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益田元祥(1558~1640)

藩政改革 周防・長門の2ヶ国に減封され、財政が極度に悪化した毛利氏は1607年に検地を行ったが、内容は収入の73%を徴収するという高税をかけているため、1608年に山代慶長一揆が発生、重税に苦しむ農民の逃亡と畑の荒廃をもたらした。元祥・秀元らは1625年に検地を再実施、税率を50%に引き下げて農民の負担軽減を図った。収入は1607年の頃より減少したが、この検地で打ち出した石高が長州藩の基盤となった。同時に家臣団の大幅な所領改替も行われ、藩主家の直轄領が収入高の土地を中心に増加、藩主の権力伸長にも繋がった。

ハドリアヌス1世(700~795)

カール大帝とハドリアヌス 773年、ハドリアヌス1世はフランク王国の王カール1世に援軍を要請した。当時のローマは、北イタリアのランゴバルド王国に脅かされていた。カールはただちにアルプス山脈を越えてイタリアに攻め込み、翌774年にはランゴバルドの首都パヴィアを占領した。そして、デシデリウス王を捕虜としてその旧領を握り、みずからランゴバルド王を兼ねると、父王小ピピンにならって中部イタリアの地の教皇ハドリアヌスに寄進した。

フランソワ・アシル・バゼーヌ(1811~1888)

クリミア戦争および第二次イタリア独立戦争 クリミア戦争中の1854年10月28日、旅団長に任じられたバゼーヌは、フランス東方派遣軍において2つの連隊を率いることとなった。1855年9月8日の連合軍のセヴァストポリ要塞への最終攻勢に際しては連合軍の最高司令官に推され少将に昇格、9月22日には連合軍の将のうちから占領したセヴァストポリの軍政司令官に任命されている。こうしてバゼーヌは44歳にしてフランス軍中最年少の将官となった。10月、セヴァストポリ北部に残るロシア軍にとどめの一撃を加えるため、フランスおよびイギリス混成軍を率いてドニエプル河口のキンブルン半島への奇襲上陸を果たしており、この働きは「現在、ドニエプル河口で行動しているフランス軍の一部を指揮するバゼーヌ将軍は、現代における最も華麗な軍事的達成者の一人として栄光に浴することになるだろう」と紙上で評された。この間戦傷により感状をうけ、またキンブルン半島を3日間占領した功によりレジオンドヌール勲章コマンドゥールを拝綬している。1856年1月25日、セヴァストポリ要塞内においてイギリスの初代ゴフ子爵よりクリミア戦争の功績に対してバス勲章を拝綬した。

オルジェイトゥ(1280~1316)

オルジェイトゥの施政 オルジェイトゥは基本的に兄ガザンの政策をそのまま引き継いだ。すなわち政務ではガザンの下したヤサを規範とし、あわせてイスラームの戒律を遵守するように命じた。またモンゴル軍民の管轄は大アミールのクトルグ・シャーとスルドス部族の当主チョパンらに任せた。財政は引き続きラシードゥッディーン、サアドゥッディーン・サーヴェジーらを宰相として留任させ、またガザン時代に施行されたワクフ関連の事業や税制も追認された。またマラーガ天文台の長官にナスィールッディーン・トゥースィーの息子アスィールッディーンを着任された。

ユーリー・ドルゴルーキー(1099~1157)

キエフへの野心 ユーリーは北東ルーシの有力諸侯であることに甘んじず、キエフ大公の座を狙っていた。しばしば南西ルーシのキエフに攻め入り、その政争に関与したことから、「手長公」ドルゴルーキーの名が付いた。1132年、ユーリーの最年長の兄でキエフ大公のムスチスラフ1世が亡くなると、「ルーシの国は分裂した」と年代記は伝える。ユーリーはただちにチェルニゴフの諸公に宣戦し、ノヴゴロドで自分の息子に戴冠し、南のペレヤスラフを占領した。のちにノヴゴロドの住民がユーリーより離間すると、彼はノヴゴロドの主要な要塞都市トルジョークを占領してこれに報いた。

アルグン(1258~1291)

継承争い しかし、テグデル推戴後もアルグンは弟のゲイハトゥや従兄弟のバイドゥらとともにたびたび反乱を起こし、一度ならずテグデル側に捕縛されたが、ついには逆にテグデルを捕らえた。この争乱の最中にアルグンを擁護していた叔父のコンクルタイをテグデルが処刑し、これを恨んだ生母アジャジュ・エゲチらコンクルタイ家の人々が復讐としてテグデルを処刑するよう迫り、結局テグデルは1284年8月10日に処刑された。

フランシス・プレストン・ブレア・ジュニア(1821~1875)

南北戦争 1860年12月のサウスカロライナ州の脱退直後、ブレアは南部の指導者が中立のミズーリ州を脱退に巻き込もうと計画していることを憂慮し、それを防ぐために活発な努力を開始した。ブレアは私兵組織「ワイド・アウェイクス」から1000名の精鋭を秘密部隊として緊急事態に備えた。戦闘が不可避になった時、ナサニエル・ライアンと協力してセントルイスの連邦兵器庫に貯蔵してあった武器弾薬をイリノイ州オールトンに移した。その数日後、同兵器庫を占拠しようとセントルイス郊外に展開した州防衛軍を、ブレア率いる部隊が包囲してこれを捕虜とした。これが南北戦争初期において連邦側にミズーリにおける優勢をもたらした。しかしその後のセントルイスの虐殺は、同州の脱退派の憎悪を燃え上がらせた。

エルンスト・アウグスト(1771~1851)

ゲッティンゲン七教授事件 ハノーファー王国では1833年、イギリスの影響を受けた新憲法が定められ、自由主義的な政治が行なわれていた。しかし、新たにハノーファーのみの王となったエルンスト・アウグストは、即位早々に新憲法の破棄を宣言し、反動的な政策を行なった。そして、これに異議を唱えたグリム兄弟をはじめとするゲッティンゲン大学の教授7人が追放あるいは免職になるという事件が起こった。

マーガレット・ボーフォート(1443~1509)

度重なる政略結婚 ところが同年から薔薇戦争が始まり、第一次セント・オールバンズの戦いでヘンリー6世の側近だった叔父のサマセット公エドムンド・ボーフォートがヨーク派に殺され、ヘンリー6世もヨーク派に捕らえられランカスター派とボーフォート家は存亡の危機を迎えた。その余波でエドマンドもヨーク派に捕らえられ1456年11月1日に獄死した時、マーガレットは妊娠しており、翌1457年に息子ヘンリーが生まれた。マーガレットは1459年にヘンリー・スタッフォード卿と3度目の結婚をして、ヘンリーは1461年にリッチモンド伯に叙されたが、同年にヨーク派の捕虜となりウィリアム・ハーバートの保護下に置かれた。

李商隠(812~858)

無題 昨夜の星辰昨夜の風画楼の西畔桂堂の東身に綵鳳双飛の翼無きも心に霊犀一点の通う有り座を隔てて送鉤すれば春酒暖かく曹を分けて射覆すれば蝋燈紅なり嗟あ余が鼓を聴き官に応じて去り馬を蘭台に走らせて転蓬に類るを

ピエール・デュポン(1765~1840)

ナポレオン戦争 ドナウ川上流のウルムにいるカール・マックのオーストリア軍がフランス軍がシュヴァルツヴァルトに到着する前にドナウヴェルトへ撤退したウィーンに駐屯するミハイル・クトゥーゾフのロシア軍と合流するのを防ぐためナポレオンはイラー川での戦闘を決心、デュポンはドナウ川の左岸を制圧するよう命じられた。彼の部隊は3個歩兵連隊、2個騎兵連隊、数門の大砲しか持たない6,000人でありウルムのマックが60,000人の全軍で押し寄せた場合、危険となる任務であった。10月11日に行われたフェルディナンド大公の率いる25,000人とのアルベックの戦いでは彼は激戦の末、4,000人の捕虜を確保する活躍を見せてオーストリア軍がウルムからボヘミアへ撤退することを阻止した。10月13日にナポレオンがウルムに到着するとドナウ左岸にいるデュポンの軍が孤立していることを知り、ネイにデュポンとの連携を取るように命令、10月14日にエルヒンゲンの戦いで彼らは勝利しウルムの包囲網が完成した。ウルムの戦いの後、彼の部隊はオーギュスト・マルモンの軍団と共に進軍し、その後エドゥアール・モルティエの指揮下に入った。11月11日には数で大幅に勝る相手とのデュルンシュタインの戦いで部隊は大打撃を受けたが善戦した。この時の大損害を受けたため彼はアウステルリッツの戦いには参加しなかった。

ムスタファ4世(1779~1808)

即位と廃位 しかし、セリム3世の退位によってイスタンブールから退避したセリム3世派の人々は、ブルガリア北部のルーセを支配するアーヤーン・アレムダル・ムスタファ・パシャをを頼っていた。彼らの要請を受け入れやアレムダルはセリム3世の復位を掲げて挙兵し、翌1808年7月にイスタンブールに迫った。

ナボニドゥス(不明~前539)

治世~宗教的信条~ ナボニドゥスが個人的には、月神シンの方を好んで崇拝していたのは明らかだが、月神シンへの傾倒の度合いについては学者の間でも意見が分かれる。彼の碑文から、彼がほぼ唯一、月神シンに対する信仰へ傾斜したのは明らかだという主張がある一方で、彼が他の神々や宗教にも敬意を払ったことから、ナボニドゥスが他のバビロニアの支配者と同様だったという意見もある。彼のネガティブなイメージは、ナボニドゥスがテイマに滞在して長期にわたりバビロンを不在にし、マルドゥク神に係る重要な新年祭を催すことができなかったことや、彼が月神シンを重要視したことに憤慨したマルドゥク神の祭司団によるところが大きい。だがいずれにせよ、彼の治世において、市民の動揺・混乱を示す証拠は見あたらない。マルドゥク祭司団とキュロスの両方によるプロパガンダの一つとして、ナボニドゥスがメソポタミア南部の最も重要な神像を取り上げ、バビロンに人質としてかき集めたという話がある。これはおそらく正しい。実に多くの碑文は、これらの神像がペルシア帝国軍の進軍の直前にバビロンに運び込まれたことを示している。

マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス(前95~前46)

三頭政治体制との対決 紀元前61年、シリア・パレスチナ等をローマの属州としたグナエウス・ポンペイウスは、凱旋式をローマで行う為に、執政官の選挙を凱旋式終了まで延期するように元老院へ依頼した。元老院の一部に認める動きがあったものの、カトはこれに反対して、ポンペイウスの提案は認められなかった。ポンペイウスは関係作りのために自身より遥かに若輩であったカトの娘を自らの妻へ迎えたいと申し込んだが、カトはこれに一切取り合わなかった為、ポンペイウスは人気を落とした。これらの仕打ちによってポンペイウスは元老院への不満を持つこととなった。

沈徳潜(1673~1769)

古詩源 「古詩源」は清代の学者沈徳潜の著した中国古代の詩歌拾遺集である。帝王の時代から隋の時代に至る古詩976篇を集めている。古詩を集めたものとしては、すでに古くから「文選」や「玉台新詠」などがあり、そのほかにも楽府歌辞を集めたものなどがあったが、沈徳潜は自分なりの考えに基づいてコンパクトな詩集を作ったのである。

藤原敏行(不明~907)

古今和歌集 すみの江の岸による浪よるさへや夢のかよひぢ人目よくらむ 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 白露の色はひとつをいかにして秋の木の葉をちぢに染むらん

野沢凡兆(1640~1714)

猿蓑 市中は物のにほひや夏の月 灰汁桶の雫やみけりきりぎりす 鶯や下駄の歯につく小田の土 呼かへす鮒売みえぬあられ哉 竹の子の力を誰にたとふべき ながながと川一筋や雪の原 百舌鳥なくや入日さし込む女松原 初潮や鳴門の浪の飛脚舟 上行と下くる雲や秋の天 灰捨てて白梅うるむ垣ねかな 時雨るるや黒木積む屋の窓明り 花散るや伽藍の枢落とし行く 禅寺の松の落葉や神無月

ライナー・マリア・リルケ(1875~1926)

マルテの手記 主人公マルテのモデルとなっているのは、実際にパリで生活し、無名のまま若くして死んだノルウェーの詩人シグビョルン・オプストフェルダーである。もっともリルケは、この人物についてそれほどくわしくは知らないとも語っており、1902年から1910年の間、妻子と離れてパリで生活していたリルケの生活や心情が、彼のプロフィールに重ね合わされる形で書かれている。

レオン・ブルム(1872~1950)

人民戦線内閣 ブルムの人民戦線内閣が抱えた課題は多岐にわたった。国内的には何よりも世界恐慌後の不況からの脱出が望まれており、一方で労働者の権利を擁護しつつ右派勢力を牽制する必要があった。対外的には、再軍備宣言においてラインラント進駐、軍事大国化を進めるドイツと、アサーニャ率いる人民戦線政府とフランシスコ・フランコ将軍率いる反乱軍との間で内戦となっていたスペインに対し、適切な外交政策をとらなくてはならなかった。だが、これらの課題を短期間で解決するのは困難であった。

フィレタイロス(前343~前263)

アッタロス朝 アッタロス朝の歴史は、パフラゴニア人であるフィレタイロスがペルガモンの管理をリュシマコスによって任されたときに始まる。セレウコス1世のアジア侵入時に、フィレタイロスはリュシマコスを裏切り、リュシマコスが破れると、セレウコス朝の主権の下でペルガモンを統治した。その後、アンティオコス1世がセレウコス朝の王位につくと、フィレタイロスはセレウコス朝と同盟を結ぶとともに、他の国家や都市との関係を深めた。

岸田国士(1890~1954)

チロルの古城にて ベルサイユの講和条約に、国境劃定委員会が出来て、その一分科である墺伊両国間の国境劃定に日本からも委員を出すこととなつて服部兵次郎少将が任命され、私は通訳として随行した。少々古い話だが――。墺伊の国境にはチロルといふローマ時代の伝統をそのまま保存してゐる歴史的の小国がある。ここは谷あひの、景勝の地を占め、いかにも平和な気の靉靆たる所で、欧洲人の避暑地、避寒地となつてゐる。私が此の国を訪れた時は戦後のためあまり入りこんでゐる人もなく、静かな旅行を続けることが出来た。

岩野泡鳴(1873~1920)

耽溺 僕は一夏を国府津の海岸に送ることになった。友人の紹介で、ある寺の一室を借りるつもりであったのが、たずねて行って見ると、いろいろ取り込みのことがあって、この夏は客の世話が出来ないと言うので、またその住持の紹介を得て、素人の家に置いてもらうことになった。少し込み入った脚本を書きたいので、やかましい宿屋などを避けたのである。隣りが料理屋で芸者も一人かかえてあるので、時々客などがあがっている時は、随分そうぞうしかった。しかし僕は三味線の浮き浮きした音色を嫌いでないがら、かえって面白いところだと気に入った。

エンヴェル・パシャ(1881~1922)

三頭政治のはじまり 1913年1月23日、エンヴェルは青年トルコ人革命以来の盟友メフメト・タラート・パシャ、アフメト・ジェマル・パシャらとともにクーデターを起こした。エンヴェル自身が小部隊を率いて大宰相府を襲撃し、陸軍大臣ナズィム・パシャを射殺し、キャーミル・パシャを辞任させ、マフムート・シェヴケト・パシャを新たな大宰相として擁立した。その後再びバルカン同盟との戦端が開かれたが状況挽回はならず、バルカン半島側の要衝エディルネが陥落した。結局オスマン政府は4月1日に再度の和平を締結した。

ジョン・ロー(1671~1729)

経済思想 ジョン・ローの貨幣理論は、先古典派経済学の時代の重商主義が全盛を迎えたフランス経済にパラドックスともいえる理論を提示した。王立銀行券の問題は、確かに全国土の貨幣制度を紙幣にする試みでもあり、ある種、夢想家と思われても仕方がない。18世紀に入り、彼は独自の先駆的な貨幣理論を持ち歩いたが、いずれにしても失敗に終わっている。もっとも、ローの持つ貨幣理論には現実的な側面があった。それは兌換貨幣がもつ貨幣価値の保存において、貨幣鋳造に関連する不確実性によって多大な損失を被る可能性がある。このときリスクにバランスを保つということを考えた。

ルイ・フィリップ2世(1747~1793)

平等のフィリップ 政敵ラファイエットに敗れて一時イギリス使節となったが、1790年7月に帰国した。憲法制定国民議会ではミラボーと結んだが、1792年、8月10日事件で王権がなくなり、共和制が宣言されると、元次期国王候補者の彼はうさんくさい目で見られ、それを打ち消そうと国民公会でも最左翼に位置したり、貴族称号を廃止し「平等のフィリップ」と自称したりした。1793年1月18日、ルイ16世の処刑にも賛成票を投じた。

柳家金語楼(1901~1972)

喜劇俳優としての芸歴および戦後の活動 1945年知人の軍人の所属であった市ヶ谷の航空本部を訪れ空軍所属になり中佐に昇進。飛行場建設特設隊の任務に就く。肩書だけで主に活動は慰問隊であった。8月の終戦を和歌山の高射砲隊の慰問中に山の農家の小屋のラジオ放送で知る。あまりにもショックでその場に立ち尽くした。すぐに大阪に戻って給料替わりで配給の毛布などを受け取り家族の住む疎開先の山形に行き過ごす。しばらくして映画などの活動を再開。

クラウディオ・モンテヴェルディ(1567~1643)

ポッペーアの戴冠~第1幕~ オットーネが戦地から家に帰ってくると、皇帝ネローネの兵がいる。そこで妻の浮気に気付く。一方、オッターヴィアも夫の浮気に悩まされている。セネカは彼女を慰め、皇帝には浮気をやめるようにと忠告する。ネローネは離婚して、ポッペーアを皇后にするとポッペーアに告げる。ポッペーアは喜んで邪魔なセネカを消すためにある事ない事をネローネに言う。

ジョアシャン・デュ・ベレー(1522~1560) 

フランス語の擁護と顕揚 デュ・ベレーはこの中で、「今は亡き我らが善王にして慈父」フランソワ1世へ謝意を捧げている。コレージュ・ド・フランスの創設や、納本制度を伴うフランス国立図書館の基盤整備といった、当時の文学、芸術上でのフランソワ1世の功績を踏まえてのことである。デュ・ベレーは「粗野で通俗的な」フランス語を、優雅にして荘厳な言語にすることを望んだ。彼にとっては、プレイヤード派の同志たちと共に、レフェランスおよび教育の用語を生み出すために、フランス語を豊かにする必要があったのである。

マーン・シング(1550~1614)

カーブルでの軍事活動 1580年、ベンガルとビハールにおいて、アクバルの弟ミールザー・ハキームを支持する勢力が反乱を起こした。アクバルはベンガルとビハールの反乱を制圧した一方で、マーン・シングとともにハキームの本拠地であるカーブルへと向かった。アクバルはインダス川を越えたのち、マーン・シングをカーブルに向けて送った。この報を聞くとハキームはカーブルを捨てて逃げ、1581年8月10日にアクバルはカーブルへと入った。

春日八郎(1924~1991)

別れの一本杉 泣けた泣けたこらえきれずに泣けたっけあの娘と別れた哀しさに山のかけすも鳴いていた一本杉の石の地蔵さんのよ村はずれ遠い遠い想い出しても遠い空必ず東京へついたなら便りおくれと云った娘りんごのような赤いほっぺたのよあの泪呼んで呼んでそっと月夜にゃ呼んでみた嫁にもゆかずにこの俺の帰りひたすら待っているあの娘はいくつとう二十はよ過ぎたろに

宇田川玄真(1770~1835)

医範提綱 医範提綱は宇田川玄真が書いた簡潔な解剖学の本である。彼は多くのオランダの解剖学書を読んで、30冊におよぶ「遠西医範」を書いた。しかし、これは出版されず、「医範提綱」はその綱要を述べたものである。解剖学だけでなく生理学、病理学まで記載しており、当時の医師に愛用された。解体新書初版だけではなく、これより後になって出版された大槻玄沢の重訂解体新書よりも多くの医師によって読まれたと言われている。下の目次をご覧になって判るように、膵、腺など現在使われている解剖用語の多くはこの本で使われたものである。

マウリッツ(1567~1625)

日本との交渉 1609年、日本に進出したオランダ東インド会社は、マウリッツをオランダ「国王」とする書簡を駿府で前将軍徳川家康に提出し、朱印状による交易を認められた。以後、オランダ東インド会社はオランダ総督「国王」とするフィクションを維持することになる。

クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル(1599~1626)

三十年戦争に参戦 1621年、クリスティアンはオラニエ公マウリッツの軍隊に加わり、ネーデルラントでスペイン軍と戦った。その後、クリスティアンは自分の軍隊を組織し、ボヘミア王兼プファルツ選帝侯フリードリヒ5世配下の将軍として3つの重要な戦闘に参加した。ヘーヒストの戦い、フルーリュスの戦い、そしてシュタットローンの戦いである。

ヴィテニス(1260~1316)

リガとの同盟 ヴィテニスの最も評価されるべき業績の一つとリガとの同盟がある。1297年にリガの司教、同都市の分離協会、リヴォニア騎士団の不仲が原因で内戦が勃発した。ヴィテヌスはリガの市民への援助を申し出て、更には不明瞭ではあるがキリスト教への改宗も約束したので異教徒の兵士とキリスト教の住民間の宗教的緊張が緩和された。ヴィテニスはリヴォニアへの侵攻に成功し、リガ北方のカルクス城を破壊し、トライダの戦いに勝利してブルノ団長と22人の騎士を打ち取っている。リヴォニアは安定し、ヴィテニスは1298年から1313年にかけて11回にも及ぶプロイセンのドイツ騎士団への遠征をおこなうが、ブロドゥニカも巻き込まれ、彼の地では大量殺戮が行われた。この原因は1318年のドイツ騎士団がポメラニアを占領し、ポーランドと諍いを始めたことによる。

太宗(939~997)

文治主義 五代十国の混乱を収めて中国を統一した宋は、太祖趙匡胤以来、藩鎮勢力の削減に努め、軍の指揮権を皇帝に直属する文官である枢密院に与え、文官による国家統治の方法をとった。唐以来の門下省を中書省に吸収して中書門下省とし、貴族合議制を廃して科挙官僚による官僚制を整備した。このような政治体制を、唐末から五代十国の節度使の台頭を許した武断政治に対して文治主義といい、第2代太宗のときにさらに整備された。

ジェームズ・ヘップバーン(1535~1578)

女王の帰国 1560年夫フランソワ2世と死別して未亡人となった女王メアリーは、1561年8月20日に帰国した。女王の帰国に当たって、ボスウェル伯は海軍司令官として万全を尽くした。当時のスコットランドの実力者だったマリ伯ジェームズ・ステュアートは、なんとかボスウェルを会衆の仲間に引き入れようと何度も説得を試みたが、彼はあくまでもメアリーに忠誠を誓い、決してこの誘いに乗ろうとしはしなかった。このため、マリ伯とボスウェルは終生にわたって激しく対立することとなった。また、マリ伯は影で手を回して、できるだけボスウェルをエディンバラから遠ざけ、枢密院に影響力を持てないようにした。権謀術数を駆使するマリ伯に比べ、どちらかというとボスウェルは行動型のタイプで、自分が主体的に関わらない場合、宮廷での貴族たちの謀略を嫌っていたという。

ジョセフ・ヘンリー(1797~1878)

航空学への影響 ヘンリーはニューハンプシャー出身で気球で有名だったタデウス・ローと知り合うようになった。ローは空気より軽い気体に興味を持ち、それを気球に使って気象観測を行ったという人物である。ローはガス気球で大西洋を横断するという野望を抱いていた。ヘンリーはこれに大変興味をひかれ、ローを支援するようになった。

八百屋お七(1668~1683)

井原西鶴『好色五人女』巻四「恋草からげし八百屋物語」 井原西鶴『好色五人女』はお七の事件のわずか3年後に出版され、自ら積極的に恋愛行動に移る町娘という、それまでの日本文学史上画期的な女性像を描き、お七の原典として名高い。西鶴の後続への影響は絶大なもので、特に演劇系統は西鶴を下地にした紀海音を基にするものがほとんどであり、西鶴が設定した恋人の名を吉三郎、避難先の寺を吉祥寺とすることを受け継いでいる作品が大多数を占めることからも西鶴の影響の大きさが推測される。

南摩綱紀(1823~1909)

江戸時代 幕末には京に設けられた会津藩洋学校の校長として藩士の教育にあたっていたが、鳥羽・伏見の戦いの敗戦により京都守護職を務めた会津藩は江戸に帰還。南摩は藩士数人と大坂に留まり、情報収集にあたっている。会津に帰還後奥羽越列藩同盟の結成に尽力。同盟各藩との連絡、調整に努めていたが敗戦を迎えた。戊辰戦争において南摩家は、綱紀の甥で当主の弥三右衛門が砲兵一番隊小隊頭として討死したほか、弥三右衛門の母、娘2人が自刃している。

デビッド・ロンギ(1942~2005)

首相就任 1984年当時のニュージーランド経済は伝統的な農業政策の失敗、農産品市場の縮小、政府収入の減少、多額の財政赤字、多額の対外債務、高失業率、高インフレーション、保護貿易体制、高騰する社会保障費用など早急な経済改革を必要としていた。1970年代のオイルショックを受け、農産品輸出は激減、対外債務が極度に増加している状況にあった。

ウィリアム・フォークナー(1897~1962)

響きと怒り~第1部「1928年4月7日」~ 第1部は、ベンジャミン・"ベンジー"・コンプソンの語りである。ベンジーは、その白痴故に一家の恥の源となっている。ベンジーの世話を心から行おうという数少ない人物は、ベンジーの姉キャディと黒人女召使のディルシーである。その語りは、全体に脈絡のなさで特徴付けられており、継ぎ目のない意識の流れの中で、出来事が寄せ集められている。また、その期間は、ベンジーが3歳の1898年から現時点の1928年までである。この部における斜字体の存在は、話の重要な転換を示すように意図されている。これは、フォークナーが、執筆当初に時間の移動を表すために異なる色のインクを使おうとしたことに由来する。この部は、時間軸の錯綜により、特別に難しくなっているが、この文体のおかげで全体のリズムが形成され、時間軸が整ってはいなくとも、多くの人物の真の心の動きに対する先入観念のない見方を提供している。さらに、ベンジーの世話をする人物が時代を追って変わって行くことで、時の移りが分かる。現時点のラスター、ベンジーが10代のときのT・P、乳幼児のときのヴァーシュがその例である。

チェスター・ニミッツ(1885~1966)

第二次世界大戦~太平洋戦争初期~ 参謀・戦艦部隊司令官・海軍省の部局長とエリートコースを歩み、多くのアメリカ将官同様に戦艦による砲撃戦が海戦の主役と考えていたが、真珠湾攻撃を境に多数の航空機の集中攻撃は大艦巨砲よりもはるかに打撃力と機動力に富むと認識し、空母と航空機の増強を図るようになる。真珠湾攻撃の難を逃れていたウィリアム・ハルゼー中将率いる第16任務部隊に中部太平洋の島々を神出鬼没的に奇襲させた。

ディアーヌ・ド・ポワチエ(1499~1566)

愛妾としての生活 1525年のパヴィアの戦いでフランソワ1世が神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の軍隊の捕虜となった後、フランソワ王太子とアンリの2人の王子は父と引き換えに、人質としてスペインに送られた。身代金の到着が遅かったため、当時8歳と7歳だった2人の王子は不安定な孤立状態のまま、荒れた城で4年近くを過ごさねばならなかった。アンリは「Amadis de Gaula」という王の遍歴の物語を読むことに慰めを見い出していた。この本から強い印象を得て、アンリはディアーヌを上流夫人の理想像と感じたのかも知れない。

ガイウス・フラミニウス(不明~前217)

ケンソルシップ 紀元前220年にはケンソルを勤め、ローマからリミニまでを結ぶフラミニウス街道や、カンプス・マルティウスにフラミニウス競技場を築いた。この年のケンソルは多忙で、同僚のルキウス・アエミリウス・パプスと共に植民都市としてキサルピナにクレモナ、プラケンティアを建造、解放奴隷に投票権を与えて4つの区に振り分け、更には縮充工に関わる法案を通すなどした。

長与専斎(1838~1902)

長与専斎の略歴 1861年、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事し、医学教育近代化の必要性を諭される。1868年、長崎精得館の医師頭取に就任する。明治維新により同館は長崎府医学校となったが、マンスフェルトと共に、自然科学を教える予科と医学を教える本科に区分する学制改革を行った。

ジョン・ウッドハウス(1826~1902)

日英通商航海条約 日本政府が明治の初めから取り組んでいた各国との不平等条約の条約改正交渉の結果、ようやく達成できた最初の改正条約。安政の五カ国条約締結以来、日本政府の悲願だった治外法権の撤廃がなされた。この条約締結におけるイギリス側の目的はロシア帝国の南下政策に対抗するために日本の軍事力に期待したものであった。本文は22箇条よりなる。内容は内地開放を代償として領事裁判権を撤廃したこと、関税自主権を部分的に回復したこと、片務的であった最恵国待遇を相互的とする、などであった。調印の際、英国外相キンバーリー伯は、青木駐英公使に対し「日英間に対等条約が成立したことは、日本の国際的地位を向上させるうえで清国の何万の軍を撃破したことよりも重大なことだろう」と語っている。また、この条約の成立によって日本陸軍はイギリスの日本接近を確認したので、日清戦争の開戦を決意したともいわれている。

河上清(1873~1949)

河上清の経歴 万朝報記者となり社会主義とキリスト教に関心を抱き、足尾銅山鉱毒事件などの追及を行った。1900年社会主義協会結成に参加、1901年社会民主党を他の5名とともに創立。同党が禁止されると、身の危険を感じて渡来。大学で学びながらジャーナリストとしての活動も再開。キヨシ・カール・カワカミの筆名を用いる。

高群逸枝(1894~1964)

招婿婚の研究 日本古代の婚姻形態については、正倉院に現存する8世紀の戸籍・計帳では妻の夫籍への付貫が原則であり、《万葉集》に見られるような妻問を婚姻開始時にもつとしても、結局は後世の婚制と同様な嫁聚婚に帰着したとするのが主流的説であった。しかしかかる通説を全面否定したのが高群逸枝《招婿婚の研究》である。この説は、籍帳には独身の成年男女例、1・2歳の乳児がいながら妻を付籍しない例、生家に子とともに付籍されている娘の例などの通説では説明できない事象が広く存在し、しかもかかる例が律令国家の規制の弱まる後代の籍帳ほど多くみられる点をもう一つの根拠にしているが、その最大の論拠は10世紀以降の貴族の日記から復元される婚制が婿取婚である事実であった。

水野錬太郎(1868~1949)

水野文相優諚問題 ところが、3日後に行われた望月・久原の親任式直後に水野から昭和天皇からの優諚を受けて辞表を撤回したとの声明を出したのである。ところがこれに対して立憲民政党と貴族院は、田中首相と水野文相が水野の辞表を丸く収めるために天皇の発言を政治的に利用していると非難の声を上げ、世論も激しく反発した。これに対して政府は水野文相が優諚を受けたのは辞表撤回の後であり、天皇の意向で辞表を撤回したわけではないと弁明して事態の沈静化を図ったが、非難は激しさを増すばかりであり、5月25日に水野文相は文部大臣を辞任した。

大岡育造(1856~1928)

協調会~発足の経緯~ 原内閣時代、救済事業調査会の答申に基づき、床次竹二郎内相の私的諮問機関「資本労働問題協議会」の中心メンバーであった徳川家達を会長、渋沢栄一・清浦奎吾・大岡育造を副会長に、1919年12月22日財団法人として発足した。発足の背景には米騒動の勃発や労働運動の急進化などがあり、これらに対抗して労資協調の促進を標榜した。その背後には、当時内務省で急速に台頭しつつあった、社会政策を重視する新官僚の存在があった。

村上義清(1501~1573)

砥石崩れ 1550年、義清が高梨氏と戦っていて本領を留守にした際に、信玄が小県の要衝砥石城に侵攻してくる。義清は高梨氏と和睦を結んで急遽反転し、信玄は義清の後詰に戦況不利を判断して退却を開始するが、義清は武田勢を追撃し、大勝をおさめた。この戦いで武田方は足軽大将の横田高松や郡内衆の渡辺雲洲を始め、1000名の死傷者を出したという。村上方の死者は193名ほどであったといわれる。

無住(1227~1312)

沙石集 『沙石集』の名義は「沙から金を、石から玉を引き出す」ことをいい、世俗的な事柄によって仏教の要諦を説く意味であると言われている。僧侶の立場から経典を多く引用しているが、作者が博識であり好奇心に富んでいるため、単なる説教を脱化して興味津々たる文学作品となっている。

源通親(1149~1202)

治承・寿永の乱 やがて平清盛が死去して後白河院が院政を再開するなど情勢は目まぐるしく変転するが、通親は特定の勢力の庇護に頼らず、院御所議定の場で積極的に発言を行い、公事に精励することで朝廷内での存在感を高めていった。1183年7月の平家都落ちでは後白河院の下へ参入して平氏と決別し、8月の後鳥羽天皇の践祚では神器がないことについて、後漢の洪武帝、東晋の元帝が即位後に璽を得た例を挙げてその実現に尽力した。11月の法住寺合戦に際しても法住寺殿に参入している。

フランソワ=ガストン・ド・レビ(1719~1787)

フレンチ・インディアン戦争 1756年から1758年の間に、シャンプラン湖からのイギリス軍侵入の防御に努め、モンカルムとともに、ウィリアム・ヘンリー砦を攻撃して勝利し、1758年のカリヨンの戦いでは、モンカルムを補佐して、イギリスの襲撃をよせつけなかった。1759年、エイブラハム平原の戦いでの、モンカルムの死去の後、駐カナダフランス軍の指揮官となり、一旦はモントリオールに退却したものの、1760年のサントフォワの戦いでは、ジェームズ・マレーのイギリス軍に強い一撃を与えた。しかし、イギリス海軍の艦隊がケベックに援軍を連れて戻ってきたため、モントリオールに再び退却せざるを得なくなった。同年9月8日、モントリオールはイギリスの軍門に下った。

ジャコモ・カサノヴァ(1725~1798)

我が生涯の物語 1794年、カサノヴァはリーニュ公シャルル・ジョゼフと知り合い、友情を育んだ。この公爵がカサノヴァの回想録を読みたいと所望したため、カサノヴァはリーニュ公に渡す前に原稿を推敲することに決めた。原稿の少なくとも最初の3分冊を読んだリーニュ公は、この回想録を出版して年金代わりに原稿料を手にするため、ドレスデンの編集者に打診してはどうかと提案した。カサノヴァは手稿の刊行を承知したが、提案とは別のつてを頼ることとした。1797年、カサノヴァはザクセン公国内閣の大臣マルコリーニ・ディ・ファノに出版の手助けを求めた。