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山岡荘八(1907~1978)

徳川家康 『徳川家康』は、1950年3月から1967年4月まで北海道新聞・東京新聞・中日新聞・西日本新聞に連載された山岡荘八の歴史小説。ソフトカバー版、講談社文庫版を経て、現在は講談社の山岡荘八歴史文庫のロングセラーとなっている。1968年、第2回吉川英治文学賞を受賞。

ウィリアム・オートレッド(1574~1660)

業績~計算尺~ オートレッドの計算尺は、ガンターが既に解明していた1つの対数尺を使った計算方法をよりカ簡便にしたものだった。ガンターの方法はキャリパスを必要とし、対数尺上のある間隔をずらして目盛りを読み取るというものだった。オートレッドは2つの対数尺を用いて、それらをスライドさせることで計算を行った。1620年代のオートレッドの計算尺は円形だが、このアイデアを出版物で公表したのはオートレッドではなく、1630年にドラマンが出版したのが最初である。現在の計算尺のように中間部分がスライドする真っ直ぐな形状のものが登場したのは、1650年代である。

中島武市(1897~1978)

岐阜県立岐阜商業高等学校 岐阜県立岐阜商業高等学校は、岐阜県岐阜市則武新屋敷にある公立商業高等学校。全国的には「県岐阜商」と略されることが多く、地元では「県岐商」の通称で呼ばれる。これは同名の岐阜市立岐阜商業高等学校があるためであり、また地元で単に「岐阜商業」というと、設立の古い当校を指すことが多い。また、定時制単位制を併設する。

ガーボル・デーネシュ(1900~1979)

ホログラフィー ホログラフィーは1947年にハンガリーの物理学者ガーボル・デーネシュによって発明された。彼は1971年にノーベル物理学賞を受賞しており、この発明に関する特許権も保有された。この発見はイギリスのウォリックシャー州ラグビーにあったブリティッシュ・トムソン・ヒューストン社にて電子顕微鏡を改良する研究をしていたときの思わぬ結果によるものだった。しかし、レーザーが1960年に発明されるまでは研究があまり進歩することはなかった。

西川寅吉(1854~1941)

寅吉と水平社 寅吉は被差別部落民であったため全国水平社の関心を惹き、水平社の機関誌『水平』第2号には輪池越智が社会講談「反逆児五寸釘寅吉」を載せた。『水平』が2号で廃刊になったため、続いて発刊された『水平新聞』の第1号以降に続きが掲載されたが、輪池の失踪により5号で中絶している。

テッド・バンディ(1946~1989)

フロリダへ 刑務所を訪問した友人が渡した約500ドルで、バンディは片道の航空券を購入。トランス・ワールド航空のデンバー発シカゴ行に乗って逃亡。ミシガン州アナーバー行きのアムトラックの旅客列車に乗車し、その後、車を盗んでアトランタのスラム街で乗り捨てる。そこからフロリダ州タラハッシーまでバスを移動した。タラハッシーではクリス・ヘイゲンという偽名でアパートを借り、ひとまず腰を落ち着ける。1978年1月15日深夜、カイ・オメガ女子寮にて、睡眠中の女生徒を襲い、2人を撲殺し、2人に重傷を負わせる。

北条長時(1230~1264)

執権就任 1256年11月22日に執権の時頼が病のため、時頼の嫡男・北条時宗に執権職を譲るまでの一時的な中継ぎとして長時に白羽の矢が立ち、6代執権に就任する。この際、武蔵国務・侍所別当・鎌倉小町の別屋敷なども譲られている。しかし実質的な権限は病の癒えた時頼が掌握していた。1260年には赤痢のため病床に付していた宗尊親王の代理として鶴岡放生会に参列したが、長時自身、この年の末には病魔に蝕まれていた。1264年7月3日、病により執権職を辞任して出家、叔父の北条政村が7代執権となる。同年8月21日、浄光明寺にて35歳で死去。同寺には長時の木像と位牌が今も現存している。勅撰集に12首の歌が採録されている。

ピエロ・デラ・フランチェスカ(1412~1492)

キリストの洗礼  

山口薫(1907~1968)

牛  

セクストゥス・タルクィニウス(不明~前509)

ルクレティアの陸辱 タルクィニウスは、ルトゥリ人の都市アルデアを包囲していた。都市はなかなか陥落せず、ローマ軍は城壁の側に野営していた。王の息子と、甥でエゲリウスの息子タルクィニウス・コッラティヌスは共に宴を開き、その最中に自身の妻の貞淑さについて話り合い、戦況が落ち着いていたので、いきなり家に帰って驚かせてみる事にした。まず彼らはローマへ帰り、そこで開かれていた盛大な宴会場で王女たちを驚かせた。次に彼らはコッラティアへと急ぐと、もう夜も遅かったが、コッラティヌスの妻ルクレティアが侍女たちと糸を紡いでいるところだった。

山田かまち(1960~1977)

プリーズ・ミスター・ポストマン  

ブルーノ・タウト(1880~1938)

ベルリン市ブリッツの馬蹄形住宅

仲本工事(1941~2022)

ドリフターズ加入 高木の誘いにより1965年ドリフターズに加入。高木はいかりやに紹介するギタリストを仲本にするか、同じバンド仲間の青木健にするか少し悩んだが、いかりやがあまりに急いでいたため、すぐ連絡が取れた仲本に声をかけたと述べている。また、当初両親が芸能界入りに反対したため、いかりやが連日仲本の自宅に通って説得したという。

ジョン・デリンジャー(1903~1934)

社会の敵ナンバーワン 刑務所暮らしの間に、彼と同じインディアナ州マンシー出身のハリー・ピアポントと、インディアナ州テレホート出身のラッセル・クラークから銀行強盗のノウハウを学んだデリンジャーは出所後、彼らと共に強盗稼業をはじめることを決意した。

チャールズ・ウィロビー(1892~1972)

GHQでの活動 日本を占領した連合国軍の1国としてアメリカ軍も参加し、GHQでは参謀第2部部長として諜報・保安・検閲を管轄した。政治犯として投獄されていた日本共産党幹部の釈放や、労働組合活動を奨励し、日本の民主化を推進する民政局長コートニー・ホイットニー准将や次長のチャールズ・ルイス・ケーディス大佐を敵視し、縄張り争いを繰り広げた。右翼の三浦義一、旧軍の河辺虎四郎らも使って反共工作を進めた。

ジャン=ポール・ローランス(1838~1921)

メキシコ皇帝マクシミリアンの最期

永井隆(1908~1951)

長崎の鐘 内容は、長崎医科大学助教授だった永井が原爆爆心地に近い同大学で被爆した時の状況と、右側頭動脈切断の重症を負いながら被爆者の救護活動に当たる様を記録したもの。被爆時に大学をはじめとする長崎の都市が完全に破壊された様子、火傷を負いながら死んでゆく同僚や市民たちの様子を克明に描いている。永井は、この時妻を亡くした。また、救護の際には、頭部の重症と疲労から自らも危篤状態におちいるが、同僚医師や看護婦たちの努力により一命を取り留める。「長崎の鐘」とは、廃墟となった浦上天主堂の煉瓦の中から、壊れずに掘り出された鐘のこと。

アンドレイ・タルコフスキー(1932~1986)

僕の村は戦場だった 第二次世界大戦中の独ソ戦下のソビエト、主人公はドイツ軍に両親と妹を殺された12歳の少年イワン。彼はパルチザンに入って戦ったあと、今は小さな体を生かしてソビエト赤軍の偵察任務に協力していった。

妻木松吉(1901~1989)

説教強盗、逮捕 1929年1月10日、前年までに59件にものぼった説教強盗事件を本格的に捜査すべく再び大評定を開催。関係各署にも協力を求め、特別捜査本部を設置した。同月19日には朝日新聞社が説教強盗を捕えたものに1,000円の懸賞金を支払うとの社告を発表。同月末にも警視庁の大捜査が行われたが逮捕はされなかった。2月2日には東京市民が警察の力が頼りないとして青年団・在郷軍人会が自警団を結成。同4日には帝国議会において「帝都治安維持に関する決議案」が提出されるにいたった。

ルイジ・ノーノ(1924~1990)

進むべき道はない、だが進まなければならない…アンドレイ・タルコフスキー 「カミナンテス3部作」に含まれ、ノーノが1990年に没する3年前の1987年に作曲された最後の管弦楽作品である。武満徹の監修によるサントリーホールの「国際作曲委嘱シリーズ」からの委嘱によって作曲され、同年には高関健の指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団によって11月28日に演奏された。作品の長いタイトルは、スペインにあるトレドの修道院の壁に刻まれた碑文から引用したとノーノは述べており、またノーノ自身における創作の上での理念でもある。

板倉光馬(1912~2005)

大東亜戦争~太平洋戦争~ 潜水学校を卒業の後、1941年11月、伊号第169潜水艦水雷長兼分隊長。その後先任将校として、12月8日の真珠湾攻撃に参加。駆逐艦攻撃に失敗し反撃され損傷。その後防潜網にかかり海底に沈下、哨戒艇にも発見されながらも、間一髪で真珠湾を離脱した。1942年1月にはミッドウェー方面で通商破壊に従事、ただし戦果に恵まれず、ミッドウェー島の米軍基地を砲撃後日本帰還。同年5月、ミッドウェー海戦の支援のため同海域に展開。7月以降ヌメア方面を始めとするオーストラリア方面通商破壊作戦を行った。

フィリップ・モリス(1835~1873)

フィリップモリス フィリップモリスは、アメリカ合衆国コネチカット州スタンフォードに登記上の本社を置き、スイスのローザンヌに統括本部を置く、世界最大のたばこメーカー。日本法人のフィリップモリスジャパン合同会社は東京都千代田区永田町山王パークタワーに構える。

大木惇夫(1895~1977)

大地讃頌 母なる大地のふところに我ら人の子の喜びはある大地を愛せよ大地に生きる人の子らその立つ土に感謝せよ平和な大地を静かな大地を大地を褒めよ讃えよ土を恩寵の豊かな大地我ら人の子の大地を褒めよ讃えよ土を母なる大地を母なる大地を讃えよ褒めよ讃えよ土を母なる大地をああ讃えよ大地をああ

ジョン・ケージ(1912~1992)

4分33秒 『4分33秒』は、アメリカの音楽家ジョン・ケージが1952年に作曲した曲である。ケージの作品の中で最も知られており、音楽に対するケージの思想が最も簡潔に表現された作品でもある。

寺村輝夫(1928~2006)

ぼくは王さま どこかの国に住む、どこかの王さまが主人公。城や衣装は中世ヨーロッパ風だが昔話ではなく、テレビ、コンピューター、近代兵器なども登場する。国の中には町が2つ、村が3つある。この国にはゾウやライオンがいるが、隣の国にはいない。この作品世界の雪は雲で作られるのではなく、ヤンコ星という星で作られる。ヤンコ星にもヤンコ星の王さまがいる。

エドガー・ヴァレーズ(1883~1965)

アメリカ 1918年から1921年にかけて作曲され、1927年に演奏時間や楽器編成を縮小する形で改訂が加えられた。1925年には出版されている。初演は1926年4月9日にレオポルド・ストコフスキー指揮のフィラデルフィア管弦楽団によって行われ、改訂版の初演は1929年5月30日にガストン・プーレ指揮のコンセール・プーレによって、サル・ガヴォーで行われた。これ以降再演は行われなくなったが、作曲者と弟子の周文中が初版譜の大量の誤りを訂正した版が1973年にリコルディ社から出版され、現在ではヴァレーズの代表作の一つとして盛んに演奏・録音が行われている。

坪田譲治(1890~1982)

風の中の子供 賢兄愚弟の典型のような兄弟がいる。弟の名は三平。母は、優秀な兄貴と対照的に、乙と丙ばかりで甲がひとつもない三平が心配でしょうがないが、父は結構なことだと思って気にしない。そんなとき、父が私文書偽造の容疑で逮捕され、三平は叔父に引き取られることになる。そして、事態は思わぬ方向へ向かう。

カールハインツ・シュトックハウゼン(1928~2007)

グルッペン~作曲の経緯~ 1954年にエドガー・ヴァレーズのテープとオーケストラのための「砂漠」の初演にテープ音楽の調整役として参加したシュトックハウゼンは当初、電子音楽とオーケストラのための作品として「グルッペン」を構想した。その後、スイスのパスペルスの山荘で構想を進め、最終的に電子音楽とオーケストラから、3つのオーケストラのための作品となった。

和田博雄(1903~1967)

政治家として 1947年の第1回参議院議員通常選挙に全国区より当選。参議院議員となり、当初は緑風会に属した。しかし、1949年に社会党に入党した。和田は社会主義の時代が来ることを確信していた。当時、ドッジ・ラインにより日本はデフレ状態になっており、自由主義経済が破綻することを予測する知識人は多かったのである。1951年、社会党が分裂すると、和田は左派社会党に属した。この間、1948年に繊維疑獄事件に関する問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。

クロンファートのブレンダン(484~578)

伝説の旅~背景~ 一般的に物語が宗教的寓話であることから推測されたのが、伝説が事実をふまえてのものか、創作された物か、ブレンダンが到達した祝福の地は実際のアメリカ大陸だったのか、という疑問であった。セント・ブレンダン協会は、彼が最初のアメリカ大陸発見者だとしている。アイルランド人冒険家ティム・セヴェリンはこれを事実と踏まえて、聖ブレンダンの航海になぞらえて革張りのボートでもしかして北アメリカに到達できるのではと考え、これを実行した。クリストファー・コロンブスも聖ブレンダンの航海を知っており、大西洋を横断すればアジアへ行くことは可能だと考えていた。一部は、聖ブレンダンは古代にアメリカを訪問した人物だとみなしている。

富田常雄(1904~1967)

姿三四郎 柔道創成前後の明治時代を背景に、実在の人物をモデルとした柔術家・柔道家および実在の政治家らをおりまぜた登場人物により、さまざまな人間模様、柔術・柔道等の戦い、歴史的事件をとりまく人々などを描く。

ブノワ・マンデルブロ(1924~2010)

フラクタル フラクタルは、フランスの数学者ブノワ・マンデルブロが導入した幾何学の概念である。ラテン語の fractus から。図形の部分と全体が自己相似になっているものなどをいう。なお、マンデルブロが導入する以前から以下で述べるような性質を持つ形状などはよく考えられてきたものであり、また、そういった図形の一つである高木曲線は幾何ではなく解析学上の興味によるものである。

楫取寿(1839~1881)

晩年の病 寿は、中風症という、体に麻痺が残ったり、手足が自由に動かなくなる病気を抱えていた。そして胸膜炎を併発し、1880年からは群馬県にいる夫のもとを離れ、次男道明のいる東京で治療に専念することにした。しかし、完全に治ることはなく、1881年1月30日に43歳で他界した。

ジェリー・アンダーソン(1929~2012)

海底大戦争 スティングレイ~設定~ スティングレイは海底安全パトロール隊の原子力潜水艦第3番艦。マリンビル基地に所属し、トロイ艦長と部下のフォンズ少尉が搭乗するほか、海底人の美女マリーナも加わることもある。地上侵略を目論む様々な海底勢力に対するスティングレイと乗組員たちの活躍を描くが、単純なアクションものではなく海底の美しい描写や未知の世界、人間関係の綾、さまざまな種族が存在する海底人たちとの駆け引きなども織り込まれ、登場人物たちの会話や行動にユーモアが見られる。

八田知家(生没年不詳)

治承・寿永の乱 治承・寿永の乱が起こると頼朝に従い、1180年に下野茂木郡の地頭に任じられている。1183年、野木宮合戦で小山氏とともに志田義広を撃破し、義広に与した常陸の武士・下妻弘幹の没収領が与えられた。続く平氏追討においては長男・朝重とともに源範頼軍にあったが、西国に下る以前に頼朝の推挙を得ないまま無断で右衛門尉に任官したため、同じく兵衛尉に任じられた小山朝政とともに「のろまな馬が道草を食うようなものだ」と頼朝の怒りを買っている。1185年平氏滅亡後は鎌倉に戻り、勝長寿院落成供養に出席しているが、1186年に再度上洛して朝廷や九条兼実との交渉を担当。同年、郎党の庄司太郎が大内夜行番を怠ったため検非違使に捕らえられる事件が起き、知家が実力で庄司太郎を奪還したため朝廷より訴えられる。そのため翌1187年に頼朝より下手人の引き渡しと、罰として鎌倉の街道整備を命じられている。1189年の奥州合戦では千葉常胤とともに東海道軍の大将軍に任じられ、朝重ら常陸国の兵とともに陸奥国へ出陣した。1190年の頼朝の上洛に随行し、頼朝の推挙で知家に代わって朝重が佐兵衛尉に任官している。

テリー・ジョーンズ(1942~2020)

モンティ・パイソン 1969年に放送を開始した『空飛ぶモンティ・パイソン』でのジョーンズは、番組の特徴である「オチを排した展開」を提案した。ペイリンとともに執筆したスケッチはビジュアルに訴える作風のものが多く、シュールさを前面に押し出したものが少なくない。役者としては、貴族の男性から庶民の老婦人までを特徴的に演じ、特に「ペッパー・ポット」と呼ばれるキンキン声のオバサン役はジョーンズのはまり役となった。スケッチでは服を脱いで裸となることも多く、中でもの第3シリーズのオープニングに登場した「裸のオルガン奏者」は有名である。

文観(1278~1357)

絹本著色五字文殊像  

ハンス・シュペーマン(1869~1941)

胚誘導とオーガナイザー 1908年、シュペーマンはロストック大学で動物学・比較解剖学の教授に就任し、1914年にベルリン・ダーレム地区にあったカイザー・ヴィルヘルム生物学研究所のディレクターに就任した。ここでの研究は彼の名を更に高めた。ウォレン・ハーモン・ハリスやエセル・ブラウン・ハーヴィーの研究を参考に、自分のスキルを原腸形成研究へと活用した。彼は胚中の特定部位を他の胚へ移植する実験を行った。

三木武吉(1884~1956)

政界復帰、公職追放 1939年、報知新聞社社長に就任。1942年、衆議院議員総選挙に非推薦で出馬し当選、政界に復帰。この選挙では鳩山一郎も非推薦で当選している。戦前、鳩山は政友会、三木は民政党の幹部であり、お互いに敵同士であったが、戦時中はともに軍部に抵抗する自由主義政党人として、鳩山と三木は将来の「鳩山首相、三木衆院議長」を誓い合う。同年8月には買収合併の形で報知新聞社を読売新聞に譲渡した。

アル・スミス(1873~1944)

1928年の選挙 共和党はこの時も1920年代の経済的状況の恩恵を受けており、共和党大統領候補ハーバード・フーヴァーはその継続を公約した。歴史家達は、繁栄とともに反カトリック教感情がフーヴァーを当選させたが、フーヴァーはそれまで大統領職を求めたことはなかった。1928年の選挙ではフーヴァーがスミスに対して地滑り的勝利を得た。

久原房之助(1869~1965)

政治家時代 昭和に入ると、政界に進出する。立憲政友会公認で旧山口1区から衆議院議員総選挙に立候補し、当選。田中義一と親しかったところから田中内閣の逓信大臣、また立憲政友会幹事長を歴任し、第2次若槻内閣の倒閣運動にも成功する。政治的には、親軍派に位置して中国大陸進出を主張し、「一代で巨万の富を築いた自分は超人である」と固く信じた。また日本の政党を一つにし、超人である自分がその政党を率いることが日本にとって最善だと考え、「一国一党論」を唱えて憲政一新会など小会派の取り込みを推進したが、二・二六事件に連座して一旦政界への影響力を喪失した。

ジェームズ・ルーズベルト(1907~1991)

政治の世界へ 1924年、民主党全国大会に参加した。1928年、ハーバード大学の同級生達と民主党大統領候補アル・スミスを支援した。1932年、父フランクリンのマサチューセッツ州選挙陣営を率い、同年中に約200回もの占拠演説を実施した。フランクリンは予備選挙ではスミスに敗れたが、1932年アメリカ合衆国大統領選挙に勝利した。1933年に禁酒令の廃止のための憲法制止会議にはマサチューセッツ州代表として出席した。

吉村道明(1923~2003)

プロレス引退後 プロレス引退後の吉村は、母校の近畿大学相撲部顧問として後進の指導にあたりながら事業にも取り組み、プロレス界からは完全に身を引き長く絶縁状態を貫いた。1990年代にレスラーのOB会会長に就任してからは、会場に姿を見せる機会がわずかながら見られるようになった。

オットー・ヴァイニンガー(1880~1903)

『性と性格』 主著『性と性格』において、彼は全人類が男性的形質と女性的形質を併せ持っていると主張し、この自説を科学的に立証しようと試みた。彼によると、男性的形質とは能動的・生産的・意識的・倫理的・論理的な性質であり、女性的形質とは受動的・非生産的・無意識的・非倫理的・非論理的な性質である。彼によると、女性解放とはレズビアンのような「男性的女性」のためのものであり、女性の人生は行動と生産の両面において、もっぱら性機能のために費やされる。女性は本質的に「仲人」である。一方、男性の役割とは天才になるために生き延びることであり、彼が自身の中に見出すところの絶対者に対する抽象的な愛のために性を超越することであるという。この本の相当部分は天才論である。