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投稿

4月, 2019の投稿を表示しています

ジョルジュ・ブラック(1882~1963)

家と木

ジョルジョ・ヴァザーリ(1511~1574)

ゲッセマネの祈り

ルカ・シニョレッリ(1450~1523)

罪されし者を地獄へ追いやる天使、蘇る死者

ジョン・コンスタブル(1776~1837)

乾草の車

フランス・ハルス(1581~1666)

陽気な酒飲み

ウィリアム・ブラッドフォード(1755~1795)

独立戦争 1776年、ペンシルベニア民兵が招集されると、ブラッドフォードは志願兵として参加した。同年末、ブラッドフォードはペンシルベニア邦の軍として最初の准将に任命されたダニエル・ロバルデューとともに旅団を組織し、ブラッドフォードは旅団副官となった。民兵における任務を終えたブラッドフォードは、リチャード・ハンプトンによって第11ペンシルベニア連隊の統率を任ぜられ、中隊長として大陸軍に加わった。ブラッドフォードはトレントンの戦いなどに参加した。1777年4月10日、ニュージャージー州モリスタウンにたブラッドフォードは召集長官代行を任ぜられ、中佐に昇格した。ブラッドフォードは1779年初頭に健康的理由により辞職し、帰郷した。

ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ(1835~1882)

効用理論 ジェヴォンズは、彼の経歴のかなり早い時期において、経済学と論理学に対する彼の最も特徴的かつ独創的な貢献の本質となる学説に到達した。彼の経済学の一般理論の基調となったこの効用理論は、1860年には実際に手紙の中で公式化されており、類似物の代替についての彼の論理法則の萌芽は、1861年に書かれた他の手紙の中で提起した、「哲学とは、物事の類似性をただ単に指摘することを意味するだけだ、ということがわかるだろう」という考え方に見出される。

ハインリヒ・レンツ(1804~1865)

レンツの法則 何らかの原因によって誘導電流が発生する場合、電流の流れる方向は誘導電流の原因を妨げる方向と一致するというもの。例えばコイルに軸方向から棒磁石を近づけると誘導電流が流れる。コイルに電流が流れると磁場が生じるが、この磁場はレンツの法則が示唆する向き、すなわち棒磁石の接近を妨げる向きとなる。

アンドレイ・サハロフ(1921~1989)

テラー・ウラム型~第3のアイディア~ 本理論に基づく最初の核実験は、1952年にアメリカ合衆国による"アイビー作戦"として実施された。本理論は、ソビエト連邦ではサハロフの第3のアイディアとして知られている。また同様の兵器は、イギリス、中華人民共和国、及びフランスでも開発されている。この中でも一番強力な熱核爆弾は、ソビエトが行った核出力50メガトンの核実験で使われたツァーリ・ボンバである。

ポール・サミュエルソン(1915~2009)

乗数・加速度モデル 乗数・加速度モデルとは、景気循環を説明するモデルである。ハンセン=サミュエルソンの乗数・加速度とも呼ばれる。ポール・サミュエルソンが発表し、ジョン・ヒックスが発展させた。発展させたものはサミュエルソン=ヒックスの乗数・加速度と呼ばれる。

サモスのコノン(前280~前220)

「かみのけ座」の由来 プトレマイオス3世が紀元前246年に始まった第3次シリア戦争に出征すると、王妃のベレニケは「夫が無事に戻ったならば、自分の髪を女神アプロディーテーに捧げる」と誓った。夫が無事に戻ったことから、王妃は髪を切って女神の神殿に供えたところ、翌朝までに髪の毛は消えていた。王と王妃は大変に怒り、神官たちは死刑を覚悟した。このときコノンは「神は王妃の行いが大変に気が入り、かつ髪が美しいので大変に喜び、空に上げて星座にした」と王と王妃に告げ、しし座の尾の部分を指し示した。コノンのこのとっさの知恵により、神官たちの命は救われた。かみのけ座はトレミーの48星座には含まれなかったが、16世紀にドイツの地図製作者カスパル・ヴォペルが自作の地球儀に描いて復活させ、現在の88星座が国際天文学連合によって定められた際に正式に星座の一つとなった。

アントン・ヴェーベルン(1883~1945)

ピアノのための変奏曲 ヴェーベルンは1903年頃から1904年にかけて約12曲のピアノ曲を作曲しているが、1906年以降になってからはピアノ曲を作曲しなかった。このピアノのための変奏曲は、唯一作品番号が与えられたピアノ曲で、1936年にウィーン郊外のメートリンクで作曲され、1年の歳月をかけたという。ヴェーベルンはピアニストのエドゥアルト・シュトイアーマンによる初演を想定していたが、彼が亡命していたために1937年9月27日にペーター・シュタドレンによる初演が行われた。

ムハンマド・アリー・ジンナー(1876~1948)

パキスタン決議 1935年頃から、イスラーム教徒の独立国家実現のためにその結集を呼びかけ、1940年3月のムスリム連盟ラホール大会で歴史的な演説を行い、後のパキスタン建国の基礎を作った。それは、インドの北西部や東部のようなムスリム多住地域は「独立諸国家」を建設すべきである、という「二民族論」を提唱、ガンディーやネルーらの国民会議派が「一つのインド」に固執する姿勢を厳しく批判するものであった。

ナジ・イムレ(1896~1958)

ハンガリー反ソ暴動 1956年にポーランド反ソ暴動の影響を受けてハンガリー反ソ暴動が勃発すると、国民の支持を受けて首相に復帰し、複数政党制の導入などの改革を図り、ワルシャワ条約機構からの脱退とハンガリーの中立を表明した。ソ連は軍事介入として暴動を鎮圧し、改革撤回を迫り、拒否したナジは再び解任された。ナジはユーゴスラビアに亡命を図ったが、ソ連軍に捕らえられ、その後処刑されたと発表になった。

ヨーゼフ・ゲッベルス(1897~1945)

ナチ党入党とヒトラーへの心酔 1925年2月27日、ミュンヘン一揆で獄中にあったヒトラーが出獄し、ナチ党が再建される。このころ、ゲッベルスはラインラント管区のナチ党に入党し、その広報を担当するようになった。この頃はまだヒトラーとは会っていなかったが、10月頃ヒトラーの本を読んで感激し、ミュンヘンに行き11月6日に初めて面会した。そのときの日記にゲッベルスのヒトラーへの心酔ぶりが記されている。

ジョヴァンニ・カッシーニ(1625~1712)

カッシーニの間隙 カッシーニの間隙は、土星の環のうちA環とB環の間にある隙間のこと。カッシーニの空隙、カッシーニの隙間ともいう。1675年にフランスの天文学者、ジョヴァンニ・カッシーニによって発見されたことからこの名がある。カッシーニの間隙は現在では、地球から見た土星の向きやシーイングなどの条件が良ければ市販の天体望遠鏡で観望できる。ボイジャー2号によって、カッシーニの間隙にもA環とB環に比べればごく少量であるが、環を構成する物質が公転していることが判明した。

エルンスト・ヘッケル(1834~1919)

人種論と優生学との関連 ヘッケルは「人種」について、未開と成熟といった表現を不用意に用いたため、さまざまな批判を生んだ。人類の起源はアフリカ大陸にあるとしたダーウィンらの単一起源説と対立し、アジアにあると主張したことで今日では人類の多地域人類進化説を唱えた先駆者とも再評価されている。バチカン教皇庁レジーナ・アポストロルム大学大学院教授のリッカルド・カショーリとアントニオ・ガスパリは、ヘッケルは人種差別主義者であったことは疑いえないとして、次のヘッケルの言葉をその評価の根拠としている。

ネプトゥーヌス(神)

ローマ神話 エトルリアとのウェイイ戦争が行なわれていたとき、ローマの南東20kmあたりにあるアルバヌス湖が、突如水位を増し始めた。季節は秋で、水が増える自然の要因はまったく考えられなかった。7月23日、水かさはどんどん増していき、ついにはまわりを取り囲む丘陵を破って大きな流れがブドウ畑や畑のある低地を進みながら海のほうへと進んでいった。元老院はこれが何かの予兆だと考え、デルポイに神託を諮りに使者を出した。神託によると、この現象は先祖代々のラティウム祭をしきたりどおりに行なわなかったための怒りであり、アルバヌスの水はもとの河床に押し戻すか、または運河や堀を造って流れを整えよ、とのことだった。そこで祭司たちは儀式を執行し、人々は運河を造営した。この伝説のなかには「炎」の要素はみあたらないが、比較神話学者のヤン・ブーウェルは、ローマの歴史家ティトゥス・リウィウスがこの水の氾濫を止めたことをextinguereと表現していることに着目した。これはリウィウスの時代、通常は「炎を消す」という意味で用いられた動詞だったからである。ただし最初にこの神話の類似を論じたジョルジュ・デュメジルは、この解釈は弱いとして反論している。

ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(1801~1835)

ノルマ~第1幕第2場~ ノルマがクロティルデの援助の下、密かに2人の子供を育てる住居にアダルジーザがやって来る。慌てて子供達を隠すノルマに、アダルジーザは、巫女には禁じられた恋愛をしてしまった悩みを告白する。お互いに同じ男性を愛しているとは知らないノルマは彼女を赦す。そこに偶然ポリオーネが現れ、2人の女性は初めて状況を理解する。ノルマは、アダルジーザには罪はなく、全てはポリオーネの不実のせい、と激しい非難を加える。恋の修羅場の三重唱。

セレーネー(神)

恋物語 セレーネーの神話で一番有名なのは、美青年であるエンデュミオーンとの物語である。セレーネーは彼を愛し、ゼウスに願って彼に不老不死の永遠の眠りを与えたと言われる。セレーネーは夢の中のエンデュミオーンと交わりを重ねて50人の娘・暦月の女神メーネたちを生んだ。他には、牧神パーンもセレーネーの美貌に魅了され、恋い焦がれたことがあり、純白の羊毛皮を贈ってセレーネーを誘った。

ロキ(神)

北欧神話中盤「バルドル殺害後」 ヘズをそそのかしてバルドルを殺させ、また老婆セックに変身してバルドルが甦られないように仕向けた。神々の宴に乱入し、そのことを明かすとともに、集まっている神々の過去の罪や恥辱を一人ずつ暴きたて巧みに罵倒する。のちに神々に捕らえられ、巨大な岩に息子ナリの腸で縛られて洞穴に幽閉される。そこは蛇の毒液が滴り落ちる場所で、いつもは妻のシギュンが器を持ってそれを防いでいる。しかし、その器がいっぱいになり彼女が捨てに走るとき、一瞬だけ頭に毒液があたり彼は苦痛のあまり大声で叫び身を捩るという。その影響で地上に起きるのが地震であるとされる。

カルディアのエウメネス(前362~前316)

ディアドコイ戦争にて 両者は紀元前321年に小アジア北部のヘレスポントスで戦闘を行い、敵のクラテロス・ネオプトレモスの両将を戦死させた。しかし、クラテロスはマケドニア人の間で絶大な人気があったために、クラテロスを殺したエウメネスは栄誉より反感を買うこととなった。またその2日間には、プトレマイオスを攻めてエジプトに遠征中だったペルディッカスが配下の将軍たちの裏切りによって暗殺されており、後ろ盾を失ったエウメネスは同年のトリパラディソスの軍会で、庇う者なく討伐を宣告された。エウメネスは帝国全軍総司令官として追討の任に就いたアンティゴノスと戦うも、残った他のペルディッカス派の諸将との連携に失敗するなどして追い詰められ、カッパドキアのノラに包囲された。

ジャン・コクトー(1889~1963)

恐るべき子供たち 1929年コクトーが40歳の時に書き上げた小説であり、代表作の一つに数えられる作品。コクトーはこの作品をアヘン中毒の治療のために入院している時に、わずか3週間足らずで書き上げたとされる。エリザベートとポールの姉弟2人だけで暮らす世界が、ダルジュロスという美しい少年との出会いで崩壊して行く物語で、コクトーは己の運命の受諾というテーマを訴えている。コクトーは、小説だけではなく、詩や小説・映画・批評など、あらゆるジャンルの文学に精通しているが、その中でも『恐るべき子供たち』は古典文学の悲劇を思わせる、最もコクトーらしさが出ている作品ともいえる。

マッテーオ・マリーア・ボイアルド(1434~1494)

恋するオルランド 『恋するオルランド』は、主にオルランドの恋と冒険を描いている。素材としてはシャルルマーニュ伝説や、アーサー王物語を題材とした上で、ボイアルド自身の創作を書き加えている。単一の物語を語るのではなく、複数のエピソードが複合的に語られる形式を採用している。主なエピソードとしては、アンジェリカを巡りオルランドをはじめとする騎士が彼女の愛を求めるエピソード、さらにオルランド達はアンジェリカの父に協力しカタイの都市、アルブラッカを包囲するタタール人と戦ったりもする。終盤では、ムーア人はパリを包囲し、シャルルマーニュ軍と戦闘を繰り広げる。

夏侯惇(不明~220)

博望坡の戦い 魏志の「李典伝」と蜀志の「先主伝」に記録がある。魏志では、袁尚を攻撃するため軍を北上させた曹操の留守に乗じ、荊州の劉表が劉備に命じて侵攻した。曹操は夏侯惇に于禁・李典をつけて劉備を防がせたとあり、蜀志では、劉表は劉備を手厚く扱い兵を増増やして新野に駐屯させた、荊州の豪傑たちは日ごとに劉備の下に集まるなど声望を集めていた劉備のことを警戒し防備を固める一方、その軍事力を利用するため、劉備に命じて夏侯惇と于禁を博望の地で防がせたとある。両者は荊州の重要拠点である宛城の北でやや距離をもって対陣していた。

ベーダ・ヴェネラビリス(672~735)

イングランド教会史~クラレンドン法~ スティーブン王の死後、生前の約束通りヘンリー2世が即位してプランタジネット朝を開いた。新国王はイングランドの無秩序状態を収拾するため、法律を整備する必要性を感じ、裁判制度の改革に乗り出した。イングランドでは、ウィリアム1世時代に世俗の裁判所と教会裁判所が分離されており、聖職者は教会裁判所で裁くこととされていた。これは聖職者の特権と見なされていたが、国王裁判所では死罪に当たるような罪でも、教会裁判所では軽い罰で済んだために、獄吏を買収して剃髪して詐って聖職者を名乗り、刑を軽くするような法の抜け道が存在していた。ヘンリーは法の公正な執行のために、聖俗で刑罰が異なるこの法制度を改革することを意図し、クラレンドン法を制定し、教会裁判所で聖職者が裁かれ聖位を剥奪された場合は国王裁判所で改めて俗人として裁くことができるし、国王の許可無く聖職者が教皇へ上訴することを禁じた。

小野友五郎(1817~1898)

小笠原測量と軍艦建造 同年7月、軍艦頭取となり、正式に幕臣となる。異国船防備のため江戸湾測量を行う。また中浜万次郎が小笠原諸島の領有・捕鯨基地化を提案し、アメリカやイギリスが同島の領有権を主張し始めたこともあり、同島嶼の精密な調査が必要となっていた。そのため、外国奉行水野忠徳を長とする調査団が小笠原諸島に派遣されること事となり、咸臨丸がその任に就いた。これに関して小野が咸臨丸艦長に任ぜられ、同諸島の測量を行った。この測量が、小笠原諸島の日本領有の大きな手がかりとなる。

沢村栄治(1917~1944)

プロ入り後 プロ野球リーグが始まる前の1935年、第一次アメリカ遠征に参加。21勝8敗1分けの戦績を残す。同じ年の国内での巡業では22勝1敗。翌1936年の第2次アメリカ遠征でも11勝11敗をあげている。そしてプロ野球リーグが開始された1936年秋に中山武とのとのばってりーで史上初のノーヒットノーランを達成する。同年12月、大阪タイガースとの最初の優勝決定戦では3連投し、巨人に初優勝をもたらした。1937年春には24勝・防御率0.81の成績を残して、プロ野球史上初となるMVPに選出した。さらにこの年は2度目のノーヒットノーランも記録するなど、黎明期の巨人・日本プロ野球界を代表する快速球投手として名を馳せた。特にタイガースの豪打者である景浦將とは良きライバルで、名勝負を繰り広げてファンを沸かせた。

藤原忠平(880~949)

延喜の治 時平は、醍醐天皇の前代宇多天皇の政治方針を継承した。宇多天皇の政治は、権門を抑制し、小農民を保護するという律令制への回帰を強く志向していたが、時平もこの方針を受け継ぎ、例えば時平執政期の902年には班田を励行する法令が発布されている。同様に、この時期に行われた延喜格式の編纂も律令制回帰を目的としたものであった。ただ、現実には百姓層の階層分化が著しく進んでおり律令制的な人別支配はもはや不可能な段階に至っていたため、延喜の治は必ずしも成功したとは言えなかった。結果的には延喜の治は律令制復活の最後の試みとなり、次代の朱雀天皇および藤原忠平の治世から、律令制支配は完全に放棄されることとなり、新たな支配体制=王朝国家体制の構築・充実が進展していったのである。

島田三郎(1852~1923)

島田三郎の経歴 帝国議会開設後は、神奈川県第一区選出の衆議院議員として連続14回当選し、副議長、議長を務めた。進歩党、憲政党、憲政本党、立憲国民党と立憲改進党系の諸党を渡り歩くが、犬養毅との対立から大石正巳らとともに桂新党に入り、後に憲政会に合流する。だが、憲政会が人道や軍縮に積極的ではないとして同党を離党して、立憲国民党の解散を余儀なくされていた犬養と和解して新党革新倶楽部の結成に参加した。

護良親王(1308~1335)

護良親王の生涯 後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良親王は征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛し、尊氏は鎮守府将軍となった。建武政権においても尊氏らを警戒していたとされ、縁戚関係にある北畠親房とともに、東北地方支配を目的に、義良親王を長とし、親房の子の北畠顕家を陸奥守に任じて補佐される形の陸奥将軍府設置を進言して実現させた。

穴穂部間人皇女(不明~622)

聖徳太子の生母 用明天皇の妃であった時に、諸司巡行中、厩の戸口で厩戸王を難なく出産したという『日本書紀』の逸話は有名であるが、これは中国に伝来したキリスト教の異端派である「景教」がもたらした新約聖書の福音書にある「キリストの降誕」を元にしたとの説があるなど、史実かどうか疑われている。実際厩戸は地名に由来するとの説もある。なお、天寿国繍帳左上の亀形に「部間人公」の4字が確認できるが、これは人名「孔部間人公主」の一部で、穴穂部間人皇女のことだと考えられる。

エリザベート・ド・ヴァロワ(1545~1568)

スペイン王妃 14歳の時、フランス=スペイン間で締結されたカトー・カンブレジ条約に従って、彼女はフェリペ2世の元へ輿入れすることになった。フェリペ2世はエリザベートより18歳年上で、彼は長男ドン・カルロスの婚約者であったエリザベートに求婚したのだった。フェリペより遣わされたアルバ公爵を代理人とした結婚式は、1559年6月22日、パリのノートルダム大聖堂で行われた。彼女の結婚式の祝宴は、実父アンリ2世が馬上槍試合によって偶発的に右目を貫かれ亡くなるという悲劇的な事故につながった。

グナエウス・ドミティウス・コルブロ(7~67)

パルティアとの戦い 任期を終え、帰還したコルブロは52年までローマに留まり、アシア属州の総督に任命される。54年にクラウディウスが没しネロが皇帝となると彼は東方属州に派遣され、アルメニアにおけるパルティアとの紛争に対処する事となる。しかし指揮系統が二分され命令だったために、使える戦力も権限も不十分であり続けた。準備に数年間をかけた後、58年にゲルマニアから援軍を要請した上でアルメニアに侵攻、アルメニア王トリダテスとパルティア王ヴォロガセス1世と戦い、親ローマ派の王を擁立する事に成功した。しかしながら61年に今度は親ローマのアルメニア王国がパルティア内のアディアバネ王国に侵攻したため、ローマとパルティアの戦争は不可避になるかに思われた。しかしヴォロガセス1世は和議を選択、両者は和平に至った。その内容は、ローマが擁立した親ローマ派の王を廃位、アルメニア王ティリダテス1世の領地を承認するというものであった。

淵田美津雄(1902~1976)

太平洋戦争~連合艦隊~ 1944年5月、あ号作戦準備中にビアクに米軍が上陸すると、連合艦隊司令部は作戦命令方針に背き独断で決戦兵力をビアクに投入した。軍令部は現場の意向に従い5月29日、渾作戦が開始する。しかし11日、マリアナに米機動部隊が来攻し、13日、連合艦隊司令部はあ号作戦用意発令を強化し、混乱で戦力を消耗したまま19日、マリアナ沖海戦が開始される。空母3隻と航空戦力の大半を失って敗北する。

長井雅楽(1819~1863)

航海遠略策 航海遠略策は、江戸時代末期に浮上した政治・外交思想。後述するように長州藩の長井雅楽が1861年頃に提唱したものが特に有名である。他に佐久間象山、吉田松陰や平野国臣ら先駆的な思想家も同様な主張をしていたが、具体的な建白書の形にし、政治運動にまで盛り上げたのは長井によるものである。異人斬りに象徴される単純な外国人排斥である小攘夷や、幕府が諸外国と締結した不平等条約を破棄させる破約攘夷ではなく、むしろ積極的に広く世界に通商航海して国力を養成し、その上で諸外国と対抗していこうとする「大攘夷」思想に通じる考えで、その精神自体は後の明治維新の富国強兵・殖産興業などにも影響を与えたとも言えるが、この時点においては実行手段の具体性に欠け、また急速な尊王攘夷運動の高まりもあって、大きな政治運動となる前に挫折した。

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(1266~1308)

思想 トマス・アクィナスと異なり、スコトゥスは神学を「人間を神への愛に導く実践的な学問」であると考えた。また個物に本質を見出したアリストテレスから一歩進んで、存在が個物においてのみ成り立つと考えたところにスコトゥスの思想の特徴がある。さらには必然的なものである自然と、必然的なものでない意思の自由をわけて考えたスコトゥスにとって、人間の幸福は神を直観することではなく神を愛することにあった。この考えは近代の主体主義のルーツとなっていく。個人の自由意志を尊重する学説を提唱したが、この自由意志こそが個人を個人として成立させる「このもの性」であると説いた。存在の一義性や、個物の此の性の概念は、現代の哲学者ジル・ドゥルーズに、大きな影響を与えた。

アブー・ザカリーヤー1世(1203~1249)

勢力の拡大 ザカリーヤーはコンスタンティーヌ、ビジャーヤ、アルジェなどのイフリーキヤの主要都市を占領し、東方のトリポリタニアの全沿岸部を支配下に置いてハフス朝の基礎を築く。1242年にザイヤーン朝の首都トレムセンを占領し、ザイヤーン朝の王ヤグムラーサン・イブン・ザイヤーンに臣従を誓わせてトレムセンを返還した。ハフス朝と同じくムワッヒド朝から独立したマリーン朝とナスル朝も彼の宗主権を認め、かつてのザカリーヤーの任地だったセビリアは1242年から1246年の間ハフス朝から派遣された総督を受け入れていた。

山尾庸三(1837~1917)

明治政府出仕 1868年に帰国。帰国後に明治政府に出仕し、横須賀製鉄所担当権大丞となった。鉄道技師長のエドモンド・モレルの提案を受けて伊藤博文とともに1870年工部省の設立に勤めた。1871年、工部省が10寮1司体制で始動すると、岩倉使節団副使として外遊する工部大輔の伊藤博文に代わり工部省をまとめあげるとともに、工学寮と測量司の長に就任。日本最初の実務技術者養成機関である工学校の創設に尽力し、この工学校は1877年に工部大学校と改められ、のちの東京大学工学部の前身となった。工部権大丞・工部少輔・工部大輔を経て、1880年工部卿に就任するなど、工学関連の重職を任された。また、参議院議官・参議院副議長も務めた。1885年に新たに創設された法制局の初代長官、宮中顧問官も務めている。1887年5月24日に子爵となる。

村野四郎(1901~1975)

ハーメルンの笛吹き男 1284年、ハーメルンの町にはネズミが大繁盛し、人々を悩ませていた。ある日、町に笛を持ち、色とりどりの布で作った衣装を着た男が現れ、報酬をくれるなら街を荒らしまわるネズミを退治してみせると持ちかけた。ハーメルンの人々は男に報酬を約束した。男が笛を吹くと、町じゅうのネズミが男のところに集まってきた。男はそのままヴェーザー川に歩いていき、ネズミを残らず溺死させた。しかしネズミ退治が済むと、ハーメルンの人々は笛吹き男との約束を破り、報酬を払わなかった。

壬生忠岑(860~920)

古今和歌集 風吹けば峰にわかるる白雲の絶えてつれなき君が心か 有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし 春日野の雪間を分けて生き出てくる草のはつかに見えし君はも

中勘助(1885~1965)

銀の匙 私の書斎のいろいろながらくた物などいれた本箱の抽匣に昔からひとつの小箱がしまつてある。それはコルク質の木で、板の合せめごとに牡丹の花の模様のついた絵紙をはつてあるが、もとは舶来の粉煙草でもはひつてたものらしい。なにもとりたてて美しいのではないけれど、木の色合がくすんで手触り柔いこと、蓋をするとき ぱん とふつくらした音のすることなどのために今でもお気に入りの物のひとつになつてゐる。

ジョージ・マーシャル(1880~1959)

マーシャル・プラン~トルーマン・ドクトリン~ この教書の中でトルーマンは、世界のほぼ全ての国々が否応なく「2つの生活様式」、即ち自由主義と全体主義の選択を迫られているという二元論的な外交理念を提示すると同時に、「武装した少数者や外部からの圧力による征服の試みに抵抗している自由な諸国民を支持することこそ合衆国の政策でなければならないと信じる」と語った。そして、ギリシャやトルコが全体主義者の手に落ちればその影響は両国のみに留まらないと主張し、両国に対する経済的・軍事的援助として、1948年6月末までに4億ドルの支出と民間人・軍人の派遣を認めるよう議会に要請した。

ルイス・デ・カモンイス(1524~1580)

ウズ・ルジアダス ウズ・ルジアダスはポルトガル最大の詩人と言われるルイス・デ・カモンイスによる叙事詩である。大航海時代におけるポルトガルの海外進出と栄光を、ホメーロスを模した雄大な作風で描く。初版の出版は、作者が東方航海から帰還して3年後の1572年。この作品はムーア人との戦争が激化する中で生まれた。ユーラシア大陸最西端のロカ岬の碑文に刻まれた「ここに地終わり海始まる」という言葉は、この作品の第3詩20節から取られている。

ジャン=イシドール・アリスプ(1768~1855)

ナポレオン戦争 第3次対仏大同盟が結成された時、アリスプはオージュローの指揮下で大西洋沿岸に勤務していた1805年及び1806年の戦いではディスジャーディン地方で活躍した。イェナの戦いでアリスプは負傷した。1807年1月にアリスプは准将に任命された。スールトの指揮下に転属になった後、ベルティエの指揮下の旅団を預けられた。ハイルスベルクの戦い及びフリーラントの戦いにおいて活躍して有名になったが、ここで再び負傷することとなった。

劉安(前179~前122)

淮南子 『淮南子』は、前漢の武帝の頃、淮南王劉安が学者を集めて編纂させた思想書。日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。『淮南鴻烈』ともいう。劉安・蘇非・李尚・伍被らが著作した。