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沢宣嘉(1836~1873)

生野の変~背景~ 攘夷派公卿7人の一人、公卿沢宣嘉を主将とする一行は但馬に向かう途中、京・四条木屋町の具足屋大高又次郎のところで武器調達の為、京の旅籠花屋に宿泊していた。そこで、大和国から逃れてきた土佐の池内蔵太に出会い、天誅組大和破陣の話を聞き及んだ但馬の進藤俊三郎らは、進藤俊三郎が京から播州へ行き、生野挙兵を目指す一行へ情報をもたらした。国臣と北垣晋太郎らは一旦挙兵を自重し再度の時期到来を待つべきと主張したが、結局は河上弥市らの挙兵強硬派の主張が勝り挙兵に至った。

アーザム・シャー(1653~1707)

アウラングゼーブの後継者として 1669年1月3日、アーザムは父の兄ダーラー・シコーの娘ジャハーンゼーブ・バーヌー・ベーグムと結婚した。これはアウラングゼーブの後継者としての地位を確立させるものであった。また、アーザムは各地の太守にも任命され、ベラール、マールワー、ベンガルの地を任された。

広瀬惟然(1648~1711)

惟然の口語調俳句 水鳥やむかふの岸へつういつうい 水さつと鳥よふはふはふうはふは きりぎりすさあとらまへたはあとんた

ロバート・ステュアート(1769~1822)

カースルレー子爵 ダブリンでアングロ=アイリッシュ系貴族の家系に生まれる。父は初代ロンドンデリー侯爵ロバート・ステュアート。アイルランド議会の議員を務めた後、イギリス議会に入り、アイルランド王国のグレートブリテン王国への併合を定めた1800年の合同法の制定に尽力した。その後、イギリスの外交を主導し、ウィーン会議にもイギリス代表として出席した。

宇都宮広綱(1545~1576)

上杉謙信との同盟 その後、家臣の芳賀高定の外交手腕によって佐竹義昭の娘南呂院を妻に迎えており、強固な同盟関係が築かれた。広綱は上杉謙信と同盟を結んで関東制覇を目指す後北条氏やその北条氏よりの諸大名と徹底して対立する。1564年には上杉謙信、佐竹義重と共に北条方の小田城主・小田氏治を小田城の戦いでいる。

チャールズ・スチュワート・ハワード(1877~1950)

馬主 1908年当時にハワードは「馬の時代は終わった」と発言していたが、その言葉とは裏腹に牧場を持つことを夢見ていた。西部で成功した後、ハワードはサンフランシスコの北にリッジウッドランチという牧場を開設し、そこに多数の牛馬を取り揃えた。後にこの牧場はハワードの競走馬を繋養する場所ともなった。

天秀尼(1609~1645)

東慶寺入山と出家~権現様御声懸かりの縁切寺法~ 東慶寺は縁切寺法をもつ縁切寺として有名であるが、江戸時代に幕府から縁切寺法を認められていたのはここ東慶寺と上野国の満徳寺だけであり両方とも千姫所縁である。寺の伝承では、天秀尼入寺の際、家康に文で「なにか願いはあるか」と問われて「開山よりの御寺法を断絶しないようにしていただければ」と答え、それで同寺の寺法は「権現様御声懸かり」となったとある。

ルキウス3世(1100~1185)

教皇就任以降 ルキウス3世の在任中、神聖ローマ帝国とは常に緊張した関係であった。特に、トスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサが残した領地の所有をめぐって皇帝フリードリヒ1世と対立した。1177年に神聖ローマ帝国とローマ教皇の間で結ばれたヴェネツィア条約ではトスカーナ女伯の所領問題が未解決のままとなっていた。そこでフリードリヒ1世は1182年、教皇庁が領地を放棄する代わり、帝国がイタリアから得る収入の中から教皇に1割、司教に1割の計2割を分配する提案をしたが、ルキウス3世はこれに賛成せず、翌年示された妥協案にも同意しなかった。1184年10月にはヴェローナで教皇と皇帝の直接の話し合いが持たれたが、結局この件について解決を見ることはなかった。一方、新たな争いのもとが生まれていた。フリードリヒ1世は教皇分裂期に実施されたドイツ内の司教選挙を規制し、中でも1183年に行われたトリーア大司教選挙の見直しを要求したが、ルキウス3世はこれを聞き入れなかった。

三枝昌貞(1537~1575)

昌貞の子孫と三枝氏の由緒 昌貞嫡男の守吉は幼少であったため、叔父にあたる昌吉が名代を務める。昌貞の父・虎吉は武田氏滅亡後まで亡命し、天正壬午の乱を経て甲斐を支配した徳川氏に帰属している。徳川家臣となった三枝氏は昌吉が家督を継ぎ、守吉は分家を起している。守吉系の子孫は1698年に近江国に移封し、徳川家の旗本となっている。守吉系の子孫は明治期に断絶しているが家伝文書は滋賀県東近江市北須田町の守国神社に現存しており、東近江市能登川博物館において寄託されている。

マールテン・トロンプ(1597~1653)

英蘭戦争 第一次英蘭戦争では1652年5月29日にドーバー沖でトロンプ提督のオランダ艦隊とロバート・ブレイク提督のイングランド艦隊が衝突して開戦の口火が切られるが、この時は引き分けに終わりトロンプは一時司令官職を解任され、後任としてウィット提督が任命されたが、ケンティッシュ・ノックの海戦でブレイクに敗北を喫したことでトロンプは復職した。同年12月のダンジュネスの海戦ではブレイク艦隊と再戦して勝利し、オランダに制海権を取り戻した。

尼子勝久(1553~1578)

上月城の戦い~背景~ 上月城は小城ながら播磨・美作・備前の三国の国境に位置する堅牢な山城で、毛利氏に属していた赤松政範および宇喜多直家が播州方面の軍事拠点としてこれを押さえ、毛利勢力圏の東方における事実上の最前線となっていた。しかし1577年、織田氏が中国攻略に着手し播州に入ると、羽柴秀吉の攻撃を受け陥落。尼子勝久を担ぐ山中幸盛ら、織田家に属していた尼子氏再興軍がこの上月城の防衛を任された。その後一時は宇喜多氏が反攻によって奪還するも、再度織田軍の手に落ちている。

ショーン・コネリー(1930~2020)

人物と思想 コネリーは2000年にイギリス女王エリザベス2世からナイトの称号を与えられたが、スコットランドの分離独立を主張するスコットランド国民党の熱烈な支持者でもある。授与式には、民族衣装キルトで正装して現れた。なお、コネリーは「スコットランドが独立するまで私は死んでもスコットランドに帰らない」とまで明言している。

平吉毅州(1936~1998)

ひとつの朝 いま目の前にひとつの朝まぶしい光の洪水に世界が沈まないうちにさあ箱船に乗って旅立とうあのノアたちのように旅立とうたとえば涙に別れることたとえば勇気と知り合うことたとえば愛を語ることときには孤独と向き合うこと旅立ちは旅立ちは旅立ちはいくつもの出会いいま目の前にひとつの海さかまく怒涛の攻撃に船が砕けないうちにさあ両腕を翼にとび立とうあの鳥たちのようにとび立とうはばたけ明日へまだ見ぬ大地へ新しい土地へまだ見ぬ新しい土地へ生きる喜びを生きる喜びを広がる自由を求めて広がる自由を求めて

エドマンド・キャンピオン(1540~1581)

アングリカンと対峙 このころキャンピオンはカトリック信条を保ちながらアングリカンを便宜的に信仰していることに悩むようになったが、グロスター主教リチャード・チェイニーの説得を受けて国教会の執事に叙任された。心の中では「良心の呵責と心からの憎悪を抱き」ながら、国教会の聖職者となったのである。彼の宗教信条に関する噂が広まり、キャンピオンは1569年にはオックスフォードを去ってアイルランドに移住、そのころ構想されていたダブリン大学の設立計画に参与した。

寺島尚彦(1930~2004)

さとうきび畑 ざわわざわわざわわ広いさとうきび畑はざわわざわわざわわ風が通りぬけるだけ今日も見渡すかぎりにみどりの波がうねる夏の陽ざしのなかでざわわざわわざわわ広いさとうきび畑はざわわざわわざわわ風が通りぬけるだけ昔海の向こうからいくさがやってきた夏の陽ざしのなかでざわわざわわざわわ広いさとうきび畑はざわわざわわざわわ風が通りぬけるだけあの日鉄の雨にうたれ父は死んでいった夏の陽ざしのなかでざわわざわわざわわ広いさとうきび畑はざわわざわわざわわ風が通りぬけるだけそして私の生まれた日にいくさの終りがきた夏の陽ざしのなかでざわわざわわざわわ広いさとうきび畑はざわわざわわざわわ風が通りぬけるだけ風の音にとぎれて消える母の子守歌夏の陽ざしのなかでざわわざわわざわわ広いさとうきび畑はざわわざわわざわわ風が通りぬけるだけ知らないはずの父の手にだかれた夢を見た夏の陽ざしのなかでざわわざわわざわわ広いさとうきび畑はざわわざわわざわわ風が通りぬけるだけ父の声をさがしながらたどる畑の道夏の陽ざしのなかでざわわざわわざわわ広いさとうきび畑はざわわざわわざわわ風が通りぬけるだけお父さんて呼んでみたいお父さんどこにいるのこのままみどりの波におぼれてしまいそう夏の陽ざしのなかでざわわざわわざわわけれどさとうきび畑はざわわざわわざわわ風が通りぬけるだけ今日も見渡すかぎりにみどりの波がうねる夏の陽ざしのなかでざわわざわわざわわ忘れられない悲しみがざわわざわわざわわ波のように押しよせる風よ悲しみの歌を海に返してほしい夏の陽ざしのなかでざわわざわわざわわ風に涙はかわいてもざわわざわわざわわこの悲しみは消えない

ジョン・ポラード(1909~1981)

シービスケットの主戦として 1936年、イリノイ州デトロイトの競馬場に到着したポラードは、そこでロバート・トーマス・スミス調教師に出会い、その管理馬であったシービスケットと対面した。ポラードは騎手候補としてシービスケットに騎乗し、降りた後でスミスに対して「あの馬には鞭を使わないほうがいい」と進言したことでスミスに気に入られ、以後シービスケットの主戦に据えられた。ポラード自身も「誰よりもこの馬を乗りこなせる」と自信を持っていた。またこの縁により、スミスの雇い主であったチャールズ・スチュワート・ハワードからも重用されるようになり、ハワードの持ち馬を多く担当するようになった。

稲畑勝太郎(1862~1949)

シネマトグラフの輸入 1896年、毛斯綸紡績の社用でフランスに渡った際、リヨン留学時代の友人であるオーギュスト・リュミエールから、彼が弟と発明したシネマトグラフの上映を観て、この光学的な装置に魅力を感じ、シネマトグラフの日本輸入に巨費を投じた。リュミエールと契約を結んだ稲畑は、装置2台とフィルム、シネマトグラフの興行権を買い取り、リュミエール社の撮影技師兼映写技師のコンスタン・ジレルを連れて、1897年1月に帰国した。

モリー・シュワルツ(1916~1995)

『モリー先生との火曜日』 シュワルツ教授と元生徒のミッチ・アルボムについて書かれた本である。アルボムがABCの『ナイトライン』のテッド・コッペルのインタビューにシュワルツ教授が出演しているのを見て、毎週火曜日ミシガン州デトロイトからニューイングランドにあるシュワルツ教授の自宅まで会いに行くようになった。アルボムはシュワルツ教授が筋萎縮性側索硬化症の神経疾患で死の間際にいることを知る。約14回の訪問の後、シュワルツ教授はALSの闘病を終え、アルボムの心に響いた。アルボムの本には全ての訪問による授業、シュワルツ教授の人生最後にアルボムに授けた知恵が集約されている。

野村長平(1761~1821)

無人島脱出への準備 長平の漂着から3年後の1788年1月29日に大坂北堀江の備前屋亀次郎船の11人が鳥島に漂着、さらに2年後の1790年1月末頃に日向国志布志の中山屋三右衛門船の6人が漂着した。この時点で鳥島の無人島生活者は長平を含めて18名となった。鍋釜・大工道具も揃った。彼らは、長平と大坂船・日向船の船頭の3名をリーダー格として共同生活を送り、食料確保の他、住居や道の整備、ため池の工事などを組織的に行った。しかし、精神的な影響や栄養不足などで、漂着者のおよそ3分の1は死亡していった。

馬謖(190~228)

街亭の戦い 街亭の戦いは、中国の三国時代における、魏と蜀による街亭での戦い。228年、張郃が指揮を執る魏軍が、馬謖が指揮を執る蜀軍を破った。この戦いで破れた蜀軍は全軍撤退を余儀なくされ、第1次北伐は失敗に終わった。

立石義雄(1939~2020)

新型コロナウイルス感染症で死去 2020年3月末で13年務めた京都商工会議所会頭を退き、4月1日からは京都経済センターを運営する京都知恵産業創造の森の理事長に専念したが、倦怠感から翌2日に発熱し、同月5日に肺炎と診断されて京都市立病院に入院。同月6日に新型コロナウイルスに感染していることが京都商工会議所より発表された。同病院で闘病生活を続けていたが、同月21日0時27分、新型コロナウイルス感染症のため、死去。80歳没。

ブライアン・エプスタイン(1934~1967)

ビートルズとの出会い~対面の経緯~ ブライアン・エプスタインの自伝「地下室いっぱいの騒音」によると、ビートルズの存在を知ったのは、1961年10月28日、トニー・シェリダンのシングル「マイ・ボニー」を、レイモンド・ジョーンズというビートルズのファンが彼の店に買いに来たときだった。エプスタインと友人のアリステア・テイラーは、バンドの演奏を見るために、同年11月9日、キャヴァーン・クラブを訪れた。クラブは彼の店から通りを下ったところに位置した。バンドの演奏を見たエプスタインは「私はそれまで、地元のリヴァプールで人気を集め始めていたビート・グループに対して一度も興味の目を向けた事は無かったが、すぐに彼らの音楽、彼らのビート、彼らのユーモアセンスに打たれた。そして彼らに会った後でさえ、彼らの個人的魅力に再び心打たれた。そしてそれは全ての始まりだった...」と語っている。

秋山真之(1868~1918)

日本騎兵の父 1892年、海軍少尉。日清戦争では通報艦「筑紫」に乗艦し、偵察など後援活動に参加。戦後には巡洋艦「和泉」分隊士、1896年1月には横須賀に転属し、日清戦争での水雷の活躍に注目して設置された海軍水雷術練習所の学生になり水雷術を学び、卒業後に横須賀水雷団第2水雷隊付になる。のちに報知艦「八重山」に乗艦し、海軍大尉となる。同年11月には軍令部諜報課員として中国東北部で活動する。

フリードリッヒ・フォン・フロトー(1812~1883)

マルタ~第1幕~ アン女王の女官ハリエットは宮廷生活に退屈しており、彼女に言い寄ってくる従兄弟のトリスタン卿にもうんざりしている。彼女と侍女のナンシーは田舎娘マルタとユリアに変装し、農夫ボブに扮したトリスタン卿を伴ってリッチモンドの奉公人市場に出かける。そこは娘たちが1年間の奉公先を決める場所だった。女中を探しに市場に来ていた若い農場主プランケットと義弟ライオネルは、その場に似つかわしくない上品な物腰のマルタとユリアを見初め、ボブの妨害にもかかわらず二人を女中に雇う契約をしてしまう。

海部俊樹(1931~2022)

内閣総理大臣~就任~ 参院選の結果、自民党が過半数割れに追い込まれたことにより、ねじれ国会に突入した。首班指名選挙では、自民党が以前過半数を占めていた衆議院は海部、野党が過半数を確保した参議院は日本社会党委員長の土井たか子を指名した。日本国憲法第67条第2項の規定に基づき両院協議会で協議されたが、両院の意見は一致せず、衆議院で指名された海部が内閣総理大臣に就任した。海部は初の昭和生まれの首相でもある。

ドミトリー・ウスチノフ(1908~1984)

中央政界での出世 1952年10月に党中央委員会委員となる。1953年3月5日のスターリンの死後、軍需省と航空産業省が統合されて国防工業省が創設された際には新たに国防工業相に任命され、フルシチョフ政権で引き続きソ連の軍産複合体を統括することとなった。1957年12月にロケット・兵器・原子力産業担当の閣僚会議副議長となり、ミサイルやロケットの開発を推進した。1961年、ユーリ・ガガーリンによる人類初の宇宙飛行を成功させた功により、再度「社会主義労働英雄」の称号を得た。1963年3月に閣僚会議第一副議長となり、軍需の他に民間工業も担当した。

杉浦梅潭(1826~1900)

箱館奉行時代 それから1年半後の1866年1月18日、箱館奉行に任命され、蝦夷地へ赴任、日露和親条約で日本とロシアの雑居地と決められた樺太の内、日本人居住地の南にロシア人が住居を建設する問題が発生、その交渉にあたった。しかし、本州では幕府が大政奉還、それに続く戊辰戦争で旧幕府側は劣勢に立たされた。やがて1868年3月、朝廷に奉行所を明け渡すよう江戸から指令が届き、閏4月27日、箱館裁判所総督清水谷公考に箱館奉行所を引き渡し、6月に江戸へ戻った。

フランク・ロイド・ライト(1867~1959)

  帝国ホテル

古屋佐久左衛門(1833~1869)

戊辰戦争 戊辰戦争開戦時は幕府陸軍で歩兵差図役頭取の要職にあった。1868年2月5日から7日にかけて、鳥羽・伏見の戦いで指揮官佐久間信久が戦死した第11連隊と、同じく戦死した窪田鎮章の第12連隊の残存兵力約1,000人が麹町三番町の兵舎から脱走した。その後、逃亡や捕縛などでその数は半数に減ったものの、約500人が下野方面に屯ろしていた。

ジョージ・マーティン(1926~2016)

ビートルズ関連事項 ビートルズは1962年にデッカ・レコードのオーディションに不合格となったものの、その後にマネージャーのブライアン・エプスタインがジョージ・マーティンへの売り込みに成功。彼のビートルズのデモテープに対する第一印象は「ひどかった」というものであったが、マーティンはビートルズのメンバーと直接面会していないのにもかかわらず、ビートルズにレコーディングを要請した。同年6月6日、ビートルズをEMIスタジオに呼び、多くの曲を演奏させてビートルズの演奏技術を確かめた後、その場でデビュー曲のレコーディングを行った。その後「実際に対面した途端に恋をしてしまった」と語った彼はビートルズと契約した。それは長きにわたる関係の始まりであった。ちなみに、そのとき緊張していた彼らにマーティンは「何か気に入らないことがあるか?」と尋ねたが、ジョージ・ハリスンの回答は「あなたのネクタイが気に入らないね!」であった。

松川弁之助(1802~1876)

漁場開拓 1857年には、北蝦夷地での漁場開拓のため、越後国一ノ木戸村の小林森之助を北蝦夷地東海岸のオチョポカに送り、マス1,000石の漁獲を上げた。このとき、中知床岬を周り北蝦夷地東海岸への航路を開拓したことで幕府から褒美を受ける。また、漁場開拓の功をもって、北蝦夷地御直捌所差配人元締を命じられるともに苗字帯刀を許される。

ジェームズ・ブラッドリー(1693~1762)

章動~研究史~ イギリスの天文学者ジェームズ・ブラッドリーは、1727年から1747年までの20年間のりゅう座γ星の観測記録から約9秒の章動を発見した。これは、彼が1725年から1726年にかけて思いもかけず発見した年周光行差についてさらに確証を得るために続けた観測から偶然発見されたものである。

崇神天皇(前148~前30)

事績~四道将軍~ 即位10年、四道将軍を派遣して全国を教化すると宣言した。大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波に将軍として遣わし従わないものを討伐させることとなった。しかし北陸へ出発した大彦命は和珥坂で現れた不思議な童女から不吉な歌を聴くことになる。

ソフィア・コワレフスカヤ(1850~1891)

コーシー=コワレフスカヤの定理 コーシー=コワレフスカヤとは偏微分方程式の解の存在と一意性についての基礎定理。解析性についての仮定の下、局所解の存在と一意性を保証する。常微分方程式の場合と準線形な偏微分方程式の特別な場合の結果を数学者コーシーが示し、その後、数学者コワレフスカヤによって一般的な偏微分方程式の場合に証明が与えられた。

伊達晴宗(1519~1578)

元亀の変~伊達晴宗と輝宗の対立~ その後、1564年頃に晴宗は輝宗に家督を譲ったが、家中の実権は自身が握ったままであったために両者に対立が生じた。晴宗が米沢城郊外の新川に隠居館を造営しようとするのを輝宗が妨害したり、輝宗が反乱を起こした田手宗光の討伐をしようとするのを晴宗が反対したりした。更に輝宗は晴宗の反対を押し切って、妹の彦姫を自分の養女として蘆名盛氏の嫡男盛興に嫁がせ、秘かに盛氏からは晴宗と輝宗が争った際には輝宗の味方になる約束を取り付けていた。

ヒューバート・ホレイショー・ハンフリー(1911~1978)

政治経歴 1943年にミネソタ州最大の都市であるミネアポリス市長選挙に出馬するが惜敗。同年から翌年まで、マカレスター大学で政治学教授となる。1944年にはミネソタ州の民主党とミネソタ農民労働党の合併によるミネソタ民主農民労働党の設立に参加。1945年にはDFLの主導権を得ようとした共産主義グループの排除に加わる。

斎藤妙椿(1411~1480)

利藤と妙椿 『美濃国諸旧記』・『美濃明細記』・『古代氏族系譜集成』など、多くの書物において斎藤利藤と同一人物とされてきた。しかし、横山住雄は著書『美濃の土岐・斎藤氏 利永・妙椿と一族』の中で斎藤利永の弟ではないかと論考し、その後、蜷川親元の日記『親元日記』や正徹の歌集「草根集」の中の記述から利藤の叔父であることが判明した。更に、禅僧東沼周巌の詩文集『流水集』には斎藤越前守の弟に善恵寺が記載されており、妙椿は利永の弟で善通寺と同一人物と考えられている。これらの事から、妙椿自身は守護代にはなっておらず、利永の次は利藤が守護代職を継承した事も明らかになった。

アドリアン=マリ・ルジャンドル(1752~1833)

ルジャンドル変換 ルジャンドル変換とは、凸解析において、関数の変数をその微分に変えるために用いられる変換である。名前はフランスの数学者、アドリアン=マリ・ルジャンドルに因む。ルジャンドル変換は点と線の双対性、つまり凸な関数 y = f (x) は (x, y) の点の集合によって表現できるが、それらの傾きと切片の値で指定される接線の集合によっても等しく充分に表現できることに基いている。

蜷川親元(1433~1488)

親元日記 例えば、足利義尚の将軍就任後、その伯父、内大臣日野勝光が政務を取り仕切っていたことが知られているが、軍政面で、公家出身の勝光に判断できないものについては、政所執事伊勢貞宗の決裁を受けるよう指示していたことが、この日記で知ることができる。

ルチアーノ・パヴァロッティ(1935~2007)

幅広い活動 1990年代、パヴァロッティは野外コンサートをしばしば開き、多くの聴衆を集めたことでも知られる。1991年7月30日ロンドンのハイド・パークで行われた最初のコンサートはテレビで放送され、公園の歴史上初のクラシック演奏会となり、15万人という記録的な人数の聴衆を動員した。1993年6月にはニューヨークのセントラル・パークの大庭園で行われたパヴァロッティの演奏会には50万人が集まり、テレビでもさらに数百万人がこれを視聴した。続いて9月にはパリのエッフェル塔の下でコンサートを開催、推定30万人を集めた。

肝付兼続(1511~1566)

自殺に関しての異説 兼続の自殺説は後代に書かれた地元郷土史などで見られる話であり、肝付氏側の史料には「兼続が自殺した」と明言した物はなく、自殺を否定する説も有力である。実際、居城を落とされたとしても当時の肝付氏の勢力は島津氏に劣らないものであり、それが原因で自殺するとは考えにくい。島津氏の史料にも自殺したとの記述は見られない。

ルキウス・ムナティウス・プランクス(前87~前15)

ローマ内戦 紀元前44年3月15日にカエサルが暗殺されたとき、プランクスは執政官代理としてガリア・トランサルピナの総督を務めていた。マルクス・アントニウスがデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスをムティナで包囲した際には、プランクスはキケロとの間に元老院派軍団の離脱の可能性に関して詳細なやりとりをしている。プランクスは、マルクス・アエミリウス・レピドゥスがブルトゥスを支援するためにプランクスの軍の動きを妨害するであろうから、支援は不可であるとしている。レピドゥス、アントニウス、オクタウィアヌスが第二回三頭政治を開始すると、プランクスはアントニウスを支援した。紀元前42年にはレピドゥスと共に執政官に就任、紀元前40年には前執政官としてアシア属州の総督となった。

フランツ・バルツァー(1857~1927)

東京駅 バルツァーは東京駅の設計にも関与した。日本建築に関心を持っていたバルツァーは、瓦屋根を持った日本建築様式の東京駅舎を提案していた。しかしヨーロッパ崇拝の時代であった当時の日本にあってはこれは日本側にはまったく受け入れられるものではなかった。実際にルネサンス風の建築で東京駅舎を設計した辰野金吾からは、バルツァーの提案した日本風駅舎は「赤毛の島田髷」と酷評された。これは日本に来た西洋婦人が物珍しさから、洋服を着ながら日本風の髷を結ったり下駄を履いたりといった日本趣味を行うことに例えたもので、日本人から見れば不恰好で日本文化の理解も不十分であるとした。

セルウィウス・トゥッリウス(不明~前535)

セルウィウス城壁~歴史~ その名称は王政ローマの第6代の王セルウィウス・トゥッリウスに由来する。城壁の原形となるもののが作られ始めたのは紀元前6世紀だが、現存する部分の多くは共和政ローマ時代のものと見られ、アッリアの戦いのころガリア人のブレンヌスがしばしばローマで略奪を繰り返したため、それを防ぐ目的で建設されたといわれている。ガリア人がローマに簡単に侵入できたのは、王政時代のエトルリア人支配者が城壁を徐々に取り除いてきたためと推測される。

垂仁天皇(前69~170)

事績~祭祀の振興~ 即位25年、武渟川別・彦国葺・大鹿嶋・物部十千根・大伴武日の五大夫を集めて先帝の偉業を称えて神を祀ることを誓った。同年、天照大神の祭祀を日葉酢媛命が生んだ皇女の倭姫命に託した。宇陀、近江、美濃と周った倭姫命は最終的に伊勢に落ち着き伊勢神宮を建立した。

ジョン・バーニンガム(1936~2019)

ガンピーさんのドライブ ガンピーさんが、子どもや動物たちを自動車に乗せてドライブに出かけました。途中雨が降ってきたり車が動かなくなりますが……。

織田信光(1516~1556)

萱津の戦い この知らせを聞いた信長は、8月16日早朝に那古野城を出陣すると、稲庭地の庄内川畔で、守山城から駆けつけて来た織田信光と合流。兵を他に松葉口・三本木口・清州口に分け、自らは信光と一手になって庄内川を越し、海津へと移動した。辰の刻に戦端が切られ、数刻交戦の末に坂井甚介が討ち死にした。その首は、中条家忠と柴田勝家が二人がかりで取ったという。その他、清洲方の50騎が討ち死にした。

ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681~1767)

忠実な音楽の師 忠実な音楽の師は、ドイツの作曲家、ゲオルク・フィリップ・テレマンが1728年から1729年にかけて作曲した、様々な作品のための作品集である。

北島忠治(1901~1996)

日本のラグビー監督 明治OB達は皆、口を揃えて「厳しくも温かい人柄」であったと伝えている。また監督が幅をきかせていた他の大学と違い、グラウンド上では大抵学生の判断に任せていたが、手抜きは許さなかった。また見つけた場合は即刻グラウンドから退場を命じた。北島がラグビーを通じて目指したものは人格陶冶、社会に恥じない人間を育てることであった。それを示す例として、ラグビー部寮が火災で焼失した際、「家は建てられるが部を再建することは困難である」と新宿の自宅を売って再建したという。