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井植歳男(1902~1969)

三洋電機設立 1946年、松下電器に対する戦後のGHQからの公職追放令を受け、松下幸之助を庇う形で30年間勤めた松下電器を退く。翌1947年、43歳の時、守口市に三洋電機製作所を設立し、社長に就任する。幸之助からは餞として兵庫県加西郡北条町にある北条工場と、自転車用発電ランプ「ナショナル発電ランプ」の製造権を譲られた。完成したばかりの工場を失火で焼失するなどのアクシデントを乗り越え、1949年には発電ランプの国内シェア6割達成に成功した。また、ラジオのキャビネットを木製からプラスチックに置き換えコストダウンを図ったり、のちに「三種の神器」の一角になる洗濯機に着目し、これまた国内市場シェアのトップに持っていった。

ムハンマド5世(1909~1961)

モロッコの国民的英雄 スルターン・ユースフ・ベン。ハサンの末子として生まれる。1927年、父の死により即位。第二次世界大戦後、激化するフランスからの独立運動を指導したため、1953年にフランスによって廃位された。フランスのインドシナ戦争の敗戦もあり、1955年に復位して翌年に独立を達成した。

笹井醇一(1918~1942)

ラバウル方面 1942年4月1日、台南空は新編の第25航空戦隊に編入され、笹井ら隊員は小牧丸でラバウルに移動する。笹井は、移動中に書いた手紙に「四月一日の異動で士官搭乗員、隊長、分隊長以下の全部が内地方面に帰ってしまい開戦以来の居残りは私一人で大きな顔をしております。然し始めから生死をともにした隊長や或は自分の手足としていた列機が全部居なくなり稍々淋しい気にならん事はないのですが」「大分実戦の経験も積んだし今度は思う存分やれると思います。」と書いている。

クリシュナ・ラージャ4世(1884~1940)

文化の保護者として このように伝統に彩られた藩王はさまざまな年中行事のみならず、インド総督が開催するダルバールなどといった中心行事の機会に際し、国内外の多くの人々に向けて発揚したという。イギリス従属下の藩王国は軍事および外交上の権限を完全に剥奪されていたため、当時の藩王らは文化の保護者となるものが多かったが、クリシュナ・ラージャ4世はまさにその典型ともいえる存在であった。

ラース・ビハーリー・ボース(1886~1945)

インド独立連盟とインド国民軍 A.M.ナイルなど日本に亡命していたインド独立運動家たちと協力しあい、またイギリスと対立を強めていた日本政府や軍部と協力関係を結んだことで、ボースはインド国外における独立運動の有力者の一人となった。

テオバルド1世(1201~1253)

フランス王家への反抗と服従 フィリップ2世亡き後に即位したフランス王ルイ8世に仕え、1224年にラ・ロシェルを包囲したフランス軍に加わったが、やがてルイ8世と対立し、1226年にアルビジョア十字軍の際にアヴィニョンから勝手に陣払いをしたことで対立が明確になった。直後にルイ8世が急死したため、王妃ブランシュ・ド・カスティーユに横恋慕したティボー4世が毒殺したと噂され、ルイ9世の戴冠式への出席は許されなかった。ルイ9世の即位後母后ブランシュが摂政に就くと、ティボー4世は1227年1月にブルターニュ公国摂政ピエール1世、ラ・マルシュ伯ユーグ10世・ド・リュジニャンと組んで反乱を起こしたが、ブランシュに説得され王家と対立するのをやめ、3月に反乱から離脱した。他の貴族たちも王家と和睦して衝突は起こらなかった。

吉村昭(1927~2006)

高熱隧道 黒部川上流の黒部峡谷は、雨量や河川の勾配から、早くより「電源開発の最好適地」として注目され、「欅平から上流にダムを設置し、欅平付近の水力発電所まで水路トンネルで水を落下させて発電を行う」という、黒部川第三発電所の建設工事が1936年8月に着工された。そこは秘境に近い環境で、資材を運搬するだけでも転落死する者が出るほどだった。紆余曲折の末、富山県の建築会社である佐川組は、発電所から峡谷までの水路・人道の建築を担当することになり、佐川組の技師である藤平、根津達は黒部峡谷を訪れる。

聖アグネス(291~304)

崇敬 ミラノ勅令によりキリスト教を公認し、自らもキリスト教徒に改修したローマ皇帝コンスタンティヌス1世は、アグネスの墓の前で自分の娘に洗礼を受けさせたと伝えられる。のちに墓の上には聖アグネス聖堂が建てられた。

相賀武夫(1897~1938)

集英社 1926年に小学館の娯楽誌出版部門として相賀武夫が創業。1941年から1946年まで太平洋戦争のため社業中断していたが、1947年に山川惣治の紙芝居『少年王者』を単行本として出版するため、合資会社として営業を再開。1952年に独立した社屋に移転し、その後小学館との業務分離を行う。『週刊少年ジャンプ』『Seventeen』『りぼん』『マーガレット』『Myojo』などのヒット雑誌を多数創刊する。

ルドルフ・シュタイナー(1861~1925)

人物と業績~キリスト者共同体~ シュタイナーの弟子であったルター派の牧師フリードリヒ・リッテルマイアーの主導で、1922年、シュタイナーの特異なキリスト教思想に基づく「キリスト者共同体」が設立された。運動の中心は司祭の養成学校のあるドイツのシュトゥットガルトで、イギリス、オランダ、スカンディナヴィアにもある。この団体は普遍アントロポゾフィー協会から独立した宗教組織で、シュタイナーはこの組織に属さないで外部から司祭たちに助言を与え続けた。

山下太郎(1889~1967)

アラビア石油の創立 戦後は日本の復興のために石油資源の獲得に奔走、1956年、日本輸出石油株式会社を創立し、翌1957年にペルシャ湾海底油田の開発利権を獲得して1958年「アラビア石油株式会社」を創立した。山下は、産業の根幹をなす石油が100%アメリカ合衆国の供給と統制に依存している現実を危惧しており、日本国政府・財界等の要路をまわり、経済発展のため日本が自前で確保するよう説いて回ったといわれている。世界の予想に反して、サウジアラビア、クウェートの両国から採掘の利権を獲得したが、とくにクウェートが数多くのライバルの中から日本に権利を与えたのは、山下の努力・人柄もさることながら、欧米諸国に対するアラブ人たちの民族感情が左右していたともみられている。

クリメント・ヴォロシーロフ(1881~1969)

大粛清 その後、ウクライナ・ソビエト共和国内務人民委員に任命。1921年、クロンシュタットの反乱の鎮圧に参加し、党中央委員に選出される。1921年~1924年まで北カフカーズ軍管区司令官を務める。1925年、ミハイル・フルンゼが死去し、後任の陸海軍人民委員、ソ連軍事革命評議会議長に就任し、翌1926年には政治局員となった。

伊東忠太(1867~1954)

建築進化論~緒言~ 伊東忠太は明治期における近代日本の建築界を「明治以前の純粋の建築の形式が茲に終結を告げて今や新しいスタイルがそれに代つて興らうとしてまだ興らない」と混沌とした無政府な状態とみなし、「過渡の時代即ち暗黒時代」とした。そのうえで、日本建築の将来について論じるとしている。

ドン・ペリニヨン(1638~1715)

ドン・ペリニヨン~概説~ ドン・ペリニヨンという銘柄名は、シャンパンを発明したとされるベネディクト会の修道士、ドン・ペリニヨンにちなんで名付けられた。その修道士が、発酵中のワインを瓶詰めして放置したところ、偶然、シャンパンが出来たという。

鎌倉芳太郎(1898~1983)

琉球芸術調査 鎌倉は二次にわたり琉球芸術調査を行なった。第一次が1924年から1925年5月まで。第二次は調査は1926年から1927年までである。それに伴い鎌倉は、写真のほか、調査ノート81点、型紙などの紅型資料2154点、陶磁器資料67点など、総計7512点におよぶ沖縄の文化・歴史に関する資料を残した。それらは沖縄戦により打撃を受けた沖縄文化の保存と伝承に貢献した。鎌倉の記録資料は、遺族により沖縄県芸術大学に寄贈され、保存されている。例えば、歴代琉球国王の御後絵は沖縄戦で焼失したが、写真資料が保存されたことでその様態を知ることができる。

クヌーズ6世(1163~1202)

治世 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサは、クヌーズの父ヴァルデマー1世に自身を君主として認めるよう強要していたが、1184年にフリードリヒ1世にクヌーズに使者を送り、皇帝を君主として認めるよう要求した。クヌーズはこれに応えなかったため、皇帝はクヌーズが自らを君主として認めなかった場合には報復を行うと脅す使者を送った。司教アブサロンはクヌーズの代わりに使者に対し「クヌーズは皇帝と同じくらい自由な王である。皇帝が神聖ローマ帝国に対して持っているのと同じように、クヌーズはデンマークに対して多くの権利を持っている。したがって、皇帝はこの場所に忠誠を期待するべきではない」と返答した。

沢田教一(1936~1970)

安全への逃避

ジェームス・ファニン(1805~1836)

一般市民 1828年、彼は商人になるためにジョージア州コロンバスに移った。1829年7月17日にはミネルヴァ・フォートと結婚し、1830年生まれのジェイミーと1832年生まれのエリザの、2人の娘をもうけた。1832年、ファニンは非合法な合衆国への奴隷の輸入を始めた。1833年にはジョージア州トループ郡の州議会議員を務めた。

毛利良勝(不明~1582)

桶狭間の戦い 1560年、桶狭間の戦いでは、最初に斬りかかって負傷した服部一忠を助け、今川義元の首を取り名を上げた。『信長公記』では、毛利新介のこの功名は「幼君」を毛利十郎が保護した冥加のおかげだと人々が噂したという話が書かれている。また、この際、指を噛み千切られた話があるが、これは『尾張志』や『太閤記』などにある逸話。桶狭間以後は諱を良勝と名乗り、通称は新介から新左衛門に改めた。

ヘンリー・キング(1886~1982)

頭上の敵機 『頭上の敵機』は、1949年のアメリカ合衆国の戦争映画。アメリカの第二次世界大戦参戦初期にナチス・ドイツ及びナチス・ドイツ占領下のフランスに白昼爆撃を敢行したアメリカ陸軍第8空軍の兵士を描いた本作は、1948年のサイ・バートレット、バーン・レイ・Jr作の小説『Twelve O'Clock High』を、原作者であるバートレットとレイ、ヘンリー・キング監督が脚本を担当し、グレゴリー・ペック、ヒュー・マーロウ、ゲイリー・メリル、ミラード・ミッチェル、ディーン・ジャガーらの出演で映画化した作品である。

浅原六朗(1895~1977)

てるてる坊主 てるてる坊主てる坊主あした天気にしておくれいつかの夢の空のよに晴れたら金の鈴あげよてるてる坊主てる坊主あした天気にしておくれ私の願を聞いたならあまいお酒をたんと飲ましょてるてる坊主てる坊主あした天気にしておくれそれでも曇って泣いたならそなたの首をチョンと切るぞ

ジャン・ジロー(1938~2012)

アルザック アルザックはフランスの漫画家メビウスことジャン・ジローにより執筆された、4話から構成されるセリフの無いバンド・デシネである。アルザックはフランスのSFおよびファンタジー漫画雑誌メタル・ユルランの第2号から第5号において連載された。この漫画では、翼竜の様な生物に跨って荒廃した奇怪な土地を飛び回る寡黙な戦士アルザックの活躍が描かれる。アルザックを取り巻く光景や状況はしばしば夢や潜在意識を連想させる。この作品はフランスのコミック業界に多大な影響を与え、今もなおアルザックはメビウスが作り上げた中で最も有名なキャラクターとなっている。

真柄直隆(1536~1570)

姉川の戦い~真柄斬り~ 1570年、姉川の戦いでは太郎太刀を振って奮戦するも、朝倉陣営の敗戦が濃厚になると味方を逃がすべく、単騎で徳川軍に突入し、12段構えの陣を8段まで突き進んだ。だが、向坂三兄弟の攻撃を受け力尽き、「我頸を御家の誉れにせよ」と敵に首を献上して果てた。この時、向坂兄弟が討ち取った時に使用した太刀は「真柄斬り」と名付けられ、名刀の一つになっている。なお、弟・真澄と子・隆基も勇猛で知られたが、この戦いで討死している。だが、朝倉氏滅亡後の1583年に「真柄加介」当てに丹羽長秀から知行安堵状が発給されており、真柄一族はその後も存続してい ることが窺われる。

ウィンスロー・ホーマー(1836~1910)

風が強まる

笠井順八(1835~1919)

太平洋セメント 1998年に秩父小野田と日本セメントが合併して設立された。「創業」ではなく、会社設立の年月では最も古い企業とされる。

イヴァン・シーシキン(1832~1898)

松林の朝

塩川正十郎(1921~2015)

小泉政権 小泉首相とは「30年来の朋友」と間柄で、青木幹雄と組んで党内融和を説く森元首相とは一線を画し、小泉首相の後見人として影響力を行使した。

モブツ・セセ・セコ(1930~1997)

コンゴ独立 1960年6月にベルギーからコンゴ共和国が独立すると大臣補佐に指名され、ルムンバの抜擢でコンゴ民主共和国軍の参謀総長に就任した。その後、カタンガ国が分離した後のコンゴの状況の悪化に伴い、1960年9月コンゴ動乱初期のクーデターで実権を掌握する。のちにジョセフ・カサブブ大統領と手を結び、パトリス・ルムンバ首相を逮捕したことでアメリカと関係が深くなった。1961年、政権を文民に移譲する。

志賀淑雄(1914~2005)

太平洋戦争 12月8日、大東亜戦争劈頭の真珠湾攻撃に参加。志賀は板谷茂少佐率いる第一次攻撃隊に空母加賀第二制空隊長として出撃。零式艦上戦闘機9機を率いてオアフ島飛行場に最初の攻撃を行った。加賀戦闘機隊飛行隊長に着任。加賀は、1942年1月20日ラバウル攻撃、21日カビエン攻撃、22日第2次ラバウル攻撃、2月19日、ダーウィン空襲、3月5日、ジャワ海掃討戦などで連戦連勝する。

マルティン・モニス(不明~1147)

記念碑 リスボンの古いムーア城壁にあるマルティン・モニス門に隣接して、彼の胸像があった。17世紀半ばにヴァスコンセロス家の子孫によって設置された大理石の銘板には、次のような碑文が刻まれていた。

孝子長五郎(1690~1761)

親孝行な子ども 長五郎は家族との死別が非常に多く、また家自体も貧しかったが、母親を殊の外大切にする人物であり、その親孝行ぶりが押立新田の代官である上坂政形の耳にも入ることになった。上坂の直属の上司であったのが、当時、関東地方御用掛であった大岡忠相である。1741年1月16日、大岡は長五郎の親孝行を良しとして上坂と新田世話役の川崎平右衛門を使わし米1俵を下賜した。また4月には長五郎は江戸市中の大岡のもとに呼び出され、白銀20枚と7反の芝地、扶持米6石を与えられた。この7反は年貢免除とされていた。

ジェームズ・ヒルトン(1900~1954)

失われた地平線 1931年に革命騒ぎで混乱したアフガニスタンのバスクルから80人の白人居住者を避難させる任務に就いていた37歳のコンウェイは、最後の3人とともに政府手配の小型機に乗った。だが、その操縦士は本来の操縦士とは別人で、飛行機は目的地ペシャワールではなく、チベット奥地へ飛んだ。そして飛行機は最後に乱暴な着陸をし、操縦士は近くにラマ教の僧院があることを言い残して死んだ。夜が明けて、中国人・張の一行が来て、4人をシャングリラの僧院に案内した。

豊田副武(1885~1957)

太平洋戦争~軍令部総長~ 1945年5月29日、軍令部総長に着任。昭和天皇は「司令長官失格の者を総長にするのは良くない」と豊田の総長就任に反対する海軍大臣米内光政に告げているが、米内は「若い者に支持がある豊田なら若い者を抑えて終戦に持っていける」という意図を天皇に告げ押し切った。しかし結果的に若い者を抑えるどころか押し切られた形になり、米内も親しい知人に「豊田に裏切られた気分だ。見損なった」と述べ、昭和天皇は「米内の失敗だ。米内のために惜しまれる」と述懐している。

クライド・セスナ(1879~1954)

トラベルエアー 戦争が終わると民間航空への関心が増大し、1925年にセスナはウォルター・ビーチ、ロイド・ステアマンとトラベルエアーをカンザス州ウィチタに設立した。セスナが社長を務める間に同社はアメリカの大手航空機メーカーの一つとなった。その成功の要因はセスナの進歩的な設計コンセプトと、多くのスピード及び飛行距離の記録を確立する過程で国際的に認められていったことにあった。しかしながら2年後、ビーチらと単葉か複葉を採用するかの意見の衝突があり、セスナは自らの会社をつくるためにトラベルエアーを退社した。

川崎定孝(1694~1767)

大岡支配役人 大岡越前守忠相は、1722年から関東の農政を掌る関東地方御用掛という職に就いており、配下の野村時右衛門と小林平六に武蔵野新田の開発を命じた。野村と小林は押立村の名主だった定孝に開発を請け負わせたが、後に2人は不正や納入する年貢の滞納などを理由に罷免される。新田の開発はその後も定孝に任され、完成した後、同地は大岡の配下や役人・上坂政形の支配所となる。

フランツ・フォン・スッペ(1819~1895)

ボッカチオ 1331年のフィレンツェ。ルネサンス初期のフィレンツェでは、詩人ボッカチオが書いた、数課すのエロティックな小説が反響を呼び、市民たちは、彼が綴るスキャンダラスな物語を愛好する女性たちと、それに嫉妬する夫たちに分かれて対立していた。ボッカチオを町から追放して監禁してしまおうとする夫たちの動きから話が始まる。一方、ボッカチオもいろいろ企てを持っていたが、その一つは公爵の娘であるフィアメッタの愛を得ることだったが、これは公爵の好意を得ることによって最後に成し遂げられる。

高橋掬太郎(1901~1970)

酒は涙か溜息か 酒は涙か溜息か心のうさの捨てどころ遠いえにしのかの人に夜毎の夢の切なさよ酒は涙か溜息かかなしい恋の捨てどころ忘れた筈のかの人にのこる心をなんとしょう

クルト・シューマッハー(1895~1952)

政治への道・投獄 除隊して恩給を受ける身になったシューマッハーは1915年にハレ大学、ついでライプツィヒ大学、ベルリン大学で学業を再開。1919年に学業を終えて労働省に就職したが、その傍ら学業を続けて1926年にはミュンスター大学に学位論文を提出して法学博士号を取得した。ハレ在学中に彼はその地で勢力の強かった独立社会民主党が組織したストライキを何度も目の当たりにしたが、その政治手法には疑問を持ち、政党とは距離を置いていた。しかし1916年に SPD 系の帰還兵団体に入会し、1918年には SPD に入党した。労働者政党であった SPD の中で、彼のような高学歴の人間はむしろ少数派だった。

安達景盛(不明~1248)

実朝側近 3代将軍・源実朝の代には実朝・政子の信頼厚い側近として仕え、1205年の畠山重忠の乱では旧友であった重忠討伐の先陣を切って戦った。牧氏事件の後に新たに執権となった北条義時の邸で行われた平賀朝雅の誅殺や宇都宮朝綱謀反の疑いを評議する席に加わっている。1213年の和田合戦など、幕府創設以来の有力者が次々と滅ぼされる中で景盛は幕府政治を動かす主要な御家人の一員となる。1218年3月に実朝が右近衛少将に任じられると、実朝はまず景盛を御前に召して秋田城介への任官を伝えている。景盛への秋田城介任官の背景には、景盛の姉妹が源範頼に嫁いでおり、範頼の養父が藤原範季でその娘が順徳天皇の母となっている事や、実朝夫人の兄弟である坊門忠信との繋がりがあったと考えられる。所領に関しては和田合戦で和田義盛の所領であった武蔵国長井荘を拝領し、平安末期から武蔵方面に縁族を有していた安達氏は、秋田城介任官の頃から武蔵・上野・出羽方面に強固な基盤を築いた。

ホレイショ・ハーバート・キッチナー(1850~1916)

ボーア戦争 第二次ボーア戦争が始まると、フレデリック・ロバーツと共に1899年12月に到着した増援軍の指揮をとり、1900年にロバーツが病気により後送された後はイギリス軍の総指揮をとった。ボーアの正規軍に勝利した後、1901年2月にイギリス政府が和解交渉を決裂させると、キッチナーはロバーツの立てた計画に従い、ボーア側指導者の一部と通じてボーアゲリラ内部に対立を引き起こした。

宮本三郎(1905~1974)

女優  

ウィルフリッド・ローリエ(1841~1919)

内政と外交~鉄道路線の増設~ 西への鉄道が新設されることになり、グランドトランク太平洋鉄道がウィニペグから西の区域を建設することになった。その際、政府はモンクトンとケベック・シティーからウィニペグへの路線を請け負うつもりでいた。カナディアン・ノーザン鉄道の建設も許可した。しかし、土地がすでに乏しく、援助は現金と鉄道債の利子保証で、資金はロンドンの政府債発行で賄われることとなり、競争の激しさもあって、第一次大戦中に破綻を招いた。

小沢佐重喜(1898~1968)

政界へ 東京市会議員、東京府会議員を経て、1946年、戦後初の総選挙である第22回衆議院議員総選挙に岩手県全県区から立候補し衆議院議員に当選する。以後、旧岩手2区にて当選通算10回。自由党に所属し、吉田茂に重用される。第2次吉田茂内閣の運輸大臣、第3次吉田茂内閣の逓信大臣、初代郵政大臣兼初代電気通信大臣、第5次吉田茂内閣の建設大臣を歴任する。この間、1948年に政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会で証人喚問された。

エーリク2世(1090~1137)

治世 エーリクは、ルンド近郊のケーヴリンゲヴェーゲンに位置するラーバックシャレンという地で開催されたスコーネ議会においてデンマーク王位就任を宣言した。その後、エーリクはルンドを首都とした。フォテヴィクでの圧倒的な勝利により、エーリクは「兎足」に代わり「銘記王」というあだ名で呼ばれるようになった。一方、異母兄ハーラル・ケシャもデンマークに戻り、シュレースヴィヒのウアネホーゼで対立王への即位を宣言した。エーリクはハーラル・ケシャを追い詰め、ハーラル・ケシャとその息子たちを殺害したが、ハーラルの息子のうちオーロフ・ハーラルセンだけがエーリクの追撃を張り切って逃げ延びたという。

志賀義雄(1901~1989)

戦後の活動 1945年の第二次世界大戦終結時、志賀は府中刑務所内の東京予防拘禁所に徳田球一ら他の共産党員とともに拘禁されていた。終戦後もすぐには釈放されず、同年10月5日、連合国軍最高司令官総司令部による政治犯の釈放命令まで拘禁され続けた。釈放後は党政治局員として徳田書記長や野坂参三政治局員等と共に党勢拡大に努めた。1946年の第22回衆議院議員総選挙では大阪府第1区で当選し、同党初の国会議員となった5人の中に名を連ねた。志賀はその後も中選挙区制の大阪府第1区で衆議院議員への当選を重ねた。

銭弘俶(929~988)

即位から帰順まで 948年正月、天龍堂で即位し、弟の銭弘億を丞相に任じた。3月には、兄の銭弘倧の暗殺を進言した胡進思の進言を泣いて拒否、胡進思は薛温に王命と詐って銭弘倧の暗殺を命じたが拒否され、憂悶のうちに死去した。