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林忠正(1853~1906)

印象派と林忠正 1870年代当時、初めて印象派の作品を見たパリの人々は、「狂人の絵」とまで酷評した。パリの保守的な市民は、伝統的な絵画とはあまりにも異質な色彩や構成、その画題に肝を潰した。1890年代に入って、クロード・モネやエドガー・ドガなどの作品は高値で高値で売れ始めたが、保守的な人々は容易に認めなかった。印象派の画家たちと親しかった林は、彼らの絵画を理解し、彼らを経済的にも援助した。貧困のうちに死亡したアルフレッド・シスレーの遺族を救うために、700フランもの拠金をしている。

ミラン・オブレノヴィッチ2世(1819~1839)

即位 父のミロシュ・オブレノヴィッチ1世は1839年6月25日にミランに譲位したが、この時ミランは病床にあり、意識を取り戻すことなく1839年に7月8日に死去した。このため、セルビア公ミラン・オブレノヴィッチ2世の名で発布された公文書は1つもなかった。病気と在位期間の短さから、自身が統治者となったことを認識していなかった可能性がある。

宮崎繁三郎(1892~1965)

インパール作戦 上海特務機関長を経て第13師団歩兵第26旅団長。第13師団は当時計画されていた重慶侵攻作戦の基幹部隊と目されていた。南方方面の戦況悪化により旅団付属の歩兵第58連隊と共に宮崎はビルマへ送られ、自身は第31師団歩兵団長に補された。第15軍司令官牟田口廉也中将の主導したインパール作戦は補給を無視した無謀な作戦であり多くの犠牲者を出した。宮崎は指揮下の三個連隊から第58連隊のみを指揮下に置き、これに一個山砲大隊を加えた3000人の兵を率いてインパール北方のコヒマ攻略を命ぜれた。

ジョン・ネイピア(1550~1617)

業績~ネイピアの骨~ ネイピアの骨はネイピアが発明した、かけ算を足し算だけの計算にする道具である。対数と同様にネイピアは、科学で扱われる計算をいかに簡単に行うかといったことに尽力し、その成果の一つとして得られた道具である。ネイピアの死後、ネイピアの骨は様々に改良されるが、特に1623年のヴィルヘルム・シッカードによる改良が重要である。

池田末男(1900~1945)

占守島の戦い 8月15日の玉音放送後、終戦業務にあたっていた。しかし、8月18日午前2時30分、千歳台の戦車第11連隊本部で堤師団長から戦闘配備命令を受けると、ただちに大和橋の第4中隊に索敵を命じ、本部および隷下の隷下の各中隊に戦闘準備と天神山への集結を命じる。自らも天神山に赴き、戦車第3中隊と合流、その後、第4中隊長の伊藤力男が村上大隊の孤立を報告する。このとき、まだ将校車と第3中隊しかいなかったが、部下たちに、「赤穂浪士となって恥を忍び後世に仇を報ずるか、それとも白虎隊となり民族の防波堤として玉砕するか」を問い、全員が玉砕を決意し、これを受けて敵軍に向けての出撃命令を下す。ソ連軍を撃破し、四嶺山を奪還するも、その後の戦闘で戦車が攻撃を受け炎上、戦死した。

カタリーナ・コルナーロ(1454~1510)

結婚と王位継承 1458年にキプロス王ジャン2世が死去すると、王位はジャック2世の異母妹で正嫡のシャルロットが継いだ。しかしながらジャン2世の庶子だったジャック2世がキプロス王位を求めてシャルロットと争い、シャルロットをローマへ追放して1464年にキプロス王位に就いた。政治的支援を必要としていたジャック2世は、キプロスと関係が深かったヴェネツィア共和国の名門貴族コルナーロ家の娘カタリーナを王妃に望んだ。ジャック2世からの申し込みはヴェネツィア側を非常に喜ばせ、ヴェネツィアとキプロスとの交易がいっそう盛んになり、キプロスでヴェネツィアに対する数々の特権が与えられるなどの効果となって表れた。当時のカタリーナは14歳であり、1468年7月30日にヴェネツィアで行われたジャック2世とカタリーナとの結婚式は代理結婚式だった。数年後にカタリーナはキプロス島へ渡り、正式にジャック2世と結婚生活を始めている。

今村均(1886~1968)

太平洋戦争~第十六軍司令官~ 1942年2月、攻略目標の重要油田地帯であるスマトラ島南部パレンバンの占領に成功。3月、ジャワ島上陸に成功。100隻弱の船団を使用する大規模な上陸作戦となり、敵軍が日本軍の兵力を見誤っていたこともあり、9日間で約9万3千人のオランダ軍と約5千人のイギリス軍、アメリカ軍、オーストラリア軍を無条件降伏させて作戦は成功した。

コジャ・シナン・パシャ(1506~1596)

3度目の大宰相 1593年1月に再び大宰相に任じられる。その後シナン・パシャは王領ハンガリーへと侵攻する。最初はウィーンに繋がるジュールを占領するが、次第に戦線は膠着するようになる。1594年のバナト蜂起へは徹底した対応で鎮圧し、蜂起への報復として、ベオグラードの聖サヴァの不朽体を焼き捨てた。1595年2月に大宰相を解任された。

月照(1813~1858)

日向国送り 1858年8月から始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷とともに京都を脱出して土浦藩士・大久保要や水戸藩京都留守居役・鵜飼吉左衛門らの支援の元、しばらく大坂に留まっていた。さらに老中・間部詮勝の入京に先立ち、西郷の強い希望により、有村俊斎らの助力を受けて西郷の故郷である薩摩藩に海路逃れたが、藩では厄介者である月照の保護を拒否し「日向国送り」を命じる。これは、単に身柄を移送するのではなく、薩摩国と日向国の国境で殺害することを意味していた。これを知った月照は死を覚悟し、西郷とともに錦江湾に入水自殺した。月照は死亡したが、西郷は奇跡的に一命を取り留めている。享年46歳であった。「眉目清秀、威容端厳にして、風采自ずから人の敬信を惹く」と伝えられている。

ムラト3世(1546~1595)

長期トルコ戦争 このような状況は西の戦線でも見られ、1591年にオスマン帝国のボスニア州の知事が王領ハンガリーに侵攻したのを契機として1592年に、ビハチ城塞を陥落させた。そこでキリスト教徒5000人が殺害されたという。1593年、コジャ・シナン・パシャに引きずられ、有力軍人たちの覇権争いの結果として、本格的に王領ハンガリーへの侵攻が始まった。当初はウィーンに通じる要衝のジュールを占領など戦果を挙げた。しかし、シサクの戦いで敗れ、1595年にエステルゴム要塞を失った。オスマン側の不利と見たトランシルヴァニア、ワラキア、モルドバの三国はハプスブルク側についた。さらには、カルガレニの戦いでシナン・パシャ率いる軍がミハイ勇敢公に敗れた。この戦争においてある城を取れば別の城が奪われるという一進一退の状況が生まれた。このハプスブルク側との戦争は長期にわたり、和議が成立したのは、アフメト1世の頃だった。

土屋義彦(1926~2008)

埼玉県知事選挙出馬とその後の影響 1991年10月、土屋は参議院議長を辞し、翌年の埼玉県知事選挙への立候補を表明する。これに対し現職の畑和も同年12月の県議会定例会で6選出馬を明言。大物同士の一騎討ちの様相となったが、金丸信と田辺誠が双方に出馬を取りやめさせようと画策。この背景には歴代首相と懇意で経世会にも近かった佐久間実・自民党県議団長が「ポスト畑」に意欲を示しており、既に自民党経世会と社会党との間では、畑を引退させ佐久間を後継者とすることで話がついていたという事情があったといわれる。既に政治家としては「あがりポスト」である参議院議長を務めた土屋の突然の立候補表明は永田町では予想外の出来事であった。土屋は出馬に際して「郷土愛」や「地元に恩返しがしたい」などとその意欲を強調したが、叔父同様参議院議員連続5回当選を果たし、閣僚・議長と国政の場においてまさに位人臣を極めた土屋が一都道府県の知事の職にこだわりを見せることに首をかしげる向きも多く、三権の長である参議院議長が任期途中で辞任して地方選挙に出馬するという行為は国会の権威上相応しくないという声も挙がった。

ジョン・クィンシー・アダムズ(1767~1848)

1824年の大統領選 1824年の大統領選が近づくと、人々は候補を探し始めた。ニューイングランドの有権者はアダムズの愛国心と政治的手腕を賞賛した。そしてアダムズは主に彼らのサポートを受けて選挙戦に入った。民主共和党の古い幹部会議システムは崩れ、当時の第一政党制も崩れた。そして選挙は地域の支持に基づく自由参加となった。アダムズにはニューイングランドの強い地盤があり、彼の対抗馬はジョン・カルフーン、ウィリアム・クロウフォード、ヘンリー・クレイとニューオーリンズの英雄、アンドリュー・ジャクソンであった。選挙戦ではカルフーンは脱落し、クロウフォードも体調不良で撤退、他候補への支援に回った。一般投票ではジャクソンが最多数を得票したが、選挙人投票では過半数を獲得することができなかった。

祇園南海(1676~1751)

五老峰図  

ヨハン・フォン・エーヴァルト(1744~1813)

軍歴 同年、近衛猟兵の指揮を託され、大尉に昇進する。林業者や猟師からの募兵された猟兵はライフリングを施した小銃を使用し、優れた狙撃手として知られていた。当時としては一般的な行動ではなかったものの、ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世もイギリスに味方してアメリカで戦わせるべく部隊をその王室のために召集した。三か月半にわたる大西洋横断の後、エーヴァルトは1776年10月3日にニューヨークに到着する。そして同月中にも戦闘に参加した。

酒詰仲男(1902~1965)

貝塚に学ぶ 貝塚の発掘から、縄文文化の謎に挑む!日本の貝塚研究史を生き生きと再現。

ヴァルター・ウルブリヒト(1893~1973)

東ドイツ建国 1945年4月、「ウルブリヒト・グループ」はソ連から占領下のドイツに送られ、正統的スターリン主義に基づいてドイツ共産党の再建を始めた。1946年ソ連占領地区で、ドイツ共産党とドイツ社会民主党が半強制的に合併させられ、スターリン主義政党ドイツ社会主義統一党が誕生した。ウルブリヒトはSEDの成立過程でKPDが主導権を握るように画策した中心人物となり、SPDのメンバーだった党員に対する激しい粛清がこの時期に行われたとされている。

水谷八重子(1905~1979)

新派劇へ 水谷八重子は1945年の解散まで第二次芸術座の屋台骨を支えた。空襲で自宅を焼かれ、終戦は静岡県熱海市で迎えて、この頃女優引退を考えていたが、松竹の大谷竹次郎社長に促され、1946年東京劇場に出演、舞台復帰を果たした。これ以後は、夫と共演したり、地方巡業に出たりもした。1949年、花柳章太郎らの「劇団新派」の結成に参加する。夫の守田勘彌とはのちに正式離婚、好重は八重子が引き取った。

ルカーチ・ジェルジュ(1885~1971)

ドイツへの移住、クン政権の崩壊 第一次世界大戦期にルカーチはドイツで教鞭を執っていたが、戦争に熱を上げるドイツ知識人の姿を目にして次第に思想を左派的な方向に転換していく。1915年から1916年にかけてルカーチはブダペストに予備兵として召集され、小さな集団が形成された。ルカーチと彼の知人である著作家バラージ・ベーラを中心としてグループの輪は広がり、「精神科学自由学院」と呼ばれる一派が形成された。マンハイム・カーロイ、ハウゼル・アルノルドらの自由学院出身者は後に国際舞台で活躍するが、ルカーチ自身は自由学院の影響力を高く評価する意見に懐疑的で、少なくとも自由学院は自身の思想に影響を及ぼさなかったと述べた。第一次世界大戦、ロシア革命はルカーチに大きな衝撃を与え、彼をマルクス主義者に転換させた。

北野恒富(1880~1947)

暖か  

ミシェル・セルヴェ(1511~1553)

思想 セルヴェの神学思想は極めて独創的なもので、当時の他の異端者とも異なっている。神は普遍的で遍在的であり、不可分で唯一の存在であると考えた。父・子・聖霊は神の二つの位相である。神は完全であり、慈悲深く善であり、生気に満ちたものであれ生気のないものであれ、あらゆるものに内在し、全ての存在はこの「中心の力」によって活性化され、本性を得ているという。宇宙にある一切は神であり、全ては神の表現であるがゆえに、人間も神聖であるとした。この宇宙に二元性はなく、悪は単に欠如に過ぎず、悪とは光の不在による闇のようなものであり、実質的な意味はないと考えた。

山川秀峰(1898~1944)

鷺娘  

ホセ・マルティ(1853~1895)

思想と文学 ホセ・マルティは活発な独立思想家であり、その思想は多くの彼の文学作品に反映されている。彼はその思想のために各地を転転とする生活を余儀なくされたが、妻のカルメンはこれに耐え切れず、マルティが米国に移住する前に二人の子供を連れ彼の下を去っている。この事はマルティを精神的に傷付けたが、その逆境を乗り越え自分の息子に捧げた名作「イスマエリーヨ」を完成させた。また、放浪の生活にあってもその創作意欲は衰える事無く、多くの作品を残している。

川路寛堂(1845~1927)

大蔵省出仕 旧幕臣は多く静岡藩に出仕して移住したが、これに与せず平民となり、横浜に出た。滞欧中ナポレオン3世の威光に接していたため、1870年に普仏戦争が勃発すると、生糸需要国フランスの勝利を見込んで生糸を買い込んだが、フランスはナポレオン3世がプロイセンの捕虜になること大敗となり当てが外れ、士族の商法の例に漏れず借財を作った。

ユゼフ・ベム(1794~1850)

1848年革命 オーストリア革命の勃発とともに、ベムにはさらなる活躍の場が与えられた。ベムの最初の行動はヴィンディシュ=グレーツ将軍率いる皇帝軍からウィーンを奪取することだった。これに失敗して降伏した後、ベムはプレスブルクに急行してコッシュート・ラヨシュに協力を申し出た、と自分の著書『ポーランドの大義への背信と貴族の性向』の中での回想で主張している。この著書はポーランド亡命者内のより急進的な派閥からは何度も批判を受けていた。ベムは1848年にトランシルヴァニアの防衛線で戦功を立て、セーケイ人の軍勢を率いる将軍となった1849年2月9日には、ピシュカの橋上で少数の軍勢を率いて、追跡してきた敵の大軍を追い払うのに成功した。

末吉暁子(1942~2016)

ぞくぞく村のおばけシリーズ~ぞくぞく村のミイラのラムさん~ ラムさんは、お風呂が大好き。でも、お風呂に入る時、ほうたいをほどくのが大変なのです…。巻末に「ぞくぞく村だより」もあります。

ホルローギーン・チョイバルサン(1895~1952)

権力の掌握 1924年のモンゴル人民共和国成立後は国家小会議議長に、1929年に人民委員会主席に、1936年に内相に、1937年9月に全軍総司令官、同年12月、首相代理に任命され、1939年から1952年に没するまで首相兼外相を務めた。1936年から1938年にかけて大規模な粛清を行い、「モンゴルのスターリン」とも呼ばれた。この粛清は、1936年まで首相を務めたゲンドゥンらが、対日宥和政策を取ろうとした点、スターリンからの当時モンゴル国内に約11万人いたチベット仏教僧を打倒せよとの助言を拒否しスターリンと対立した点から、モンゴル首脳部の政策転換、チベット仏教僧の排除を行うためにソ連側が計画した。チョイバルサンはこの計画を受けて、これを自らの独裁権確立に利用しながら、多くの人民を「日本のスパイ」として処刑した。

白川義則(1869~1932)

上海天長節爆弾事件 1932年4月29日、上海の虹口公園で行われた天長節祝賀会の際に朝鮮人テロリスト尹奉吉が放った弁当箱爆弾により重傷を負う。海軍軍楽隊の演奏で一同君が代を斉唱している最中の出来事だった。この事件では、他に上海日本人居留民団行政委員長で医師の河端貞次が死亡し、第9師団長植田謙吉中将・第3艦隊司令長官野村吉三郎海軍中将・在上海公使重光葵・在上海総領事村井倉松・上海日本人居留民団書記長友野盛が重傷を負っている。重光公使は右脚を失い、野村中将は隻眼となった。犯人の尹はその場で検挙され軍法会議を経て銃殺刑となるが、後年韓国政府は尹を独立運動の義士として勲章を贈っている。白川大将はテロ予防の為この会場への道中数度に亘り車のナンバープレートを交換していたと言う。また、全身に108ヶ所の傷を負いながらも、たじろぐことなく収拾の指揮に当たっていた、と現場に居合わせた軍医の宮村秀雄が証言している。

ボグド・ハーン(1869~1924)

モンゴル独立 外モンゴルが大モンゴル国となって清朝から独立宣言した際、ジェプツンダンパ・ホトクト8世は外モンゴルの諸侯に推戴されて神権政治を敷き、1911年12月29日に即位した。首相には王公の一人トグス・オチリン・ナムナンスレンを任じた。従来「ボグド・ゲゲーン」と呼ばれていた8世は、以後「ボグド・ハーン」と呼ばれるようになった。1912年には内モンゴルの諸侯も帰服したため、南部境域安撫大臣を設け、1913年1月には内モンゴルに軍隊を派遣して帝政ロシアの要請で撤退するまでは内外モンゴルの統一を画策した。

長久保赤水(1717~1801)

日本輿地路程全図 長久保赤水は江戸時代中頃の地図考証家・森幸安によって描かれた『日本分野図』を参考に、1768年に原図となる「改製日本分里図」を作り、1779年には『改正日本輿地路程全図』の初版を完成。翌年、大坂で出版した。赤水の存命中の1791年に第2版が刊行され、赤水の死後も1811年、1833年、1840年に版を重ねている。

トマス・コール(1801~1848)

帝国の推移:未開の状態  

北条氏照(1542~1590)

織田、豊臣との接触 1579年、甲相同盟が手切りとなると、北条氏は織田信長、徳川家康との同盟交渉を開始し、9月11日には氏照の使者が信長の本拠安土城に到着している。1580年には織田氏に従属の表明と氏政の言上を伝えるために本家の宿老笠原康明と氏照宿老の間宮綱信を派遣し、3月10日信長に謁見している。この年の5月15日に氏照は甲斐西原に侵攻している。1582年6月の本能寺の変で信長が死去すると、織田領の混乱を見て甥の北条氏直らと共に織田領の上野に侵攻し、信長の家臣滝川一益を破って北条領を拡大した。信長死後を継いだ豊臣政権からは離れ、甲斐国や信濃国に侵攻した。

ルイス・ミゲル・サンチェス・セロ(1889~1933)

APRAとの対立 その後、数か月の間に幾人の軍人が大統領となっては罷免されるなど臨時評議会は混乱が続いたため、10月に大統領選挙を実施する事となった。セロは早速この選挙に立候補する。そこに対抗馬として現れたのはアメリカ革命人民同盟のビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレだった。両者共に大衆動員を図ったが、結果的にはセロが勝利し、再度大統領に復帰することになった。トーレはこの結果を不正選挙だと糾弾、セロもAPRAの弾圧に乗り出した。以降、APRAによるテロと軍部の弾圧という争いが続くこととなる。

高杉小忠太(1814~1891)

晋作死後 維新後に丹治と改名。1866年に直目付として復帰し、1869年6月には大監察となって藩政を掌握した。1870年には権大参事となり、諸隊の脱隊騒動を木戸孝允らとともに鎮圧する。1871年7月の廃藩置県で政界から退隠し、以後は主家である毛利氏の歴史編纂事業に携わり、藩から県への橋渡しに務めた。

サキャ・パンディタ(1182~1251)

チベットーの学僧 23歳の時、北インドカシミールの高僧カチェ・パンチェン・シャーキャシュリーパドラにあって教えを受け、1208年に具足戒を受けた。また彼の弟子サンガシュリー、スガタシュリー、ダーナシーラらに諸法を学んだ。さらにインドの外道者と論争して勝つなどで名声を得、五明に通じた当時第一の学者であるとして「サキャ・パンディタ」と称されるようになった。著書に『三律儀分別』、『量明蔵』、『善説宝蔵』などがある。

加藤隆太郎(1887~1973)

板橋区から練馬区の独立 大泉村の消防組第1部長に就任。1924年同村青年団長となり、同年8月、大泉村会議員に選出され3期在任。1931年11月、大泉村名誉職助役となり、1932年3月、村長職務代行を務め、大泉村、練馬町、石神井村、志村、赤塚村など8か町村で合併して一区独立を構想したが設立せず、東京市に編入され板橋区が設置された。1932年11月、板橋区会議員に選出され3期在任し、同副議長、同議長も務めた。1939年4月、東京府会議員板橋補欠選挙で当選。1942年6月、東京市会議員に当選。1943年9月、東京都議会議員に選出され、1944年1月の第1回東京都議会通常会で練馬区の創設を提唱した。同年4月、大泉農業会長となり、同年5月、石神井川耕地整理組合長に就任した。

トマス・コクラン(1775~1860)

大証券取引所詐欺事件 コクランは1814年の大証券取引所詐欺事件の共謀者として裁判にかけられ、有罪判決を下された。しかし、彼は後半生を通じて「無実」であることが訴えつづけた。裁判長であるエレンバラ卿の判決はコクランに対する偏見に基づくものだったが、大部分の歴史家は、コクランについての状況証拠から、彼が少なくとも、共謀者の一人であったと考えている。1830年、チャールズ・グレンヴィルは、コクランが有罪であったとしてもなお彼を賞賛する、と書き記している。実際、ビクトリア朝時代を通じて、彼は無実だったと信じられていた。

池原義郎(1928~2017)

  所沢聖地霊園

アレクサンダル・カラジョルジェヴィッチ(1806~1885)

セルビア公 ミハイロ・オブレノヴィッチ3世が廃位されて政治的混乱が起きると、1842年9月14日にアレクサンダルがベオグラード近郊のヴラチャルの国民会議においてセルビア公に選ばれた。ロシアとオスマン帝国から公位が承認すると、アレクサンダルはセルビアのさらなる発展を図るべく改革を開始して諸制度を新設し、公民権法典の施行、正規軍の導入、大砲鋳造場の設立、新旧の学校の助成、国立図書館や国立博物館の設立などを行った。

穂井田元清(1551~1597)

豊臣政権下 1582年、備中鴨城において、羽柴秀吉の軍勢と戦った。また同年、備中高松城の戦いの際に毛利氏は秀吉と講和を結ぶ。以後は秀吉に臣従した毛利氏の下で従軍、1585年の四国攻めに出陣。また同年、嫡男の毛利秀元が毛利輝元の養子となったため、後に元清も名字を「毛利」へ復した。1587年、九州平定に出陣する。

ヘンリー・モーズリー(1771~1831)

スライドレスト付き旋盤 モーズリーがブラマーの下で働きだしたころの一般的な旋盤は、足踏み動力で、切削用の刃物は職人が手に持って切削個所に当てる仕組みだった。そのためあまり精密な作業はできず、特に鉄製品を加工する場合には問題だった。そこで、モーズリーは、バイトを固定できる工具台を取り付けるように改良した。この工具台は旋盤本体に対して正確に平行移動できるようになっていた。その結果、寸法が決められた製品をこれまでにない精度で量産できるようになり、このスライドレスト付き旋盤は、機械加工に革命をもたらした。

岡田嘉子(1902~1992)

ソビエト逃避行 1937年日中戦争開戦に伴う軍国主義の影響で、嘉子の出演する映画にも表現活動の統制が行われた。過去にプロレタリア運動に関わった杉本は執行猶予中で、召集令状を受ければ刑務所に送られるであろう事を恐れ、ソ連への亡命を決意。1937年暮れの12月27日、二人は上野駅を出発。北海道を経て翌1938年1月3日、2人は厳冬の地吹雪の中、樺太国境を超えてソ連に越境する。駆落ち事件として連日新聞に報じられ日本中を驚かせた。この事件を機に日本では1939年に特別な理由なく樺太国境に近づくこと等を禁じた国境取締法が制定された。しかし不法入国した二人にソ連の現実は厳しく、入国後わずか3日目で嘉子は杉本と離されGPUの取調べを経て、別々の独房に入れられ2人はその後二度と会う事は無かった。日本を潜在的脅威と見ていた当時のソ連当局は、思想信条に関わらず彼らにスパイの疑いを着せたのである。

アルブレヒト・アルキビアデス(1522~1557)

第二次辺境伯戦争 第二次辺境伯戦争は、ホーエンツォレルン家におけるフランケン公領の創設を目論むアルブレヒトと、主にニュルンベルク市及びフランケン、ライン地方の司教達との間で戦争が行われた。彼は残虐行為をはたらきながら戦争を遂行し、フランケン全土の広い範囲を荒廃させた。ニュルンベルク市が降伏した後、アルブレヒトはバンベルクとフォルヒハイムを占領し、ヴュルツブルク司教とバンベルク司教に法外な代償を要求した。また、シュパイアー司教フィリップ2世に対しても15万グルデンの免焼金を要求し、これが拒絶されるとマーデンブルク城とハムバッハ城を破壊した。この城跡は1832年にドイツの自由の象徴となった。

与謝野馨(1938~2017)

福田・麻生政権での活動 10月の大連立構想で、かつての中曽根・渡邉との関係からある程度の動きはつかんでいたようである。自身も大連立に肯定的な発言をしているが、特に具体的な行動は起こさなかった。福田・小沢会談の直前に小沢と囲碁で対決し、メディアから大連立に関する話し合いが行われたと報道されたが、与謝野本人は大連立とは全く関係がないと主張している。

ジョー・ストラマー(1952~2002)

荒野の数年間 1987年にはアレックス・コックス監督の映画『ウォーカー』に出演し、映画のサウンドトラックにも楽曲を提供。同年に公開された映画『ストレート・トゥ・ヘル』にも出演している。1987年秋から1988年にかけては、ギタリストとしてザ・ポーグスのツアーに参加。1989年にはジム・ジャームッシュ監督の映画『ミステリー・トレイン』に脇役として出演。1990年にはアキ・カウリスマキ監督作品『コントラクト・キラー』にも出演を果たし、作中ではパブで演奏をするギタリストとして、ザ・ポーグスから提供された2曲を歌っている。この時期、彼は映画での仕事を主に行っており、俳優としての仕事のみならず、上記以外の複数の映画への楽曲提供を行っている。