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山科直治(1918~1997)

バンダイ~1950年代~ 創業者、山科直治の義兄久々津一夫が経営する繊維会社「萬代産業」の玩具製造子会社「萬代屋」として浅草にて創業。「萬代」とは武経七書の一つに数えられる兵法書「六韜」に登場する語の「萬代不易」に由来し、創業者の山科直治が「いつの世も人の心を満たす物を作り、絶えない企業の発展を願う」という意味だとしている。

岩田聡(1959~2015)

任天堂時代 2002年、42歳のときに山内から指名を受け、5月31日付けで任天堂の代表取締役社長に就任。任天堂は、1889年に山内溥の曽祖父である山内房治郎が創業して以来、山内家の同族経営であったため、当初、次期社長は山内溥の長男・山内克仁が娘婿の荒川実だと思われていた。そうした中での入社2年目の岩田の抜擢は、異例中の異例であった。なお、それまで会社の意思決定は社長に一任されていたが、岩田の社長就任以降は取締役会によって決定されることとなる。これは「今後の時代に対応するには、集団指導体制にするべき」と考えた山内からの提案である。

フランシス・プーランク(1899~1963)

カルメル派修道女の対話~第1幕第1場~ ド・ラ・フォルス侯爵の書斎。書斎でうたた寝していたド・ラ・フォルス侯爵は、騎士ド・ラ・フォルスから、ブランシュの乗る馬車が群衆に取り囲まれて身動きできないとの知らせを聞き、ブランシュの身を案じていた。程なくしてブランシュは戻り侯爵は安堵するが、ブランシュはコンピエーニュの修道院へ入りたいと言い出す。

黒沢隆朝(1895~1987)

山の音楽家 わたしゃ音楽家山の小りすじょうずにバイオリンひいてみましょうキュキュキュッキュッキュキュキュキュッキュッキュキュキュキュッキュッキュキュキュキュッキュッキュいかがですわたしゃ音楽家山のうさぎじょうずにピアノをひいてみましょうポポポロンポロンポロンポポポロンポロンポロンポポポロンポロンポロンポポポロンポロンポロンいかがですわたしゃ音楽家山の小鳥じょうずにフルートふいてみましょうピピピッピッピピピピッピッピピピピッピッピピピピッピッピいかがですわたしゃ音楽家山のたぬきじょうずに太鼓をたたいてみましょうポコポンポンポンポコポンポンポンポコポンポンポンポコポンポンポンいかがですわたしゃ音楽家山の仲間じょうずにそろえてひいてみましょうタタタンタンタンタタタンタンタンタタタンタンタンタタタンタンタンいかがです

桃井春蔵(1825~1885)

幕府軍 1867年、幕府軍の遊撃隊頭取並に任じられ、将軍・徳川慶喜の上洛に警護役として同行。大坂玉造臨時講武所剣術師範となる。しかし同年、大坂城での軍議で戊辰戦争の開戦に反対し、開戦派の幕府軍人と対立して幕府軍を離脱。幕府軍人に命を狙われることとなり、士学館の高弟数名とともに大雪の夜、南河内の幸雲院という寺に落ち延びる。翌1868年1月27日に鳥羽・伏見の戦いが開戦。幕軍は敗れ、大坂城は炎上し、京坂は官軍に占領された。同年5月、幕府から桃井に彰義隊への入隊勧誘があったが、これを断り、逆に官軍からの要請で川崎東照宮境内に道場を建て、大坂の治安維持に当たる薩摩・長州・芸州の兵に撃剣を指導した。

伊東一刀斎(生没年不詳)

唐人との試合 天正年間、相模三浦三崎に戸田一刀斎が諸国武者修行の途次に立ち寄り、多くの入門者があったとされる。このとき、北条氏の家臣、古藤田俊直を高弟としていることから、この戸田一刀斎は伊東一刀斎に間違いなさそうである。1578年、三浦三崎に唐人が来航したときに十官という中国刀術の名人がいて、一刀斎は一本で木刀を持った十官と試合し、勝ったといわれる。

ジョージ・アダムス・リーランド(1850~1924)

ソフトテニス 1886年に体操伝習所は廃校となった東京高等師範学校に体育専科がおかれ、リーランドの帰国後、体操伝習所において彼の後任主任教員であった坪井玄道が教師に主任、テニスの指導をおこなう一方で、三田土ゴムにゴムボール製造を委嘱して、普及に尽力した。

坪井玄道(1852~1922)

戸外遊戯法 1885年に伝習所卒業生兼教員の田中盛業とともに児童向けの遊戯指導書『戸外遊戯法』を出版。同書では約21の遊戯が紹介されている。1887年に『普通体操法』を出版した。坪井は合理主義的軽体操と自然主義的遊戯を併せた体育論を唱え、学校の必修科目に体操を加えることの必要性を論じた。1890年より高等師範学校および東京女子師範学校日本体育会体操練習所の教授に就任する。1896年、この年に創設された東京高師のフートボール部の部長に就任した。

ウィリアム・ジョージ・モーガン(1870~1942)

バレーボールの考案 モーガンは中年のサラリーマンに対して体育を教えていたときに、バスケットボールは人と人とがぶつかりあう非常に激しいスポーツであることに気がついた。そこでモーガンは誰にでも気楽に楽しめるスポーツを作ろうと思い、試行錯誤をした末に1895年にバレーボールを考案した。バレーボールは当時ミントネットと呼ばれていた。バレーボールの最初の試合はマサチューセッツ州ホリーヨーク市の市長と消防署長がキャプテンを務めるチームの間で行われた。

カール・シュレンツ(1890~1956)

ハンドボール~ドイツでの発祥~ 1915年ごろ、公式に残る記録では1919年、ドイツ人体育教師のカール・シュレンツにより競技規則が制定されている。この競技規則では、1チーム11人、競技場は縦40m×横30m、ゴールエリアは半径8mの半円状で、ゴールの大きさは高さ2.1m×横7mとされた。また、ボールを保持した状態での移動を、現在のハンドボールと同様に3歩までに制限している。シュレンツは、この競技を「人間の基本的な動作や本能と合致した自然な運動」と捉え、特に「走・跳・投の3要素による、身体形成への有用性」を強調している。

フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン(1778~1852)

体操~ドイツ体操~ ドイツ体操はバゼドー、フィヒテらの思想を継いだフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンによって1811年に創始された。バゼドーは神学教師であったが、哲学者ルソーの『エミール』に触発され、身体と精神は互いに助け合わなければならないと考え、その実現の場として1771年にデッサウに汎愛学校を設立し、平均台や徒歩競争などを含む体育法「ギリシャ体育」を生徒に施した。ヤーンは教育所を設立して高跳び用のスタンドなど体操用の器械を考案し、『ドイツ体操術』の著し、運動を愛国心に結び付け、旅先や公園で指導し、その発展と普及に努めた。今日の器械体操競技種目の大部分がヤーンの創案によるものである。その後スピースに引き継がれ、号令による運動や性別・年令に応じた段階的・組織的運動などを採り入れ、ドイツ初の器具装備の体操場を造った。1860年にはドイツ体操祭が開催され、今も4年に一度開催されている。スウェーデン体操の研究家ロートシュタインにより、青少年の体育手段として有害であるなどの批判を受け、激しい論争が行われたが、医者などの支持を得て、今日に至っている。

ジェームズ・ネイスミス(1861~1939)

バスケットボール考案 1891年、この学校の体育学部長ルーサー・ギューリックは授業で学生たちに屋内競技の考案を課題として与えた。これは冬季のニューイングランドで学生たちが体を動かせるようにと意図したものだった。学生らが提出した様々な案は、ラグビーやサッカーのように身体接触を含み、屋内には不向きのものが多かった。一方でギューリックはネイスミスが考案した競技に興味を持ち、2週間の期間を与えさらに詳細を詰めるようネイスミスに指示を出した。

サンバージー(1657~1689)

マラーター王として即位 父が急逝したとき、シヴァージーには2人の息子、サンバージーとラージャーラームがいた。父の死に際し、サンバージーは軟禁状態にあったため、弟ラージャーラームの母、ソーイラー・バーイーは自身の息子を王位につけようとした。サンバージーはこれを聞くと直ちにラーイガド城へと向かい、その母ソーイラー・バーイーを押さえ、ラージャーラームをラーイガド城に軟禁状態にした。のち、ソーイラー・バーイーは毒殺された。こうして、同年7月20日にサンバージーは父シヴァージーの後を継いで、第二代マラーター王となった。

ムバーラク・ビン・サバーハ・アッ=サバーハ(1837~1915)

治世 1897年に宗主国であったオスマン帝国はクウェートの突然の簒奪者ムバーラクに対し、宗主権再確認の声明を出し、アル・ハサ地区の軍備を強化の上でバスラの兵力を増強した。1898年にトルコはクウェート侵攻を行おうとしたが、イギリスの抗議で取りやめることになった。そして、インド総督カーゾン卿と1899年1月23日にイギリスとの間の保護条約を結ぶ。

ジョージ・フロイド(1973~2020)

ジョージ・フロイドの死~事件~ この事件は2020年5月25日、ミネソタ州ミネアポリスのダウンタウンの南にあるパウダーホーンでのフロイドの逮捕中に発生した。事件の顛末は同行していた友人らと数人の一般人が携帯電話で撮影した動画に記録されている。警察は声明の中で、逮捕は車から降りるように命じられたフロイドが「物理的に抵抗した」後に行われたと説明したが、この主張は近くの防犯カメラ映像、および前述の一般人による動画の記録と食い違っている。フロイドが繰り返し「息ができない」と言っている逮捕の録画動画は、ソーシャルメディア・プラットフォームで広く流布され、メディアによって放送された。関与した4人の警察は翌26日に解雇され、押さえつけていた元警官は29日に逮捕・起訴された。

ヘンリー・オルデンバーグ(1618~1677)

王立協会の初代事務総長 ブレーメンに生まれた。ブレーメンのギムナジウムと、短い間ユートレヒトに学んだ後、イギリス貴族のチュータなどをした。1653年ブレーメン市議会の外交官としてイギリスに渡った。数年で私人として活動しオクスフォードの科学者グループに加わり、1660年に設立された王立協会のメンバーになった。1662年王立協会の事務総長に任命された。

ヴィルヘルム・オルバース(1758~1840)

小惑星の発見とオルバースの仮設 1781年にウィリアム・ハーシェルによって新たな惑星である天王星が発見され、地球以外の惑星は古代から知られた5つだけではないことが明らかとなった。特に、19世紀初頭までにはティティウス=ボーデの法則を論拠として、軌道の開いた火星と木星の間には未発見の惑星があるという推測がなされ、フォン・ツァッハ、シュレーターらによって天空の警察と呼ばれた組織的な探索も開始されていた。これは黄道帯を24の領域に分割し各地の天文台で分担して捜索するという前例のない国際的プロジェクトだった。オルバースもこの探索プロジェクトにおいて重要な役割を果たした。

カールリス・ウルマニス(1877~1942)

独立ラトビアの政治家として 第一次世界大戦も終盤にさしかかった頃、ウルマニスは政党「ラトビア農民連合」を組織した。農民連合はたちまちラトビアを二分する大政党へと成長し、サエイマの創設に深く関与した。1918年11月18日、サエイマはウルマニスを初代首相としてラトビア共和国の独立を宣言した。1919年から1920年にかけての独立戦争に勝利したのちに制憲協議会が開催され、ラトビアは議会共和制を確立した。ウルマニスは1918年から1934年の間に組織された内閣にて数次にわたり首相を努めた。

右近(生没年不詳)

小倉百人一首 忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな

吉野太夫(1606~1643)

逸話 吉野を見染めた刀鍛冶職人駿河守金網の弟子が爪に火を灯すように上げ代53匁を貯めて島原に向かうものの、太夫の相手となる格に遠く及ばず門前で追われる。それを不憫に思った吉野はその男をひそかに招き、思いを遂げさせたという。井原西鶴の『好色一代男』では、それを目にした主人公の世之助が「これぞ女郎のあるべき姿」と嫁にひくことになっており、「なき跡まで名を残せし太夫。前代未聞の遊女也。いづれをひとつ、あしきともうすべきところなし。情第一深し」と残している。

三宅石庵(1665~1730)

懐徳堂~江戸時代の懐徳堂~ 1724年、大坂の豪商たちが出資し、三宅石庵を学主に迎えて船場の尼崎町一丁目に懐徳堂を設立した。三星屋らは懐徳堂の「五同志」と称される。1726年、将軍徳川吉宗から公認されて官許学問所となり、学校敷地を拝領した。官許は得たものの、その後の運営の財政面は町人によって賄われ、懐徳堂が「町人の学校」と呼ばれる所以となっている。明治政府によって旧幕府から受けていた諸役免除などの特権を廃止され、1869年に懐徳堂はいったん廃校となる。

フィリッパ・オブ・エノー(1314~1369)

百年戦争~カレー包囲戦~ 1346年4月に夫が再度フランスへ遠征した時、イングランドの摂政を任された。スコットランド王デイヴィッド2世が南下すると迎撃に向かい、10月のネヴィルズ・クロスの戦いにおいては、全軍を前に激励の演説をしたという。戦いはデイヴィッド2世を捕虜としたイングランド軍の勝利となり、エドワード3世の方も8月のクレシーの戦い、9月から1347年8月にかけて包囲したカレーを落とし、イングランド軍は連戦連勝で勢いを増した。なお、1346年暮れにフィリッパもフランスへ渡りカレー包囲中の夫と合流、カレーが開城した際は夫に取り成して市民代表6人の処刑を中止させている。

ハリーファ・ビン・ハマド・アール=サーニー(1932~2016)

サーニー家 1972年2月22日、首長アフマドの政治手腕に疑問を抱いた王族サーニー家の支持を受け、ハリーファが首長に就任。この交代劇を、欧米のマスコミはクーデターと報じたが、カタールの民衆は単なる権力譲渡と受け取った。首長となったハリーファは政治改革に着手。王族の財産特権の一部を廃止した。さらに外相を兼務。1972年4月19日には憲法を改革、大臣の数を増やして内閣を拡大した。この内閣はその後10年以上改選されなかった。また、外交を重視し、新たに数カ国と大使を交換した。

インゴールヴル・アルナルソン(不明~910)

植民の書 『植民の書』はインゴールヴル・アルナルソンによる最初の入植の記述から始まっている。彼は今のレイキャヴィークに入植し、北部、西部、東部、南部の土地を要求した。その後、記述は最初の入植者たちの子孫に関するものへと移り、12世紀に至るまでの重要な出来事と一族の歴史を辿っている。全部で、3,000人以上の人物の名前と、1,400以上の入植地の名前が書き留められており、特に重要な入植者として435人を取り上げている。彼らの多くはアイスランド本島の北部や南西部に入植した。この文献は、アイスランド人の歴史と家系の両方に関する貴重な資料を残している。

マルクス・ウァレリウス・コルウス(前370~前270)

3度目の執政官選出 紀元前343年、ウァレリウスは再び執政官に就任。同僚はパトリキのアウルス・コルネリウス・コッスス・アルウィナである。この年、サムニウム人がシディキニ人を攻撃し、彼らはカプアに救援を求めたものの衆寡敵せず、カプアはローマに泣きついた。ローマは元々サムニウム人と条約を結んでいたため、信義にもとると執政官は断ったが、カプアはローマへ自らの全てを差し出し託すとして助けを請うた。カプアの捨て身の願いに動かされたローマはサムニウムへ使節を派遣、攻撃中止を訴えたが、けんもほろろに断られ、ローマはサムニウムとの開戦を決意した。ウァレリウスはカプア救援のためカンパニアに軍を進めると、ガウルス山の戦い、スエッスラの戦いに勝利して凱旋式を挙行。

アンティパトロス(前397~前319)

アレクサンドロスの元で また、王の留守を狙って紀元前332年にトラキアのメムノンが、紀元前331年にスパルタ王アギス3世がマケドニアに対して反乱を起こした。アンティパトロスは二正面作戦を避けるためにメムノンを許し、アギスと戦った。紀元前331年、アンティパトロスはメガロポリスの戦いでアギスを破り、反乱を鎮圧した。そして、彼自身のアギスへの勝利、エピロス王アレクサンドロス1世のイタリア遠征の失敗、トラキアでの将軍ゾピュリオンの敗死などを手紙で王に報告した。同年にアンティパトロスは東征軍へと増援部隊を送った。

ジムリ・リム(不明~前1761)

ジムリ・リムとハンムラビ 紀元前1766年頃、バビロンの王ハンムラビは東にエシュヌンナ、南にラルサという強敵を抱え、さらに種々の異民族の攻撃を受けており、マリにたびたび軍事援助を依頼した。ジムリ・リムはそれに応え、ヤムハド王ヤリム・リム1世からも兵を得て30000人の援軍をバビロンへ送った。この時期のバビロンの敵はエシュヌンナ、およびその同盟国エラムなどであったと思われるが、この時送られた兵の返還をジムリ・リムが求めた時、ハンムラビは「敵の出方がわかるまでは借りておきたい」としてバビロンに長期間留めていた。またマリに対してバビロンから援軍が送られることもあったが部隊派遣が遅れることが多く、それに対してマリ側が抗議していたことがわかっている。その後間もなくして、ハンムラビはラルサを滅ぼした。その後、バビロンはエシュヌンナやアッシリア、グティ人の連合軍と戦った。エシュヌンナはそれまでにマリに何度も攻撃を仕掛けており、ジムリ・リムはハンムラビを支援したことを示す書簡が発見されている。この中でジムリ・リムはハンムラビにエシュヌンナを支配するべきであると薦めている。

ワスカル(1490~1532)

内戦の経過 ワスカルはワイナ・カパック死亡時にクスコにいたため、アタワルパが現在エクアドルとして知られている遠隔の地にいた間に首都で軍隊を組織化することができ、内戦当初は優勢であった。帝国の大半を押さえたワスカルは大軍と共に北に侵攻し、間もなく最初の戦いの1つでアタワルパを捕らえたため、多くの血を流すことなしに戦争は終結するように見えた。しかし、アタワルパは少女の助けにより幽閉状態から脱走し、軍隊を組織し、3年間の兄弟との戦争に勝ちを収めた。皇位請求のため帝国北部からクスコへの進軍の途中、カハマルカでの露営時にアタワルパはスペイン人のコンキスタドールであるフランシスコ・ピサロと出会い捕らえられた。間もなくワスカルは彼自身の従者によって暗殺され、アタワルパは兄の殺害を命令したとして、スペイン人により死刑となった。しかし、ワスカルの死についてアタワルパが関与した証拠はない。

フランシス・ウォルシンガム(1532~1590)

国王秘書長官~諜報・秘密警察業務~ エリザベス女王は1570年にローマ教皇ピウス5世に破門され、以後イエズス会士などカトリック宣教師がイングランドに潜入してきて反エリザベス謀議を行うようになった。先のリドルフィ陰謀事件もカトリックによって起こされた事件であった。1580年代になると教皇は一層反エリザベス姿勢を強め、エリザベスを暗殺した者には祝福を与えるとまで宣言し、カトリックのエリザベス暗殺謀議も一層増加した。

伊勢(872~938)

小倉百人一首 難波潟みじかき芦のふしのまもあはでこの世を過ぐしてよとや

相馬義胤(1548~1635)

豊臣政権による小田原征伐 11月28日、豊臣政権は関東小田原の北条氏を追討することを決定し、関東・東北の諸侯に自軍への参加を求めた。相馬氏にも石田三成より、翌月の上旬に出仕を求める書状が届く。12月20日、政宗は中島宗久あての書状の中で、来春の相馬攻めのことを告げた。1590年1月3日、これより先に義胤は中島宗久の仲介で伊達との和議を請うが、これは難航した。同日、政宗は中島氏当ての書状を送り、相馬の様子を探らせた。相馬は岩城と伊達の和睦を知り、一方で単独では伊達への抵抗が難しいことを悟ったが、伊達氏の方略は北条と結んで佐竹を屈服させ、さらに豊臣氏に対抗するところにあった。1月20日、秀吉は政宗に書を送り、小田原への参陣を命じた。

マリア・レオポルディナ・デ・アウストリア(1797~1826)

ブラジル王太子妃 当時の王太子ペドロはリオデジャネイロにいた。そこに、レオポルディナは1817年11月には3ヵ月の長い旅を経て到着した。1817年11月、リオデジャネイロ市宮殿の王立教会で大いなる輝きのもとでレオポルディナとペドロの結婚式が執り行われた。ここではペドロはがさつな男であったので、レオポルディナは急速に夫に対して影響力を増していった。ペドロはブラジルの独立宣言のすべての政治的な役割をレオポルディナと議論し彼女の助言に従っていた。1822年1月、ペドロは、父王のブラジルの王権を委任を、広範な自治へと導いた。この国の歴史上決定的な歩みはレオポルディナの影響力による。1822年のペドロがこの年にサンパウロへの旅行を決定したときに、彼はレオポルディナに首都の留守を任せる摂政妃とした。1822年9月、ペドロは、レオポルディナの懇願によって、ブラジルのポルトガルからの独立を宣言した。

フリードリヒ・フォン・ヴィーザー(1851~1926)

業績~経済計算論争~ 経済計算論争は、経済効率についての厳密な計算を最高に重要とする彼の考えから始まった。価格は、とりわけ市場条件に関する情報を表現し、それゆえいかなる種類の経済活動に対しても必要である。社会主義経済はそれゆえ、稼働する為には価格機構を必要とするであろう。

ギュスターヴ・ル・ボン(1841~1931)

研究業績~群衆心理学~ 1895年の『群衆心理』によってル・ボンは心理学者としての名声を確かなものとした。ル・ボンは、同書の中で「今われわれが歩み入ろうとしている時代は、群衆の時代である」と論じた。ここで、群衆とは、その構成員すべてが意識的人格を完全に喪失し、操縦者の断言・反復・感染による暗示のままに行動するような集合体である。そして、ル・ボンは、産業革命以後の社会現象の特徴が、人びとをこうした群衆心理下に追いやるものであると論じた。

マフムト1世(1696~1754)

ヨーロッパでの戦争 一方、1735年から新たな敵ロシア帝国およびその同盟国オーストリア帝国との戦争を始めた。まずオスマン側はロシアと開戦したが1736年までにクリミアの要衝に位置する要塞とバフチサライをロシアに占領された。ただし1737年から1739年にかけてクリミアで疫病が流行り出したためそこで南万人ものロシア軍が病死し、しばらくは足止めに成功した。オーストリアとは1737年に開戦し、そこでは連戦連勝であり、ベオグラードを奪還するなどした。しかし1739年にロシア軍の攻勢によってヤッシーを占領された。それに対抗すべくオーストリアとベオグラード条約を結び停戦した。ロシアは単独で勝てないと考え、ニシュ条約を締結し、アゾフを割譲するだけと、割譲は最低限になった。イラン戦線も終結してからはオスマン帝国は戦争を控え、1768年に露土戦争が始まるまで平和を保った。

フランソワ=ジョセフ・ゴセック(1734~1829)

レクイエム 『レクイエム』は、フランソワ=ジョセフ・ゴセックが作曲したレクイエムである。1760年に1760年にパリのサン・ジャック街のジャコバン派の教会にてゴセックが指揮を務め、初演された。本作は一般聴衆のためのコンサート・シリーズの一つであった《コンセール・スピリチュエル》において革命時まではしばしば演奏された。

ゴットフリート・アウグスト・ビュルガー(1747~1794)

ミュンヒハウゼン男爵~「ほら吹き男爵物語」~ 冒頭に記された出版の経緯によると、晩年のミュンヒハウゼン男爵は話好きで、館に客を集めては、フィクションを交えた自分の体験談を話して聞かせた。その話があまりにも面白いので、ある人物がこっそり彼の話を記録し、本人に無断で出版することにした。話を聞いたミュンヒハウゼンは怒って出版をやめさせようとしたが、本は結局売り出され、人気を呼んだ。ミュンヒハウゼン男爵は、憤慨のあまり死んでしまった。

マティルダ(1102~1167)

神聖ローマ皇后~イングランド人の女君主~ マティルダを支持する異母兄グロスター伯ロバート率いるアンジュー伯派は、1141年にスティーヴンを破りこれを捕獲するという大勝利を挙げた。マティルダはイングランド人の女君主を名乗ってロンドンに至り、ロンドン入城とともに戴冠し女王となる予定を立てていたが、これに先立ってロンドン市から寄せられた減税の陳情をにべもなく却下したことから、ロンドン市民はマティルダに愛想をつかして城門を堅く閉ざし、その入城を拒むに至った。そうこうするうちにスティーヴンは解放され、するとまもなく内戦が再開し、これでマティルダ戴冠の機会は永遠に失われた。

マルカム3世(1031~1093)

大首領王 1066年にノルマンディー公ギヨーム2世がイングランドを制圧し、イングランド王ウィリアム1世となった。サクソン王ハロルド2世の継承者エドガー・アシリングとその姉マーガレットが逃亡の途中で船が遭難し、スコットランド東岸に打ち上げられた。イーンガボーグをすでに失っていたマルカム3世は、マーガレットと再婚した。

山内溥(1927~2013)

社長時代 任天堂が苦境に陥っている最中、1965年に入社した横井軍平がが暇つぶしで作っていた遊び道具を1966年にウルトラハンドとして商品化させたところ大ヒットを記録。横井軍平を玩具商品開発の主任に据える。以降、電気・電子関係の技術を使った目新しい玩具でヒットを出した。デパートのおもちゃ売り場と得意の関係になったことなどから、1970年の光線銃SPのヒットを機に、山内は多角経営路線を諦めた。しかし、光線銃SPの発展版ともいえる「レーザークレー射撃場」という施設を全国各地に展開させようともくろみ、一時は軌道に乗り掛けたものの、運悪く第一次オイルショックが起き、その影響で建設計画撤回が相次ぎ、任天堂は多額の負債を背負い、再び倒産危機に直面することになる。しかし、山内はアーケードゲームに可能性を見出し、その路線を突き進むことになる。

中村雅哉(1925~2017)

バンダイナムコエンターテインメント 株式会社バンダイナムコエンターテインメントは、コンシューマーゲームなどのゲームソフトの制作および開発を行う日本の企業。バンダイナムコホールディングスの完全子会社であり、バンダイナムコグループにおける中核企業の一つ。本社は東京都港区。旧ナムコを母体としており、2006年3月31日にアミューズメント施設事業を新たに設立した株式会社ナムコに譲渡し、株式会社バンダイのゲーム部門を統合しバンダイナムコゲームスに変更、そして2015年4月1日に現社名に変更した。キャッチコピーは「アソビきれない毎日を」。

ラルフ・ベア(1922~2014)

発明 ゲーム機「ブラウンボックス」をはじめとする試作機を作り始めたのはSanders Associatesにた1966年のことである。1971年、マグナボックスがライセンスを取得し、1972年にオデッセイとして発売した。当時Sandersで最も高収益な事業だったが、軍需企業だったSandersの中では低く見られていた。世界初の家庭用テレビ向けライトガンとゲームも開発し、オデッセイ用拡張パック『Shooting Gallery』として販売した。このライトガンは家庭用ゲーム機初の周辺機器でもある。1978年から79年にかけて、3つの人気ゲームを生み出している。1978年発売の『サイモン』は電子的パターンマッチングゲームで、1970年代終盤から1980年代にかけて大人気となった。翌1979年には、『Super Simon』と『Maniac』を発売した。

レオナルド・トーレス・ケベード(1852~1936)

業績~オートマティカ、解析機関~ トーレスは1913年に発表した論文”オートマティカに関する小論”で「オートマティカ」と呼ばれる機械の提案とその実現可能性の検討を行った。これは人間のように知的な行動を行う、あるいは人間を置き換えるような機械で、現在のさまざまな自動制御機械に相当する。この機械は、外部からの情報を取り込むセンサー、腕のように外界を操作する部分、電池や空気圧などの動力源、そして最も大切な、取り込んだ情報や過去の情報を使って「判断」を行う部分からなり、外部からの情報に応じて生物のように反応を制御し環境の変化に適応して動作を変えることができるものとして定義された。

ジョージ・ビドル・エアリー(1801~1892)

業績~虹とエアリー関数~ 虹は光が水滴で反射屈折して生じたものであるこは、ルネ・デカルトの著書の中で1637年には既に解明されていた。しかし、幾何光学からの解析では、過剰虹と呼ばれる現象が説明できなかった。エアリーは、論文"焦線近傍の光強度について"で、光を波として捉えることにより、過剰虹の明暗分布の様子を示すエアリー関数を導き出してみせた。エアリー関数は、今日では単に虹を表現するだけのものではなく、シュレディンガー方程式の特定の条件での解として扱われている。

ベレニケ2世(前267~前221)

伝説~かみのけ座~ 夫のシリア遠征に際し、かみのけ座の逸話を残している。ベレニケ2世は、夫が無事に戻ったならば、美しく、かつ美しいゆえに有名であった自分の髪を女神アプロディテに捧げると誓った。夫が戻ると、王妃は髪を切り、女神の神殿に供えた。

センメルヴェイス・イグナーツ(1818~1865)

産褥熱低減運動~研究の発表と誤解~ 1847年までに、センメルヴェイスの研究はヨーロッパ中に広まりつつあった。彼とその生徒たちは、主だった産科病院の理事たちに手紙を書き、研究成果を伝えた。オーストリアの主要な医学雑誌の編集者だったフェルディナント・フォン・ヘブラは、1847年12月と1848年4月の2度にわたり、誌上でセンメルヴェイスの発見を紹介した。ヘブラは、この発見がエドワード・ジェンナーの種痘法発明に匹敵するほどに重大なものであると主張した。

岡本敦郎(1924~2012)

高原列車は行く 汽車の窓からハンケチ振れば牧場の乙女が花束なげる明るい青空白樺林山越え谷越えはるばるとララララララララララララ高原列車はラララララ行くよみどりの谷間に山百合揺れて歌声ひびくよ観光バスよ君らの泊りも温泉の宿か山越え谷越えはるばるとララララララララララララ高原列車はラララララ行くよ峠を越えれば夢見るような五色の湖飛び交う小鳥汽笛も二人のしあわせうたう山越え谷越えはるばるとララララララララララララ高原列車はラララララ行くよ

清岡卓行(1922~2006)

アカシヤの大連~内容~ 大連に生まれ育ち、東京のある大学の一年生だった「彼」は、第二次世界大戦が終わる5か月前に大連へ里帰りする。軍人になった兄二人、嫁いでたくましく生きる姉二人に比して文学青年であった彼は、戦争下の生活に矛盾を感じ、生きる望みもあまりなく、自殺まで考える。戦争は終り、ロシア統治下の大連は大きな問題はなく、彼は帰還船を待つ間に、知り合いの化学技術者の娘さんがデパートで働くのを手伝うことになり、...

クリスチャン8世(1786~1848)

ナポレオン戦争 ナポレオン戦争期、クリスチャン・フレデリクは従兄であるデンマーク王フレデリク6世によってノルウェー総督としてクリスチャニアに派遣されていた。キール条約によってデンマークがノルウェーをスウェーデンに割譲することになると、フレデリク6世はクリスチャン・フレデリクに帰国を命じたが、クリスチャン・フレデリクは従わず、ノルウェーの政治指導者によって国王に推戴され、同時に憲法が制定されて独立が宣言された。

ダニエル・モーガン(1736~1802)

アメリカ独立戦争~カナダ侵攻作戦~ 1775年遅く、大陸会議はカナダ侵攻作戦を承認した。リチャード・モントゴメリー将軍のカナダ侵攻を助けるために、ベネディクト・アーノルド大佐がワシントン将軍を説得して、ケベックを東側から攻める部隊を派遣しようとした。この頃、アーノルドはタイコンデロガ砦の功績で英雄扱いを受けていた。ワシントンは彼のボストン駐在部隊の中から、兵士達が志願するならば、ライフル銃兵3個中隊を派遣することに同意した。ボストンのすべての中隊が志願してきたので、どの隊を派遣するかはくじ引きで決められた。アーノルドはその3個中隊を一つの部隊として指揮する者としてモーガン大尉を選んだ。遠征隊は9月25日にウェスターン砦を出発し、モーガンは先導隊を率いた。

堤康次郎(1889~1964)

政治家として 箱根土地の経営に関与している頃から、康次郎は永井柳太郎の選挙参謀となるなど政治にも関わっていたが、1924年の総選挙に滋賀5区から衆議院議員に立候補する。旧彦根藩士で家老職を務めた家柄である堀部久太郎が対立候補だったが、当時としては先進的な土地改革を公約するなどして大差で初当選を果たした。以後、途中の断続を経て衆議院議員には計13回当選。当選後は立憲民政党に所属し、1932年6月斎藤実内閣で拓務政務次官に就任した。翼賛選挙で推薦議員であったばかりか西武農業鉄道の首脳として国策に関与するなどしたことで公職追放を受けるものの、追放解除後の1951年に民政党時代の同僚議員だった大麻唯男・松村謙三らの「民政旧友会」へ参加。民政旧友会は「新政クラブ」を経て、翌1952年に改進党の結党に参加した。

ロドルフ・クレゼール(1766~1831)

42の奇想曲もしくは練習曲 ロドルフ・クレゼール作曲の42の奇想曲もしくは練習曲は、1796年作曲のヴァイオリニストのための練習曲集。「クロイツェルの練習曲」の呼び方で知られ、ヴァイオリン奏者の間では名が通っている練習曲集である。作曲者の作品の中ではほぼ唯一、現在でも広く演奏されている。ほかにもカイザー練習曲、フリマリー練習曲、小野アンナ教本などの練習曲集が日本国内では知られているが、一定の技巧を習得するに加え、楽理的な形式についても意識をしている作品として有名である。すなわち、形式を意識した構成は暗譜する重要性を奏者に示している。42の練習曲はおおむね31番までの単旋律曲集と、32番以降の重音奏法を採用した曲集とに分けられる。

マリア・ニコラエヴナ(1899~1918)

第一次世界大戦中の奉仕活動 第一次世界大戦中にマリアは妹のアナスタシアと一緒に、ツァールスコエ・セローの離宮の敷地内にある民間病院を訪問し、負傷兵を見舞った。負傷兵らと一緒にチェッカーやビリヤードで遊び、彼らの士気を高めようと努力した。ドミトリーという名の負傷兵はマリアの備忘録に彼女の愛称の一つ、「有名なマンドリフォリー」という署名を入れた。マリアとアナスタシアはここでの奉仕活動がたいへん自慢で、負傷兵の写真を撮影したり、負傷兵の話し相手になったりした。マリアは自分達と患者の写真を1冊のアルバムにまとめ、同病院の看護師を務めていたタチアナ・ボトキナにプレゼントした。

マリア・フョードロヴナ(1759~1828)

皇后 1796年に女帝が崩御し、20年以上影の存在だった皇太子が即位した。全く政治に接触することのできなかったマリアも、おそるおそる自分の地位を利用するようになった。彼女はロシア最初の女子学校を設立したり、多くの慈善機関をもうけた。これらはロシア革命まで存続していた。また、困窮する多くの親族に可能な限り援助をしていた。1798年に、10人目の子供を生んだのち、パーヴェルとの良好な夫婦関係が壊れ始めた。皇帝は19歳のアンナ・ロプキナに魅了され愛妾にし、そのことを開き直ったのだった。

カルロス・アントニオ・ロペス(1790~1862)

大統領時代~憲法と統治体制~ ロペスは大統領に就任すると、まず1844年にパラグアイ初の憲法を発布し、法治体制を整えた。三権分立はこれで確立したものの、この憲法は大統領に10年の任期と強大な権限を与えるもので、事実上ロペスに独裁権力を付与するものだった。以後ロペスは絶大な権力をもち、1854年に3年の任期で再選され、1857年には10年の任期で再選されるとともに息子のフランシスコ・ソラーノ・ロペスを後継者に指名して、1862年に死去するまで大統領の座にとどまった。