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井伊直盛(1506~1560)

桶狭間の戦い はじめは織田氏の各拠点を奪取するなど今川軍が優位だったが、同年5月19日、桶狭間にて休息中の本隊が織田信長自らに率いられた手勢の強襲を受け、多くの将兵を失っただけでなく、総大将の義元も討ち取られた。

ジョージ・ハドソン(1800~1871)

詐欺と転落 賞賛と名誉の絶頂にいた彼は、イースタン鉄道に関する詐欺が明らかになって突然転落した。サンダーランドは1859年まで彼の寛大な代議士活動に拘っていたが、鉄道バブルの崩壊と共に彼は全ての影響力と財産を失った。彼の残りの人生はほぼヨーロッパ大陸で過ごすことになった。ロンドンでなくなる直前、何名かの友人が彼にわずかばかりの年金を提供している。

中谷宇吉郎(1900~1962)

雪の結晶 1933年から、中谷博士は自然の雪を観察し、3000もの鮮明な雪の結晶の写真版を作り、それらを7つの主要なものと多数の主要でない種類に分類した。これらの観察の一連の流れ、つまり天然の雪の写真を撮ったり、天気の条件に応じたそれらの様子を分類したすることの中で、彼は実験室でできた氷の結晶から人工的な雪を作ることが必要だと感じた。

ロバート・ケイツビー(1573~1605)

「危険人物」として 1601年、エセックス伯ロバート・デヴァルーが反逆を企てた際、ケイツビーも連座した。拘束されたケイツビーは危うく罪を免れたが、4000マークの罰金刑を課せられた。この罰金を支払うため、彼はある毛織物商にチャルストンの土地を売却したが、なおも彼には相当な財産と定収があった。のちに彼は、アシュビー・セント・レジャーズで母と暮らし、またモアクロフツとランベスにある彼の家で過ごしたとみられる。

三浦義明(1092~1180)

最期 1180年に義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると、一族挙げてこれに合流しようと居城の衣笠城を出撃する。しかし、途中で石橋山の戦いにおける頼朝の敗戦を聞き、引き返して篭城。ほどなくして敵方に参加していた畠山重忠率いる軍勢と衣笠城合戦となり、一族郎党を率いて奮戦する。だが、最終的には刀折れ矢尽き、義澄以下一族を安房に逃がした後、独り城を守って戦死した。享年89。

エトヴェシュ・ローランド(1848~1919)

エトヴェシュの実験 エトヴェシュの実験は、慣性質量と重力質量の間の相関関係を測定した有名な物理学の実験であり、2つが同じものであることを実証した実験である。このことは長い間疑問に思われてはいたが、この実験と同じ正確さで実証されたことはそれまでなかった。最初期の実験はニュートンにより行われ、ベッセルにより改良された。エトヴェシュによるトーションバランスを用いた実験は1882年ごろに始められ、1906年から1909年の長期にさらなる改良が加えられた。エトヴェシュのチームは、似ているがより精緻な実験を追試し、様々な材料で地球の様々な場所で実験を行った。これら全てにより同じ質量の等価性が実証された。続いて、これらの実験は一般相対論において符号化された。重力質量と慣性質量は同じであると述べる等価原理の現代的理解をもたらしている。慣性質量と重力質量に比例していれば十分である。乗数定数は力の単位の定義に取り込まれる。

常高院(1570~1633)

常高寺 墓所は若狭の常高寺。常高寺は後瀬山山麓にあり、後瀬山山頂にはかつて後瀬山城があった。後瀬山城は京極高次が徳川家康より若狭一国を拝領した時、初めに入った城である。墓所は、常高院永昌尼公の石塔を中心に、尼公に仕えていた尼僧の石塔が会席する形をとって並んでいる。同寺には常高院の肖像画も伝わっている。

アマリア(1818~1875)

功績 アマリアは、生産性の低い農業を改革すべく、ワイン生産を奨励した。1838年に完成した宮殿に付属して広大な庭園を造らせ、そこへ世界中から集めた500種もの植物を植えた、多くの植物はアテネの乾いた気候に合わずに枯れたが、今日でもまだ多くの植物が残っている。彼女はアテネに多くの庭園を造園した。

夏目吉信(1518~1573)

三方ヶ原の戦い 1573年の三方ヶ原の戦いの時、吉信は浜松城の留守居だったが、櫓に登って戦場を遠望して味方が敗色濃厚なのを知って家康の救援に向かう。退却を進言するが、止めるのも聞かず家康が決死の突撃をしようとするので、説得を諦めて、強引に乗馬の向きを変えて、刀のむねで打って奔らせた。家康を逃がすために、25騎を率いて武田勢の追手に突入して奮戦。身代わりとなって戦死した。享年55。

ルトガルディス(1182~1246)

崇敬 ルトガルディスは13世紀を代表する神秘家の一人だとみなされている。ルトガルディスの人生は、死後2年もしないうちに、ドミニコ会の修道士で神学者のトマス・カンタンプリの手によって『ルトガルディスの生涯』という著作として書き遺されており、この書は聖人崇敬の傑作と言われている。ルトガルディスは、エイビア後で数世紀にわたって崇敬された。彼女の遺品は16世紀に発掘され、それはフランス革命を経て、ベルギーのイトレで保管されている。ルトガルディスを描いたバロック様式の作品の中には傑作も見られる。

児玉南柯(1746~1830)

時の鐘 児玉南柯とともに「岩槻に過ぎたるもの」として謳われた。岩槻城の鐘楼として、江戸時代の1671年に阿部家第4代岩槻藩主・阿部正春が渋江口に置いたのがその始まりである。その後、鐘は1720年に永井家第3代岩槻藩主・永井直陳により改鋳され、また鐘楼は天保年間に焼失した。現在の鐘楼は大岡家第7代岩槻藩主・大岡忠恕の時代に建て替えられたものである。

サモリ・トゥーレ(1830~1900)

戦争と敗北 サモリ軍は近代的な銃器を備えており、常設小隊の複雑な構造だった。同軍はソファ大隊と騎馬大隊に分かれていた。サモリは1880年代後半には約3.5万人の歩兵部隊と3000の騎馬部隊を有しており、各々50からなる正規部隊での展開が可能だった。しかし、フランス側は彼にその地位を盤石にする時間を与えたくないと考えていた。

佐野政言(1757~1784)

影響 田沼とその倹約令を嫌う風潮があった市中では跡継ぎを斬ったことを評価され、世人から「世直し大明神」と呼ばれて崇められた。高止まりだった米の相場は偶然か刑の翌日から下落し財政は逼迫、やがて1786年の処分を経て田沼意次も失脚する。年が明け改元後の1789年に黄表紙『黒白水鏡』を出版すると、あからさまに刃傷事件を表したとして、版元と絵師が告発され手鎖と罰金刑にあう。

セシル・カルバート(1605~1675)

イングランド内戦の前および戦中の危機 植民地経営事業はイングランドにおける深刻な動揺の中で始まった。1629年、チャールズ1世が議会を解散し、その後の11年間は代表議会に相談することなく統治した。カンタベリー大主教ウィリアム・ロードとその星室庁がピューリタンにもカトリックにも反対する運動を行った。その結果、ピューリタンと分離主義者がニューイングランドのプリマス植民地やマサチューセッツ湾植民地への移住を始めた。カトリックはメリーランドを逃避できる英語が話せる可能性がある場所として見なすようになった。

ベルナール・プティジャン(1829~1884)

信徒発見 本来居留フランス人のために建てられた天主堂を、プティジャンが興味本位で訪れる日本人に対して開放し見学を許していたのには理由があった。長崎がキリシタン殉教者の土地であることから、未だ信徒が潜んでいるのではないか、もしかすると訪れて来る日本人の中に信者がいるのではないかというわずかながらの期待があったからである。

トーマス・ライリー・マーシャル(1854~1925)

副大統領職 メリーランド州ボルチモアの1912年の民主党大会では、インディアナ州の選択した大統領候補はマーシャルであった。当時マーシャルが現実に大統領候補に指名されるかに思われたが、結局ウィリアム・ジェニングス・ブライアンは、ウッドロウ・ウィルソンを支持することに合意した。インディアナ州の代表はマーシャルが副大統領候補に指名されるようロビー活動を行い、彼は1912年アメリカ合衆国大統領選挙でウィルソンの伴走候補者に指名された。同選挙で彼は副大統領に当選し、1916年に再選されて1921年3月4日まで務めた。マーシャルは当初副大統領職を退屈なものと考え、最初に指名を拒絶したと言われている。

西村勝三(1837~1907)

リーガルコーポレーション 1870年に日本初の製靴会社「伊勢勝造靴場」を設立した実業家・西村勝三が中心となり、1902年1月21日、東京府東京市京橋区鎗屋町に「日本製靴株式会社」を設立、これを創業する。大倉組皮革製造所、桜組、藤田組皮革製作所、福島合名および東京製皮のうち、それぞれの製靴部門を各社から切り離し、統合したものである。

ニコラス・バトラー(1862~1947)

平和運動 マレイは、かなり早い時期から平和運動に積極的に係わっていた。とりわけ熱心だったのは、国際理解というテーマである。彼には、政府から総督、大使、さらには外務長官などの職の提供があったが、彼はこれらをすべて固辞している。1907年、彼はフランスの政治家エストゥールネル・ド・コンスタンが創設した国民的関心の防衛と国際的和解のための委員会のアメリカ支部を創設する。1907年-1912年バトラーは、常設国際司法裁判所の創設のための準備に参加する。常設国際司法裁判所は、1921年になってデン・ハーグに設けられた。

野村克也(1935~2020)

現役時代~戦後初の三冠王~ 4年目の1957年には山内和弘、中西太ら並み居るスラッガーを抑え本塁打王のタイトルを獲得。杉浦忠、広瀬叔功、皆川睦雄らと共に南海の黄金時代に大きく貢献した。南海は1959年、1961年、1964年、1965年、1966年にリーグ優勝、そのうち1959年と1964年は日本一になっている。

ジェームズ・スクールクラフト・シャーマン(1855~1912)

1908年アメリカ合衆国大統領選挙 1908年アメリカ合衆国大統領選挙では共和党のウィリアム・ハワード・タフトの伴走候補者となり、1909年3月4日に副大統領に就任した。そして1912年6月には副大統領候補に再指名された。シャーマンは大統領選挙の数日前にユーティカで死去し、ニコラス・マレイ・バトラーが投票で後任の副大統領候補となった。しかし民主党のウッドロウ・ウィルソンとトーマス・ライリー・マーシャルが当選した。

野村沙知代(1932~2017)

衆院選立候補とサッチー騒動 1996年、沙知代は第41回衆院選に、新進党公認候補として、東京5区・比例東京ブロックから重複立候補した。選挙結果は落選であったが、選挙後の1999年3月31日に、TBSラジオの番組うえで、以前に沙知代と舞台で共演した女優の浅香光代が沙知代の繰り上げ当選についてコメントを求められた際に沙知代を激しく批判したことをきっかけに、複数の芸能人や著名人などを巻き込む形でワイドショーなどのマスメディアで浅香と沙知代の間で批判合戦が繰り広げられた。

ファッルフシヤル(1685~1719)

ベンガル・イギリスとの関係 その勅状の内容とは関税の免除特権であり、「船によって国に輸入され、もしくは国から輸出される品物について、会社の封印のある許可状を提示したもののみ関税を免除される」というものだった。このとき与えられた免除特権では、イギリス東インド会社は関税なしで自由に物産を輸出入することができ、こうした物産の移動に対するスタッグと呼ばれる自由通関券する権利も与えられていた。

力道山(1924~1963)

プロレス転身 その後二所ノ関部屋の後援者新田新作が社長を務め、当時横浜市本牧に本社があった新田建設に資材部長として勤務。次男の光雄によれば「建築現場の監督をしていた」という。ナイトクラブでの喧嘩が元でハワイ出身の日系人レスラーのハロルド坂田と知り合い意気投合した。1951年9月30日から、アメリカのフリーメイソン系慈善団体「シュライン」が、当時日本を占領下に置いていた連合国軍への慰問と障害者のチャリティーを兼ねて、母国からボビー・フランズら6人のレスラーを招きプロレスを開催していたが、坂田もこの一員だった。力道山は坂田の勧めで練習を見に行き、プロレス転向を決意し、港区芝にあったシュライナーズ・クラブで指導を受けるようになった。

ジョン・フォード(1894~1973)

アカデミー賞受賞 1930年代に入ると、西部劇はB級活劇ものとして衰退していき、ジョン・フォードもシリアスなドラマを手掛けることが多くなる。1935年に発表したアイルランド独立運動に命を賭けた男たちを描いた『男の敵』は、自身初のアカデミー監督賞に選ばれた。

柳生宗厳(1527~1606)

信長上洛後 久秀は主家・三好義継と共に義昭の幕府を構成する一員となって尽力するが、やがて長年敵対していた筒井順慶と義昭が結んだこと等により、幕府を離脱して義昭と敵対した。1571年8月4日、久秀の指揮の下で宗厳は義昭方の筒井順慶が守る辰市城を攻める。この戦いで久秀方は「大和国始まって以来」と言われるほどの大敗を喫し、久秀の一族や多くの重臣が討ち死にした。『多聞院日記』によると、この戦いで負傷した者の中に宗厳の息子もおり、戦場で銃傷を受けて廃人となったと伝わる長男・厳勝は、この戦で障害を負い生涯柳生庄に逼塞することになったと見る向きも強い。

ジョン・ウェイン(1907~1979)

ジョン・フォードとの出会い 1939年、端役時代から友情を固めていたジョン・フォード監督の大ヒット作『駅馬車』に主演。やがてウェインはヘンリー・フォンダと並べてフォード作品の看板役者となる。その後も多くの作品を生み出し、幾つかはウェインの代表作となった。続く35年間で『アパッチ砦』、『黄色いリボン』、『リオ・グランデの砦』、『静かなる男』、『捜索者』、『荒鷲の翼』、『リバティ・バランスを射った男』と言ったフォードの映画20作以上に出演した。

松平輝綱(1620~1672)

藩主時代 輝綱は病弱だったとされ、そのためか父の没後は幕政にはほとんど関わらず、戦術・砲術・騎馬戦法などの兵法や測量術など軍学に興味を持った。他にヨーロッパ式の経緯度入りの地図を自ら作成したり、薬学の研究をしたりするなど学問に傾倒した。輝綱は奢りがましいことを嫌って、家中でも質素を奨励し、自らの衣服も木綿や麻を用いたという。

ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ(1776~1810)

ティルジットの和約 1807年7月7日のティルジット条約で、プロイセンは領土の半分を削られた上、兵力を4万2千に抑えられ、賠償金として1億3500万フランを課せられた。このためプロイセンは「これぞ破壊の傑作」と言われてしまった。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は講和会議にも出席を許可されず、メーメル川の岸辺でロシアの将校達の中に混じりながら、にわか雨の中、ロシア外套で寒さに震えながら会議が終わるのを待ったという。

勝承夫(1902~1981)

小ぎつね 小狐コンコン山の中山の中草の実つぶしてお化粧したりもみじのかんざしつげのくし小狐コンコン冬の山冬の山枯葉の着物じゃぬうにもぬえずきれいなもようの花もなし小狐コンコン穴の中穴の中大きな尻尾はじゃまにはなるし小首をかしげてかんがえる

マティアス・グリューネヴァルト(1470~1528)

イーゼンハイム祭壇画

緒方貞子(1927~2019)

公的活動 国連は1975年を国際婦人年とすることを宣言。日本社会党の田中寿美子が参議院の外務委員会で「国際婦人年にちなみ、女性民間人を大使、公使に起用しては」と提言すると、宮沢喜一外務大臣は「ぜひ実現したい」と返答。曾野綾子や中根千枝など10人近くの候補が挙がるが、いずれも断られ、結局緒方が口説き落とされた。これにより緒方は女性国連公使第1号となった。

オクターヴ・タサエール(1800~1874)

天国と地獄

浅野長重(1588~1632)

天王寺・岡山の戦い 1614年に大久保忠隣が改易された際には安藤重信・本多忠朝とともに小田原へ赴いている。また同年の大坂冬の陣にも出陣し、夏の陣の天王寺・岡山の戦いでは先陣をきって毛利勝永ら豊臣方先鋒隊と戦い、浅野家は家臣30人・雑兵100人あまりを失い敗走するものの、豊臣方の首級60をあげて一矢報いた。また同戦では大石良勝が活躍し、この戦功をもって1500石を拝領し筆頭家老となった大石家は、浅野家の永代家老家となった。「赤穂浪士の大石内蔵助」で有名な大石良雄は、この家系から出ている。

レバー・イーティング・ジョンソン(1824~1900)

復讐の終わり 最終的にジョンソンはクロウ族と仲直りし、クロウ族は「彼の兄弟」となった。25年という歳月と何十人ものクロウの戦士が倒れるという、彼の個人的な復讐は、ここに終わった。それでも西部は、特に1800年代中頃のインディアン戦争の間、まだ非常に乱暴な地域であった。スー族やブラックフット族に限らず、多くの部族が、 Dapiek Absaroka と彼の仲間のマウンテンマンの復讐を知っていたのだろう。上述した情報は、何十年間にもわたって語られてきた物語やお話に基づいている。ヴァーディス・フィッシャーの小説『Mountain Man』は、これらのフィクションの良いソースである。正確な物語は、ジョンストンがスーとの雨中の戦いの後に彼のあだ名が付けられた1868年、ミズーリ川にいたリーとカイザーの日記で語られている。

熊谷信直(1507~1593)

尼子氏との激闘、第二次月山富田城攻防戦~ 1558年には石見出羽に進出して小笠原長雄を破り、福屋隆兼も打ち破った。12月には中村康之と石見最大の国人であった益田藤兼を降伏させた。これらの功もあり、室町幕府13代将軍・足利義輝は1560年、信直を伊豆守に叙任した。翌年には毛利氏に降伏していた本城常光を暗殺。この時、信直も軽傷を負った。

ピーター・シェーファー(1926~2016)

アマデウス 物語の最初では、サリエリは老人で、忘れ去られてもいまだ生きながらえている。観客に直接話しかけ、かつてモーツァルトを毒殺したと主張し、説明しようと約束する。そこでアクションは18世紀に戻り、サリエリが既に噂も音楽も耳にしていたモーツァルトに直接対面した時が描かれる。サリエリはモーツァルトの音楽を称賛し、直接モーツァルトに会うチャンスに興奮しており、その間にモーツァルトの楽曲がサロンで演奏されている。しかしながら、とうとう本人に会ったサリエリは、モーツァルト自身にはその楽曲が有しているような優雅さも魅力もないとわかって非常に落胆する。サリエリが初めて見かけた時、モーツァルトは四つんばいになって未来の花嫁コンスタンツェ・ウェーバーと下品な話をしていた。

高屋窓秋(1910~1999)

窓秋の俳句 朝刊をとりて来し手に栗もてる 霧の中太陽一個象れる 白く又黒きひかりの冬の旅 ちるさくら海あをければ海へちる いつにしか白虎となりて老いにけり 草の花孤独は天に蝶ふゆる 海原の海べの酒はこぼれけり 頭の中で白い夏野となつている 人ゆきしひとすぢのみち鳥世界 石の扉を叩く満月冬の夜や 野に出れば永きひかりを春の水 百合の花超然として低からず 白い服で女が香水匂はせる 茜さし童女比ぶるものもなく 昨日の河さざなみすでに凍てしなり さすらひて見知らぬ月はなかりけり 蝶ひとつ人馬は消えてしまひけり 降る雪が川の中にもふり昏れぬ 白鳥は悲しからんに黒鳥も 星はこれ桃のゆめより生れけり 山鳩よみればまはりに雪がふる

チャールズ・ベスト(1899~1978)

生理学の教授 ベストは1929年にマクラウドの跡を継いでトロント大学の生理学教授に就任した。第二次世界大戦中は、乾燥したヒトの血清を確保し使用するためのカナダのプログラムの確立に影響を与えた。晩年には国連の世界保健機関の医学研究委員会の顧問を務めた。

飯田龍太(1920~2007)

龍太の俳句 雪月花わけても花のえにしこそ 花かげに秋夜目覺める子の遺影 釣鐘のなかの月日も柿の秋 初夢のなかをわが身の遍路行 抱く吾子も梅雨の重みといふべしや 鳥雲に蛻の殻の乳母車 大寒の一戸もかくれなき故郷 女中遠鳶眺めては睡からん 手が見えて父が落葉の山歩く 白菊に遠い空から雨が来る 幸福肌にあり炎天の子供達 たのしさとさびしさ隣る滝の音 朱欒叩けば春潮の音すなり 朧夜のもう誰も出ぬ不浄門 母いまは睡りて花の十姉妹 かるた切るうしろ菊の香しんと澄み 雪降るを見つつ小骨の舌ざはり 緑陰をよろこびの影すぎしのみ どの子にも涼しく風の吹く日かな 雀歩くたのしさ霜のトタン屋根 渓川の身を揺りて夏来るなり かたつむり甲斐も信濃も雨のなか

ユハン・アンデショーン(1874~1960)

北京原人 1921年にスウェーデンの地質学者ユハン・アンデショーンとオットー・ズダンスキーが人類のものと思われる歯の化石を発見した。さらに、その後の調査で1929年12月2日、中国の考古学者裴文中が頭蓋骨を発見した。結果的に合計十数人分の原人の骨が発掘された。

高木恭造(1903~1987)

陽コあだネ村~津軽半島袰月村で~ この村サ一度だて陽コあだたごとあるガジャ家の土臺コァみんな潮虫ネ噛れでまてナ後ア塞がた高ゲ山ネかて潰されで海サのめくるえンたでバナ見ナガあの向の陽コあだてる松前の山コあの綺麗だだ光コア一度だて俺等の村サあだたごとアあるガジャみんな貧ボ臭せくてナ生臭せ体コしてナ若者等ァみんな他處サ逃げでまて頭サ若布コ生えだえンた爺ばりウヂャウヂャてナあああの沖バ跳る海豚だえンた忰等ァ何處サ行たやだバ路傍ネ捨られでらのみんな昔の貝殻だネ魚の骨コァ腐たて一本の樹コネだてなるやだナ朝も昼モだンだ濃霧ばりかがて晩ネなれば沖で亡者泣いでセ

アレクサンドリアのフィロン(前20~45)

思想の特徴 フィロンは旧約聖書を注解するのに比喩的解釈を多用した。また、ギリシャ思想に由来するロゴスやイデア論の概念をユダヤ教思想の理解に初めて取り込んだ。フィロンはプラトンの著作とくに『ティマイオス』に影響を受け、旧約聖書とプラトン哲学が調和的であると考えた。フィロンはプラトンを「ギリシャのモーセ」と呼んで、プラトンの思想にモーセが影響を与えたと考えた。

麻原彰晃(1955~2018)

オウム真理教~オウム神仙の会~ 1985年、神奈川県の三浦海岸で修行中に「アビラケツノミコトになれ」と啓示を受けたという。秋には空中浮揚したと称する写真が雑誌『ムー』『トワイライトゾーン』に掲載された。また、「幻の超古代金属ヒヒイロカネは実在した!?」という記事を『ムー』に掲載。岩手県にヒヒイロカネ探しに行った際、酒井勝軍の知り合いという老人から、酒井が隠していたというハルマゲドン予言を聞いた。それはハルマゲドンの時には日本から「神仙民族」が出現し、救世主となるというものであった。

王翦(生没年不詳)

人物・逸話 趙を破った後、秦の覇業を妨げうるのは、もはや楚のみとなった。その平定に当たり、政から諸将へ見通しを問われた際、王翦は「楚は広く兵も多い。兵60万が必要でしょう」と慎重な意見を述べたが、政は若い将軍の李信の「兵20万で十分です」という積極的で勇猛に聞こえる意見を採用し、楚への侵攻を任せた。ここで王翦は自ら引退を申し出て隠居する。しかし、楚へ侵攻した秦軍は、楚軍の奇襲を受けて大敗した。楚軍はその勢いのままに秦へ向けて進軍し、楚の平定どころか秦が滅亡しかねない程の危機となった。政は楚を破れるのは王翦しかいないと判断し、王翦の邸宅を自ら訪ねて将軍の任を与え、王翦が先に述べた通り60万の兵を与える。これは秦のほぼ全軍であり、反乱を起こすには十分過ぎる数だったため、臣下には疑いを抱く者も多数いた。

小松左京(1931~2011)

日本沈没~物語~ おりしま伊豆半島付近で地震が発生し、それに誘発されて天城山が噴火したため、内閣では地震学者との懇談会を開いて意見を聞くことになった。その席に招かれた田所は、「日本がなくなってしまう」可能性を口にするが、学者仲間の失笑を買うだけだった。だが、政財界の黒幕である渡老人は田所の説に興味を抱き、その説を検証するため首相を呼びつけ、極秘裏に「D計画」を立ち上げさせる。

エリザベス・キューブラー=ロス(1926~2004)

死ぬ瞬間 1965年、キューブラー=ロスはシカゴのビリングス病院で「死とその過程」に関するワークショップを開始する。その中で死病の末期患者約200人との面談内容を録音し、死にゆく人々の心理を分析し、文面に顕したものである。地名、人名、その他プライバシーは伏せられているが、おおよそインタビューの内容は要約・編集されず、冗長であってもそのままにナマに記された。インタビューに際して、患者に対しキューブラー=ロスはまず許しを求め、このように切り出す。

杉田久女(1890~1946)

久女の俳句 椅子移す音手荒さよ夜半の秋 春雨や土押し上げて枇杷二葉 夕顔やひらきかかりて襞深く 牡丹を活けておくれし夕餉かな 松とれし町の雨来て初句会 月の輪をゆり去る船や夜半の夏 拝殿の下に生まゐし子鹿かな かくらんやまぶた凹みて寝入る母 鳥雲にわれは明日たつ筑紫かな 露草や飯噴くまでの門歩き 防人の妻戀ふ歌や磯菜摘む 板の如き帯にさされぬ秋扇 春の夜のまどゐの中にゐて寂し 甕たのし葡萄の美酒がわき澄める 蚊帳の中団扇しきりに動きけり 鶴舞ふや日は金色の雲を得て 紫陽花に秋冷いたる信濃かな しろしろと花びらそりぬ月の菊 風に落つ楊貴妃櫻房のまま バナナ下げて子等に帰りし日暮かな 花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ 谺して山時鳥ほしいまま

シーア・コルボーン(1927~2014)

奪われし未来 合成化学物質とその安全性にまつわる驚く最新情報を描き、発刊と同時に論争を巻き起こした、21世紀への警告の書。原著者による3章分の書き下ろしと日本の現状に関する解説を追加した、97年刊の増補改訂版。