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投稿

6月, 2022の投稿を表示しています

青江三奈(1941~2000)

「伊勢佐木町ブルース」 「伊勢佐木町ブルース」のイントロの青江による『色っぽい吐息』は、元々楽譜にはなかった。レコーディング時にスタッフから「伴奏のみイントロがちょっと寂しい」との意見が出た。そこでディレクターが試しに青江にテキトーに声を出してもらった所、別のスタッフから「もっと色っぽくしてみよう」との案が出て『色っぽい吐息』を追加することが決まった。

ウィリアム・キャクストン(1415~1492)

出版者として キャクストンは、騎士道物語、古典、イングランドやローマの歴史書などを出版した。それらの本は15世紀後半のイングランド上流階級の人々に受け入れられた。キャクストンはそれら上流階級の人々の支援を受けたが、それに依存したわけではない。

奈良光枝(1923~1977)

白いランプの灯る道 通いなれた歩きなれたしき石道よ今宵別れの霧が降るさよならさようなら涙見せずに別れましょうよ銀杏並木に霧が降る白いランプ灯る道を肩すり寄せて今宵かぎりのアンブレラさよならさようなら胸にひびくは別れの唄よ遠い汽笛に夜が更けるあの日あの夜みんな夢のしき石道よ今宵別れの霧が降るさよならさようなら生きていたならまた逢いましょうこれが最後と云わないで

ラーマ・ラーヤ(1485~1565)

王国の実権掌握 1542年、アチュタ・デーヴァ・ラーヤの死後、その息子ヴェンカタ1世が王位を継承した。だが、宮廷の実力者ラーマ・ラーヤはその継承に反対し、アチュタ・デーヴァ・ラーヤの弟にあたるランガ・ラーヤの息子サダーシヴァ・ラーヤを王として擁立するに至り、グッティにいた彼を迎えることとした。

津村謙(1923~1961)

上海帰りのリル 船を見つめていたハマのキャバレーにいた風の噂はリル上海帰りのリルリルあまい切ない思い出だけを胸にたぐって探して歩くリルリル何処に居るのかリルだれかリルを知らないか黒いドレスをみた泣いていたのを見た戻れこの手にリル上海帰りのリルリル夢の四馬路の霧降る中でなにもいわずに別れたひとみリルリル一人さまようリルだれかリルを知らないか海を渡ってきたひとりぼっちできた望み捨てるなリル上海帰りのリルリル暗き運命は二人で分けて共に暮らそう昔のままでリルリル今日も逢えないリルだれかリルを知らないか

グレゴリオ・アレグリ(1582~1652)

ミゼレーレ ローマ教皇ウルバヌス8世の治世下である1630年代に作曲されたと推定される。システィーナ礼拝堂にて、聖週間の水曜日から金曜日にかけて行われる朝課のなかでも特別な礼拝である「暗闇の朝課」に際して用いられた。「暗闇の朝課」の儀式は通常午前3時ころから始まり、蝋燭の灯りを1本ずつ消してゆき、最後の1本が消されるまで続く。アレグリは、「暗闇の朝課」の最初の読唱の終わりに演奏されることを念頭に作曲した。

東辰三(1900~1950)

君待てども 君待てども君待てどもまだ来ぬ宵わびしき宵窓辺の花一つの花蒼白きバラいとしその面影香り今は失せぬ諦めましょう諦めましょうわたしはひとり君待てども君待てどもまだ来ぬ宵朧の宵そよふく風冷き風そぞろ身に沁む待つ人の影なく花片は舞い来る諦めましょう諦めましょうわたしはひとり君待てども君待てどもまだ来ぬ宵嘆きの宵そぼふる雨つれなき雨涙にうるむ待つひとの音なく刻む雨の雫諦めましょう諦めましょうわたしはひとり

アダン・ド・クラポンヌ(1526~1576)

クラポンヌ運河 クラポンヌ運河は、フランスにある灌漑用水路。16世紀の技師アダン・ド・クラポンヌによって建設された。クロー平野を肥沃にする上で大きく貢献した。現在のクロー平野には複数の運河が流れるが、その中では最古に属する。1554年に着工し、1581年に完成した。

北尾政美(1764~1824)

隅田川図屏風

アンドレ・ボーシャン(1873~1958)

  川辺の花瓶の花

吉川静夫(1907~1999)

ひとり酒場で ひろい東京にただ一人泣いているような夜が来る両手でつつむグラスにも浮かぶいとしい面影よ夜の銀座で飲む酒はなぜか身にしむ胸にしむ嘘で終わった恋なんか捨てて忘れてしまいたい男の意地もおもいでも流せ無情のネオン川夜の銀座で飲む酒はなぜか身にしむ胸にしむ暗い東京の酒場でも夢があるから酔いにくる今夜はとても淋しいとそっとあの娘が言っていた夜の銀座で飲む酒はなぜか身にしむ胸にしむ

ロラン・バルト(1915~1980)

作者の死 バルトがここで批判するのは、作品の意味を作者の人格や思想に帰着させようとする近代的な作者観である。バルトによれば、中世の書き手は過去の文献を集めて編纂し注釈を加えるものであり、近代的な意味での作者とは異なっていた。バルトはポストモダンの現代に至って近代の作者観は崩れていくと考えた。

服部良一(1907~1993)

青い山脈 若く明るい歌声に雪崩は消える花も咲く青い山脈雪割桜空のはて今日もわれらの夢を呼ぶ古い上衣よさようならさみしい夢よさようなら青い山脈バラ色雲へあこがれの旅の乙女に鳥も啼く雨にぬれてる焼けあとの名も無い花もふり仰ぐ青い山脈かがやく嶺のなつかしさ見れば涙がまたにじむ父も夢見た母も見た旅路のはてのそのはての青い山脈みどりの谷へ旅をゆく若いわれらに鐘が鳴る

ジェームズ・ガーフィールド(1831~1881)

政治経歴 1863年には下院議員に選任され、再び政界入りした。彼は1878年まで2年ごとに再選された。この時代は、「金ぴか時代」と呼ばれ産業の発展により様々な業種で合併が進み、独占資本が形成されたが政財界の癒着が強まり汚職事件が多発した。

佐伯孝夫(1902~1981)

いつでも夢を 星よりひそかに雨よりやさしくあの娘はいつも歌ってる声がきこえる淋しい胸に涙に濡れたこの胸に言っているいるお持ちなさいないつでも夢をいつでも夢を星よりひそかに雨よりやさしくあの娘はいつも歌ってる歩いて歩いて悲しい夜更けもあの娘の声は流れくるすすり泣いてるこの顔上げてきいてる歌の懐しさ言っているいるお持ちなさいないつでも夢をいつでも夢を歩いて歩いて悲しい夜更けもあの娘の声は流れくる言っているいるお持ちなさいないつでも夢をいつでも夢をはかない涙をうれしい涙にあの娘はかえる歌声で

アガート・ウィリンジイマナ(1953~1994)

首相代行として ハビャリマナ大統領はウィリンジイマナを首相に任命してから18日後に彼女を公式に解任したが、彼女は8ヶ月後の1994年4月に暗殺されるまで首相代行の任に留まった。この間彼女はMDRを含む全てのフツ系政党から激しく批判され続け、ハビャリマナ大統領の与党も1994年1月に記者会見を開いてウィリンジイマナを「政治的異端児」だとして攻撃した。

安野光雅(1926~2020)

シンデレラ 「ほーらね、あたしゃ、魔法使いなんだよ。鼠が馬になり家守はお付きの兵隊さんになったでしょう。見て頂戴。貴方の着ているドレスだって何処のお姫様にも負けない筈だからね」

モーリス・ドリュオン(1918~2009)

みどりのゆび 裕福に暮らすチト少年。お父さんが兵器を作る人だったことを知り、驚きます。じぶんが不思議な〈みどりのゆび〉をもっていることに気づいた少年は、町じゅうに花を咲かせます。チトってだれ?

風魔小太郎(生没年不詳)

『北条五代記』の風魔 1641年刊の三浦浄心『北条五代記』によると、1581年に北条氏直が黄瀬川で武田勝頼・信勝の軍勢と対陣したとき、氏直が扶持した乱波の1人・風广は「四頭」と200人の徒党を率い、武田の陣に夜討ちをして相手を苦しめた。

レスリー・ウェスト(1945~2020)

マウンテン~キャリア~ 1968年、巨漢のギタリスト、レスリー・ウェストと、クリームのプロデュースで知られるベーシスト、フェリックス・パパラルディが知り合ったことが、後のグループ結成へのいきっかけとなった。

平野愛子(1919~1981)

港が見える丘 あなたと二人で来た丘は港が見える丘色あせた桜唯一つ淋しく咲いていた船の汽笛咽び泣けばチラリホラリと花片あなたと私に降りかかる春の午後でしたあなたと別れたあの夜は港が暗い夜青白い灯り唯一つ桜を照らしてた船の汽笛消えて行けばチラリホラリと花片涙の雫にきらめいた霧の夜でしたあなたを想うて来る丘は港がみえる丘葉桜をソヨロ訪れるしお風浜の風船の汽笛遠く聞いてうつらとろりと見る夢あなたの口許あの笑顔淡い夢でした

アーヴィング・バーリン(1888~1989)

「God bless America」と「ホワイト・クリスマス」 1915年にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると、慰問ミュージカルショーのために数々の作品を手がけるようになり、この頃に後に「第二の国歌」と呼ばれるようになった『ゴッド・ブレス・アメリカ』を作詞、作曲する。なお、その後アメリカが参戦した第二次世界大戦にも慰問を行っており、「ゴッド・ブレス・アメリカ」はこの第二次世界大戦以来再認識され、広く知られるようになった。

小松政夫(1942~2020)

芸能界デビュー 小松のコメディアンとしてのデビューは、付き人時に出演した『シャボン玉ホリデー』であった。この番組に出演したきっかけは、同番組に出演していた植木に付いていった際、休憩中にメンバー及びスタッフと談笑していた際にふとしたことからセールスマン時代のエピソードを披露したことによる。その時に当時の課長の真似をして「見ろ!お前のせいで怒られちゃったじゃないか。もう、知らない、知らない、知らなぁーい、もー!」とオカマっぽく体をクネクネさせながら言った芝居がプロデューサーの目に留まり、翌日の収録時には台本に小松の出番が設けられていたという。

フェリックス・パパラルディ(1939~1983)

勝利への登攀 『勝利への登攀』は、アメリカ合衆国のハードロック・バンド、マウンテンが1970年に発表したスタジオ・アルバム。レスリー・ウェストがソロ名義で発表した『マウンテン』に続くウェストとフェリックス・パパラルディの共作アルバムで、バンドとしての正式なデビュー作に当たる。

板部岡江雪斎(1537~1609)

小田原合戦 6巻本『北条記』の「川上喜助聞書」によると、小田原合戦で小田原城を明け渡すことになったとき、本丸に居て、秀吉の使者として来た成瀬伊賀守への申し開きを拒んだため「はがい付」にされて秀吉の前に引き出されたが、「北条氏に違背はなく、氏邦家中の者が意図せず違乱に及んだと申し開き致しましたが、御了解頂けませんでした。運が尽きたということでしょう。天下の大軍の包囲にあって100日余籠城を続け、十分面目を施しました。別に申し上げるようなこともございませんので、思いのままに首をお刎ねになってください」と言い、秀吉によって赦免された。その後、山岡道阿弥と共に召し出されて秀吉の御伽衆となり、姓を「岡」と改めた。岡野と改めた。

カレル・チャペック(1890~1938)

長い長いお医者さんの話 チェコの文豪カレル・チャペックの楽しい童話集。しんせつな町のお医者さんたちや、はたらき者の郵便屋さんが活躍するしゃれたおとぎ話9編を、兄ヨセフのゆかいな挿し絵が飾ります。

石本美由起(1924~2009)

悲しい酒 ひとり酒場で飲む酒は別れ涙の味がする飲んで棄てたい面影が飲めばグラスにまた浮かぶああ別れたあとの心残りよ未練なのねあの人の面影淋しさを忘れるために飲んでいるのに酒は今夜も私を悲しくさせる酒よどうしてどうしてあの人をあきらめたらいいのあきらめたらいいの酒よこころがあるならば胸の悩みを消してくれ酔えば悲しくなる酒を飲んで泣くのも恋のため一人ぼっちが好きだよと言った心の裏で泣く好きで添えない人の世を泣いて怨んで夜が更ける

アルフォンソ1世(1073~1134)

武人王 さらに、権威が揺らいだムラービト朝の足元を見透かしてモサラベがアルフォンソ1世に内通し蜂起を約束、1125年9月にアルフォンソ1世はこれに応えてアンダルシアまで長距離遠征を敢行、バレンシア、ムルシアなどを略奪して通過、1126年1月にグラナダに達した。モサラベの蜂起は起こらなかったが、アルフォンソ1世は1万人のモサラベを連れて帰りエブロ川流域に定住させた。残ったモサラベはムラービト朝に迫害されたが、この遠征でアリーの威信は失墜、反対にアルフォンソ1世の名声は増した。

江口夜詩(1903~1978)

轟沈 可愛い魚雷と一緒に積んだ青いバナナも黄色く熟れた男世帯は気ままなものよ髭も生えます髭も生えます無精髭針路西へと波また波の飛沫厳しい見張りは続く初の獲物に何時の日会える今日も暮れるか今日も暮れるか腕が鳴る轟沈轟沈凱歌が挙がりゃつもる苦労も苦労にゃならぬ嬉し涙に潜望鏡も曇る夕陽の曇る夕陽のインド洋昇る朝日に十字の星に思い遙かな緑の基地よ戦友も笑顔で待っててくれる故郷の便りも故郷の便りも待っている

イサーク・アルベニス(1860~1909)

スペインの歌~第3曲~ 「椰子の木陰で」の題名で親しまれている。変ホ長調。4分の2拍子。簡単な序奏のあと、右手が緩いオクターブを歌う。同主調に転調が多く調性が不安定。