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北白川宮能久親王(1847~1895)

明治時代 1869年9月4日に処分を解かれ、伏見宮に復帰し終身禄三百石を賜った。この頃は幼名の伏見満宮で呼ばれた。1870年10月10日に熾仁親王との同居を命じられ、閏10月28日には太政官に対してイギリスへの海外留学を願い出ている。11月4日には宮号を称することが認められ、能久の諱に戻った。12月にプロイセン留学に出発した。留学中の1872年3月、早世した弟の北白川宮智成親王の遺言により北白川宮家を相続した。

ゾフィー(1805~1872)

皇帝の母として 1848年革命の波がオーストリア帝国にも襲いかかると、ゾフィーは君主政を護持することを強く決意した。大公妃は才知と精力を備えた有能な女性であり、息子のフランツ・ヨーゼフ1世の治世初期には、ウルトラモンタニズムに代表される保守主義の庇護者として、オーストリア帝国の政治に絶大な影響力を及ぼした。帝国の臣民たちは、ゾフィーを密かに「宮廷内のただ一人の本物の男だ」と評していた。ゾフィーが皇帝の母として大きな権力を持った時代に、抑圧されたハンガリー人はゾフィーを激しく憎悪した。ゾフィーを嫌っていた嫁で姪の皇后エリーザベトは、機会あるごとに姑を嫌うハンガリー人を贔屓にすることで、姑に反抗しようとした。

和田惟政(1530~1571)

惟政とキリスト教 惟政はキリスト教を自領内において手厚く保護したことが、『フロイス日本史』に詳細に書かれている。フロイスが織田信長と会見するときに仲介役を務めたほか、教会に兵を宿泊させないよう他の武士たちに働きかけたり、内裏が伴天連追放の綸旨を出すとそれを撤回させようとしたり、宣教師をむりやりにでも自分の上座に座らせたりと、大変な熱意だったようである。畿内におけるキリスト教の布教にも積極的に協力した。しかし、惟政自身は洗礼の儀式を受ける前に戦死したために、その死をフロイスは大変嘆いた。なお、キリスト教と出会う前は禅宗に属していたといわれる。墓所は大阪府高槻市の伊勢寺。享保年間に高槻城を改修したときに墓石が発見され、移されたといわれている。

エンゲルベルト・フンパーディンク(1854~1921)

ヘンゼルとグレーテル~第1幕~ 貧しいほうき職人の夫婦ペーターとゲルトルート、2人の子供のヘンゼルとグレーテルが住んでいた。ある日、留守番をしていた兄妹が言いつけられた仕事に飽き、遊んでいるところにゲルトルートが帰宅する。子供たちが仕事もせずに遊んでいることに腹を立てたゲルトルートは、ヘンゼルにお仕置きをしようとして、ミルクの入ったつぼを割ってしまう。唯一の食料がなくなり困ったゲルトルートは、子供たちを森へいちごを摘みに行かせる。

石牟礼道子(1927~2018)

苦海浄土 『苦海浄土』は、石牟礼道子による長編小説である。いくつかの雑誌連載を経て1969年、講談社刊。水俣湾に排出された工業廃水に含まれた汚染物質・水銀が自然や人間に与える破壊的な影響を患者やその家族の苦しみが描かれる。1970年に木村栄文が監督となり、映画化された。日本語以外に英語にも翻訳されている。

ジョセフ・グリマルディ(1778~1837)

コベントガーデン時代 1806年、グリマルディはフィンチリーのコテージをセカンドハウスとして購入し、劇場シーズンの合間はそこで過ごした。ダブリンのアストリーズ劇場と、トマス・ディブディンとその兄弟チャールズの戯曲に出演する契約をした。ディブディン兄弟がこの劇場を借りたが、大がかりな修繕を必要としていた。その結果、観客数が少なく、興行面での実入りが少なかった。グリマルディは劇場の改修のために給与を寄付した。ディブディンの劇団はグリマルディと共に近くのクロウ通り劇場に移り、アストリーの支援で慈善音楽会を開催した。その後2作を上演し、ロンドンに戻った。

中村久子(1897~1968)

見世物小屋を辞めてから晩年まで 50歳頃より、執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を始め、全国の身障者および健常者に大きな生きる力と光を与えた。久子は講演で全国を回る中で自分の奇異な生い立ちを語るとともに、自分の体について恨む言葉も無く、むしろ障害のおかげで強く生きられる機会を貰ったとして「『無手無足』は仏より賜った身体、生かされている喜びと尊さ」と感謝の言葉を述べ、「人間は肉体のみで生きるのではなく、心で生きるのだ」と語っている。1950年54歳の時、高山身障者福祉会が発足し初代会長に就任する。65歳の時、厚生大臣賞を受賞した。

ウィリアム・ローワン・ハミルトン(1805~1865)

ハミルトン力学 ハミルトン力学は、一般化座標と一般化運動量を基本変数として記述された古典力学である。イギリスの物理学者ウィリアム・ローワン・ハミルトンが創始した。ラグランジュ力学と同様にニュートン力学を再公式化した解析力学の一形式。

上野英三郎(1872~1925)

忠犬ハチ公の飼い主 1899年、政府は「耕地整理法」を制定し、その翌年より耕地整理事業が着工されることになったが、当時は農業土木学の専門技術者が皆無の状態で、農業土木を研究していた唯一の学者が上野であった。そこで、上野は耕地整理の研究を進めながら、各地へ出かけて講演や技術指導を続けた。また、1905年には農商務省委託の農業土木技術員養成官の任務に就き、その後20年間に亙って3,000人を越える技術者の育成に努めた。上野から指導を受けた技術者は、1923年の関東大震災後の帝都復興事業において重要な役割を占めた。

スライマーン・イブン・クタルミシュ(不明~1086)

ルーム・セルジューク朝~建国初期~ 建国者のスライマーン1世・イブン=クタルミシュは、セルジューク家の祖セルジュークの玄孫にあたる。スライマーンの父クタルミシュはアルプ・アルスラーンとセルジューク朝の王の地位を争うが、1063年のデヘ・ナマクの戦いで敗れ、敗走の途上で没した。敵対者の子であるスライマーンは命こそ助けられたが、王族としての扱いは受けられなかった。

筑紫哲也(1935~2008)

『筑紫哲也 NEWS23』メインキャスターとして 彼のジャーナリストとしての社会的な発言には、毀誉褒貶・賛否両論あったが、ニュースキャスターとしての手腕はこの番組で確実となり、以降は『ニュースステーション』のメインキャスター・久米宏と並び民放ニュースキャスターの顔として広く認知された。久米宏とは平日夜のニュース番組の視聴率を激しく争ったが「広島東洋カープ」という共通点があったため、日刊スポーツの企画で1991年の西武ライオンズと日本シリーズを仲良く観戦している。久米は「筑紫さんは戦争の歴史を刻んだ沖縄と広島に心を寄せ、地方球団、市民球団のカープを愛していました。筑紫さんは、"反中央"、"反権力"という自分の性格をカープに重ねたのではないか」と述べている。

スロボダン・ミロシェヴィッチ(1941~2006)

セルビア民族主義を鼓吹 彼は1974年のユーゴスラビア連邦憲法が共和国や自治州の権限を拡大しすぎたために連邦の結束が弱体化したと考え、セルビア人主体の連邦体制を維持するために憲法改正を目指した。それに反発したアルバニア系のムスリムの多いコソボ自治州で、セルビア人に対する迫害事件が生じると、その自治権を制限して独立運動を厳しく弾圧、セルビア人の保護を実行したのでセルビアでは高い人気を獲得した。その後、民族主義傾向を強め党内の穏健派、民主派を弾圧して権力を握り、その「大セルビア主義」はクロアチア人やムスリム人を刺激し、1991~2年のセルビアとモンテネグロ以外の4国の独立宣言の要因となった。ユーゴスラビア内戦およびボスニア内戦でもミロシェヴィッチはセルビア大統領、さらに新ユーゴの大統領として強硬路線を続け、クロアチアやボスニアのセルビア人勢力を支援した。

石室善玖(1294~1389)

平林寺 1375年、現在のさいたま市岩槻区平林寺に創建。開山は石室善玖、開基は大田備州沙弥・蘊沢。当初は臨済宗建長寺派。大徳寺派を経て妙心寺派の寺院となった。なお、蘊沢は、岩槻城主・太田道真と同一視されることがあるが、道真は平林寺創建の時点ではまだ生まれていない。

ボリス・パステルナーク(1890~1960)

ドクトル・ジバゴ 『ドクトル・ジバゴ』は、ソ連の作家ボリス・パステルナークの小説。1957年出版。ロシア革命の混乱に翻弄される。主人公で医師のユーリー・ジバゴと恋人ララの運命を描いた大河小説。「戦争と革命の最中でも、人間は愛を失わない」内容でノーベル文学賞を授与された。

広瀬武夫(1868~1904)

『廣瀬中佐』の歌 轟く砲音、飛来る弾丸。荒波洗ふデッキの上に、闇を貫く中佐の叫び。「杉野は何処、杉野は居ずや」。船内隈なく尋ぬる三度、呼べど答へず、さがせと見へず、船は次第に波間に沈み、敵弾いよいよあたりに繁し。今はとボートに、移れる中佐、飛来る弾に、忽ち失せて、旅順港外恨みぞ深き、軍神廣瀬とその名残れど

フレデリック・ターナー(1861~1932)

ターナーのフロンティア学説 ターナーはシカゴ万国博覧会開催中の1893年7月12日、アメリカ歴史学会に提出し初めて出版された論文『アメリカ史におけるフロンティアの意義』の中の「フロンティア学説」で記憶されている。その中では、アメリカ合衆国の精神と成功は直接この国の西方への拡張に結び付けられると述べている。ターナーに拠れば、特異でごつごつしたアメリカの独自性が形成されたのは、開拓者の文明と荒野の荒々しさとが出遭ったときに起こった。このことで新しいタイプの市民が生まれた。すなわち荒野を手なづける力のある者や荒野が力と個性を与えた者だ。

児島高徳(不明~1383)

倒幕戦以後 高徳はこの先発隊に従軍していたものの、総大将・千種忠顕との作戦上での衝突が原因で別働隊を率い布陣を行う。この時大将の忠顕は功に逸り失敗、布陣途中であった高徳は先に後醍醐天皇方に回った足利高氏勢らの京都総攻撃に遅れをとり、戦功を挙げることなく退却し、備前児島へ帰還した。太平記では、この六波羅攻めの際の忠顕に対する高徳の激怒の様子が記されている。

カアフマヌ(1768~1832)

摂政として カメハメハ1世の死後、副王としてカメハメハ2世およびカメハメハ3世のクヒナ・ヌイを務める。1819年、カメハメハ2世の母ケオプオラニとともにハワイ王国における土着信仰として尊重されていた禁令制度、カプを撤廃した。タブーの廃止は自由を享受した人々が増えた反面、従来の階層構造、社会経済を支えていた秩序の崩壊につながった。

岡晴夫(1916~1970)

憧れのハワイ航路 晴れた空そよぐ風港出船のドラの音愉し別れテープを笑顔で切れば希望はてない遥かな潮路ああ憧れのハワイ航路波の背をバラ色に染めて真赤な夕陽が沈む1人デッキでウクレレ弾けば歌もなつかしあのアロハ・オエああ憧れのハワイ航路とこ夏の黄金月夜のキャビンの小窓を照らす夢も通うよあのホノルルの椰子の並木路ホワイトホテルああ憧れのハワイ航路

ルドルフ2世(880~937)

アルル王国 アルル王国は、旧ブルグント王国のあった地域に存在した王国。ブルグント王国とも呼ぶ。933年、ユーラブルグント王国のルドルフ2世がウーゴのキスユラブルグント王国を併合して成立した。この王国がアルル王国と呼ばれるのをアルルを首都としたためである。またアルルを首都とした後のキスユラブルグント王国もアルル王国と呼ばれることがある。地中海からライン川上流域までを領土とし、2015年年までのフランスのプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール、ローヌ=アルプ地域圏圏、フランシュ=コンテ地域圏、及びスイス西部とおおよそ一致する。独立した王がいたのは1032年までで、その後は神聖ローマ帝国の構成国家となった。

小泉信三(1888~1966)

小泉と共産主義 小泉は共産主義の批判者であったが、同時に共産主義を深く研究していた。小泉が社会主義に興味を持つ切っ掛けとなったのは、幸徳秋水等が処刑された大逆事件である。小泉は1920年代、河上肇やその弟子でのちに労農派の論客となる櫛田民蔵と激しく論戦を闘わせた。なお、恩師とされる福田徳三は1903年『国家学会雑誌』誌上で河上肇と論争を開始していた。

ジーン・ケリー(1912~1996)

MGM この後、たくさんのMGMの作品に出演し、ハリウッドの黄金時代を築いた。更に、監督・脚本・振り付けもこなすマルチな才能も見せ、まさにMGMの万能選手であった。代表作品には『雨に唄えば』、『踊る大紐育』、『巴里のアメリカ人』などがある。また、『錨を上げて』でMGMのカートゥーン「トムとジェリー」のジェリーと競演するシーンがある。

高松凌雲(1836~1916)

箱館戦争 しかし、その留学生活も1年半で幕を閉じることになる。徳川慶喜による大政奉還、そして、鳥羽・伏見の戦いの勃発など、日本が混乱状態に陥ったためである。凌雲が江戸湾に到着した時には、すでに幕府は崩壊し、江戸城は薩長勢に明け渡され、主君である慶喜は水戸で謹慎中という状態であった。凌雲は自分や兄を引き立ててくれた徳川幕府・慶喜への恩義に従い、蝦夷地に幕臣の国を作ろうとした榎本武揚らに合流。箱館戦争に医師として参加する。

サミュエル・ベラミー(1689~1717)

遭難 ウィダー号の遭難者のうち101体の遺体は陸に打ち上がり埋葬されたが、残り41人は行方不明のままだった。両船生存者9人は海賊行為の罪で起訴され、そのうち6人が1717年10月に絞首刑に処された。ジョージ1世による海賊への特赦が発せられた。残りのうち2名は海賊行為を強いられたという訴えが認められ釈放された。残り1人、ミスキート族との混血だったジョン・ジュリアンは奴隷と見なされ、マサチューセッツの名士、ジョン・クインシーに買われた。ジュリアンはその後逃走し、追跡してきた賞金稼ぎを殺害した罪で1733年に刑死した。

畑俊六(1879~1962)

太平洋戦争 1941年に支那派遣軍総司令官となり在職中の7月に、ドイツ軍の対ソ攻勢に呼応して関東軍特種演習が発動されて対ソ戦が企図されると、畑は野田謙吾総参謀副長及び松谷誠参謀を参謀本部に派遣し、「目下は鋭意支那事変解決に専念の要あり」と具申させ、対ソ戦発動中止の一因を作った。また、太平洋戦争の開戦に際しても、土橋勇逸総参謀副長と松谷参謀を再度参謀本部に派遣し、前回同様支那事変解決を優先すべきと意見具申したが、塚田攻参謀次長より「支那事変解決のためには米英の対蒋援助を遮断する必要がある」と反論され、具申は通らなかった。1944年に元帥となる。畑は日本陸海軍で最後に元帥府に列された軍人となった。

パウロ6世(1897~1978)

教皇~教会改革~ パウロ6世は公会議を全うさせ、その理念に基づく教会改革の実施に取り組んだ。また、パウロ6世の下でシノドスが初めて行われ、現代に至っている。教皇としてパウロ6世が1968年に発布した回勅「フマーネ・ヴィテ」は大きな論議を呼んだ。それはカトリック教会が人工的な産児制限を否定したためであった。この人口産児制限および司祭の独身性という二つの問題は、この時代に全世界で論議を呼び、教皇の頭を悩ませた。

桂文楽(1892~1971)

5代目柳亭左楽 8代目桂文治門下で翁家さん生を名乗っていたが師匠と反りが合わず、睦会移籍を巡って袂を別ち実質的に5代目柳亭左楽門下になり行動を共にした。極めて人望と政治力があり落語界に隠然たる勢力を誇った5代目左楽によって1917年翁家馬之助で真打昇進、1920年8代目桂文楽を襲名した。8代文楽襲名は5代目左楽によって強引に行われて非難を浴びることになった。5代目左楽からは芸よりも政治と帝王学を学んだ8代目文楽はのちに落語協会で長らくトップに君臨することになる。8代文楽襲名の経緯は年譜の1920年を参照。

アルフレッド・セイヤー・マハン(1840~1914)

海上権力史論~歴史研究~ この研究はシーパワーが欧米史においてどのような歴史的影響があったのかを論じるものである。歴史研究ではシーパワーの意義や重要性は明確に認識されてはいない。マハンはローマ史の研究を参考にしている。ポエニ戦争においてカルタゴに対してローマが勝利し、またナポレオン戦争においてフランスに対してイギリスが勝利したことから考えれば、海上の支配が勝者にあったという一致点が浮き彫りになる。しかし既存の研究で海洋に着目したものであり、海上権益を歴史の因果性の中で位置づけた研究は不十分であり、これを歴史研究を参照しつつ明らかにしようとするものである。パクス・ブリタニカと呼ばれるイギリス帝国の覇権の時代や、オランダ、スペイン、フランスの失敗などの歴史的事例を参考にしながらシーパワーの重要性を示している。

東海林太郎(1898~1972)

麦と兵隊 徐州徐州と人馬は進む徐州居よいか住みよいか洒落た文句に振り返りゃお国訛りのおけさ節ひげがほほえむ麦畠友を背にして道なき道を行けば戦野は夜の雨「すまぬすまぬ」を背中に聞けば「馬鹿を云うな」とまた進む兵の歩みの頼もしさ腕をたたいて遥かな空を仰ぐ眸に雲が飛ぶ遠く祖国をはなれ来てしみじみ知った祖国愛友よ来て見よあの雲を行けど進めど麦また麦の波の深さよ夜の寒さ声を殺して黙々と影を落して粛々と兵は徐州へ前線へ

ルドルフ・ヌレエフ(1938~1993)

ソ連生まれのバレエダンサー 1961年に、海外公演の途中に亡命。1963年ごろから英国ロイヤル・バレエのゲストとして20近く年上のマーゴ・フォンテインとペアを組み、後に伝説のパートナー・シップとまで言われるようになる。1964年にウィーン国立歌劇場で自身とフォンテインが出演する『白鳥の湖』の振り付けを担当したことをきっかけにウィーンに活動拠点を移し、1982年にオーストリア国籍を取得。

ニコライ(1836~1912)

東京時代 1872年1月に正教会の日本伝道の補佐として、ロシアから修道司祭アナトリイ・チハイが函館に派遣された。ロシア公使館が東京に開設されることになり、函館の領事館が閉鎖されたが、聖堂は引き続き函館に残されることになったので、ニコライはアナトリイに函館聖堂を任せて、1872年2月に上京し築地に入った。ニコライは仏教研究のために外務省の許可を得て増上寺の高僧について仏教研究を行った。

フランソワ=アンドレ・ダニカン・フィリドール(1726~1795)

チェコ歴 フィリドールがフランスにおけるチェスの中心地「カフェ・ド・レジャンス」でしばしばプレイするようになったのは1740年ごろのことであるが、それ以後1740年代を通して、偉大なイタリアの選手ジョアッキーノ・グレコ亡きあと最強のチェス・プレイヤーとみなされた。フィリドールはフランスで当時最高の選手であったレガルに師事した。はじめのうち、レガルはフィリドールに対してルーク落ちのハンデを与えていたが、わずか3年でフィリドールはレガルに匹敵する実力の持ち主となり、やがては師を凌いでいった。

平群広成(不明~753)

遣唐使節任命と渡唐 732年8月に第10次遣唐使の派遣が決定される。遣唐大使には前次の大使・多治比縣守の弟である多治比広成が、副使には中臣名代が、他に平群広成を含む判官4名、録事4名が任命された。9月になると近江・丹波・播磨・備中などの諸国に遣唐使船4隻の建造が命じられている。翌733年3月に大使の多治比広成ははじめ使節団は拝朝し、4月になって4隻の船に分乗して難波津を進発した。

ガスパル・デ・ポルトラ(1716~1786)

アルタ・カリフォルニア探検 1768年1月23日にカルロス王と副王の間で文書が交され、スペインが太平洋岸に沿って北へ支配を拡大し、早期の探検者であるフアン・ロドリゲス・カブリリョやセバスティアン・ビスカイノによって報告されていたサンディエゴ湾やモントレー湾に植民地や伝道所を設立することに決定された。ビスカイノは1602年にモントレーまでの海岸線の地図を描いていたが、その後166年間ほとんど何も行われてこなかった。1768年5月、スペインからの監察官であるホセ・デ・ガルベスは海陸双方からの探検隊を組織した。ポルトラが「両カリフォルニア総督」に任命され、全指揮権を与えられた。探検隊のフランシスコ会宣教師の指導者であるフニペロ・セラが精神的な問題に関する指揮を行うことになった。海と陸とに分かれた探検隊は、サンディエゴ湾で落ち合うことになっていた。

結城晴朝(1534~1614)

小田原征伐 後には豊臣秀吉に従い、1590年には小田原征伐に参陣して所領を安堵させた。晴朝は秀吉に臣従した頃より秀吉との結びつきを求めて水谷勝俊を通じて養子縁組を願い出ており、秀吉が養子としていた徳川家康の次男・秀康に養女・鶴子を嫁がせて養嗣子として迎え、秀康に家督を譲ると隠居する。ただし、市村高男の研究によれば、この時の晴朝は既に隠居して一度朝勝に家督を譲っていたと考えられ、実際に1587年初めから1590年4月まで、結城氏の知行・官途・受領名に関する文書に晴朝の花押が確認できないとされている。1590年5月に晴朝が北条方についた小山秀興の小山城と榎木城を奪い、朝勝が実兄・宇都宮国綱と共に秀吉の下に参陣しているため、この時期には晴朝が結城氏当主に一時的に復帰して、朝勝は実家の宇都宮家に戻っている。

ゼバスティアン・ミュンスター(1488~1552)

コスモグラフィア 1544年の作品『コスモグラフィア』はドイツ語による世界の記述としては最初である。ほかにもラテン語、フランス語、イタリア語、英語、チェコ語で出版された。コスモグラフィアは16世紀で最も成功した、最も人気な作品の1つであり、100年の間に24版が出版された。この成功はハンス・ホルバイン、ウルス・グラフ、ハンス・ルドルフ・マヌエル・ドイッチュ、ダヴィッド・カンデルらによる素晴らしい木版画、そしてはじめて「当時知られた四大洲、すなわちアメリカ、アフリカ、アジア、ヨーロッパを別々に分けた地図」を導入したことによる。16世紀のヨーロッパで地理学を再生する著作となり、最後のドイツ語版は死去から数十年後の1628年に出版された。

徳川慶勝(1824~1883)

王政復古政変 1867年11月9日には15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還が行われた。慶勝は上洛して、薩摩藩、土佐藩らとともに王政復古政変に参加、新政府の議定に任ぜられる。1868年1月3日の小御所会議において慶喜に辞官納地を催告することが決定、慶勝が通告役となる。この時期においても、慶勝は徳川宗家を補翼する意識を強く保持しており、大政奉還後は官位降奪の願書を朝廷に提出したほか、小御所会議では慶喜の出席を主張、議定職の辞職願を提出し、辞官納地に際しては尾張藩領を宗家に返還する意向まで表明している。

ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー(1768~1800)

正義のスルタン ドゼーの当初の成功は翌1797年、ナポレオンが締結したレオーベン条約によって遮られた形となった。ドゼーはボナパルト将軍に会うために自ら画策してイタリア方面に転属した。かくしてナポレオンは、何の対価も支払うことなく、ライバルであるドイツ方面軍から才能のある若き将軍えを得ることとなった。ドゼーは一旦「イギリス方面軍」の司令官に仮任命されたが、すぐにナポレオンによってエジプト遠征軍に異動させられた。ピラミッドの戦いにおいてマムルーク軍の正面に立ちふさがったのはドゼーの師団であり、その後の上エジプトにおけるムラード・ベイへの勝利によってその評価はさらに上がった。ドゼーはその公平な統治によって、現地の農民たちから「正義のスルタン」という光栄ある呼び名を得た。

倉場富三郎(1871~1945)

日本西部及び南部魚類図譜 幕末から明治時代にかけて日本で活動したスコットランド人商人トーマス・ブレーク・グラバーと日本人夫人との間に生まれた実業家、水産学者の倉場富三郎は、1907年に長崎汽船漁業会社を設立し、日本に初めてトロール漁業を導入したが、この新式の漁業は沿岸漁民との間に軋轢を生じ、やがて撤退を余儀なくされ、事業を保険業などに転換していった。そのころ大正の始めごろから昭和初期にかけて、富三郎は自ら長崎魚市場などをまわって魚類や甲殻類などの水産動物を収集し、ごく新鮮なうちに地元の小田紫星、萩原魚仙、長谷川雪香、中村三郎、井上寿一の五人の画家に生物学的に正確かつ精密な図譜として描かせた。

ウォルター・ランツ(1899~1994)

ユニバーサル・カートゥーン・スタジオ時代 1929年初めに、ユニバーサルはウォルト・ディズニー原作のオズワルド・ザ・ラッキー・ラビットのカートゥーンをチャールズ・ミンツやジョージ・ウィンクラーに作らせて配給していた。しかし、低予算で作られたため人気は低かった。そのため、レムリはミンツらを解雇し、新たなカートゥーン・スタジオの社長を探し始めた。ランツは賭けポーカーで社長の座およびキャラクターの所有権を得た。

アウンサン(1915~1947)

日本軍との共闘~ビルマの戦い~ 太平洋戦争開戦後の1941年12月16日に、アウンサンと同志たちは南機関の支援を得て、ビルマの隣国であるタイ王国の首都バンコクでビルマ独立義勇軍を創設。日本軍と共に戦い、1942年3月にラングーンを陥落、1942年7月ビルマからイギリス軍を駆逐することに成功し、ビルマ独立義勇軍をビルマ防衛軍に改組した。南機関はバー・モウを中央行政府長官に据えてビルマに軍政を敷き、鈴木大佐は離任した。1943年3月にはアウンサンは日本に招かれ、わずか28歳の若きリーダーと称えられ旭日章を受章し、同年8月1日にバー・モウを首相とするビルマ国が誕生すると国防相になった。ビルマ防衛軍はビルマ国民軍に改組された。この時期には、「面田紋次」という日本名を名乗っていた。

カール・ニールセン(1865~1931)

仮面舞踏会 仮面舞踏会の立場で幸運にも出会った2人の若者は永遠の愛を誓いあい指輪を交換する。翌日、リアンダは従者のヘンレクに新たな愛を見つけたことを語る。ヘンレクは彼の両親がリアンダを遠くスレーイルセに住むリーオナートの娘、リオノーラと婚約させているということを想い出せ、リアンダは狼狽する。この婚姻話のもう一方であるリオノーラの父リーオナートが、娘が前夜に仮面舞踏会で出会った誰かと恋に落ちてしまったのだとリアンダの父に泣きつくに至って事態は混乱する。第3幕では各人が当夜の仮面舞踏会になだれ込んでいき、すべてが明らかになり全員が円満に喜びを分かち合う形ですっかりと解決される。

三橋美智也(1930~1996)

鳴門海峡 いのち捨てても悔いないほどに惚れていちずに惚れさせた憎いあの娘はああ鳴門海峡の潮の花乱れ乱れて胸に咲く叱りつけても女のこころ向けてみせたい男なら無理と云うなよああ鳴門海峡のかもめ鳥そうさ俺にも意地がある思い切ろうかいつものように口じゃ云えないうわべだけみれん渦巻くああ鳴門海峡のもどり波向けた男の背を濡らす

ニコラ・シュビッチ・ズリンスキ(1508~1566)

スィゲトヴァール包囲戦~1566年のオスマン帝国の遠征(包囲戦)~ スィゲトヴァールに戻っていたズリンスキは、少なくとも15万人の兵と強力な大砲群に包囲されたことを見て取った。彼のもとにいた守備兵は僅か2300人のクロアチア人とハンガリー人だった。彼らはズリンスキ自身の兵や、彼の友人・同盟者の兵だったと考えられている。多数派だったのはクロアチア人で、どちらも主力は重装歩兵だった。

寂蓮(1139~1202)

新古今和歌集 葛城や高間のさくら咲きにけり立田のおくにかかるしら雲 暮れて行く春の湊は知らねども霞に落つる宇治の柴舟 さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮 村雨の露も未だ干ぬ槇の葉に霧立ち昇る秋の夕暮

アフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジー(1507~1543)

ジャルテ・ウォフラでの勝利 エチオピアはポルトガルに助力を求め、1541年2月10日になってようやくマッサワに到着した。すでにエチオピア皇帝はガローデオスに代わっていた。ポルトガル軍を率いるのはクリストヴァン・ダ・ガマであり、戦力はマスケット銃兵士400名と事務員であった。両軍により1542年4月1日、アクスム近郊でジャルテの戦いが行われた。ジャルテは、今日のアナサのあたりと考えられている。ポルトガル側の記録にこの戦闘でのアフマドの描写が残っており、「ゼイラの王は偵察のため、馬で数フィートの丘を登った。彼は騎馬300を従えていた。大きな旗3本もあり、2本は白地に赤い月、1本は赤地に白い月であった」と記されている。

九鬼隆一(1852~1931)

明治十四年の政変 翌1881年に自由民権運動に歯止めをかけようとした伊藤博文らにより、いわゆる明治十四年の政変が起き、大隈重信が政府から追放された。この際に、大隈や福沢諭吉が藩閥政府に代わる内閣を組織しようとしていたとの疑惑から、福沢の影響が強い慶応義塾出身の官僚が多数官を辞することになった。この中には、犬養毅、尾崎行雄などが含まれる。

李公蘊(974~1028)

李朝 秦漢時代からつづく中国王朝のベトナム支配をようやく終わらせたのが1009年にベトナム人李公蘊がひらいた李朝である。李朝は、1054年に国号を大越国とした。北部ベトナムの紅河下流のデルタ地帯の治水事業を行い、都昇竜を中心に国力を充実させた。李朝では、中央官庁を中国風に整備し、1075年には科挙を導入し官僚制を整備した。また儒教・仏教・道教をともに保護した。1075年には宋の神宗が王安石の進言をいれ、大越国遠征を行ったが、李朝はそれを撃退し、以後は宋と対等な外交を展開している。1225年に、女帝昭皇を最後に滅亡した。

菊池俊輔(1931~2021)

ドラゴンボール 基本的には原作漫画をそのまま踏襲しているが、一部アニメのみオリジナルエピソードや設定もある。これは、原作がまだ週刊連載中にアニメ化され、原作をそのままアニメにした際にアニメ1話分には尺が足らず原作の連載にすぐに追いついてしまうことを防ぐため、アニメスタッフがオリジナルの話を入れて調節したためである。アニメオリジナルのエピソードやキャラクターのアイデアをいくつか提供しているが、アニメ制作に原作者の鳥山明は基本的に関わっておらず、鳥山は「ノータッチ」と発言している。

ヘイダル・アリエフ(1923~2003)

アゼルバイジャン共和国の第3代大統領 大統領として政権にあたった10年間にアリエフは国家を強力に指導し、反対者を排撃しつつ外資の積極的な受け入れによってナゴルノ・カラバフ紛争によって壊滅状態にあったアゼルバイジャン経済の立て直しに邁進した。1993年10月と1998年10月の2度の大統領選挙において圧勝を収めて2度の任期を務めたが、選挙が公正だったかどうかについて国際社会から疑問視されている。また、外資の導入がアゼルバイジャンに富をもたらしたが、アゼルバイジャンが世界有数の腐敗国家という評価を受ける原因も作ってしまった。アリエフ父子がエネルギー産業を支配し多額の石油利権を個人収入としたことも、国際的非難を受けた。