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3月, 2022の投稿を表示しています

那須正幹(1942~2021)

ズッコケ三人組 中国地方にある町である稲穂県ミドリ市花山町を舞台に、ハチベエ・ハカセ・モーちゃんの3人の小学6年生を中心に物語が展開され、様々なテーマで描かれている。何度もテレビアニメ化やテレビドラマ化がされているほか、映画化やOVA化もされている。

ゲオルク・ジンメル(1858~1918)

思想・研究 彼の哲学は、ニーチェ、ショーペンハウエルと共通点をもつ生の哲学だが、大学の世界で勲等を受けているため、それをカント以来のドイツ観念論の系譜で一般的な用語法を持って語るという、なかなかユニークなもの。「断章」などにも本人が書いているように、知的遺産の後継者には恵まれなかったが、彼の思想は彼の提唱する形式社会学に結実した。形式社会学に含まれるその考え方はアメリカにわたり、社会学のシカゴ学派、そしてシンボリック相互作用論に大きな影響を与え、定性的研究の源流のひとつとも言われるようになった。また、近年では、ドゥルーズ、ガタリ以降の生気論再評価の文脈で、社会化以前の生を捉えようとする後期ジンメルの論が新たに注目されている。

川谷拓三(1941~1995)

名バイプレーヤーとして 大部屋俳優として専属契約していた東映から独立し、それと前後して活動の拠点を東京に移し1978年のNHK大河ドラマ『黄金の日日』や、『愛の亡霊』に出演。1979年には『さらば映画の友よ インディアンサマー』に主演した他、『不毛地帯』など映画・連続テレビドラマ出演が相次いだ。『徹子の部屋』にも出演した。

トマス・マイケル・ディッシュ(1940~2008)

いさましいちびのトースター 電気器具が捨てられたゴミ置き場は、ご主人様のマンションから1キロほどしか離れていなかった。掃除機がビルの玄関を開け、エレベーターの14階のボタンを押した。部屋の呼び鈴を押すとミシンが出てきたが、見たこともないものだった。部屋を間違えたと思った掃除機が「失礼しました」と言うと、「その声はフーバーかい?」というなつかしいテレビの声。電気器具たちは、ついにご主人様の家に着いたのだ。

井上泰幸(1922~2012)

人物・エピソード 『ゴジラ』をはじめとする怪獣映画では、実在のビルディングや街のミニチュアが多数登場するが、図面の提供を断られることも多い。『空の大怪獣 ラドン』では、井上らは実際に博多の街を歩き、歩幅や敷石の枚数を記録し設計図を引いた。ミニチュアの図面は井上と入江義夫、のちに豊島睦とで行なった。

チェーザレ・ロンブローゾ(1835~1909)

生来的犯罪人説 かねてより「天賦の才能」についての研究を行い、『天才と狂気』などの著作を世に問うていたロンブローゾは、骨相学、観相学、人類学、遺伝学、統計学、社会学などの手法を動員し、人間の身体的・精神的特徴と犯罪との相関性を検証した。彼は処刑された囚人の遺体を解剖、頭蓋骨の大きさや形状を丹念に観察した。解剖された頭蓋骨は383個にのぼる。また、刑務所や精神病院で3,839人の受刑者の容貌や骨格を、兵士のそれと比較した。こうした多大な労力を費やした末に、彼は「犯罪者には一定の身体的・精神的特徴が認められる」との調査結果を得た。

妙印尼(1514~1594)

小田原征伐 1590年、豊臣秀吉が小田原征伐に乗り出すと、小田原城に籠城する由良国繁に代わって桐生城を守っていたが、同年6月7日に前田利家を通じて豊臣軍に降伏する。その後、国繁の嫡男である貞繁とともに豊臣軍の松井田城攻略に従ったため、8月になって妙印尼の堪忍分として常陸国牛久城に所領が与えられ、国繁は家名を保った。

シモ・ヘイヘ(1905~2002)

軍歴~冬戦争~ 同第6中隊の指揮官は、フランス外国人部隊勤務経験を持ち「モロッコの経験」と綽名されたアールネ・ユーティライネン中尉。ユーティライネン中尉は、民間防衛隊での射撃成績等から判断し、ヘイヘを特定の小隊に配属せず、最も能力を有効に発揮できる狙撃兵の任務を与えた。

朝比奈義秀(1176~不明)

義秀の母について 義秀は大力の勇者であったため、『平家物語』などの軍記物語で活躍した大力の女武者巴御前の子と伝わる。『源平盛衰記』などでは木曾義仲の敗死後、捕虜になった巴御前を義盛が望み、義秀が生まれたことになっている。もっとも、義秀の生年が義仲の滅亡以前であることから、この話は創作である。

フェルディナント・テンニース(1855~1936)

思想~ゲマインシャフト~ 自然な「本質意志」にもとづき、結合を本質とする基礎的集団。家族・友人仲間・近隣などを例とし、成員は感情的・全人格的に融合する。前近代的な社会類型。ゲゼルシャフトの対概念。

板倉勝静(1823~1889)

奥羽越列藩同盟 一方で江戸の勝静は、慶喜が朝敵とされたことから、1月29日に老中職を辞し、2月19日に逼塞処分を受けた。3月には下野日光山に屏居となった。さらに新政府によって宇都宮藩に移され、英巌寺に軟禁されたが、宇都宮戦争で大鳥圭介率いる旧幕府軍によって解放され、同じく老中経験者の小笠原長行と共に奥羽越列藩同盟の参謀となった。

スタニスラフ・ペトロフ(1939~2017)

核戦争未遂事件~1983年の事件~ スタニスラフ・ペトロフは戦略ロケット軍の中佐であり、1983年9月26日、モスクワはセルプコフ-15バンカーの当直将校だった。ペトロフの担当任務には、核攻撃に対する人工衛星による早期警戒網を監視し、ソ連への核ミサイル攻撃を認めた場合これを上官に通報することが含まれていた。そのような攻撃を受けた場合のソ連の対応は相互確証破壊戦略に基づいており、即時反応による米国への核攻撃を行うこととされていた。

大原重徳(1801~1879)

文久の改革 1858年には日米修好通商条約の調印のための勅許を求めて老中・堀田正睦が上洛すると、岩倉具視らと反対して謹慎させられる。1862年、薩摩藩の島津久光が藩兵を率いて献策のために上洛すると、赦免された重徳は岩倉の推薦で勅使として薩摩藩兵に警備されて江戸へ赴いた。江戸では、薩摩の軍事的圧力を背景に攘夷の決行や、一橋慶喜を将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽を政事総裁職に任命することと両名の幕政参加を老中の板倉勝静や脇坂安宅らに迫り、これを飲ませた。

グレゴリウス11世(1336~1378)

アヴィニョン捕囚~アヴィニョン捕囚から大分裂へ~ およそ70年後の1377年、教皇グレゴリウス11世はシエナのカタリナの助言によりローマに戻り、アヴィニョン捕囚の期間は終わるが、グレゴリウス11世は翌年に逝去した。ローマで新たに教皇ウルバヌス6世が選出されるが、間もなくフランス人枢機卿が選挙は無効だと宣言して、別に教皇クレメンス7世を選出した。こうして、ローマとアヴィニョン共に教皇が並び立つシスマが起こる。

三好十郎(1902~1958)

冒した者 そうだ。もう芝居は、たくさんだ。いつまでやって見ても果てしの無い話だ。私たちの後ろにかくれて、私たちを踊らせている者がある。私たちはそれに気が附かずに、自分は自分の意志で自分のイノチを生きていると思って居る。そして自分を取りかこんだ観客から見られ、見られることで得意になり、セッセと演技をつづける。後ろにいるやつは、そこまで知っている。そこまで計算している。

ジョン・ゲイ(1685~1732)

ベガーズ・オペラ 善人は一人も登場せず、登場人物は大悪党から小悪党まで悪党ばかりであり、痛烈な社会風刺となっている。舞台は18世紀初頭の英国ロンドン。追い剥ぎマクヒースは手配中の極悪人だが、故買家業で稼ぐピーチャムの一人娘ポリーと恋仲になり、極秘に結婚してしまう。怒ったピーチャムは何とか二人の仲を裂こうとし、昵懇の監獄の看守長と共謀し、マクヒースを酒場に誘って捕える。監獄に捕らえられたマクヒースの元に愛人とポリーが訪れ、逃がす。だが、賭け事好きの彼が、やはりピーチャムと結託しているトレイプス夫人の賭博場に立ち回ったことから再び逮捕され、今度は刑場送りとなる。しかし、オペラはハッピーエンドで終わらなければならないとの決まり事から、前後の脈絡なく、マクヒースは恩赦を受け、絞首刑にされたのになぜか生き返ってハッピーエンドとなる。

戸川幸夫(1912~2004)

高安犬物語 あるとき、尾関は「私」と、日本犬の同好仲間であるパン屋の主人「木村屋」に、高安犬を探しに米沢に行こうと呼びかける。だが、当時すでに混血が進み、純血の高安犬は絶滅に瀕しており、探してもよぼよぼの老犬が2頭見つかっただけであった。尾関と木村屋は捜索を諦めたが、諦め続けずに探し続けた「私」は、和田村で、ついに1頭の高安犬を発見する。それは吉蔵という猟師の飼い犬で、名を「チン」といった。気難し屋の吉蔵は、「私」に全く取り合おうとしなかったが、「私」は熱心に吉蔵のもとに通いつめる。

フランシスコ・タレガ(1852~1909)

アルハンブラの思い出 高度な演奏テクニックであるトレモロ奏法を活用した曲としても名高く、右手の薬指、中指、人差し指で一つの弦を繰り返しすばやく弾くことによりメロディを奏でる。親指はバス声部と伴奏の分散和音を担当する。クラシックギターでは、バリオス作「最後のトレモロ」「森に夢見る」と共に最も有名なトレモロ作品として数えられると共に、スペインにちなんだギター作品では最もポピュラーな作品である。

丸目長恵(1540~1629)

タイ捨流 タイ捨流の始祖丸目長恵は、肥後南部を領していた相良氏の家臣である。上京し、新陰流を創始した上泉伊勢守秀綱の弟子となり、将軍足利義輝の前での演武で秀綱の打太刀を勤めている。1567年秀綱より、上泉伊勢守信綱の名で印可状を受けている。新陰流を九州一円に広めた後、独自の工夫によりタイ捨流を開流した。

ジョン・ウィリアム・カシリア(1811~1893)

  ジョージ湖

真木保臣(1813~1864)

八月十八日の政変 長州藩主に「長州一藩のみが列強を相手に攘夷をしても勝ち目はない。全国一丸となって事に当たる必要がある。そのためには天皇が攘夷親政を進められること以外には道はない。」という意見具申をし採用された。しかし、この奥には「夷狄御親征名目で進発あそばし、直ちに都を大阪に移し、皇政復古の大号令を天下に布告し、大艦を造り、武備を整え、対外的武力の充実を図る」という考えがあった。そしてこの考えのもとに御親征促進運動を推し進めた偽勅の乱発に対し、孝明天皇の怒りを買い、八月十八日の政変が起きた。

フリードリヒ・バイルシュタイン(1838~1906)

バイルシュタイン試験~方法~ 銅線の端をバーナーでよく加熱し、表面に赤褐色の酸化銅(II) の皮膜が生じてから微量の試験物質を付着させる。再び炎の中で加熱すると、試験物質中に塩素、臭素、ヨウ素が存在すれば緑から青の炎色反応を示す。ただし、この試験法ではフッ素の検出はできない。

朝比奈信置(1528~1582)

甲斐武田家の時代 信置は武田信玄から庵原領を与えられ、「信」の文字を一字拝領し、駿河先方衆筆頭として重用された。庵原城領の信置は遠江国高天神城領の小笠原信興と共に武田勝頼期に追認された在城主の典型例と評されている。庵原郡の江尻城は武田氏の駿河支配拠点で穴山信君が城代となっており、穴山氏は庵原郡一円に支配を及ぼし、領域支配諸権を持つ支城領としての「江尻領」を形成していたともいわれる。

トーマス・ジョーンズ(1742~1803)

  ナポリの風景

クーデンホーフ光子(1874~1941)

夫の急死 1905年の日露戦争の勝利により、日本の国際的地位が高まると、光子への偏見も和らぐが、翌1906年5月14日にはハインリヒが心臓発作を起こし急死した。ハインリヒの遺産は全て光子が相続するように遺言がなされていたものの、一族が財産を巡り訴訟を起こすが、光子は自ら法律書を読み法律の勉強をしてこれに勝訴する。以後、夫の遺産を相続し、伯爵夫人として簿記などを勉強をし家政を取り仕切った。そして子供たちの教育のため、財産を処分してウィーンへ居を移す。

エル・サント(1917~1984)

偶像への道 1950年代になると、ホセ・グアダルーペ・クルスという芸術家兼編集者が、サントの漫画を出版するようになる。サントはその中でメキシコの歴史における最高のルチャドールとされ、彼に比肩しうるのは伝説の人物、カリマンだけであった。50年代後半、プロレスラー兼俳優フェルナンド・オセスの誘いによって、サントは映画界へと足を踏み入れることになる。とはいえ、ルチャドールとしての活動を打ち切ることのない、二足の草鞋状態での俳優活動であった。こうして、映画俳優サントのデビュー作『サント対悪の頭脳』、『サント対地獄人間』が完成した。双方とも1958年公開、脚本はフェルナンド・オセスとエンリケ・サンブラーノ、監督はホセリート・ロドリゲスである。ちなみにこれら二作の撮影はキューバで行われ、撮影が終了したのは、フィデル・カストロがハバナ入りし、キューバ革命の勝利を宣言した前日のことだった。

由利徹(1921~1999)

喜劇役者としてブレイク 1956年に南利明・八波むと志とともに『脱線トリオ』を結成。1961年の脱線トリオ解散後は引き続き南利明や佐山俊二と組むなどしていたが、単独での活動が主となっていく。単独での映画出演は1957年には年間本数5本程度だったのが徐々にオファーが増えて、翌1958年から1972年頃までは年間10本以上も出演するようになる。

サッダーム・フセイン(1937~2006)

イラクの情勢 サッダーム・フセインは1937年、イラク北部のティクリートで生まれた。ここはスンナ派地域で、バース党の有力者が多かった。サッダームは叔父の影響で反英闘争に参加するようになり、20歳でバース党に入党、59年のカセム大統領暗殺計画に加わり、失敗して逃亡し砂漠を放浪し、シリアとエジプトで亡命生活を送った。帰国後も地下活動に従事し、68年のバース党のクーデターでバクル大統領政権が成立すると、翌年32歳の若さでバース党最高決定機関の革命指導協議会の副議長に抜擢された。バクルがティクリート出身であったからといわれている。サダムは軍人ではなかったが、巧みな権謀術数で古参党員や軍人を排除し、糖尿病のバクルに替わってバース党の実権を握った。

北条幻庵(1504~1589)

2代・氏綱と3代・氏康の時代 1542年5月、甥にあたる玉縄城主の北条為昌が死去したことに伴い、三浦衆と小机衆を指揮下に置くようになる。1543年に幻庵は「静意」の印文が刻まれた印判状を使用し始めていることから、自らの支配地強化に乗り出したものと解釈されている。

イングリッド・バーグマン(1915~1982)

ハリウッド時代、1939年 - 1949年~『カサブランカ』~ 第二次世界大戦が勃発したバーグマンは、ドイツで『4人の仲間』に出演したことを「間違った選択だったと自責の念にかられ」るようになった。バーグマンの伝記作家の一人シャーロット・チャンドラーは2007年の著書で、バーグマンはナチスを「一過性の異常な状態で、まじめに受け止めるにはあまりに馬鹿げている」と考えており、ドイツが戦争を始めることはありえず「ドイツの良識派が戦争を容認するはずがない」と信じていたとしている。さらにチャンドラーは「イングリッドは終戦時にドイツにいたことについて生涯にわたって罪悪感を感じており、ナチスの絶滅収容所を誰かと訪れることに恐怖感を抱き続けていた」と書いている。

村井秀夫(1958~1995)

ヴァジラヤーナ 1990年の第39回衆議院議員総選挙に旧東京8区から真理党公認で立候補したが落選している。麻原は選挙での惨敗を受けて「これからはヴァジラヤーナでいく」として、人類ポアに向けたテロ計画を指示。村井や遠藤誠一らは早速グルの意思を実現するため、ボツリヌス菌やホスゲンといったオウム真理教の兵器製造に乗り出した。また、1990年8月には正悟師に昇格している。

パラケルスス(1493~1541)

思想 神秘思想家としては、体と魂を結合する霊的な気体とされる「アルケウス」の提唱で知られ、後に「ガス」と言う言葉の考案者でもあるフランドルの医師ヤン・ファン・ヘルモントに影響を与えた。この「アルケウス」は人体に内在しているとされ、例えば胃のアルケウスは食べた物の中から栄養分と栄養分でないものに分離し、栄養分を同化するとし、肺のアルケウスは空気を一種の栄養分として吸収していると考えた。

江間章子(1913~2005)

花の街 七色の谷を越えて流れて行く風のリボン輪になって輪になってかけていったよ歌いながらかけていったよ美しい海を見たよあふれていた花の街よ輪になって輪になって踊っていたよ春よ春よと踊っていたよすみれ色してた窓で泣いていたよ街の角で輪になって輪になって春の夕暮れひとりさびしくないていたよ

ヒスティアイオス(不明~前494)

イオニアの反乱 紀元前499年のことである。ヒスティアイオスは最も信頼する奴隷の髪の毛を剃り、その頭にメッセージを刺青し、また生え揃うのを待って、アリスタゴラスの所に旅立たせた。アリスタゴラスは奴隷の頭を剃って、ヒスティアイオスのメッセージを読んだ。その内容は、ペルシアに対して反乱を起こすことだった。アリスタゴラスはナクソス島遠征の失敗以降、部下たちからも嫌われていたので、汚名返上のいい機会だと、ヒスティアイオスの命令に従うことに決め、アテネとエレトリアに応援を頼んだ。そして、サルディスを炎上させた。いささか眉唾ものではあるが、これがヘロドトスの語る、イオニアの反乱の原因のすべてである。ダレイオス1世は反乱の知らせを聞いた時、ヒスティアイオスを呼びにやった。ヒスティアイオスは何も知らないふりを通して、逆に、その鎮圧に行かせて欲しいと頼んだ。ダレイオス1世はまんまと騙されて、それを許した。

森安敏明(1947~1998)

選手としての特徴 森安のサイドスローは、ワインドアップの後に左膝を胸元まで高く掲げて抱え込んだ後、腰を十分に捻りながら非常に大きなテイクバックを取りつつ、右肘を撓らせながら勢いよく投げ込むというもので、非常に速い速球と切れの良い高速シュートを武器とした本格派投手であった。

ヨハンネス・ベッサリオン(1403~1472)

経歴・業績 1437年にニカイアの府主教に任じられ、翌1438年のフェラーラ・フィレンツェ公会議に正教会・カトリック教会の合同賛成派のリーダーとして参加した。帰国後に湧き上がった反対意見によって教会合同は成らなかったが、公会議で示した東西宥和の活動と学識が認められ、1439年に教皇庁の枢機卿およびカトリック教会のコンスタンティノポリス総大司教に任じられたことから、1440年にイタリアに移住しカトリックに改宗した。