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アフメト1世(1590~1617)

ハンガリーとコーカサスの戦線 彼が即位した時、帝国は東西両方で戦争を続けており、ハンガリーとの長期戦争では、状況が逆転し、トランシルヴァニア、ワラキア、モルドバでは、反ハプスブルクの反乱が起き、トランシルヴァニアで傀儡のボチカイ・イシュトヴァーンを君公に選出した。また、オスマン側は、大宰相のソコルルザーデ・ララ・メフメト・パシャの元、1604年にペスト、ヴァークを奪還した。1605年8月にエステルゴム城塞を包囲し10月に陥落させた。そして、1606年に、大宰相のクユジュ・ムラト・パシャによって、干渉地帯のジトヴァ川で、ジトヴァ・トロク条約が成立した。その内容は、互いに王とよばずに皇帝と呼ぶこと、平和を守ること、侵略をやめること、神聖ローマ皇帝が20万フォリントをイスタンブールに届けること、エステルゴムとカニジャの城塞はオスマン側に、コマロムの城塞はハプスブルク側が領有すること、などだった。また、ハプスブルク家の君主をカイザーと認めたことは、画期的であり、コンスタンティノープル陥落以来、スルタンが唯一の称号として皇帝を名乗っていた。次にスルタンが皇帝として認めたのは、1774年のキュチュク・カイナルジ条約の時であった。

ジュリウス・ニエレレ(1922~1999)

「ウジャマー社会主義」を掲げる ニエレレは1967年、「アルーシャ宣言」と言われる独自の社会主義路線を表明、それをスワヒリ語で友愛、家族愛を意味する語を冠して「ウジャマー社会主義」と称した。それは、タンザニアが農業国であることを前提に、「伝統的なアフリカの土地所有関係と拡大家族の協同労働の上に成立する共同体成員同士の相互扶助の精神」を生かしながら、自発的な集団農場を普及させようとするもので、ソ連型とも中国型とも違う独自の社会主義を実現しようとする試みであった。具体的には第一段階では集村化をはかり、第二段階で共同畑を設置し、第三段階で集団化、平等化を実現し「ウジャマー村」を建設するという計画であった。第二段階までは自発的に進み、水の供給、教育、医療などの普及など成果が生まれたが、第三段階には富農の抵抗など階級対立が表面化して順調に進まず、強制的な措置がとられるようになり、反発も強まった。ニエレレは国際政治では非同盟主義を守る一方、アフリカ統一機構には積極的に参画した。彼のウジャマー社会主義は順調に進まったが、国民の支持は強く、21年にわたって大統領を務め、1985年に引退した。

ウマル・イブン・ハッターブ(592~644)

イスラーム帝国の拡大 ウマルの時代はジハードが展開され、まずシリアに進出して635年にダマスクスを包囲して降伏に追い込み、次いで翌636年8月、ヤルムークの戦いで東ローマ帝国のヘラクレイオス1世の軍隊12万を、4万の軍勢で攻撃し、兵員数で劣ったものの奇襲攻撃などで東ローマ軍を壊滅させ、シリアをイスラーム帝国に併合した。さらに637年にはカーディシーヤの戦いでサーサーン朝ペルシア軍に勝利し、その都クテシフォンを攻略した。翌638年にはさらに西に転じてエルサレムを征服、その時すでにローマ時代の建物はなくなり荒廃していたが、ウマルはその遺跡の中から巨岩を見つけ、そこがムハンマドの「昇天の旅」の出発地であるとして聖域に指定し、「ウマルのモスク」とよばれるようになった。この地には後ウマイヤ朝時代のアブドゥルマリクによって岩のドームが建立されることになる。641年、ウマルはエジプトを征服、さらに再び東進して642年にニハーヴァンドの戦いでサーサーン朝ペルシアに勝利して、イラン高原に進出した。また広大な征服地を統治するため、徴税官を派遣し、アラブ戦士にはその税収入から一定の俸給を支払うこととし、またその業務のためにメディナに官庁を置いた。さらにイスラーム暦を定められたのもウマルの時である。644年、カリフ・ウマルの死により、生前の指名によってウスマーンがカリフの地位に就いた。

バハラーム2世(不明~293)

対ローマ戦争、西方外交 282年、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・カルスがユーフラテス川を越えてメソポタミアに復讐にやってきた。バハラーム2世は東方アフガニスタンの反乱に処するのが手一杯で、これに対処することが出来なかった。メソポタミア一帯は破壊・略奪され、セレウキアやクテシフォンもローマ軍によって占拠された。しかし、幸運にもカルスは落雷によって事故死。

シュジャー・シャー(1785~1842)

廃位・投獄と同盟 1809年5月3日、彼は前王マフムード・シャーにより廃位させられ、インドに亡命した。しかし彼はそこでジャハンダード・カーン・バミザイに捕まり、アトックおよびカシミールで投獄された。その後、彼はシク王国のランジート・シングに引き渡され、ラホールで投獄された。有名な宝石コ・イ・ヌールの保有者であった彼は、自由を得るためにやむなく、それを捕縛者の手に引き渡した。彼は初めパンジャーブに住み、その後ルディヤーナーに移った。

フランク・ウェルズ(1932~1994)

七大陸最高峰 アメリカの大富豪でアマチュア登山家であったディック・バスは、オーストラリアを含む七大陸の最高峰に登ることを目標としていた。彼は自分と同じ夢を持つフランク・ウェルズと共に、1983年の一年間でエベレストを除く6峰の登頂に成功した。しかし最も困難なエベレストの登頂はうまくいかず、三度の失敗を重ねた。最後に4度目の登山で、1985年4月30日にエベレストの登頂に成功した。このとき55歳で、当時のエベレスト最高齢登頂記録だった。全ての最高峰に登頂したバスは自分のなしたことをウェルズと共同執筆した。

藤原家隆(1158~1237)

歌人 『古今著聞集』によると後鳥羽上皇が和歌を学びはじめたころ、藤原良経に「和歌を学ぼうと思っているのだが誰を師としたらよいだろうか」と尋ね、良経は家隆を推薦した。院歌壇の中心メンバーであり、後鳥羽院が承久の乱で隠岐に流された後も、遠所から題を賜って和歌を送ったりしている。歌風は平明で幽寂な趣きと評価される。また、晩年になってからも作歌意欲はいっこうに衰えず、その多作ぶりは有名で、生涯に詠んだ歌は六万首もあったと言われている。

ウィリアム・ウィリス(1837~1894)

東京医学校兼病院 1869年、東京の副領事に復帰。戊辰戦争従軍後、明治天皇に謁見し、政府から感謝状、天皇から感謝の品が贈られた。新政府の要請で外交官の身分を持ったまま、31歳で東京医学校兼病院の創始者となった。看護人として女子を採用。社会的地位を奪われた蘭方医や一部の政治家の思惑で、ドイツ医学に方針が変更。東京医学校兼病院長を退職した。

中曽根康弘(1918~2019)

リクルート事件 1989年、自身が関与していた戦後最大の汚職事件といわれるリクルート事件が直撃した。野党は予算審議と引き換えに中曽根の証人喚問を要求したが、中曽根はこれを拒否し、竹下政権は竹下自身の不始末も手伝って瓦解した。その後、リクルート事件の責任を取って党を離れるものの復党し、1994年の首班指名選挙では村山富市首班に反発し、小沢一郎と共に海部俊樹を担ぐが失敗する。しかし、党からは貢献度を重視して不処分であった。

トマス・リード(1710~1796)

思想 リードは真理や秩序の基盤となっている信念が破壊されることを恐れ、究極的な実在や真偽を判定する根源の能力を「観念」ではなく「常識」に求めた。論証され得ない原理があるとすれば、それは神が人間の精神に植え付けたものであり、それ以上の分析の対象にしてはならない。ある説明不可能な信念をヒュームのように「虚構」と呼ばず、「神聖なる本能」と呼ぶ。このように直覚によって知られる「数学的・論理学的公理、因果律」などは疑うべからざるものである、とした点で、先験的に備わっている認識能力を考えたカントとは異なったヒューム哲学の批判を試みている。

アレクサンドル・エドモン・ベクレル(1820~1891)

光起電力効果 光起電力効果は1839年にアレクサンドル・エドモン・ベクレルが最初に報告した。これは薄い塩化銀で覆われた白金の電極を電解液に浸したものに、光を照射すると光電流が生じる現象として報告された。彼は電流が熱によるものではないことを示し、カラーフィルターを用いることでスペクトル感度特性を示した。これが光起電力効果に関する最初の報告となった。このときベクレルが創ったのは現在の色素増感太陽電池の原型ではないかと言われる。

アルフレート1世・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ(1787~1862)

ウィーン蜂起 1848年10月のウィーン蜂起において、ヴィンディシュ=グレーツは皇帝フェルディナント1世によって鎮圧軍の最高司令官に任命された。10月31日のウィーン市街地への進軍によりヴィンディシュ=グレーツは反革命の勝利を確実なものとしたが、暴徒側から約2000人の死者と夥しい負傷者を出す結果となった。即決裁判による革命派政治家の処刑、とりわけフランクフルト国民議会議員のロベルト・ブルームの処刑は、国内外で大きな反発を引き起こした。

フョードル2世(1589~1605)

悲劇の死 また、ツァーリの母親マリヤが悪名高いオプリーチニキの首領マリュータ・スクラートフの娘だったことも、求心力低下に拍車をかけた。そのうえ、父の部下であった大貴族のヴァシーリー・シュイスキーは、フョードル2世の弟ドミトリーの死に関して、ボリスが送り込んだ刺客が誤ってその友人を殺したのだと前言を撤回し、偽ドミトリー1世は本物のドミトリー皇子であると主張した。

ロムルス・アウグストゥルス(460~536)

退位後のロムルス・アウグストゥルスとその血筋 退位後のロムルス・アウグストゥルスは概して幸運だった。退位したときの彼はまだ若く、オドアケルはその命まで奪おうとはしなかった。息子ロムルス・アウグストゥルスを帝位につけた実の父オレステスはオドアケルに殺されたが、ロムルス・アウグストゥルス自身とその家族はカンパーニャに送られ、そこで恩給をもらい余生を過ごしている。後にオドアケルが敗れたときも、新たに権力者となったテオドリック大王から恩給をもらい続けることができた。カンパーニャでは何百年も続くことになる修道院を建てるなどの業績を残したが、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によるイタリア支配をその目で見ることはなかった。

ゼノン(426~491)

即位後~西ローマ帝国におけるロムルス・アウグストゥルスの廃位~ 476年、イタリア本土においてローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスが廃位された。レオ1世は474年に姻戚のユリウス・ネポスに西ローマ皇帝を名乗らせてイタリア本土へと送り込んでいたが、結局はネポスをイタリア本土の人々に上手く押し付けることができず、ユリウス・ネポスは475年に西ローマ帝国の軍司令官オレステスによって追放され、代わりにオレステスの息子ロムルス・アウグストゥルスがローマ皇帝として宣言されていた。しかしゼノンはロムルス・アウグストゥルスを正当な西方正帝とは認識していなかったし、イタリアを追放されたユリウス・ネポスも逃亡先のダルマティアで依然として西ローマ皇帝を名乗り続けていたので、コンスタンティノープルの宮廷から見ればロムルス・アウグストゥルスの廃位は正当な行為だった。

ユリウス・ネポス(430~480)

治世~再建への努力~ 皇帝として、ネポス帝は西方領土の残る領域を統合しようと試みた。ネポス帝は南ガリアからイベリアを占領している西ゴート王国と交渉を行い、西ゴート王エウリックと和平条約を締結する事に成功した。協定で帝国が維持する事が困難であった幾つかの都市を平和的に譲る代わりに、ガリア南東のプロヴァンス地方に強固な支配権を回復させた。同様にサルディニアやコルシカ、アフリカを中心に地中海の制海権を脅かしていたヴァンダル王国のガイセリック王とも交渉を行ったが、こちらは不首尾に終っている。ネポス帝即位前にレオ1世と不戦条約を結んでいたガイセリックは譲歩に応じなかった。

梅崎春生(1915~1965)

桜島 七月初、坊津にいた。往昔、遣唐使が船出をしたところである。その小さな美しい港を見下す峠で、基地隊の基地通信に当っていた。私は、暗号員であった。毎日、崖を滑り降りて魚釣りに行ったり、山に楊梅を取りに行ったり、朝夕峠を取る坊津郵便局の女事務員と仲良くなったり、よそめにはのんびりと日を過ごした。電報は少なかった。日に一通か二通。無い時もあった。此のような生活をしながらも、目に見えぬ何物かが次第に輪を狭めて身体を緊めつけて来るを、私は痛いほど感じ始めた。歯ぎしりするような気持で、私は連日遊び呆けた。月に一度は必ず、米軍の飛行機が鋭い音を響かせながら、峠の上を翔った。ふり仰ぐと、初夏の光を吸った翼のいろが、ナイフのように不気味に光った。

徳川治宝(1771~1853)

こぶち騒動 1823年、紀ノ川流域で「こぶち騒動」と呼ばれる大規模な百姓一揆が勃発し、責任を取る形で翌年藩主の座を御三卿・清水家からの養子・斉順に譲った。この隠居は財政援助を行った幕府の強圧を背景にしていたが、治宝は和歌山の西浜御殿を居所として、隠居後も藩政の実権を握り続け、特に御仕入方と呼ばれる藩の専売事業や熊野三山貸付所の利権を掌握し、藩の予算に影響力を与え続けた。

朝日姫(1543~1590)

駿河御前 朝日姫は4月に大坂城を出て聚楽第に入り、5月に浅野長政・富田知信・津田四郎左衛門・滝川儀太夫等を従えて150名余の花嫁行列は京を出発し、途中、信雄の家臣・織田長益と滝川雄利がさらに加わって、11日、三河西野に達し、14日に浜松に至って、家康の正室として徳川家に嫁いだ。この時、家康45歳、朝日姫44歳だった。朝日姫は駿河府中に居を構えたため駿河御前と以後呼ばれた。

尾藤二洲(1745~1814)

生涯と性格 その性格は「恬淡簡易」と評され、甥の頼山陽と歴史への関心を分け持ち、夜の更けるのも忘れ「喜んで本邦群雄の事跡を談じ」たという。三博士の中ではもっとも詩人の素質に富み、こだわりなく詩を作る。詩は「唐を以て法と為す」べきであるが、陳腐にならないように新しい感覚のある宋詩をも読むべきである、ただし「宋人は雅俗を択ば」ないので模倣しすぎると詩の形を為さなくなる、と考えていた。二洲の詩的感興は、世俗を避ける心と結びついている。冢田大峯が異学の禁に反対する声明を出したときに二洲の門人で動揺するものが少なくなかったことを考え合わせると、二洲自身に権力で学問を統一することを忌む気風があったのではないかと推測される。

高力士(684~762)

玄宗の股肱として その後、景龍年間に皇子時代の玄宗と結び、恩顧をもって接した。そのため、710年の韋后討伐の政変の際は内部から協力して、朝散大夫、内給事に任じられた。玄宗の即位後も713年太平公主派の鎮圧に荷担し、その時の功績で銀青光禄大夫、行内侍同正員に任じられ、開元年間に入って、右衛門衛将軍、知内侍省事に昇進した。内外の様々なことを任され、高力士を含めた宦官の権勢は大きなものとなった。

宣徳帝(1399~1435)

仁宣の治 1435年に崩御。病弱であった父帝より10歳以上も早く世を去った。宣徳帝の治世は洪熙帝と並んで永楽帝以後の休養期にあたっており、仁宣の治と呼ばれている。これが明の全盛期であったという評価が、後世の史家たちの一般的な意見である。それを裏付けるように、磁器の品質に於いても、万暦期より宣徳期の物の評価が高い。

シャルル=ジョゼフ・ナトワール(1700~1777)

バラを持つ女

ムスタアスィム(1213~1258)

略歴 ムスタアスィムの長男と次男は処刑され、幼少の三男ムバーラク・シャーはフレグの妃オルジェイ・ハトゥンに預けられた後、アゼルバイジャンのマラーガに送られて余生を過ごした。こうしてアッバース朝は最後の領土を失い、世俗王家としての命脈を絶たれるが、彼の父方の叔父にあたる人物はマムルーク朝のバイバルスに落ち延びて、ムスタンスィル2世としてカリフに即位した。

ロバート2世(1316~1390)

ステュアート朝 1318年、スコットランド議会は、ロバート1世が世継ぎの男子なしで死去した場合には、マージョリーの息子に王位が与えられると定めたが、1324年に息子デイヴィッドが生まれ、1329年にデイウィッド2世として王位に就いた。しかし1371年にデイヴィッド2世は子のないまま急死し、デイヴィッド2世のフランス亡命中に摂政として実質的にスコットランド国内を統治していたロバート2世が新たに王位に就き、ステュアート朝を開いた。

キリロス・ルカリス(1572~1638)

ブレスト合同から受けた影響 若き日に影響を蒙った改革派の影響と合わせ、ウクライナにおける1596年のブレスト合同での経験もキリロス・ルカリスの性格形成に影響を及ぼした。ブレスト合同では、アレクサンドリア総主教代理であった若きキリロス・ルカリスを含めたコンスタンディルーポリ教会の代表者達と、東西教会の合同に反対した現地人正教徒達が、合同賛成派によって議場である聖堂から完全に締め出されるという強引な手法を経て、ウクライナ東方カトリック教会が成立した。この時のカトリック教会とポーランド王のやり方を目の当りにしたキリロス・ルカリスは、強烈な反ローマ・カトリック感情を抱くこととなる。

ムーレイ・イスマーイール(1645~1727)

前史・スルターン就任まで 1670年4月6日、イスマーイールはフェズでラシードの初婚を祝った。7月25日、彼はオーラドジャーマにてブルジュ・アル・ジャディードら60人の山賊を磔刑に処した。ラシードがハイ・アトラスで抵抗する部族を征伐する中、彼は1672年4月9日にマラケシュで落馬によって死亡した。4月13日、ラシードの死を知ったフェズ総督のイスマーイールは、4月14日、スルターンとなった。イスマーイール26歳のときの出来事である。即位式は、午後2時ごろの話だった。フェズでは、すべての名士や学者、部族や都市が代表を送り、フェズ王国の新しい支配者に対し忠誠の誓いを行った。しかし、マラケシュだけは代表を送らなかった。イスマーイールはメクネスに首都を建設したが、この地は水と気候に恵まれていた。

ジャンバティスタ・バジーレ(1575~1632)

ペンタメローネ ある国に今まで一度も笑ったことが無い王女「笑わない王女」ゾーザがいた。国王は娘を笑わせようとしてあれこれ手を尽くしたが上手く行かなかった。ある日、ゾーザは街中で少年と老婆が口喧嘩をして老婆が言い負かされる場面を目撃して生まれて初めての大笑いをした。ところが、老婆はこれに怒ってゾーザに呪いをかけ、「眠り王子」タッデオの呪いを解いて婿に迎えない限りは一生結婚することは出来ないとした。タッデオの呪いを解くには墓地の前にかかった壷を3日以内に涙で満たさなければならないというものであった。彼女は7年かけて王子の墓を見つけ出し、2日かけて壷一杯間近まで涙で満たした。ところが、泣きつかれてゾーザが眠りこけた時に通りがかった女奴隷のルチアが壷の中身に気づいて一泣きをしたところ、壷が涙で満杯になってタッデオが目覚め、ルチアが自分を救ってくれた人と信じて彼女を妃にしてしまったのである。失意のゾーザは旅の途中で会った妖精から授けられた魔法の木の実を用いてルチアに魔法をかけ、彼女がタッデオに面白い話を聞きたいとせがませるようにした。そこでタッデオは10名の口達者な女を呼び寄せて1日に1話ずつルチアに楽しい話を聞かせるように命じた。それざ、ゾーザのルチアに対する復讐の始まりであることはゾーザ以外には誰も知らなかったのである。

アンドレア・マンテーニャ(1431~1506)

死せるキリスト

アンドレ=エルキュール・ド・フルーリー(1653~1743)

活動 フルーリーは財務総監に、はじめミシェル・ロベール・ル・ペルティエ・デ・フォール、次にフィリベール・オリを登用し、歳出の削減と歳入の増大に努めた。宮廷経費の削減や年金のカット、軍事費の抑制を行う傍ら、増税を含む様々な手段で収入を増やして財政収支を均衡させることに成功した。1737年に、フルーリーの考えでルイ15世の王女たちが修道院で教育されるために次々と送り出されたがこれも宮廷費の増大を恐れてのことだと言われている。

アルテミオ・リカルテ(1866~1945)

日本への亡命 1914年に第一次世界大戦が始まると英国はインド人をヨーロッパ戦線に送ったが、反抗するインド人も多かった。その風潮を足がかりに独立運動の動きも起こったため、香港でもアジア民族主義者への取り締まりが厳しくなり、リカルテのフィリピン革命評議会は解散、さらに本人もインド独立運動教唆罪でイギリス政庁から香港退去を命じられ、身柄は上海のアメリカ官憲の手に渡った。

那珂通世(1851~1908)

支那通史 明治中期、時代の要請に応え、碩学那珂博士が、半生の研究成果を注いだ名著の翻訳である。博士が本書の著述によって元代にいたり、「元史」のずさんを嘆いて元代史研究の専門家になったのは有名な話である。本書はしたがってその記述を宋代にとどめているが、わが国近代史学初の支那通史として、いまなおその名著たるを謳われている。

カスパー・ハウザー(1812~1833)

もうひとつの後継者説 王位の簒奪ということでは、バーデンの大公位もフランスの玉座もそれには当たらない。カール大公は1818年に死去しているし、それ以前にはだれも彼の「王位を簒奪」していないからであり、ナポレオンの子、後のナポレオン2世は、1816年にはまだ存命で、非嫡出子は当時一切の相続から根本的に締め出されていたからである。――こうして我々は、哀れなカスパーが奪われたとする第3の王座の可能性を考えなくてはならなくなる。

カール・シュヴァルツシルト(1873~1916)

シュワルツシルト半径 1916年、カール・シュヴァルツシルトはアインシュタインの重力場方程式の解を求め、非常に小さく重い星があったとすると、その星の中心からのある半径の球面内では曲率が無限大になり、光も脱出できなくなるほど曲がった時空領域が出現することに気づいた。その半径をシュワルツシルト半径または重力半径と呼び、シュワルツシルト半径よりも小さいサイズに収縮した天体はブラックホールと呼ばれる。

麻生久(1891~1940)

日本労農党 社会民衆党の結成方針が1926年11月に明らかにされた数日後、この動きに反発した総同盟の麻生久らが日本農民組合の反幹部派と日本労農党の立ち上げを決定。これによって麻生はじめ複数のメンバーと構成組合が総同盟から除名処分を受け、ほかにも脱退する組合が出る事態に発展して、総同盟の第二次分裂を招いた。

三輪寿壮(1894~1956)

日本労農党 1926年労働農民党書記長となり、同年末、同党中間派が集まった日本労農党が発足するとその書記長に就任。中間派無産政党の離合集散の後、1932年、無産政党の統一体である社会大衆党の創設に参加する。弁護士・法律家の立場を生かして労働組合法案、小作法案、小作組合法案、健康保険法案の策定、工場法の改正などに尽力。1937年、第20回衆議院議員総選挙に東京で社会民衆党から立候補し、反ファッショと社会民主主義的公約をかかげ、衆議院議員に初当選。その後は政治活動に加え、河合栄治郎の公判の弁護を側面から支援し、ゾルゲ事件では尾崎秀実の親族の依頼を受け、官選弁護人の選任を務めている。

永田鉄山(1884~1935)

バーデン・バーデンの密約 1933年6月、陸軍全幕僚会議が開催され、会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対し、「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない。また対ソ準備は戦争はしない建前のもとに兵を訓練しろ」と言った。これに対し荒木貞夫陸軍大臣は「支那を叩くといってもこれは決して武力で片づくものではない。しかも支那と戦争すれば英米は黙っていない必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁した。

赤松克麿(1894~1955)

日本社会主義研究所 1931年9月に設立された国家社会主義の研究・実践指導団体。行地社で労働組合の担当であった松延繁次を中心とし、この松延が率いる知友社、社会民衆党の赤松克麿一派、国家社会主義を提唱した高畠素之の弟子である津久井龍雄一派を結びつけて設立した。右翼国家主義団体の資金援助を得、社会民衆党、全国労農大衆党の一部を取り込んで、日本国家社会党を形成した。

御木徳一(1871~1938)

ひとのみち教団~教え~ 身の回りに起こる災難や病気などすべての苦痛や苦難は、自分自身の心得違い、心の傾きを知らせるために、神が発してくれる警告と考える。これを「みしらせ」と呼んでいる。この「みしらせ」を引き起こしている心の癖は何なのか、教団から個人個人に下付されるものが「みおしえ」で、個々の自己表現の上で邪魔となっている心癖を教えてもらうのである。

アルボイーノ(526~572)

係累 アルボイーノは東ゴート王国の王族アマル家の血を引いている。アルボイーノの母ロデリンダが東ゴート王国初代テオドリック大王の妹アマラフリーダの孫娘だからである。故にアルボイーノはアマラフリーダの曽孫にあたり、アルボイーノとテオドリック大王は曽姪孫と曽祖伯父の関係で、テオドリック大王の曽孫ゲルマヌスは三従弟である。アマラリックとアタラリック・マタスンタ兄妹は三従伯父母、アマラスンタは三従伯祖母である。また、アマラリックの娘ゴイスウィンタは三従姉妹、ゴイスウィンタの2人の娘は三従姪、ゲルマヌスの二人の娘は東ローマ帝国皇帝マウリキウスとチャリートの姉妹コンスタンティアの長男テオドシウスと結婚。子女なし。次女はマウリキウスの次々代東ローマ帝国皇帝ヘラクレイオスとの間に1男ヨハンネスを儲けたも三従姪である。

ミハイル2世・アセン(1238~1256)

治世 数少ない史料は、ミハイルの治世のほとんどが宮廷内の有力者の影響下に置かれていたことを物語っている。治世の初期は母親のイレネ、ドゥブロヴニクと同盟を締結した際には義兄弟のセヴァストクラトル・ペタルが、国政の中心になっていた。治世の末期には、ベオグラードとブラニチェヴォの総督を務めたロシア貴族ロスチスラフ・ミハイロヴィチの意向が反映されていた。1255年にブルガリアとハンガリーの間で和平が成立したときにミハイルはロスチスラフ・ミハイロヴィチの娘と結婚し、1256年のブルガリアとニカイアの和平条約ではロスチスラフは二国の仲介者として署名した。ミハイルの死後、妃は帝位を継いだカリマン2世と再婚した。

アギス4世(前265~前241)

略伝 エウリュポン家の出身である。紀元前244年に即位。スパルタは本来、ふたつの王家と長老会が政権を運営していたが、当時は一部貴族の手によって政権が運営され、貴族層は奢侈に流れ、国民は貧窮に喘いでいた。アギスは、初期のリュクルゴスの制度を目指し、債務免除を実施。しかし、土地の再分配が遅れたので、市民の反感を招く。紀元前241年、レオニダス2世のクーデターによって処刑される。

ヒュパティア(350~415)

当時の社会 391年、テオドシウスはテオフィロスの求めに答えて、エジプトの非キリスト教の宗教施設・神殿を破壊する許可を与えた。キリスト教の暴徒は、サラピス寺院やアレクサンドリア図書館や他の異教の記念碑・神殿を破壊した。その後、393年には法律で暴力、特に略奪とユダヤ人のシナゴーグの破壊を抑えようとの試みがなされた。

エゴン・シーレ(1890~1918)

胎児と女

マーク・ロスコ(1903~1970)

オレンジと黄色

ニセフォール・ニエプス(1765~1833)

マルリーの機械 1807年、フランス政府はセーヌ川からヴェルサイユ宮殿に水をひくのに使われていたマルリーの機械の代替となる機械の公開選考会を開催した。マルリーの機械は1684年に建設されたもので、セーヌ川から1キロほど内陸まで150メートルの高さに水を汲み上げ送り込む施設である。ニエプス兄弟は新たな方式を考案し、1809年にも再度改良を加えた。ピストンの精度を高めるなど様々な部品に手を加え、抵抗をかなり低減させた。彼らは何度も試験し、4フィート4インチの水流の落差で、水を11フィート持ち上げるという結果を得た。しかしニエプス兄弟があまりにも時間をかけたため、皇帝は別の技術者に蒸気機関を使ったポンプの製作を依頼した。

クルト・レヴィン(1890~1947)

アクション・リサーチ 1944年、当時MITの教授であったクルト・レヴィンが、はじめて"action research"という用語を使用した。彼が1946に著した"Action Research and Minority Problems"という論文で、彼はアクションリサーチについて「社会運動、および社会運動を促す研究の、状態や影響といった多様な形態についての比較研究」であり、「計画」「実行」「実行結果についての事実発見」が螺旋上昇するステップである、と説明した。

カミッロ・ゴルジ(1843~1926)

ゴルジ染色~メカニズム~ 神経組織の細胞は非常に密集しているため、すべての細胞を染色してしまった場合、その構造や相互結合に関する情報をほとんど得ることができない。加えて、そのフィラメント状に伸びた器官は通常の染色法で染めるにはあまりに細すぎる。ゴルジ染色法はごく限られた細胞をランダムに、かつその細胞全体を染色することが可能である。この染色法のメカニズムの大部分は今も未解明である。樹状突起、及び細胞体は茶や黒ではっきりと染色され、その末端まで追うことができるため、神経解剖学者は神経細胞間の結合を調べ、脳と脊髄の多くの部位にある複雑なネットワークを明らかにすることができる。ゴルジ染色は固定した神経組織を二クロム酸カリウムと硝酸銀に浸すことで行われる。これにより神経細胞は微結晶化したクロム酸銀で満たされることになる。

アーネスト・ラザフォード(1871~1937)

原子物理学の父 この称号は科学史の中だけではなく、その人柄によってこそ裏書きされる。ラザフォードは慈愛心に満ち、若い研究所員たちを、ボーイズと呼んだ。ケンブリッジのキャヴェンディッシュ研究所は、設備や計測機を開発しながら大きくなり、成果を上げて行った。その開発や研究に取り組むのは、若い所員たちであった。質量選別器でアイソトープの分離に成功したフランシス・アストン、霧箱で原子軌道を撮影した清水武雄、それを元に原子軌道を開明したパトリック・ブラケットなど、世界中から逸材が詰め寄せている。ラザフォードは長身で、風格があり、夏のビーチでもジャケットを脱がない英国紳士であった。彼は自分で財界から寄付を募って、研究所の予算を四倍にまで伸ばした。