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ヤコブス・デ・ウォラギネ(1230~1298)

黄金伝説~聖人伝~ 『黄金伝説』は、ヤコブス・デ・ウォラギネによるキリスト教の聖人伝集。1267年頃に完成した。タイトルは著者自身によるものではなく、彼と同時代の読者たちによってつけられたものである。中世ヨーロッパにおいて聖書についで広く読まれ、文化・芸術に大きな影響を与えた。日本においても芥川龍之介が同書所収の聖女マリアの物語をもとに『奉教人の死』を書いている。

藤原隆信(1142~1205)

藤原隆信派 藤原隆信派は、藤原隆信から始まり豪信までの大和絵似絵を得意とした家系の画系。主な画人に藤原信実、藤原為継、信海、豪信がいる。

ガブリエル=シュザンヌ・ド・ヴィルヌーヴ(1685~1755)

美女と野獣 3人の娘と3人の息子を持つ商人が、町からの帰り道にある屋敷に迷い込み、そこで体を温めた料理にありつくというもてなしを受ける。商人が、「ラ・ベル」と呼ばれている心の清い末娘がバラを欲しがっていたことを思い出し、庭に咲いていたバラを摘むと、彼の前に屋敷の主である野獣が現れ、「もてなしてやったのにバラを摘むとは何事だ」と言う。そして野獣は娘を要求した。末娘は身代わりとして野獣のもとに赴き、野獣は娘に慇懃に求婚するが拒否される。

アン・フィリッパ・ピアス(1920~2006)

トムは真夜中の庭で 弟のピーターがはしかにかかり、おじとおばの住むアパートに預けられた少年アトム。その邸宅には庭すら無く、はしかのために外出すらできない彼は退屈し切っていた。そんなある日の夜、ホールの大時計が奇妙にも「13時」を告げたのをきっかけに、彼は存在しないはずの不思議な庭園を発見する。そこはヴィクトリア朝時代のメルバン家という一家の庭園であった。それから毎日、彼は真夜中になると庭園へと抜け出し、そこで出会った少女、ハティと遊ぶようになる。しかしながら、庭園の中では時間の「流れる速さ」や「順序」が訪れることに違っていた。彼はだんだんと、ハティの「時」と自分の「時」が同じでないことに気づいていく。

土屋文明(1890~1990)

代表歌 この三朝あさなあさなをよそほいし睡蓮の花今朝はひらかず 親しらかぬ父と子にして過ぎて来ぬ白き胸毛を今日は手ふれぬ 小工場に酸素熔接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす 青き上に榛名をとはのまぼろしに出でて帰らぬ我のみにあらじ 終りなき時に入らむに束の間の後前ありや有りてかなしむ 相共に九十年をめざしつつ早くも君はやふれ給ふか

イヴァノフ・ラズームニク(1878~1946)

ロシア社会思想史 ロシア社会思想史は、インテリゲンツィヤによる人格と人間の解放運動史である。彼らの行く手を阻むのは、無個性、平板さ、狭さを誇るこの世にはびこる小市民主義である。ラヂーシェフ、デカブリストから、西欧主義とスラヴ主義を総合してロシア社会主義=ナロード主義を創始したゲルツェンを得て、革命的民主主義者チェルヌイシェフスキーへと「最終目的である人間」の旗が受け継がれていく。

コルネリウス・ドレベル(1572~1633)

ドレベルの発明品 1619年、ドレベルは複数の望遠鏡と顕微鏡を設計・製作した。オランダの対イングランド大使ウィレム・ボレールがドレベルの顕微鏡に言及している。その後ドレベルは、二枚の凸レンズを備えた顕微鏡の開発で有名になった。クリスティアーン・ホイヘンスなど数人の著作家が、複式顕微鏡の発明者としてドレベルを挙げている。しかしながら、ナポリのフォンタナは、自分が1618年にそれを発明したと主張している。複式顕微鏡の発明を、1595年ごろのヤンセン親子によるものとする資料も多い。1624年にはガリレオ・ガリレイがドレベル式の顕微鏡をローマの貴人フェデリコ・チェージに贈っている。チェージはこれを用い、蜂に関する著書"Apirarum"の挿絵を描いた。

川上冬崖(1828~1881)

ナポレオン像  

松平康英(1768~1808)

ナポレオン戦争~日本~ 1808年に長崎で起きたフェートン号事件は、ナポレオン戦争の余波が日本にまで及んだものといえる。10月4日、イギリス船フェートン号が、当時フランスの支配下にあったオランダの船舶の拿捕を目的として長崎に侵入し、オランダ人を人質として薪水や食料の提供を要求した。長崎奉行の松平康英はフェートン号を撃退する戦力を有しておらず、この要求を受け入れた。後に松平康英は事件の責任を取って切腹し、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹した。

レオポルド3世(1901~1983)

第二次世界大戦~ベルギーの戦いと降伏~ オランダやベルギーがドイツ軍低地地方で迎撃する間に、ドイツ軍はベルギー南部~フランス東部のアルデンヌ高地を越えて侵攻したため、白・仏・英各軍は分断された。5月12日、アニューの戦いで、白仏軍と独軍による大規模な戦車戦で、ベルギーは「驚くほどの勇敢さ」をもって抗戦し、ドイツの進撃を遅延させて、ダンケルクからの英派遣軍の大陸撤退を可能にした。

虞美人(不明~前202)

覇王別姫における虞美人 『覇王別姫』は主役である項羽を際立たせ、舞台をより良くするために改編されたが、意外なことに、虞美人が自殺する場面の方が見せ場である項羽の大立ち回りよりも印象深いものになるという結果となった。観客は虞美人に魅了され、虞美人は項羽を人気で凌駕してしまい、虞美人が自殺する場面が終わると、項羽の烏江での最後の大立ち回りが残っているのに、観客が続々と席を立ったという。

本多重次(1529~1596)

家康への忠義 1585年3月に家康が腫物をこじらせて重態に陥った時、治療を勧める医師の話に耳をかさない家康に業を煮やした重次は、「殿にはさてもさても分別のないにわか療治をなされたあげく犬死されることよ。ご自身で望まれたこととは申しながら、なんと惜しい命であることか・・・・」「この作左お先にお供をつかまつる・・・・。されば今生のお暇ごいをただ今申しあげる」と切腹の準備にとりかかったため、家康が折れて腫物の治療を受け事なきをえた。

前畑秀子(1914~1995)

オリンピック出場記録 3年後の1936年、ナチス体制下のドイツで開かれたベルリンオリンピックの200m平泳ぎに出場し、地元ドイツのマルタ・ゲネンゲルとデッドヒートを繰り広げて、1秒差で勝利する。日本人女性として五輪史上初めての金メダルを獲得した。この試合をラジオ中継で実況したNHKの河西三省アナウンサーは、中継開始予定時刻の午前0時を過ぎたために「スイッチを切らないでください」の言葉からアナウンスを始めた。

ディエゴ・デ・ロサーダ(1511~1569)

カラカス スペイン人の到達以前のこの地はカリブ系のカラカス族の土地であり、都市は存在しなかった。スペイン人の征服者がこの地を訪れると先住民は頑強に抵抗し、特にテケス族の指導者グアイカイプーロに率いられた軍団は頑強に抵抗を続けたが、1567年にスペイン人の征服者ディエゴ・デ・ロサーダが、先住民との戦争の最中にサンティアゴ・デ・レオン・デ・カラカスという名でこの街を建設した。カラカスの名は、この地に住んでいたカリブ人の一部族、カラカス人からとられた。

フランシスコ・デ・ミランダ(1750~1816)

ベネズエラ第一共和国時代 半島戦争に紛れて、1810年4月19日、ベネズエラ第一共和国をシモン・ボリバルやアンドレス・ベージョと共にミランダは成立させた。そして英国に使節を派遣し、政府の承認及び援助を求めた。ミランダは更にジャコバン派に倣った政治結社を設立し、周辺の植民地に独立と個人の概念を広めた。そしてミランダは議会によって自らの名前を冠したムニシピオであるアンソアテギ州フランシスコ・デ・ミランダの代表となった。更に議会は国旗を三色旗とする事も策定した。

ミーラー・バーイー(1498~1546)

バクティ ヒンドゥー教は司祭階級のバラモンが取り仕切る多種の祭祀や、難解・深淵な教義をもつ各学派が存在するが、これらは一般庶民の手の届かないところである。しかし一般人も神に現世や来世の加護を求める気持ちに変わりはなく、10世紀頃から南インドを中心として「バクティ」が広がった。バクティは「神への私心のない絶対的帰依を表す一つの生き方だと考えられ」て、敬虔な信仰心が救済をもたらすとされ、生まれやカーストに関係ないとされた。ヒンドゥー教では下層とされる女性であるミーラー・バーイーの作品はクリシュナ信仰文学の重要な一角を担い、今日においても詩や賛歌は民衆の間で愛吟され続けている。また、ヒンドゥー教のバクティ運動のシンボルで聖人。

ニコラ1世(1841~1921)

モンテネグロ王国 モンテネグロの主教公であったダニーロ1世は1852年に世俗公を自称し、モンテネグロ公国を建国した。暗殺されたダニーロ1世の後を継いだニコラ1世は1905年に憲法を改正し、元首の称号を「公」から「王」へと昇格させた。ニコラ1世は1910年に即位し、正式にモンテネグロ王国が成立した。首都はツェティニェ。立憲君主制を採用していたが実質的には絶対君主制国家であった。バルカン戦争で戦勝国として領土の拡張に成功した。1914年の第一次世界大戦ではセルビア王国を支援するため連合国側に立ち参戦したが、セルビアが大敗したためオーストリア・ハンガリー帝国軍の侵入を許し、全土を占領された。1916年1月15日に王国政府は降伏を受諾したが、ニコラ1世はこれを受け入れず、イタリアを経由してボルドーに亡命し、抵抗を続けた。

ジョセフ・ダルトン・フッカー(1817~1911)

ヒマラヤ探検 1847年11月にフッカーは3年に及ぶことになるヒマラヤ探検のためにイギリスを出発した。彼はヒマラヤで植物を採集した初めてヨーロッパ人であった。シドン号でナイル川をすすみ、スエズまでは陸路で旅した。1848年1月にカルカッタに着き、ミザプールまでは象で、シリグリまではガンジス川をボートで、そしてポニーで陸路を通って1848年4月にダージリンに到達した。フッカーの探検はダージリンの博物学者ブライアン・ホジソンの家を拠点に行われた。ホジソンを通して東インド会社の代表アーチバルト・キャンベルと会い、シッキムへの入域を協議した。また地元にチャールズ・バーンズとともに大Rangeet川、Rangeet川とTeesta川の合流地点、桐廬山、ネパールとの国境に近いシンガリラ地域などを探査した。1850年3月にダージリンを出発し、Churraに11月まで滞在し研究の拠点を創設した後、イングランドへの帰途についた。彼の探検は『ヒマラヤン・ジャーナルズ』として後に公刊された。

ジョセフ・フッカー(1814~1879)

南北戦争~1862年~ 1862年の半島方面作戦で、フッカーはポトマック軍第3軍団の第2師団を指揮し、その任務を良くこなし、戦場において重要なポイントを積極的に求める戦闘指揮者としてその勇名をはせた。ウィリアムズバーグの戦いと七日間の戦いを通じて頭角を現した。マクレランの慎重すぎる将軍ぶりにイライラし、リッチモンドを占領できなかったことについて明け透けに批判した。フッカーはその上官について、「彼は軍人ではないだけでなく、軍人とは何かを知らない」と言った。半島方面作戦でフッカーに関する2つの評判、すなわち部下の福祉と士気に気を遣うことと、戦場においてすら深酒をするということが固まった。

ヴェルナー・ゾンバルト(1863~1941)

ドイツ的社会主義から国家社会主義ドイツ労働党へ ナチス政権以後の1934年、ゾンバルトは著書『ドイツ的社会主義』においてユダヤ的な国際的社会主義・国際的資本主義に対して、ナショナリズムと社会主義が融合した国民的社会主義としてのドイツ的社会主義を主張した。この著作によれば、19世紀には経済がその他の領域を支配したため、知性化と即物化によって魂と人格が剥奪され、またマルクス主義も魂のない近代工場を進歩として歓迎した。これに対してドイツ的社会主義は、経済時代と資本主義を放棄し、現在の「文明」状態をなくして以前のような「文化」状態に到達し、ドイツ国民を経済時代の砂漠からドイツの森へ戻す。しかし、ユダヤ精神はドイツのすみずみまで浸透しており、「たとえ最後のユダヤ人とユダヤ人家族を絶滅したとしても」存続するだろうから、反資本主義闘争であるドイツ的社会主義はユダヤ精神との闘争であるとされた。

アンリ・ピレンヌ(1862~1935)

思想・業績 ドイツの実証的な歴史学を受けて、「理念」よりも「事実」に重きを置き、歴史一般を動かす動因は経済上の力、つまり商業と工業であると仮定した。しかし、マルクス主義のような封建制から資本主義への連続、という図式的な見方をとらなかった。特に論文「資本主義発達の初段階」では、12世紀に中世資本主義の初期の段階があることを立証した。その論旨はゾンバルトによって「資本主義の発展に関する驚くべき無知」と酷評された。

ジョージア・オキーフ(1887~1986)

赤・白・青

石川雲蝶(1814~1883)

 道元禅師猛虎調伏之図

ブランドン・リー(1965~1993)

クロウ/飛翔伝説 歓楽に耽り荒廃した近未来都市デトロイト。この街では近年、ハロウィン前日である10月30日夜は「悪魔の夜」と呼ばれ、無法者たちが暴れまわり破壊と暴虐の限りを尽くしていた。とある年の「悪魔の夜」、結婚式を翌日に控えていたロック・ミュージシャンのエリックと婚約者シェリーは、ティンティン、ファンボーイ、Tバード、スカンクという四人の無法者たちの手によって暴行の末に惨殺された。だがその一年後にエリックは、死の国の使者であるカラスの神秘の力を得て、不死身の復讐者として冥界から甦ってきたのだった。

孫臏(生没年不詳)

桂陵の戦い 魏が趙を攻撃し、趙の都を包囲した。趙は斉に救援を求め、斉王は田忌を将軍とし孫臏と共に派遣した。だが、孫臏は趙に向かおうとする田忌を「絡んだ紐を解く時は無闇に引っ張るものではなく、喧嘩を止めさせる時は殴り合いに加わらないものです」と途中で留め、魏本国を攻めさせた。魏の本国には弱小老兵が残っているだけだったので、趙を包囲していた魏の主力軍は慌てて包囲を解き急いで引き返したが、強行軍で疲労困憊したところを斉軍に攻められ大敗した。こうして孫臏は趙を救った。

褒姒(前792~不明)

『史記』の記述~亡国の笑い~ 褒姒は、笑ったことがなかった。幽王はなんとか彼女を笑わせようと手を尽くした。ある日、幽王は烽火を上げさせ、太鼓を打ち鳴らした。諸将はさっそく駆けつけたが、来てみると何ごとも無い。右往左往する諸将を見た褒姒は、そのときはじめて晴れやかに笑った。喜んだ幽王は、そののちたびたび烽火を上げさせたので、次第に諸将は烽火の合図を信用しなくなった。また王は佞臣の虢石父を登用して政治をまかせたので、人民は悪政に苦しみ、王を怨むようになった。

ジョン・ファストルフ(1378~1459)

オルレアン包囲戦前後 しかし、5月にジャンヌ・ダルクが包囲網を破り、イングランド軍がオルレアンから撤退するとその救援をベッドフォード公から命じられ、再びパリから南下して包囲網の司令官だったサフォーク伯とジョン・タルボット、トーマス・スケールズらと合流しようとした。だが、勢いに乗るフランス軍に6月18日のパテーの戦いで打ち破られ、タルボットとスケールズが捕らえられる中、残存兵を纏めて戦場から退却した。戦後はこの対応が問題視されベッドフォード公からガーター勲章を剥奪される、1433年に捕虜から解放されたタルボットから非難されるなど逆風にさらされたが、やがてベッドフォード公からの信頼を回復、カーンの総督に任命されたり、1435年にアラスで開催されたフランス・イングランド・ブルゴーニュの講和会議にベッドフォード公の使節として派遣され、同年にベッドフォード公が死去すると遺言執行人も任されている。

アンドレス・デ・ウルダネータ(1498~1568)

再び海へ 1564年、ヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコの死去にともない、ヌエバ・エスパーニャの統治はアウディエンシア管轄下に入った。フィリピン諸島の征服と植民地化のための遠征準備が最初の課題となった。これは1559年にフェリペ2世が下した命令で、指揮官に指名されたウルダネータは恐れていたし、副王は死ぬまでこの件を検討中としていた。ウルダネータは有能な航海士で、とりわけインド方面に強いと考えられていた。フェリペ2世はウルダネータに遠征参加を要求し、彼を指揮官とすることを提案した。ウルダネータは遠征参加に同意した。指揮権と前金は認められず、ミゲル・ロペス・デ・レガスピが指揮官とされていた。レガスピ座乗のサン・パブロ号を旗艦とし、ウルダネータ座乗のサン・ペドロ号、小型船のサン・フアン号とサン・ルーカス号が続くこの遠征艦隊は、ハリスコ州バーラ・デ・ナビダードを1564年11月21日に出発した。

アンドレアス・ペーター・フォン・ベルンシュトルフ(1735~1797)

外相として 同時期の課題にはフランス革命とそれを起因とするフランス革命戦争がある。ベルンシュトルフは厳正中立を崩さず、デンマークの貿易を守るために大国の間で均衡を維持した。彼は国際法を守りつつ挑発を避け、フランスとイギリスとも紛争があったもの柔軟に対応してデンマーク商人の利益を守った。彼はフランスへの介入も護送船団の派遣も拒否して、諸国からの尊重を勝ち取った。

ギルバート・ホワイト(1720~1793)

セルボーンの博物誌 ホワイトは、セルボーンで副牧師をつとめる傍らで、少年時代から興味を持っていた博物学の研究にほとんどの時間を費やし、その成果を約20年間にわたり博物学者のトマス・ペナントとデインズ・バリントンに送り続けた。ペナントらとの親交は、ギルバート・ホワイトの弟ベンジャミンが博物学書の出版を手がけていた関係から始まったものである。

大川平三郎(1860~1936)

日本の製紙王~大川財閥~ 大川は、彼と行動を共にした技術者・職工らと四日市製紙に移籍。1901年に上海の製紙会社に招かれ、1903年に帰国した後は九州製紙の社長に就任。次いで1906年中央製紙を、1908年木曽興業を設立し、1908年四日市製紙の役員に復帰、1909年には中之島製紙の会長にも就任した。1914年樺太工業を設立、1919年には大手製紙会社富士製紙の社長に就任。この結果大川が経営する製紙会社は合計で国内市場の45%を握り、大川は「日本の製紙王」と呼ばれた。1933年に王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社が合併した際は、同社の相談役に就任した。さらに浅野セメント、札幌ビール、東洋汽船、日本鋼管、鶴見臨港鉄道など80余の企業経営に携わり「大川財閥」を作り上げた。鶴見線の大川駅は彼の名前にちなんで命名された。

松平忠直(1595~1650)

越前騒動 1612年冬、重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者よりこれを直訴に及ぶに至る。祖父徳川家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の今村盛次・清水方正は配流となる一方、同じ重臣の本多富正は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。翌1613年6月、家中騒動で再び直訴のことがあり、遂に富正が越前の国政を執ることとされ、加えて富正の一族・本多成重を越前家に付属させた。これは騒動が重なるのは忠直が、まだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである。

鹿児島のベルナルド(不明~1557)

日本人初のヨーロッパ留学生 一人残されたベルナルドは、1553年3月にポルトガルに向けてゴアを出発し、同年9月にリスボンに到着した。長い航海の疲れからベルナルドは病床に伏したが回復し、1554年2月からコインブラの修道院で暮らした。イエズス会員としての養成を受けることになったベルナルドの様子については、長上からローマのイグナチオ・デ・ロヨラのもとに書簡で報告されていたが、ベルナルドの強い信仰心と真摯な姿を聞いたロヨラはベルナルドをローマへ招いた。

村井貞勝(不明~1582)

京都所司代 1575年4月、信長は困窮した公家を救うため、公家の旧領を返還させる徳政令を発する。貞勝は丹羽長秀とともに、土地や文書の調査や係争を担当した。7月、信長に官位昇進の勅諚が出されるが、信長はこれを固辞、代わりに家臣団への叙任を願い出て勅許された。7月23日、貞勝は朝廷との繋がりも考慮されて正六位下・長門守に叙任される。10月19日には伊達輝宗の使者を接待した。

アブデュルアズィズ(1830~1876)

西洋訪問と海軍整備 1867年にはパリで開催中だった万国博覧会の視察を目的に、オスマン帝国の皇帝としては史上初となる西欧諸国歴訪を行った。その折に列強の持つ装甲艦に魅了された彼は、のちに海軍力の増強に力を入れたため、この時期のオスマン帝国海軍は軍艦の保有数だけでは世界有数となった。また、パリ、ロンドン、ウィーンなどの博物館も視察し、帰国後にイスタンブール考古学博物館を設立した。1863年にはオスマン帝国で初めて切手が発行され、1875年に万国郵便連合に加入し、民法典も整備された。

クリスチャン10世(1870~1947)

1920年のイースター危機 元来シュレースヴィヒに住むデーン人問題は長らく存在していたが、第一次世界大戦におけるドイツ帝国の敗北はこの問題の解決の糸口を作った。ヴェルサイユ条約の規定のよればシュレースヴィヒは2地区で住民投票で帰属を決定することになっていた。ドイツ系の住民が多数派を占める南シュレースヴィヒでは住民投票そのものが行われず、戦後もドイツの一部であると定められた。

ヴワディスワフ1世(1260~1333)

短身王 ヴワディスワフは国外への亡命を余儀なくされていたが、ボヘミア王によるポーランド支配はうまく行かず、さらにヴァーツラフ2世と息子ヴァーツラフ3世の相次ぐ急死でボヘミアは混乱状態に陥った。一方のヴワディスワフは1305年に帰国し、自身の支持者達の軍勢を引き連れてマウォポルスカを占領した。15世紀の歴史家ヤン・ドゥゴシュによれば、ヴワディスワフの軍勢は騎士ではなく農民が主体になっていた。またヴワディスワフはグダニスクを中心にポメレリアをも征服したが、在地の領主やブランデンブルクから移住してきたドイツ人達の支持を得ることができず、バルト海沿岸に対する支配をあきらめせざるを得なくなった。

筒美京平(1940~2020)

ブルー・ライト・ヨコハマ 街の灯りがとてもきれいねヨコハマブルー・ライト・ヨコハマあなたとふたり幸せよいつものように愛の言葉をヨコハマブルー・ライト・ヨコハマ私にくださいあなたから歩いても歩いても小舟のように私はゆれてゆれてあなたの腕の中足音だけがついて来るのよヨコハマブルー・ライト・ヨコハマやさしいくちづけもう一度歩いても歩いても小舟のように私はゆれてゆれてあなたの腕の中あなたの好きなタバコの香りヨコハマブルー・ライト・ヨコハマ二人の世界いつまでも

トリスタン・ツァラ(1896~1963)

ダダイスム ダダイスムの流れは、第一次世界大戦の1910年代半ばに、ヨーロッパのいくつかの地方やニューヨークなどで、同時多発的かつ相互影響を受けながら発生した。「ダダ」という名称は1916年にトリスタン・ツァラが命名したため、この命名をダダの始まりとすることもある。ツァラなどによってチューリッヒで行われた、特にチューリッヒ・ダダと言われる運動は、キャバレー・ヴォルテールを活動拠点として参加者を選ばない煽動運動的要素も孕んでいた。1918年にチューリッヒでツァラにより第2宣言がなされる。

カッシオドルス(485~585)

 ウィウァリウムの修道院 そこには2つの建物がある。共住修道院と修養所であり、隠遁を望む人々のために建てられた。ウィウァリウムの修道院は、共住修道士を受け入れ、ともに隠棲することができるようにする施設だった。ウィウァリウムはたとえばベネディクト会のそれのような厳格な修道会の掟には従っていないようにみえるが、もとよりカッシオドルスの「綱要」は修道士の学びを手助けをするものであった。そのために、「綱要」の大部分はウィウァリウムの書架で利用することを想定して書かれているのである。「綱要」の第1部はキリスト教文書を扱っており、「詩編講解」とあわせて読むことが意図されている。2冊目は自由七科を扱い、大量のギリシャ語とラテン語の文献が示され、さらなる研究のために、筆写と翻訳のための写字室がウィウァリウムには備えられていた。

土井利位(1789~1848)

雪の殿様 1841年1月に大御所徳川家斉が死去し、5月に老中首座水野忠邦による天保の改革が始まると、利位は忠邦に協力して改革に参与した。ところが1843年、忠邦が打ち出した江戸・畿内周辺に対する上知令に関しては、自らの所領が畿内にもあったために反対し、反水野派の中心人物となる。水野派の鳥居耀蔵らの裏切りもあって忠邦を辞任に追い込み、その後を受けて老中首座に任命された。

及川古志郎(1883~1958)

太平洋戦争~海上護衛司令長官~ 1943年11月15日、初代海上護衛司令長官に補される。海上護衛総司令部は一定海域に安全航路を設定し防備を集中して戦力不足を補う「航路帯構想」を進めた。同構想は及川の指示で、海軍大臣の嶋田繁太郎や軍令部総長の永野修身とも話し合った結果まとめられた。作戦参謀の大井篤によれば「潜水艦阻止帯を作り安全海域とする。ここで自由航行し積極的に稼行率を発揮する。これらの島や陸地を連ねる機雷敷設線を作る。深いところは付近に陸上見張り所を設ける。電探、水中聴音装置で監視し常時哨戒する」構想だったという。12月中頃から東シナ海方面で実施された。

鍾繇(151~230)

関中を統治する 202年、袁尚と手を結んだ匈奴単于が河東郡平陽で反乱を起こすと、鍾繇は平陽を包囲した。このため袁尚配下の郭援や高幹が平陽へ救援に向かった。諸将が郭援の勢いが盛んであることを理由に撤退を主張したが、鍾繇は関中の不安定な状勢を考えると撤退が難しいと説得し、また縁戚でもある郭援の性格を熟知していたことから、必ず打ち破れると鼓舞した。一方で張既に命令して、馬騰に郭援を討伐するよう説得させた。馬騰は説得に応じ、援軍として子の馬超や龐徳ら一万余人を送った。鍾繇は馬超・龐徳とともに郭援と戦い、川を渡りきる前に攻撃して大破し、郭援を討ち取り呼廚泉を降伏させた。鍾繇は、郭援を直接討ち取った龐徳から首級を見せられ号泣したが、陳謝する龐徳に対して「郭援は謀反人であるのだから、謝罪の必要はない」と言い、公私の別を明らかにしたという。

万里集九(1428~不明)

梅花無尽蔵 室町中期の禅僧万里集九の詩文集。7巻。書名は著者が影響をうけた南宋の陸游の詩を出典とする。美濃鵜沼の庵居にも同じ名をつけた。作品中最後の年記は1502年3月で、著者みずからが整理分類して各部類ごとに年代順に配した。題下および文末などに自注を付ける。本文と自注には作者の足跡が及んだ各地のようすを伝える記事がみえる。

ペダニウス・ディオスコリデス(40~90)

『薬物誌』~歴史~ 『薬物誌』は、ヨーロッパでは1600年頃まで用いられ、植物学・本草学に関して、ヨーロッパの歴史上もっと影響を与えた書物となった。多くの古代ギリシャの書物は、異教の文化としてヨーロッパで一度失われ、西洋文化の中心であったアラビアよりもたらされたり、中世盛期からルネサンス期に再発見されたものであるが、本書はそれらと異なり古代より途絶えることなく流布していた。

エドワード・テラー(1908~2003)

アラスカ人工港計画 1950年代に、テラーにアラスカに核爆発を利用して大規模な人工港を作るという「チャリオット作戦」を公表した。これは、アラスカには無人の荒野が広がっているという先入観があってのことだったが、そこはアメリカ大陸で最も古くから人類が住む土地であった。その結果、民族意識に目覚めたエスキモーやインディアンなどのアラスカ原住民を中心とする反対運動が高まり、この計画は幻と終わった。

トーマス・ハリオット(1560~1621)

ケプラー予想 数学史においては、船倉に球形の砲弾を最も多く詰める方法に最初に取り組んだ数学者として知られる。また、メルカトル図法の数学的定式化にも携わった。ローリーが投獄された後、新しいパトロンとしてヘンリー・パーシーのために働いたが、1605年、火薬陰謀事件のためにパーシーとともに一旦は投獄されるがすぐに釈放されるという経験をした。

ミレトスのヘカタイオス(前550~前476)

懐疑主義 ヘカタイオスの著作、特に『Genealogiai』は顕著な懐疑主義を示している。『Genealogiai』は次の言葉で始まる。「ミレトスのヘカタイオスはかく語りき。私は真実と思うことを書く。ギリシャ人の話は多種多様で、私にはばかげたものに思われる」。しかし、同時代のクセノパネスと違って、ヘカタイオスは神話を批判しなかった。ヘカタイオスの疑問はむしろ、旅で知った神話の多くの矛盾から生じたものだった。

クルト・ゲーデル(1906~1978)

ゲーデルの不完全性定理 ゲーデルの不完全性定理又は単に不完全性定理とは、数学基礎論における重要な定理で、ある性質を満たす自然数論の理論において決定不能な命題が存在することを示す。クルト・ゲーデルが1930年にある特定の理論について証明し、同様の手法で他の自然数論の理論・自然数論以外の理論についても証明されることが理解された。