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宮崎勤(1962~2008)

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件~現行犯逮捕~ 1989年7月23日、東京都八王子市で幼い姉妹を狙ったわいせつ事件を起こす。妹の全裸写真を撮影していたところを姉からの知らせを受けた被害女児姉妹の父親により取り押さえられ、宮崎は強制わいせつの現行犯で逮捕された。宮崎を取り押さえた被害者の父親は「D事件の犯人もまだ捕まっていないのに」と取り押さえた宮崎を責めたが、後日それが連続殺人事件の犯人だと知って愕然とした当時のマスコミの取材で話している。

ロバート・ステュアート(1340~1420)

ロバート3世の摂政として 1401年には無能なロスシー公が様々な問題行動を起こして、オールバニ公の所領フォークランドのフォークランド宮殿に幽閉されることになったが、ロスシー公は1402年3月26日にそこで死去した。そのため、王位簒奪を狙うオールバニ公によってロスシー公が故意に餓死させられたという噂が出回った。スコットランド議会から査問を受けたが、結局ロスシー公の死は「神の摂理によるもの」と結論されて公的には疑惑は晴らされた。そして事件後、オールバニ公の権力は再び高まっていった。

仙厓義梵(1750~1837)

指月布袋図

フォティオス1世(820~891)

ビザンティン文化 フォティオスは古代ギリシャの古典に対して非常に造詣が深く、その博識ぶりは政敵イグナティオス派の人物も驚嘆するほどであったという。彼によって始められた古代ギリシャ文化の復興は、レオーン6世の息子コンスタンティノス7世の時代に後世「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれるビザンティン文化の一大興隆をもたらすことになる。このフォティオスの編纂とされる、280冊もの古典に関する書評を記載した『図書総覧』は、彼が845年にサマーラのアッバース朝の宮廷へ使者として派遣された時に編纂された、という議論がある。つまり、アッバース朝のギリシャ古典翻訳運動に刺激を受けて編纂した、という可能性がある。

小畠廣志(1935~1996)

  炎昼

フランシスコ・デ・スルバラン(1598~1664)

神の仔羊

杉山茂丸(1864~1935)

政友会創設資金の提供 伊藤博文が1900年に立憲政友会を結成するに際して、杉山はその創設資金の一部を提供した。杉山は元来政党政治を否定する立場であったが、将来の日露開戦を睨んで、伊藤によって政府の方針を助ける政党が結成されることは必要と考えていた。このとき伊藤に提供された十万円の資金の出所は明らかにされていないが、杉山の友人であった小美田隆義や実業家の岡田治衛武が有力視されている。

ジェラルド・ルドルフ・フォード(1913~2006)

緊急緩和に貢献 その後の外交問題ではキッシンジャーを国務長官に留任させ、ソ連とのデタントを推進し、キッシンジャーは中東問題でも積極的に動いた。1974年にはブレジネフと会見して第二次戦略兵器制限交渉について協議し、1975年にはヨーロッパに渡り、全欧安全保障協力会議では最終文書としてヘルシンキ宣言の成立に中心的役割を果たしたことは評価することができる。

松平直亮(1865~1940)

松平農園の経営 1894年北海道上川郡鷹栖村の山林1700ヘクタールの貸付を受けて、翌年から香川県、富山県からの入植者を入れて開墾を開始した。当初は湿地帯であることや水害などにより収穫がなかったため、元北海道庁殖民課長・内田瀞を管理人として招聘したことにより事業が進展し、14年で貸付地1337ヘクタールの開拓を完了した。1935年から住民の要望を受け、1936年から全農地を分譲し1937年に農場事務所を閉鎖した。

マーガレット・ダグラス(1515~1578)

結婚と外交 イングランド女王メアリー1世の治世中、マーガレットはウェストミンスター宮殿に部屋を持っていた。1553年11月、女王は大使シモン・ルナールに、「マーガレットが王位を継承するのに最もふさわしい」と語った。マーガレットは1558年12月のメアリー女王の葬儀の喪主を務めた。エリザベス1世の王位継承にあたり、マーガレットは、テンプル・ニューサンにある自宅がローマ・カトリック教会の陰謀の中心となっていたヨークシャーに移った。

大岡信(1931~2017)

方舟 『方舟』は、大岡信の作詩、木下牧子の作曲による合唱組曲である。また同組曲の終曲のタイトルでもある。混声合唱版が1980年、男声合唱版が1987年に発表されている。

レイ・チャールズ(1930~2004)

ホワッド・アイ・セイ 「ホワッド・アイ・セイ」は、1959年にレイ・チャールズによってリリースされた。アメリカのリズム・アンド・ブルースの楽曲である。シングルは2つのパートからなっており、ソウルミュージックの初期の曲のひとつである。この楽曲は、1958年末のある晩に、チャールズとオーケストラとバックアップシンガーがすべての曲目を演奏し終わった後に、まだ時間があったので、即興で演奏された。多くの観客からの反応が熱烈だったので、チャールズはこの曲を収録する予定をプロデューサーに伝えた。

高峰秀子(1924~2010)

フリー俳優時代 1951年、日本初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』に主演。この作品で初めて木下惠介監督とコンビを組んだ。同年6月、カンヌ国際映画祭への出席の話から転じて留学生としてフランスに渡り、6ヶ月間パリに滞在する。悪化していた志げとの関係や、フリーになってからの不安などから逃避でき、映画のことを忘れて自由を満喫できる好機であった。パリ滞在中は、渡辺一夫が学生時代に下宿していたアパートの一室を住まいとした。その時のこぼれ話は『つづりかた巴里』に詳しい。1952年に1月に帰国した。

ヨハン・ネポムク・フンメル(1778~1837)

ピアノ協奏曲第2番 これ以前のフンメルの協奏曲はモーツァルトのスタイルにほぼ忠実に沿うものであった。しかしそれらとは異なり、この協奏曲並びに「ピアノ協奏曲第3番」はロマン派音楽の原型ともいえる様式で書かれており、後にメンデルスゾーンやショパンなどの作曲家によってもたらされる形式的な発展を予感させるものとなっている。この曲はフンメル自身の名技性を誇示するように書かれている。

轟夕起子(1917~1967)

ハナ子さん 主演の轟夕起子は、もともと原作のハナ子のキャラクター造形のモデルだった。轟主演の『爆音』を観た原作者は、轟のもんぺ姿に強い印象を感じ、婦人雑誌の漫画の主人公に、その「いかにも楚々とした姿」が適任と考えたためである。

イグナーツ・モシェレス(1794~1870)

ライプツィヒ時代 モシェレスはこの期間を通じて作曲と演奏旅行を続けていたが、収入面では音楽教師の仕事に大きく依存しており、これが彼にとってかなりのストレスとなった。そのため、1843年にライプツィヒ音楽院を設立したメンデルスゾーンは、友人である彼をそこでの講師として熱心に勧誘し、演奏活動と作曲に十分な時間の確保を約束した。モシェレスは喜んでこの申し出を引き受け、1847年のメンデルスゾーンの死後は音楽院の長となっている。

原節子(1920~2015)

東京物語 『東京物語』は、1953年に公開された日本映画である。監督は小津安二郎、主演は笠智衆と原節子。モノクロ、スタンダード・サイズ、136分。『晩春』、『麦秋』、『東京物語』で原節子が演じたヒロインはすべて「紀子」という名前であり、この3作品をまとめて「紀子三部作」と呼ぶことがある。昭和28年度文化庁芸術祭参加作品。

ロヴィーサ・ウルリカ・アヴ・プロイセン(1720~1782)

ハンブルク条約 1756年に勃発した七年戦争にスウェーデンは反プロイセン側で参戦した。これにはポメラニアの奪回の他、プロイセン王フリードリヒ2世の妹に対する懲罰の意味も含まれていた。しかしスウェーデンは敗戦を重ね、西ポメラニア北部のリューゲン島に押し込まれてしまった。しかも戦争はプロイセン優位に帰し、スウェーデンの敗北は明らかとなった。議会は結局ロヴィーサに懇願し、兄フリードリヒに対する和解を申し出た。ロヴィーサの仲介により和議は成立し、スウェーデンは領土変更なしの和平合意に達した。

石丸進一(1922~1945)

プロ入り後 新人時代は兵役で離脱している藤吉の代役ということで、内野手として73試合に出場し、打率.197、0本塁打、8打点の成績を残した。内野手としてプレーする傍ら、煙草の銀紙を丸めて作ったボールで手首を鍛え、投手としていつでも出場できるようにしていたという。

アレハンドロ・オレイリー(1723~1794)

七年戦争 翌年のパリ条約でスペインは西フロリダを失った一方、フランスからはフランス領ルイジアナを得た。同年オレイリーは師団将軍に昇進した。英語の話せるオレイリーはキューバ総監のリクラ伯爵に同行して戦争中イギリスに占領されていたキューバへ行き、スペインへの返還のための処理、軍および民兵の改良、要塞の修復を行った。1765年にはプエルトリコで同様の作業を行った。オレイリーの創設した民兵組織は高い技術を持ち訓練されていたため、オレイリーはプエルトリコの民兵の父として記憶されている。

島津歳久(1537~1592)

秀吉の征討 1592年、秀吉の始めた朝鮮出兵も病気を理由に出陣しなかった。嘘ではなかったのだが、今回だけではなく普段から上記のように反抗的な態度を取り続けたことから、秀吉は朱印状を、義久、義弘、家久には与えたが、歳久には出していない。これは豊臣秀吉による島津氏を分断する意図であったと思われるが、これ以後も、島津氏は長兄義久から本当に独立してしまった兄弟はいない。

ボビー・フィッシャー(1943~2008)

世界チャンピオン時代 1972年、アイスランドのレイキャヴィークで行なわれた世界選手権で、スパスキーを破り世界チャンピオンとなった。当時、世界は冷戦のさなかであり、ソ連は第二次世界大戦以降、チェスのチャンピオンのタイトルを独占しつづけていたので、欧米側から見てこれは歴史的な勝利となり、「アメリカの英雄」として扱われた。

松野重元(不明~1655)

関ヶ原の戦い 1600年の関ヶ原戦役では、秀秋に従って伏見城の戦いに参戦。9月15日の関ヶ原の戦いの本戦では、東軍へ寝返ろうとした秀秋に不満で、これに反発して不戦を貫き、戦線を離脱し、出奔した。しかし、このことが豊臣家を裏切らなかった忠義者としての評価を受け、戦後は田中吉政に仕官した。

ベルナルド・デ・ガルベス(1746~1786)

ルイジアナ総督 七年戦争の結果、1763年のパリ条約でスペインはスペイン領フロリダをイギリスに譲り、かわりにフランス領ルイジアナのミシシッピ川以西をフランスから得た。ルイジアナはキューバ総監府の管轄する1州となった。ガルベスは1777年1月1日にスペイン領ルイジアナの総督に就任した。

和田カツ(1906~1993)

八百半の創業 1930年12月、熱海市銀座の旅館に新たな店舗を借り、「八百半熱海支店」を開店し、主に旅館との取引での商いを始めた。これが八百半創業元年である。後に大企業のヤオハンへ成長する店も、当時は旅館の軒先を借りての露店で、天秤棒を担いで行商でのスカートだった。

小トゥッリア(生没年不詳)

セルウィウス王の殺害と遺棄 トゥッリアが夫に王座を狙うよう囁くようになると、ルキウスもその気になって、パトリキの元老院議員達、特に彼の父によって元老院に引き上げられた一族に根回しを始め、彼らに贈り物をしては、仲間内でセルウィウスを誹った。

浮谷東次郎(1942~1965)

事故死 船橋サーキットで2レース優勝を果たした翌月の1965年8月20日、三重県の鈴鹿サーキットでの練習中、立体交差を過ぎての150Rで、コース上を歩いていた2名の人物を避けようとして当時コース脇にあった水銀灯に激突。衝撃でマシンの外に放り出された浮谷は、両足の骨折や頭部を強打する等の重傷を負い、翌21日脳内出血により23歳で没した。事故直後には「コースに人がいちゃ危なくて走れないよ」と語るなど意識があり、医師に「頭を打ったので調べてほしい」と伝えたと言われている。

ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430~1516)

祝福するキリスト

小林富次郎(1852~1910)

ライオン~設立~ 1891年10月に小林富次郎によって設立された小林富次郎商店を祖とする。小林はそれまで、播磨幸七が1880年に創業した神戸の石鹸製造会社に招かれて共同経営していた。化粧石鹸、洗濯用石鹸を出発点として、1896年に粉歯磨き「獅子印ライオン歯磨」を発売した。

アンヌ・アントワネット・ド・ブルボン=パルム(1923~2016)

ルーマニア民主化後 1992年、共産主義政権崩壊後に、ミハイとともに3日間だけのルーマニア訪問をした。ルーマニアへ入国したのはこれが初めてであった。1997年より、ルーマニアへ永住することが認められ、一年のうちスイスとルーマニアで半分ずつ過ごした。

油屋熊八(1863~1935)

別府亀の井ホテル 別府観光の父と呼ばれる油屋熊八によって1911年10月に創業された亀の井旅館を前身とする。1924年11月に洋式ホテルに改装して亀の井ホテルとなるとともに、運営会社の株式会社亀の井ホテルを設立。1953年8月に別府市初の政府登録旅館となり、1972年12月には政府登録ホテルとなった。

ザ・ザ・ガボール(1917~2016)

私生活 ガボールは9回結婚した。7回離婚し、1回の結婚は無効になった。彼女の自伝で「何よりも私は結婚するのが大好きだ。」と書いている。「私は仲間を愛し、私は男のために料理することを愛し、すべての時間を男性と過ごすのが好き。もちろん、私は恋をするのが好きだが、しかし、本当に私を満たすのは結婚である。しかし、全ての場合がそうではない」。彼女の夫は、年代順に次の通りである。

野見宿禰(生没年不詳)

古墳時代の豪族 垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力をとるために出雲国により召喚され、蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えた。また、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、土師臣の姓を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなった。

コンラッド・ヒルトン(1887~1979)

ヒルトン ヒルトンホテルは、アメリカの実業家コンラッド・ヒルトンにより創業された。マリオット・インターナショナル、ハイアットホテルアンドリゾーツ、アコーホテルズなどと並び、世界的に有名なホテルチェーンの一つ。

河野一郎(1898~1965)

日ソ交渉 1956年、日ソ平和条約交渉でフルシチョフ共産党第1書記を向うに渡り合い、同年10月には日ソ共同宣言を成立させ、鳩山首相と共に調印に扱ぎつけた。鳩山引退後の自由民主党総裁公選では岸信介を支持し、石橋湛山に一敗地にまみれるが、岸内閣成立後は主流派となる。1957年の内閣改造では、経済企画庁長官として入閣。第2次岸内閣下では党総務会長に就任。しかし、1959年6月に幹事長就任を岸首相に拒否されたため、反主流派に転ずる。日米安保条約改定では岸内閣に批判的立場を取り、衆議院における強行採決で、河野派は三木派とともに欠席した。

ウラジーミル・ジリノフスキー(1946~2022)

自由民主党 クーデター失敗によるソビエト連邦の崩壊を受けて、ジリノフスキーは1992年4月に党名を「ロシア自由民主党」に改称した。旧ソビエト連邦の復活・アラスカのロシアに対する返還・北方領土返還の拒否及び東京に対する原爆投下発言など、過激かつ奇矯な言動と行動で西側諸国からは危険視される。しかし、ショック療法による生活苦にあえぐ貧困層のロシア国民からは支持を集める結果となり、1993年12月の下院国家会議選挙で自由民主党は第1党となる。ジリノフスキー自身も下院議員に当選した。

平田東助(1849~1925)

法務官僚として 1876年1月に帰朝。内務省御用掛となり、のち大蔵省に転ずる。長州藩出身の品川・青木の仲介により、木戸孝允・山県有朋・伊藤博文ら長州閥の知遇を得て、かつて政府に敵対した米沢出身でありながら長州系の官僚として信頼されていくことになる。

エリザベス2世(1926~2022)

次期王位継承者として~国民への宣誓~ 第二次世界大戦におけるイギリスの勝利後の1947年4月には、両親の国王夫妻に付き添って初めて外遊し、妹のマーガレット王女と一家4人で南アフリカ連邦を訪問した。これは、スマッツ首相率いる親英的な統一党が選挙で敗北する可能性が出たため、両政府の要望によって計画された。国王の意には沿わない訪問であったが、国王一家、特にエリザベス王女は各地で歓迎されて、当地の親英感情を高める結果となった。

華屋与兵衛(1799~1858)

江戸三鮨~与兵衛寿司~ 1824年に両国尾上町回向院前に小泉与兵衛が華屋の屋号で開業、大繁盛した。すしにワサビを使ったのはこの華屋与兵衛が最初なので、一般には与兵衛寿司が握り寿司の嚆矢とみなされている。華屋の流れを汲む両国与兵衛寿司は維新後も明治から大正にかけて営業していたが、関東大震災以後没落し、1930年に閉店している。今日の和風レストランチェーン・華屋与兵衛とはまったく関係が無い。

カール=グスタフ・ロスビー(1898~1957)

ロスビー波 大気中のロスビー波は、大陸・海洋の温度差や地形の高低差などによって大気が揺すぶられて生じる自由振動の波の一つで、地球大気、惑星大気で見られる大気波である。また、ロスビー波はベータ効果を復元力とする波である。カール=グスタフ・ロスビーによって発見されたことからこの名がある。

藤山寛美(1929~1990)

型破りな金使いの荒さ・松竹新喜劇から降板 上方演芸界では「北の雄二かミナミのまこと、東西南北藤山寛美」と称され、戦後の上方を代表する遊び人として多くの逸話を残した。バーのボーイに「チップとして」車のキーを渡し、自動車1台を与えたこともあった。そのため、知人に騙された巨額の借金も含め、多額の負債を抱え、1966年には当時の金額で1億8,000万円の負債を抱えて自己破産。松竹と松竹芸能から専属マネジメント契約の解除を通告される。松竹から事実上解雇された寛美は舞台には出演せず、東映の常務だった岡田茂を頼り、東映の任侠映画に出演するなどして生活をしのいだ。

アルフレッド・マーシャル(1842~1924)

理論的貢献 経済思想の歴史におけるマーシャルの影響は否定し難い。彼は、供給と需要の関数に対する価格決定について厳格に取り組んだ最初の経済学者であり、近代経済学者は価格のシフトと需給曲線のシフトの間の関係の解明をマーシャルに負っている。マーシャルは「限界革命」の重要な参与者であり、「消費者が各々の限界効用に対して同じ価格となるように試みる」という着想は、彼のもう一つの貢献である。

西尾末広(1891~1981)

来歴・人物 1940年3月、民政党の斎藤隆夫が行った反軍演説の議員除名問題では、反対の立場を示し衆議院本会議を欠席する。社会大衆党書記長麻生久による幹部除名策略によって党首安部磯雄や水谷長三郎らとともに党除名処分を受けた。その後は河野一郎らと興亜議員同盟を結成し、1942年の翼賛選挙では非推薦で当選する。翼賛政治会や大日本産業報国会と距離を置き、密かに東条英機内閣の倒閣運動にも加わった。その結果、戦後の公職追放を免れた。

グランマ・モーゼス(1860~1961)

家族のピクニック

東条寿三郎(1920~2003)

新座市立大和田小学校校歌 明けゆく光むさしののながめをいつも庭にしてひときわ高くそびゆるは元気にはげむ育つ子のああ大和田小学校昔を今に語りつぐ流れも清き野火止のみどりを分けてゆくところ朝な夕なにかねならすああ大和田小学校空はれわたり野に遠く秩父のみねをあおぎみて六とせを学ぶ窓こそはあしたを思う良い子らのああ大和田小学校