた楽茶碗は、代表的な唐物である天目茶碗と違って粗末な道具とされていた。また利休は呂宋壺や高麗茶碗などの輸入品も用いたが、これらは産地では雑品扱いの大量生産品であった。そのほか、彼は自身で竹を切って作った簡易な道具も用いた。

ニール・アームストロング(1930~2012)

アポロ計画 1967年1月27日、ニールはディック・ゴードン、ジム・ラベル、スコット・カーペンターらとともに、ワシントンD.C.で開催された国際連合の宇宙条約交渉に出席していた。彼らはそこで、各国の高官たちと午後6時45分まで歓談した。その後カーペンター一人が空港に向かい、残りの者たちがホテルに帰ると、「ただちに有人宇宙センターに電話せよ」とのメッセージが届いていた。

手塚治虫(1928~1989)

『鉄腕アトム』の挿絵

藤原道長(966~1028)

御堂関白記 九月十日、丁卯、子時ばかり宮の御方より女方より来たりて云はく、悩みの御気有りてへり。参入す。御気色有り。仍りて東宮傳、大夫、権大夫に消息を遣はして云はく、参り来よと。他の人々多く参る。終日悩み暮らして給ふ。

ユーリイ・ガガーリン(1934~1968)

宇宙へ 1961年4月12日、ガガーリンはボストーク3KA-2で世界初の有人宇宙飛行に成功した。このときのコールサインは「ケードル」であった。飛行中「祖国は聞いている」と歌を口ずさんで自分自身を元気づけていたといわれ、この歌は日本でも歌声喫茶などでよく歌われていた。

マーク・トウェイン(1835~1910)

『トム・ソーヤーの冒険』の挿絵

ウィトルウィウス(前70~前15)

建築について ウィトルウィウスについては、『建築について』の著者であること以外には知られず、その出生年、没年、家系は不詳である。ただし著作からは彼が建築家であることは明らかであり、またアフリカ戦争時にガイウス・ユリウス・カエサルの下で勤務し、アウグストゥスに仕えたことが確認できる。著作によって名声を得ようとしたようであるが、彼の『建築について』がローマ建築にどのような影響を与えたかは定かではない。

パブロ・ピカソ(1881~1973)

ゲルニカ

マシュー・ペリー(1794~1858)

日本の開国 アメリカ合衆国が1853年、ペリー艦隊を日本に派遣したのは、ホイッグ党のフィルモア大統領の時である。ペリーはフィルモアの国書を持参して江戸幕府に迫り、翌1854年、日米和親条約を締結し開国を実現させた。アメリカがペリー艦隊を日本に派遣した理由の一つには、北太平洋の捕鯨業にとって日本に補給用の港を確保する必要があった。また、当時、クリミア戦争の最中であり、イギリス、フランス、ロシアには東アジアの進出の余裕がなく、日本との交渉は、アメリカが主導権を握った。

諸葛亮(181~234)

三国時代~天下三分の計~ 劉備が、隠棲中の諸葛亮を「三顧の礼」で軍師として迎えたことは有名な話。諸葛亮はその後蜀の軍師、丞相として活躍。赤壁の戦いでは、呉の孫権と連合して魏の曹操を破り、彼の唱えた「天下三分の計」を表現した。劉備没後はその継嗣劉禅を立てて魏と戦ったが、234年五丈原の戦いで陣没した。

与謝野晶子(1878~1942)

君死にたまふことなかれ ああをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、末に生れし君なれば親のなさけはまさりしも、親は刃をにぎらせて人を殺せとをしへしや、人を殺して死ねよとして二十四までをそだてしや。

マザー・テレサ(1910~1997)

カルカッタの修道女 1948年、ようやく教皇・ピウス12世からの修道院外居住の特別許可が得られた。テレサは修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていった。彼女はインド女性の着る質素なサリーを身にまとい、手始めに学校に行けないホームレスの子供たちを集めて街頭での無料授業を行うようになった。やがて彼女のもとに聖マリア学院時代の教え子たちがボランティアとして集まり始め、教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになる。

マルティン・ルター(1483~1546)

農民戦争への転化とルターの姿勢 ルターの主張は封建的な支配に苦しんでいた農民にも支持され、はじめルターの影響を受けたトマス・ミュンツァーの指導する農民一揆が1524年にドイツ農民戦争が勃発した。ミュンツァーは農奴制の解放などを掲げ、領主や教会を襲撃したが、ルターはそのような過激な行動には批判的であり、最後にはその指示を撤回し、それとともに一揆は鎮圧された。

ジュール・ヴェルヌ(1828~1905)

『十五少年漂流記』の挿絵

宮本武蔵(1584~1645)

巌流島の決闘 宮本武蔵玄信が豊前国に来て二刀兵法の師になった。この頃、すでに佐々木小次郎という者が岩流兵法の師をしていた。門人同士の諍いによって武蔵と小次郎が試合をする事になり、双方弟子を連れてこないと定めた。

松尾芭蕉(1644~1694)

奥の細道 夏草や兵どもが夢の跡 五月雨を集めて早し最上川 草の戸も住み替はる代ぞ雛の家 閑かさや岩にしみ入る蝉の声 蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ

オットー・フォン・ビスマルク(1815~1898)

ドイツの植民地政策 ビスマルクは、領土拡張や植民地拡大には消極的であり、もっぱら他の列強とのバランスをとることによって平和を保とうとした。植民とは、1884~85年のベルリン会議を主催しアフリカ分割に関する調事を行い、トーゴ、カメルーン、ドイツ領東アフリカ、ドイツ領南西アフリカの4地域をドイツ帝国の保護領として宣言した。

ヴィクトリア女王(1819~1901)

大英帝国 1877年にインド皇帝を兼ね、インドをはじめとする広大な海外植民地を支配し、自治領と併せて、「大英帝国」の繁栄を謳歌した。女王は家庭生活ではアルバート公と結婚し、9人の子供の母となった。その子供たちはヨーロッパ各国の元首と結婚するなど、血縁政策を進めた。

小野小町(生没年不詳)

古今集 花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを

雪舟(1420~1506)

秋冬山水図

ルイ14世(1638~1715)

スペイン継承戦争 スペイン・ハプスブルク家の王位継承同題で、ルイ14世は王妃がスペイン王家出身であったので、孫のフィリップの継承権を主張、イギリス、オランダ、神聖ローマ皇帝、プロイセンなどとの戦争となった。同時にアメリカ大陸ではイギリスの間でアン王女戦争を戦った。1713年、ユトレヒト条約でフィリップはスペイン王フェリペ5世とのラシュタット条約によって領土や海外植民地の多くを失った。

ベンジャミン・フランクリン(1706~1790)

アメリカ独立革命の指導者 フランクリンはこの実験で有名であるが、科学者としてだけではなく、アメリカ独立革命の指導者の一人としても重要な人物であった。哲学協会の設立、奴隷制反対協会の設立などの活動の他、アメリカ独立戦争が始まると、アメリカ大使としてフランスに赴き、フランスの参戦を取り付けた。それによってアメリカはイギリスからの独立の戦いを優勢に転換させ、独立が実現した。また、憲法制定会議にも参加した。

ウォルト・ディズニー(1901~1966)

シンデレラ城

リチャード・ニクソン(1913~1994)

ベトナム戦争を拡大 キッシンジャーを外交問題特別補佐官に任命し、1969年7月、外交方針の原則としてニクソン・ドクトリンを発表、海外への過度な軍事介入の抑制に転じ、対共産圏戦略で同盟諸国の肩代わりの強化を要求した。その一方、パリ和平会談の有利な展開をねらって70年、71年にはベトナムでの主導権を維持するため、カンボジア侵攻、ラオス空爆を行って介入し、ベトナム戦争をインドシナ全域に戦線を拡大させた。

伊能忠敬(1745~1818)

大日本沿海輿地全図

山本権兵衛(1852~1933)

海軍大臣時代 1898年、西郷従道の推薦により47歳で第2次山県内閣の海相に就任し、その後は日露戦争が終結するまでの約8年という長きにわたって事実上の海軍トップとして君臨した。山本は「ロシア海軍に勝つ」という一点を当時の海軍の目標として、様々な施策を行った。「ロシア軍艦を全滅するためには、日本の軍艦も半分は沈める覚悟だ」とも公言している。

桂太郎(1848~1913)

維新後 1870年8月、桂はドイツに留学した。但し、賞典禄を元手にした私費留学であったことから現地での生活はかなり苦しく、ヨーロッパ使節団のためドイツへ来訪した木戸孝允を訪ね、官費留学への待遇切り替えを依頼している。木戸は桂の叔父・中谷正亮とは親しくしていたため、中谷の甥である桂にも目をかけていた。だが、木戸は帰国した1873年7月、政争の合い間に桂のために切り替え手続きを行ったものの、桂は10月半ばに留学を打ち切って帰国した。

西園寺公望(1849~1940)

幕末 西園寺は若年でもあり、岩倉や三条実美のような幕末における倒幕活動に強く参画していなかった。鳥羽・伏見の戦いの際、私戦として納めようという意見に対して猛反発し、岩倉に「小僧能く見た」と絶賛された。1868年、おそらく岩倉の推挙によって、三職の1つ、参与の一人となった。以後の戊辰戦争では山陰道鎮撫総督、東山道第二軍総督、北国鎮撫使、会津征討越後口大参謀として各地を転戦する。会津戦争では自ら鉄砲を撃ち、銃弾の飛び交う最前線にいたという。

ジャワハルラール・ネルー(1889~1964)

国民会議派を指導 ネルーは国民会議派内では左派のリーダーとして、1929年のラホールでの国民会議派大会では議長を務め「完全独立」を運動方針として掲げることに力を尽くした。1930年からはガンディーを再び指導者として第2次非暴力・不服従運動を展開し、協力した。しかしこの間、イギリス当局によってたびたび逮捕され、獄中生活を送った。

原敬(1856~1921)

政党政治家として 1901年6月、桂太郎が組閣し原は閣外へ去るが同月に星が暗殺され、その後は、第1次桂内閣に対する方針を巡る党内分裂の危機を防ぎ、松田正久とともに政友会の党務を担った。また、地方政策では星の積極主義を引き継ぎ、政友会の党勢を拡大した。党内を掌握した原は、伊藤や西園寺を時には叱咤しながら、融和と対決を使い分ける路線を採って党分裂を辛うじて防いだ。

トーマス・ジェファーソン(1743~1826)

独立宣言の起草 当時33歳のトーマス・ジェファーソンは大陸会議で独立宣言の起草委員に選ばれ、その作成にあたった。わずか2週間で草案を仕上げ、他の起草委員のフランクリンとアダムズが目を通し、大陸会議で修正された後、成立した。その後ヴァージニアに戻ったジェファーソンは、ヴァージニア議会で活動し、信仰の自由などを実現するなどの改革を行い、1779年にはヴァージニア知事となり、この間の体験をもとに、『ヴァージニア覚え書』を1785年に発表している。1783年から再びヴァージニア州代表として中央政界で活動するようになり、共和政の確立に尽力し、また西方への植民計画を立案した。また翌年からはフランクリンに次いで駐フランス大使となってパリに滞在した。