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曹雪芹(1724~1763)

「紅楼夢」の挿絵

乾隆帝(1711~1799)

海禁策 乾隆帝は中華思想に基づく朝貢貿易の立場を強め、1757年に海禁に転じ、外国貿易は広州一港での公行による貿易に限定した。18世紀後半に産業革命を進行させていたイギリスが、中国市場開拓に乗りだし、1793年にマカートニー使節団を派遣、制限貿易の撤廃を要求してきた。乾隆帝は要求を拒否したが、このような外圧は19世紀にはより強くなり、資本主義世界史上に組み込まれていく。

呉承恩(1501~1582)

西遊記の登場人物 孫悟空、三蔵法師、猪八戒、沙悟浄、玉龍、釈迦如来、観世音菩薩、ナタ、顕聖二郎真君、牛魔王、鉄扇公主、紅孩児、金角大王、銀角大王

ムハンマド・アリー(1769~1849)

ギリシャ独立戦争 1822年、オスマン帝国から要請によりギリシャ独立戦争に参戦。もともとムハンマド・アリーは、カイロやアレクサンドリアで革命組織が結成されてアレクサンドリアから義勇兵が出港するのを黙認するなど反乱に厳しく対処していたわけではなかったが、アラビア遠征に続きオスマン帝国の「積極的で従順な奉仕者たることを強いられ」る恰好となった。

ミヒャエル・エンデ(1929~1995)

「はてしない物語」の挿絵

オスカー・ワイルド(1854~1900)

「幸福な王子」の挿絵

ルイ・フィリップ(1773~1850)

オルレアン公 1793年、父ルイ・フィリップ2世はデュムリーエの裏切りによってジャコバン派から共和国転覆の嫌疑をかけられて財産を没収され、パリの革命裁判所により11月6日の夕刻に革命広場で処刑された。これにより、20歳でオルレアン公位を襲爵したルイ・フィリップはスイスへ亡命し、地理学・数学・近代文学の教師として薄給で暮らす。1795年にはハンブルク、1795年から1796年までスカンディナヴィア諸国、さらに1797年から1799年までアメリカ合衆国へと移り、1801年から1807年にはロンドン郊外のトゥイッケナムに住んだ。

メアリー2世(1662~1694)

共同統治者時代 フランスに追放されたジェームズ2世は革命後、フランス軍の支援を得てカトリックのアイルランドに上陸し、ジャコバイトを率いてイングランドに対する反乱に立ち上がらせた。スコットランド高地地方でも反イングランドの反乱が起こり、ウィリアム3世はこれらの反乱鎮圧のために出陣し、本国オランダも大同盟戦争でフランスと戦争していたので、ほとんどロンドンにいなかったため、イングランドの留守はメアリー2世が預かる形となった。

タレス(前624~前546)

万物の根源は水である タレスは紀元前6世紀の小アジアのギリシャ人植民都市ミレトスの人で、イオニア自然哲学の最初の一人とされる。彼は万物の根源は水であるとした。またピラミッドの高さを測定したり、前585年5月28日に小アジアで起こった日食を予言したことで知られ、当時から賢人として尊敬を集めていた。タレスの著作は一切伝わっていないが、ヘロトドスやアリストテレスなどの著述の中に引用されている。

梅原龍三郎(1888~1986)

紫禁城

井上馨(1836~1915)

外交と条約改正に尽力 1884年12月の甲申事変で朝鮮宗主国の清が介入すると渡海、1885年1月に朝鮮と漢城条約を締結して危機を脱した。また、1883年に鹿鳴館を建設して諸外国と不平等条約改正交渉に当たり、1884年の華族令で伯爵に叙爵された。同年に防長教育会や防長新聞の創設、三井物産相談役のロバート・ウォーカー・アーヴィンを通したハワイの官約移民にも尽力している。

大友義鎮(1530~1587)

多々良浜の戦い 戦国時代の多々良浜の戦いは、1569年5月に発生した、立花山城の帰属を巡る大友義鎮と毛利元就の戦いである。なお、実質的な戦場は多々良浜よりやや東の多々良川両岸であったため、多々良川の戦いと呼ばれることもある。

小野道風(894~967)

三体白氏詩巻 白氏文集を楷行草の各書体で揮毫したもので、八紙を一巻として、巻第五十三の詩六首分が現存する。ちょうど二首ずつ、楷・行・草の順に調巻されるが、1529年の伏見宮貞敦親王の識語によれば、当時すでに、楷書二首、行書二首、草書二首という現在の形であったことが分かる。

アリストテレス(前384~前322)

アレクサンドロス大王とリュケイオン 紀元前342年、42歳頃、マケドニア王フィリッポス2世の招聘により、当時13歳であったアレクサンドロス大王の師傅となった。アリストテレスは首都ペラから離れたところにミエザの学園を作り、弁論術、文学、科学、医学、そして哲学を教えた。ミエザの学園にはアレクサンドロスのほかにも貴族階級の子弟が彼の学友として多く学んでおり、のちに彼らはマケドニア王国の中核を担う存在となっていった。

ミシェル・ド・モンテーニュ(1533~1592)

「エセー」の挿絵

アルブレヒト・デューラー(1471~1528)

四人の使徒

シャルル10世(1757~1836)

フランス7月革命 1824年、兄ルイ18世が死去すると、国王として即位した。議会の解散やルイ14世時代の絶対王政復活を目指すなど、兄以上の反動的な専制政治を行った。そのため1830年、不満をもったフランス国民によりフランス7月革命が起こされた。この革命によってシャルル10世はイギリスに亡命し、オルレアン家のルイ・フィリップが国王に擁立されて、ブルボン家直系から王位は失われた。

加藤高明(1860~1926)

憲政の常道 また、この内閣から以降7代、衆議院の多数政党が内閣を交互に組織する「憲政の常道」が確立され、大正デモクラシーの成果が実った内閣でもあった。この内閣には元総理の高橋是清、加藤のあと次々と総理となる若槻礼次郎、浜口雄幸、幣原喜重郎、犬養毅が閣僚におり、本格的な政党政治時代のスタートに相応しい内閣であったと言えよう。

幣原喜重郎(1872~1951)

幣原外交 幣原外交とは、1920年代から1930年代にかけての戦間期に、幣原喜重郎が憲政会政権の内閣の外務大臣に就任して行った穏健な対英米協調外交をいう。第一次世界大戦後に成立した国際秩序である九カ国条約を尊重し、列国との協調と中国への内政不干渉を唱える一方で、日本が大戦中及びそれ以前に獲得した利権自体はあくまで正当なものであるとし、経済的には中国市場拡大、満州の特殊権益の維持を図るものであった。

鈴木文治(1885~1946)

大日本労働総同盟友愛会 1915年・1916年の両年渡来して米国の労働組合事情を学び、また麻生久ら急進的な若手書記の影響もあり、次第に団結権、ストライキを主張するようになり、労働組合化を推し進めていった。1919年には「大日本労働総同盟友愛会」と改称。また同年、政府・財界主導型の労使協調団体「協調会」への参加を拒絶するなど、体制に対して対決的な姿勢を見せ始めた。

夢窓疎石(1275~1351)

夢中問答集 天龍寺を開山し、造園の妙を各地に施した、悟達明眼の夢窓疎石は、北条家、足利家、後醍醐天皇からも深く帰依され、世に七朝の帝師と仰がれた。在俗の政治家、足利尊氏の弟直義の、信心の基本、大乗の慈悲、坐禅と学問などの問いに答えて、欲心を捨てることの大切さと仏道の要諦を指し示す。無礙自在の禅者の声が、時空を超えて響きわたる。

後醍醐天皇(1318~1339)

建武の新政 帰京した後醍醐天皇は、自らの退位と光厳天皇の即位を否定し、光厳朝で行われた人事をすべて無効にするとともに、幕府・摂関を廃して建武の新政を開始する。また、持明院統のみならず大覚寺統の嫡流である邦良親王の遺児たちをも皇位継承から外し、本来傍流であったはずの自分の皇子恒良親王を皇太子に立て、父の遺言を反故にして自らの子孫により皇統を独占する意思を明確にした。

植木枝盛(1857~1892)

東洋大日本国国憲按 東洋大日本国国憲按とは、日本の明治期における私擬憲法の一つ。1881年に植木枝盛が起草した。自由民権左派の最も民主的・急進的な私擬憲法として知られる。特徴として、人民主義・自由権・抵抗権・革命権・立憲君主制・連邦制・一院制などを定め、議会の権限が強いことが挙げられる。日本国国憲按ともいう。

安藤信正(1819~1871)

坂下門外の変 1862年1月15日、和宮降嫁問題によって恨みを抱いていた尊王攘夷派の水戸浪士の襲撃を受け、負傷したが一命は取り止めている。しかもその直後、包帯姿でイギリスの公使ラザフォード・オールコックと会見している。このとき、オールコックは負傷しながらも幕府の権力者として意地を見せる信正の姿に感嘆したという。

萩原朔太郎(1886~1942)

月に吠える~竹~ 光る地面に竹が生え、青竹が生え、地下には竹の根が生え、根がしだいにほそらみ、根の先より繊毛が生え、かすかにけぶる繊毛が生え、かすかにふるえ。

高浜虚子(1874~1959)

虚子の俳句 金亀子擲つ闇の深さ哉 桐一葉日当たりながら落ちにけり 流れゆく大根の葉の早さ哉 初蝶来何色と問ふ黄と答ふ 山国の蝶を荒しと思はずや 遠山に日の当りたる枯野哉 春風や闘志いだきて丘に立つ

矢内原忠雄(1893~1961)

帝国主義下の台湾 『帝国主義下の台湾』とは、東京帝国大学経済学部教授で、植民政策の講座を担当していた矢内原忠雄が1927年3月23日から4月27日にわたり日本統治時代の台湾を視察し、資料収集を分析した結果をもとに1929年10月10日に岩波書店から刊行した著作である。

河合栄治郎(1891~1944)

ファシズム批判 さらに時代状況が軍国主義の色合いを濃くする中、次第にファシズム批判の立場を強めていった。1936年に二・二六事件が起こると、河合は『帝大新聞』に軍部批判論文「二・二六事件の批判」を寄稿し、軍部批判・抵抗の姿勢を明確にした。ファシズム最盛期において、面と向かってファシズム批判論を展開したことは画期的なことである。満州事変以降、日中戦争、太平洋戦争直前まで時局評論も行った。

ニーノ・マンフレディ(1921~2004)

「ナポリと女と泥棒たち」の挿絵

ヨシフ・スターリン(1878~1953)

スターリン体制 スターリンは、1929年にスターリン政権を樹立し、同年からの第1次五カ年計画、つづく第2次五カ年計画の10年間を通して、社会主義国家の建設を目指して工業化と農業集団化を推し進めた。この間、特に1930年代は政治的な対立者や、独裁体制に批判的な人々を厳しく処罰し、粛清が行われ、スターリンに対する個人崇拝が強まった。1936年制定のスターリン憲法では、ソ連の社会主義の建設は完了したと認定され、ソ連共産党という「党の支配する国家」が完成し、党の指導者スターリン支配が揺るがないものとなった。

石原莞爾(1889~1949)

二・二六事件の鎮圧 1936年の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立った。この時の石原の態度について、昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している。

近衛文麿(1891~1945)

第三次内閣 1941年7月18日に、第3次近衛内閣を組織。外相には、南進論者の海軍大将・豊田貞次郎を任命した。7月23日にすでにドイツに降伏していたフランスのヴィシー政権からインドシナの権益を移管され、それを受けて7月28日に南部仏印進駐を実行し、7月30日にサイゴンへ入城。しかしこれに対するアメリカの対日石油全面輸出禁止等の制裁強化により日本は窮地に立たされることとなった。

幸田露伴(1867~1947)

「五重塔」の挿絵

坪内逍遥(1859~1935)

小説神髄 『小説神髄』は、坪内逍遥の文芸評論。1885年-1886年に松林堂から刊行。上巻において、小説で大切なことはまず人情を描くことで、次に世の中の様子や風俗の描写であると論じ、下巻において具体的な方法を示す。明治に入ってからの日本文学は、江戸の戯作の流れを汲む戯作文学か、西洋の思想・風俗を伝え啓蒙するための政治小説が中心だったが、『小説神髄』は道徳や功利主義的な面を文学から排して客観描写につとめるべきだと述べ、心理的写実主義を主張することで日本の近代文学の誕生に大きく寄与した。

喜多川歌麿(1753~1806)

寛政三美人

東洲斎写楽(生没年不詳)

市川鰕蔵

ハリー・パークス(1828~1885)

駐日英国公使 1869年、岩倉具視などとの会談でフランス・オランダとともに箱館を拠点とした榎本武揚の軍勢を交戦団体と認めず、アメリカ・イタリア・プロイセンと対立した。岩倉と横浜駐留の英仏軍隊撤退問題など外交・内政について話し合った。

河上肇(1879~1946)

貧乏物語 貧乏物語は河上肇の評論である。資本主義による産業化の中で水面下で問題となり第一次世界大戦をきっかけに日本で社会問題化となった。「貧困」の背景と問題点を取り上げたものである。具体的には、「働けど働けどわが暮らし楽にならず、じっと手を見る」という石川啄木が述べた表現を引用しワーキングプアの問題を取り上げるなど、「格差社会」を「貧乏」側から取り上げなぜ貧困者が多く存在しているのか、いかにして貧乏をなくすかを、イギリスの貧困調査の見解など内外の所見や現状を踏まえて考えている。その結論として「貧乏をなくすには金持ちが奢侈をやめることで、富裕層と貧乏人の格差をなくすこと」が貧乏退治の第一策であると述べた。1916年9月1日から同年12月16日まで大阪毎日新聞に連載。社会に大きな衝撃を与え、翌1917年に出版され、ベストセラーとなった。なお、後に、この思想を理論化するために資本論などのマルクス経済学を学んでいき、それをもとに社会改造を世に訴えることとなる。第二次世界大戦後の1947年に岩波書店の岩波文庫から出版。2008年に新日本出版社から出版された。

藤原定家(1162~1241)

新古今和歌集 駒とめて袖打ちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空

フェルナン・メンデス・ピント(1509~1583)

日本 ピントはこの後、中国のミャンポーに到着したが、その地で、ポルトガル人貿易商達に日本の話をすると、商人達は日本との貿易に関心を持ち、ピントはこの商人達と日本へ向かうこととなった。しかし、ピント達はその航海で難破し、レキオ・グランデすなわち大琉球にたどり着いたが、持っていた交易品によって海賊と思われ、処刑されそうになるが、ある身分の高い女性の取りなしで釈放された。