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9月, 2018の投稿を表示しています

ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1399~1464)

ブラック家の祭壇画

エドモンド・レイトン(1853~1922)

騎士号授与

フランソワ・アンリ・ド・モンモランシー(1628~1695)

大同盟戦争 1688年に勃発した大同盟戦争では出番が無かったが、1690年にネーデルラント方面軍を率いていたユミエール公と交代、オランダ軍を率いるヴァルデック侯ゲオルク・フリードリヒが南下してドイツ方面の味方と合流する動きを見せると、強行軍で先回りしてヴァルデックと対峙、フルーリュスの戦いで大勝してドイツ軍との合流を阻止した。翌1691年にイングランド王ウィリアム3世となったウィレム3世がイングランドから大陸に上陸、再びウィリアム3世と対峙した。

カリーム・ハーン(1705~1779)

ザンド朝 イラン系ともクルド系とも言われるザンド部族は、元来イラン高原西部のハマダーン南に拠点を持っていた。しかし、サファヴィー朝崩壊後の混乱の中でアフシャール朝のナーディル・シャーが台頭すると、一時ホラーサーン東部の草原地帯に移された。ナーディル・シャーの死後、かれらはカリーム・ハーンを指導者として元の根拠地に戻って自立、ザンド朝を建てた。カリーム・ハーンは勢力を拡張していく過程で自身の正当性を主張するために最後のサファヴィー朝の君主の孫、イスマーイール3世を名目上のシャーとして擁立し、自らはその代理人として支配を行うようになった。

フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン(1770~1835)

ナポレオン戦争期 父親の名声はただ一つの大手柄によるものだったが、彼の場合はそうではなかった。ケレルマンは、ナポレオン配下のすべての騎兵指揮官の中で最も有名ということではなかったが、おそらくもっとも有能であり、アウステルリッツの戦いでは左翼の軽騎兵師団を率いてさらに名声を高めた。ポルトガルではジュノー指揮下においてヴァメイロの戦いで予備擲弾兵部隊を率い、シントラ協定の交渉では卓越した外交技術を駆使して活躍した。1809年11月28日のアルバトーマスの戦いでは3,000人の騎兵を指揮して華やかな突撃を敢行し、デルパルケ公爵の指揮するスペイン軍を撃破した。ケレルマンは半島戦争への従軍に際しては異なる一面も見せた。彼のスペインでの強欲さは、かつてないほど悪名高いものだった。ナポレオンはケレルマンの説得力のない謝罪に対してこのように答えたという。「将軍、君の名前が私の前に差し出されるときはいつも、マレンゴのことだけ考えるようにしているよ。」

カール9世(1550~1611)

シギスムンド時代 1592年にヨハン3世が死去すると、ポーランド王ジグムント3世となっていたシギスムンドはスウェーデン王位を継承した。しかしシギスムンドは、カトリックであり、また、ポーランドを主軸としていた為、叔父であるカールがスウェーデンの執政となった。しかし、スウェーデンではカトリックに改宗したシギスムンドに反感を強め、反カトリック勢力のリーダーとしてカールが祭り上げられる事になった。そしてカールはスウェーデン国王の代行として事実上のスウェーデン統治者となり、カトリック教会と絶縁を宣言するのである。シギスムンドは一旦はこれを認めたものの、両者の対立は避けられぬものとなり、1598年、シギスムンドはスウェーデンに上陸し、カールの統治権を剥奪した。

マリー・テレーズ・ドートリッシュ(1638~1683)

フランス王妃として マリーはフランス語を上手に話すことができず、スペイン訛りのフランス語は周囲をいらつかせた。ハプスブルク家独特の小さく短い唇はマリーのとぼしい表情をより寂しいものとさせた。マリー・テレーズは政治や文学に興味を持たず、義母アンヌと共に祈り、トランプ遊びをして過ごした。アンヌは同じくスペイン・ハプスブルク家出身の伯母でもあり、スペイン語での会話を楽しむなど良好な関係であったが、アンヌは6年後の1666年に死去した。

玉川兄弟(兄1622~1695、弟不明~1696)

玉川上水 玉川上水は、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水であり、江戸の六上水の一つである。多摩の羽村から四谷までの全長43kmが1653年に築かれた。また、一部区間は、現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されている。

細川忠利(1586~1641)

熊本藩主 1608年、小笠原秀政と登久姫の次女で徳川秀忠の養女の千代姫と縁組し、千代姫は1609年4月24日、豊前国中津城に輿入れした。1619年、長男光利が誕生。1620年に父から家督を譲られて小倉藩主となる。1622年には、1607年に出奔して大坂城に入城し、大坂の陣を大坂方として戦い、戦後浪人となっていた米田是季を帰参させ、のちには家老にした。

北条貞顕(1278~1333)

執権になるまで 1309年1月21日、北条高時の元服式で御剣役を務めた。この役は北条一門の中でも要人が務めることが常であったため、貞顕は北条一門の中で重要な人物と見られていたことがわかる。その後、3月には引付頭人3番に任命されたが、六波羅探題を辞任して鎌倉に帰還して3ヶ月ほどの貞顕が引付3番であることや兄の甘縄顕実より上位にあることは貞顕が北条一門の中でも特別待遇の地位にあったことを物語っている。4月9日には北条熙時と共に寄合衆に任命され、引付・寄合兼務により幕府の中枢を担当する一員になった。

北条義時(1163~1224)

承久の乱 一方、後鳥羽上皇は着々と軍備を拡張し、1221年5月14日、流鏑馬ぞろいと称して諸国の兵を招集すると、院政内の親鎌倉派を粛清して伊賀光季を殺害し、倒幕の兵を挙げた。15日、義時追討の宣旨が全国に発布され、諸国の守護人・地頭たちに、上皇の元に馳せ参じるよう命が出された。京都朝廷・天皇の権威は未だ大きく、幕府にとって容易ならぬ事態であり、義時は生涯最大の難局に直面する事になる。

グスタフ3世(1746~1792)

治世~対外関係~ アメリカ独立戦争では中立したものの、中立貿易を阻害されたために、ロシアが提唱した武装中立同盟に参加した。またアメリカ合衆国とは、中立国で最初に国家の承認を行い、1783年にはアメリカ・スウェーデン友好通商条約も結んだ。しかしスウェーデンは、フランスと同盟上、フランス軍の兵士としてスウェーデン軍将校も独立戦争に義勇軍として戦っている。しかしグスタフ3世自身は、専制君主的な考えから当初はイギリスを支持していたため、義勇軍はイギリス側にも加わっていた。

グスタフ4世アドルフ(1778~1837)

ナポレオン戦争 1803年までは中立的な立場であったスウェーデンだが、1804年にフランスで起きたアンギャン公処刑事件を契機に、急速に反ナポレオンに傾いていく。この王族殺しは、欧州諸国に衝撃を与えたが、スウェーデンでもそれは同じことであった。ナポレオンを世界が揺り起こしたアンチキリスト、暴君と見ていたグスタフ4世は「ナポレオンとは和解せぬことを誓った」と声明し、ナポレオンとの対決姿勢を示したのである。グスタフ4世は直ちに対仏大同盟に参加し、軍を編成して折から始っていたナポレオン戦争に参戦する。しかし、第三次対仏大同盟、第四次対仏大同盟は、いずれもナポレオンの率いるフランス軍の前に屈した。

ジャン=ジャック・デサリーヌ(1758~1806)

皇帝 1803年の11月30日からサン=ドマング総督の座に就いていたデサリーヌは、1804年1月1日ゴナイーヴで公式に植民地の独立を宣言し、国名をハイチに改め、終身総督となった。1804年9月22日デサリーヌはハイチ帝国皇帝となり、10月6日にカパイシャンでジャック1世として戴冠式を行った。1805年5月20日帝国憲法が公布され、ジャック1世を後継者指名権付きの終身皇帝に指名した。

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(1770~1840)

ナポレオン戦争~ドイツ諸邦の制圧~ 11月21日、ナポレオンはベルリンにおいて大陸封鎖令を発布する。これは工業化が進んでいたイギリスとヨーロッパ大陸諸国との貿易を禁止して、イギリスを経済的孤立に追い込むことが狙いであった。だが、逆に交易相手を喪失した大陸諸国の方が疲弊するという結果になる。フランス軍はプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世を追跡して東プロイセンへと向かい、プロイセンの救援に来たロシア軍とアイラウの戦いに突入したが、吹雪の中の戦いは両軍ともおびただしい死傷者を出し、決着はつかなかった。その後フランス軍は体勢を立てなおし、フリートラントの戦いでロシア軍を捕捉し撃滅した。

中村八大(1931~1992)

明日があるさ いつもの駅でいつも逢うセーラー服のお下げ髪もう来る頃もう来る頃今日も待ちぼうけ明日がある明日がある明日があるさぬれてもあの娘こうもりへさそって上げようと待っている声かけよう声かけようだまって見てるボク明日がある明日がある明日があるさ今日こそはと待ちうけてうしろ姿をつけて行くあの角まであの角まで今日はもうやめた明日がある明日がある明日があるさ思いきってダイヤルをふるえる指でまわしたよベルが鳴るよベルが鳴るよ出るまで待てぬボク明日がある明日がある明日があるさ初めて行った喫茶店たった一言「好きです」とここまで出てここまで出てとうとう言えぬボク明日がある明日がある明日があるさ明日があるさ明日がある若いボクには夢があるいつかきっといつかきっとわかってくれるだろう明日がある明日がある明日があるさ

永六輔(1933~2016)

上を向いて歩こう 上を向いて歩こう涙がこぼれないように思い出す春の日一人ぽっちの夜上を向いて歩こうにじんだ星をかぞえて思い出す夏の日一人ぽっちの夜幸せは雲の上に幸せは空の上に上を向いて歩こう涙がこぼれないように泣きながら歩く一人ぽっちの夜思い出す秋の日一人ぽっちの夜悲しみは星のかげに悲しみは月のかげに上を向いて歩こう涙がこぼれないように泣きながら歩く一人ぽっちの夜一人ぽっちの夜

三木露風(1889~1964)

かっこう かつこうかつこうかつこうどこでなくのかわからないしづかなしづかなそのこゑよあかるい夏のまつぴるまかつこうかつこうかつこう山の林の山祇がひとりうかれてあそぶのか鞨鼓をならす山の昼かつこうかつこうかつこう青い木の葉のきものきてかたくにぎつた樫の杖谷のながれがめぐりますかつこうかつこうかつこう樺の林のそのこゑが八つの峰にひびくとき七つの瀬でもこたへます

本居長世(1885~1945)

赤い靴 赤い靴履いてた女の子異人さんに連れられて行っちゃった横浜の埠頭から汽船に乗って異人さんに連れられて行っちゃった今では青い目になっちゃって異人さんのお国にいるんだろう赤い靴見るたび考える異人さんに逢う度考える

アミルカレ・ポンキエッリ(1834~1886)

ラ・ジョコンダ~第1幕ライオンの口~ 多くの人々が祭りを祝う合唱で幕が開く。宗教裁判所のスパイで、流しの歌手に変装したバルナバが一人柱にもたれたまま、人々の騒ぎや冷ややかに見つめている。人々がゴンドラの競争を見物に行くと、歌手ジョコンダが盲目の母チエカを引いて現れる。エンツォに会うために母を待たせて行こうとするジョコンダの前にバルナバが立ちはだかり、執拗に彼女にまとわりつく。しかしジョコンダは相手にせず、そのまま振り切って逃げて行くのだった。逃げられてしまったバルナバは母チエカを見て「彼女は俺のもの」と呟いて利用せんと企む。

ジョージ・ガーシュウィン(1898~1937)

ラプソディ・イン・ブルー この曲が作られることになった発端は、1924年1月3日、他の仕事で多忙だったガーシュウィンが兄のアイラとビリヤード場に息抜きに行った際、新聞で「ホワイトマンがガーシュウィンに曲を発注した」という記事を見つけたことだった。翌日、抗議のためガーシュウィンはホワイトマンに電話をかけるも、実はこの記事はホワイトマンがガーシュウィンを呼びつけるために作った偽記事だったらしく、「新聞記事になってしまったから作ってくれ」とホワイトマンに押し切られた。

ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906~1975)

ピアノ協奏曲第2番 2曲あるピアノ協奏曲は、ヴァイオリン協奏曲やチェロ協奏曲とは異なり、軽くくつろいだ内容の作品である。第2番は1957年、当時モスクワ音楽院在学中だった息子のマクシム・ショスタコーヴィチのために書かれ、彼に献呈された。初演は同年5月10日、マクシムのピアノ、ニコライ・アノーソフ指揮モスクワ・フィルによって行なわれたが、作曲者自身もしばしば演奏した。第3楽章に有名なハノン練習曲が借用されたほか、全曲の随所に既存曲のパロディを思わせる節を持つ。

ポール・デュカス(1865~1935)

魔法使いの弟子~ファンタジア~ ただしこのディズニー映画の音楽監督の1人は、ストコフスキーであり、この音源に使用されている演奏も、ストコフスキー編曲といっても差し支えないほど彼の手によって楽曲編成やオーケストレーションに変更が加えられている。したがってこの映画で聴けるのは、原曲そのものではないということに注意しなければならない。

ジュール・マスネ(1842~1912)

ウェルテルの登場人物 ウェルテル、アルベール、大法官、シャルロット、ソフィー、シュミット、ヨハン、ブリュールマン、ケートヒェン、6人の子供たち

為永春水(1790~1844)

春色梅児誉美 鎌倉に託した江戸の町を背景に、悪巧みによって隠棲生活を強いられている唐琴屋の美青年丹次郎を慕う芸者・米八、仇吉の2人と、許婚のお長との交渉を描いている。続編に『春色辰巳園』などがあり、この作品からはじめて5部作を構成している。この作品で、春水は戯作者としての名を高めた。

黄蓋(145~222)

三国志演義 開戦後、曹操の大軍を前に衆寡敵せずと見た黄蓋は、周瑜に火攻めを提案し、その実現のための奇策を実行する。まず、偽りの投降を曹操に信用させるため、降将である蔡和・蔡仲を含む諸将の前で周瑜との不和を演じ、また周瑜から棒叩きの刑を受けている。次に、黄蓋の計画を見抜きこれに同心することを申し出た闞沢を使者とし、曹操に対し偽りの書簡を送り、先鋒となる自分が時期を計って裏切る旨を伝えさせている。その際に孫軍に潜んでいた間者が、曹操にこれを報告したため、曹操は黄蓋の投降が偽りではなく、周瑜に対する不満によるものと信じることになる。自らを傷つけることで敵を偽って信用させ、起死回生の策を行なったこの黄蓋の行為が、苦肉の策の語源となった。

河合隼雄(1928~2007)

ユング心理学との出会い 河合が心理療法家、なかでもユング派に属したことは、幼いころから感じていた自分自身の恐怖に導かれてのことであったといってもいいほどで、それは意図的になされたものではなく、多くの偶然の重なりの中で、何者かによってアレンジされたかと思うほどの流れでユング派の分析家となった、と著書『対話する生と死』の中で語り、さらにユング派とサークルでは他派に比べ、死について語られることが多いと述べている。

林京子(1930~2017)

祭りの場・ギヤマン ビードロ 8月9日の被爆体験を扱った「祭りの場」は原民喜同様に壮絶な作品であるが、むしろ戦後30年を生き続けた原爆症文学の「ギヤマン ビードロ」連作が印象深い。被爆者と非被爆者の心の溝、あるいは被爆者間の溝、いつ死ぬかわからない不安、被爆二世に向ける思い。被爆者に共感/同情することは重要だが、安易な共感/無理解は許されないような複雑な思いが繰り返される。この身体的にも心情的にもリアルで繊細な筆致は被爆後を長く生きた女性にしか描きえない文学と感じた。

水原秋桜子(1892~1981)

秋桜子の俳句 来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり 葛飾や桃の籬も水田べり 梨咲くと葛飾の野はとの曇り 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 ふるさとの沼のにほひや蛇苺 冬菊のまとふはおのがひかりのみ 滝落ちて群青世界とどろけり

飯田蛇笏(1885~1962)

蛇笏の俳句 信心の母にしたがふ盆会かな くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 夏雲群るこの峡中に死ぬるかな 竹の実に寺山あさき日ざしかな ほそぼそと月に上げたる橇の鞭 秋灯にねむり覚むるや句三昧 大江戸の街は錦や草枯るる 桑の実に顔染む女童にくからず 山寺の扉に雲遊ぶ彼岸かな ふるさとの雪に我ある大炉かな 冬川に出て何を見る人の妻 ぬぎすてし人の温みや花衣 夜は青し神話に春の炉火もゆる 三伏の穢に鳴く荒鵜かな 父祖の地に闇のしづまる大晦日 就中学窓の灯や露の中 春蘭の花とりすつる雲の中 いち早く日暮るる蝉の鳴きにけり 芋の露連山影を正しうす 春めきてものの果てなる空の色 をりとりてはらりとおもきすすきかな 降る雪や玉のごとくにランプ拭く

浅井久政(1526~1573)

六角氏への従属の再評価 浅井・朝倉同盟は久政の父・亮政の代に存在した。亮政は、かつての主家である北近江守護・京極氏の本家筋である南近江守護・六角氏と対立していた際に、朝倉氏との同盟を築き上げた。当時の六角氏は名君・六角定頼を筆頭に日の出の勢いであり、亮政は美濃国や越前国へ幾度も逃亡するなどその優劣の差はその才をもってしても補うことはできなかった。一方、当時の朝倉氏も全盛期であった。その朝倉氏にしても、隣接する加賀や領内の一向一揆問題を抱えており、大勢力である六角氏との直接対立は望むことではない。緩衝地帯として、北近江を手中に収める浅井氏との同盟は理に適ったものあった。両者の利が一致して、朝倉・浅井同盟は築かれたのであろう。ただし、これが同盟であったか否かについては異議がある。

アルギルダス(1296~1377)

リトアニアの拡大 アルギルダスは単に己の力で成功したのではなく、モスクワやジョチ・ウルスの拡張の中で影響や領土を得て、リトアニア大公国の国境を黒海北岸まで広げた。アルギルダスの主な試みはキーエフ・ルーシ以来のスラヴ人の地の安全を目指したことである。息子のアンドリュスをプスコフ公とすることに成功し、またノヴゴロド共和国の市民の中の権力を握る少数派は、モスクワの影響力に対抗するためアルギルダスを支持して勢力バランスを取ろうとしていた。しかし通商の中心である両都市におけるアルギルダスの優先は不確かである。

キュリロス(827~869)

キュリロス兄弟のスラブ人への布教~モラヴィア王国での布教~ モラヴィア王国では国王ラスチスラフから歓迎され、著述や翻訳を行い、弟子を養成し、教会組織の基礎固めをして867年に任務を終えてコンスタンティノープルに戻ることとなったが、二人の運命は一転する。本国で政変が起こり皇帝が暗殺されたのである。政争に巻き込まれることを避けた二人はローマに向かい、教皇ハドリアヌス2世に、スラヴ人に対し、スラヴ語で布教し、スラヴ語を典礼に用いることの許可を受けた。コンスタンティノスはローマでの修道士になり、キュリロスの名を名乗ったが、間もなくその地で病没した。

バサラブ1世(不明~1352)

ポサダの戦い バサラブはハンガリーと敵対していたブルガリア皇帝ミハイル3世シシュマンの甥イヴァン・アレクサンダルの元に娘を嫁がせた。1329年3月27日の文書では、ハンガリー王国を取り巻く敵国として、ブルガリア、セルビア、キプチャク・ハン国とともにバサラブの名前が挙げられていた。

春道列樹(不明~920)

古今和歌集~小倉百人一首~ 山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり

池西言水(1650~1722)

言水の俳句 凩の果はありけり海の音 菜の花や淀も桂も忘れ水 高根より礫うち見ん夏の湖

村上鬼城(1865~1938)

鬼城の俳句 小春日や石を噛み居る赤蜻蛉 冬蜂の死にどころなく歩きけり 水すまし水に跳て水鉄の如し 闘鶏の眼つぶれて飼われけり 鷹のつらきびしく老いて哀れなり 生きかはり死にかはりして打つ田かな ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな 蛤に雀の斑あり哀れかな

堀田正俊(1634~1684)

暗殺陰謀説 正俊が暗殺される直前に綱吉は生類憐みの令を布くことを表明しており、正俊はこれに反対していた。また、正俊には綱吉を将軍に就任させた功績があり、大きな発言力を持っていたと推測される。そのため両者の間に溝が生まれたことから、「綱吉による陰謀説」がある。またこの事件以降、綱吉は奥御殿で政務を執るようになり、老中との距離が生じた。そのため、両者を連絡する柳沢吉保・牧野成貞ら側用人が力を持つこととなった。

服部嵐雪(1654~1707)

嵐雪の俳句 梅一輪一輪ほどの暖かさ 一葉散る咄ひとはちる風の上 元日や漸々うごく紙鳶 竹の子や兒の歯ぐきのうつくしき 行灯を月の夜にせんほととぎす 七夕や賀茂川わたる牛車 木がらしに梢の柿の名残かな 花に風かろくきてふけ酒の泡

大田原晴清(1567~1631)

江戸時代 1614年9月に安房国の里見忠義が改易された際には一族と共に館山城の接収を行い、同城の守衛として暫く入った。また同年冬からの大坂冬の陣では徳川方として本多正信に属して参陣し、翌年の大坂夏の陣でも本多正信に属して戦い敵の首を70個挙げた。

立原道造(1914~1939)

草に寝て…… それは花にへりどられた高原の林のなかの草地であった小鳥らのたのしい唄をくりかへす美しい声がまどろんだ耳のそばにきこえてゐた私たちは山のあちらに青く光つてゐる空を淡くながれてゆく雲をながめてゐた言葉すくなく――しあはせはどこにある?山のあちらのあの青い空にそしてその下のちひさな見知らない村に私たちの心はあたたかだつた山は優しく陽にてらされてゐた希望と夢と小鳥と花と私たちの友だちだつた

加藤千蔭(1735~1808)

千蔭流 和様の書の流派として明治期に人気があった。当時、貴族や上流階級の令嬢たちの和歌の師匠として人気のあった中島歌子が千蔭流の書を嗜んだことから、その門下生の樋口一葉も千蔭流の書を学んだ。

重森三玲(1896~1975)

東福寺方丈庭園

成田為三(1893~1945)

浜辺の歌 明日浜辺を彷徨えば昔の事ぞ偲ばるる風の音よ雲の様よ昨夜浜辺をも通れば昔の人ぞ偲ばるる寄する波よ返す波よ月の色も星の影も疾風忽ち波を吹き赤裳の裾ぞ濡れ漬づし病みし我は既に癒えて波辺の真砂真子今は

桜田一郎(1904~1986)

ビニロンの発明 京都帝国大学の桜田一郎および共同研究者の李升基、大日本紡績の川上博らによって1939年に初めて合成された。ナイロンに2年遅れで続き世界で2番目に作られた合成繊維であり、日本初の合成繊維である。当初は「合成一号」や「カネビアン」と呼ばれていたが、1948年に「ビニロン」と改称された。工業化の研究は戦争のため遅れ、桜田と友成九十九、川上らの研究によって倉敷レイヨン、大日本紡績で工業生産が開始されたのは1950年のことであった。

ロジェ・マルタン・デュ・ガール(1881~1958)

チボー家の人々 物語はカトリックの富裕な実業家の家であるチボー家の子息アントワーヌおよびジャック、それにジャックの友人でプロテスタントの家庭の息子であるダニエルの3人の少年が中心となり、彼らの青春を通じて第一次世界大戦期10年間のヨーロッパにおけるブルジョワ社会や思想状況が描かれていく。厳格な気風のチボー家で育った真面目なアントワーヌは医師となり堅実な道を歩むが、反抗児のジャックは感化院に入れられるなどした後、作家となり、やがて革命運動に身を投じる。一方自由な気風の家庭に育ったダニエルは享楽家として描かれ、その妹ジェンニーはジャックと恋仲になる。しかしやがて第一次世界大戦が到来し、ジャックはビラ撒きの飛行機が墜落して重傷を負ったのち殺され、アントワーヌは毒ガスによって虫の息となり、ダニエルも戦場で負傷し障害を負う。彼らの希望はジャックとジェンニーの間に生まれた子供に託される。

ジェフリー・アマースト(1717~1797)

ポンティアック戦争 1763年5月、イギリス軍のジェフリー・アマーストが押し付けてきた民族浄化政策に対して、行く末に危惧を抱いたインディアンたちがイギリス軍の多くの砦や入植地を襲ったことから「ポンティアック戦争」は始まった。白人の8つの砦が破壊され、数百の入植者が殺されるか捕虜にされ、他にも多くの者がこの地域から逃げ出した。

ジョン・バーゴイン(1722~1792)

アメリカ独立戦争初期 陸軍では少将にまで昇進していた。アメリカ独立戦争が始まると、その指揮官を命じられ、レキシントン・コンコードの戦いで戦いの火蓋が切られた数週間後にあたる1775年5月にボストンに到着した。ボストン包囲戦の間は守備隊の一部に参加したが、ウィリアム・ハウとヘンリー・クリントンが指揮したバンカーヒルの戦いには参加しなかった。功名を上げる機会が無いことに憤懣を募らせたバーゴインは、1776年3月にボストンの守備隊が市を明け渡す以前にイングランドに戻った。

コズメ・トゥーラ(1430~1495)

8月の寓意 セレスの勝利

フィリッポ・リッピ(1406~1469)

東方三博士の礼拝