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アルベルト・ヒナステラ(1916~1983)

ボマルツォ ボマルツォの君主ピエール・フランチェスコ・オルシーニは、占星術師シルビオ・デ・ナルニが調合した、飲めば不死になれるという魔法の薬を口にした。しかし、これには毒が入れられており、その毒が作用し始めると、ボマルツォ君主はフラッシュバックを起こし、彼の人生を思い出し始めた。

アーデルベルト・フォン・シャミッソー(1781~1838)

ペーター・シュレミールの不思議な物語 主人公ペーター・シュレミールは金策のためにとある富豪の屋敷を訪れ、そこで灰色の服を着た奇妙な男を目にする。彼は上着のポケットから望遠鏡や絨毯、果ては馬を三頭も取り出して見せ、シュレミールは驚くが、回りの人間はなぜか気にも留めていない。そのうち男がシュレミールのもとにやってきて、あなたの影が気に入ったので是非いただきたいと言う。シュレミールは躊躇するが、望みのままに金貨を引き出せる幸運の金袋を引き換えに提示され、取引を承知してしまう。

ウィリアム・スタイグ(1907~2003)

みにくいシュレック シュレックは他の人からは怖がられている怪物であるオーガ。その外見とは裏腹に本質は心の優しい彼は、人里離れた沼地で一人気楽に暮らしていた。そんなある日、シュレックは森の中で兵士たちに捕らえられようとしていたお調子者でおしゃべりなロバのドンキーと出会う。シュレックに怯えて兵士たちが逃げ出したのを見て、自分を救ってくれたと思い込んだドンキーは感謝して、嫌がるシュレックと行動を共にする。

グスタフ1世(1496~1560)

ヴァーサ王朝~スウェーデン~ ヴァーサ家はウップランド地方の貴族階級で、15世紀に高官級に出世した。スウェーデン王国においてグスタフ・ヴァーサは、14世紀末のカルマル同盟以来120年続いたデンマーク王権の支配に叛旗を翻し、スウェーデンを独立に導いてヴァーサ王朝を興した。その後も北方七年戦争などデンマークとの戦争が続いたが、デンマークがスウェーデンを奪回することはできなかった。1558年に開始されたリヴォニア戦争では、デンマーク=ノルウェーとドイツ騎士団のリヴォニア帯剣騎士団と結んでモスクワ大公国のバルト海進出を阻んだ。この時、ヴァーサ家とヤギェヴォ家との婚姻によってヴァーサ家はポーランド・リトアニア共和国の王朝に迎え入れられたが、両国の宗教的不一致のため、ヴァーサ家は17世紀半ばまで内紛と抗争を繰り返すこととなった。

サクソ・グラマティクス(1150~1220)

デンマーク人の事績 前半9巻の中で言及されているそれぞれ出来事がいつ起こったかについては不確定だが、5巻にある記述からある程度推し量ることができるといわれている。9巻はゴーム老王に関する記述で締めくくられている。14巻にはリューゲン島の寺院に関する記述も含まれている。最後の3巻は、デンマークによるバルト海南岸の制服やスラヴへの反撃について語られており、西スラヴ人の歴史や、異教徒であるスラヴ人の信仰を知るための貴重な資料となっている。

森の石松(不明~1860)

講談や浪花節 一方、講談や浪花節に描かれる石松や次郎長は、彼らの仲間であり後に旅講釈師となった清竜が講談師の三代目神田伯山に金銭と引き換えにネタとして提供したものが元であり、さらに浪曲師の二代目広沢虎造がひ、次郎長伯山こと3代目神田伯山の弟子、神田ろ山の協力を得て、伯山の講談をフシ付けし、浪花節とした。

杜荀鶴(846~907)

心頭を滅却すれば火も亦た涼し 夏日悟空上人の院に題す三状門を閉ざして一衲を披る兼ねて松竹の房郎を蔭う無し安禅は必ずしも山水を須いず心中を滅得すれば火も自ずから涼し

堀口大學(1892~1981)

外遊 東洋汽船会社の香港丸で横浜を出帆し、メキシコの日本公使館に在ること1年。この頃、肺結核を患う。父の後妻がベルギー人で、家庭の通用語がフランス語だったためフランス語の習得に没頭し、パルナシアンの詩を読み始める。この時、メキシコ革命に遭遇。マデロ大統領失脚、謀殺までの『悲劇の二週間』を体験する。1913年にシベリア経由でベルギーに向かい、ランボーをピストルで撃ったヴェルレーヌの事件を担当した裁判官シャルル・リグール家に住み、10月には当時の日銀・水町袈裟六の斡旋でベルギー国立銀行に日本銀行の委託研究生として勤務し、異例の待遇を受けた。

菊池容斎(1788~1878)

前賢故実 前賢故実は、江戸時代後期から明治時代に刊行された伝記集。全10巻20冊。菊池容斎筆。上古から南北朝時代までの皇族、忠臣、烈婦など585人の時代を追って肖像化し、漢文で略伝を付す。日本の歴史上の人物を視覚化したものとしては画期的であり、明治中期ごろ国家意識の高まりにつれ盛んに描かれた歴史画において、バイブルとしての役割を果たした。

中山忠光(1845~1864)

天誅組 早くより真木保臣ら尊王攘夷派の志士と交わって公武合体派の排斥運動では急先鋒となって画策した。1863年2月、朝廷に国事寄人が新設されると19歳でこれに加えられたが、密かに京都を脱して長州藩に身を投じ、官位を返上して森俊斎と改名。久坂玄瑞が率いる光明寺党の党首として下関における外国船砲撃に参加した。7月18日、水戸藩士吉成勇太郎らと面談。生野の変に参加した水戸藩士関口泰次郎等を、長州へ送る計画について話した。8月13日に大和行幸の詔が出されると攘夷先鋒の勅命を奉じると称して退京し、吉村らと共に大和行幸の先鋒組織として『天誅組』を立ち上げ、大和五條の代官所を襲撃して挙兵した。

土屋昌続(1545~1575)

側近、奉行衆として 以降は信玄側近・奉行衆としての活動が見られ、1568年初めには土屋姓への改姓が確認される。同年末の今川領国への侵攻に際しては、信玄側近として戦時禁制や朱印状奏者を独占的に務めており、駿河富士山本宮浅間大社や岡部氏、朝倉氏、狩野氏、松木氏など駿河国衆との取次を務めている。西上野侵攻おいて領国化されていた西上野においては、跡部勝資、原昌胤、曽根虎長とともに上野国衆との取次を務め、昌続は浦野氏や和田氏を担当している。また、信濃領国においては玉井氏、市川氏、海野氏ら東信国衆との取次を担当している。また、対外的には太田氏や梶原氏、里見氏など関東方面の外交を担当している。

クライド・トンボー(1906~1997)

冥王星の発見 ローウェル天文台に勤務してからは、天文台長のヴェスト・スライファーの下で天王星や海王星の軌道に影響を与えていると考えられた未知の惑星の捜索に携わった。新惑星の探索には、撮影時刻の違う同一星野を見比べて、動きがある星はないかを確認するために、当時最新説の技術であった点滅コンパレーターが使われた。彼は、ローウェルが9番目の惑星があると予測した周辺の星野を丹念に精査し続けた。

高木武雄(1892~1944)

太平洋戦争 太平洋戦争開戦時には重巡洋艦「妙高」、「那智」、「羽黒」からなる第五戦隊の司令官として南方攻略作戦に参加。1942年2月、スラバヤ沖海戦における日本側艦隊指揮官。海戦には勝利したが消極的な遠距離戦に固執したことから批判を受ける。同年5月、海軍中将へ昇任。5月7日、史上初の航空母艦同士の海戦である珊瑚海海戦において第四戦隊司令長官井上成美中将のもと、第五戦隊、原忠一少将率いる第五航空戦隊などからなる機動部隊を指揮した。高木中将は味方戦力の消耗激しく第2次攻撃の命令を独断で黙殺した。当時、内地にあって戦闘経過を見守っていた連合艦隊司令部では「コノ際極力敵ノ殲滅ニ努ムベシ」と叱咤した。アメリカの戦史家ジョン・トーランドは珊瑚海海戦のとき、高木提督が空母同士の交戦を一時中止して北上し、索敵機を飛ばす海域を絞り込んで、翌日再攻撃に移った戦術を「日本海軍には珍しく合理主義的な提督だ」と評している。同年6月、ミッドウェー海戦参加。8月、ソロモン方面進出、10月15日、ガダルカナル島・ヘンダーソン基地砲撃。さらに南太平洋海戦にも参加した。

レインゴリト・グリエール(1875~1956)

赤いけしの花 偶然とはいえプッチーニの『トゥーランドット』と同時期の作品であり、中国風の五音音階を用いた旋律がしばしば登場する。その一方で、半音階技法や変化和音、全音音階が活用され、また同時代性を出すためにチャールストンが模倣されるなど、近代的な要素も見受けられる。だが作風としては全般的に、後期ロマン派音楽の伝統に留まっており、題材や筋書きにおいてロシア5人組以来の伝統というべきオリエンタリズムの傾向も顕著である。

大橋訥庵(1816~1862)

安藤老中への憎悪 1860年、大老の井伊直弼が江戸城桜田門外において水戸藩の浪士に暗殺される。直弼暗殺後に幕府の最高実力者となった老中安藤信正は公武合体の実現のため、孝明天皇の妹和宮と14代将軍徳川家茂との婚姻を画策する。訥庵はこの婚姻に強硬に反対し、討幕を企てるようになる。1861年9月5日、門弟の椋木八太郎は訥庵の作成した「政権恢復秘策」を上奏するために京へ向かった。秘策の中で、訥庵は公武合体に否定的な見解を示し、朝廷には攘夷の勅命を出すことを要請している。

田畑政治(1898~1984)

スポーツ指導者として だが、1962年の第4回アジア競技大会でホスト国のインドネシアが台湾とイスラエルの参加を拒否し、それに対して国際オリンピック委員会がこの大会を正規な競技大会と認めないという姿勢を打ち出したことで日本選手を出場させるべきかという問題に巻き込まれることになった。最終的に日本選手団は重量挙げを除いて出場したものの、この問題の責任を取る形で田畑もJOC会長で組織委員会会長の津島寿一とともに辞任することとなった。この時の心情について、後年自らの著書に「血の出る思いをして、われわれはレールを敷いた。私が走るはずだったレールの上を別の人が走っている」と記している。

ケイレブ・ブラッド・スミス(1808~1864)

アメリカ合衆国内務長官 リンカーンは大統領選挙におけるスミスの貢献を評価し、リンカーンが大統領に就任した1861年、スミスを内務長官に任命した。スミスはインディアナ州民として初の閣僚職を獲得した。だがスミスは職務にほとんど興味を持たず、健康的問題を理由として内務次官補ジョン・パーマー・アッシャーに大部分の権限と責任を委任した。1862年、スミスはジョン・アーチボルド・キャンベルの辞職によって空席となっていた連邦最高裁判所のポストに関心を示していた。だがリンカーン大統領はそのポストにデイヴィッド・デイヴィスを据えた。スミスは1862年12月に内務長官を辞職し、後任にはジョン・パーマー・アッシャーが就いた。スミスはインディアナ州に帰郷し、連邦地方裁判所判事となった。

ユリアナ(1909~2004)

女王即位 第二次世界大戦終結後、本国に帰国した。1948年、母の譲位で王位に即いた。戦後本土が荒廃し、オランダ領東インドなどの植民地を失ったオランダを建て直し、再び繁栄の時代をもたらした。1980年に王位を長女のベアトリクスに譲り、2004年にスーストダイク宮殿で崩御した。

ステファン・ヴラディスラヴ(1198~1264)

セルビア国旗 セルビア国旗に関する記録で現在知られている中で最も古い記述は、1281年のラグーザ共和国が統治するドゥブロブニクが保管していたセルビア国旗についての記述だった。その旗はステファン・ヴラディスラヴの宝物庫に置かれていたものであり、記録に残る旗の色は赤と青、旗には絹のような光沢があったが、旗の色がどのような意味を持っていたのかは不明である。ヴラディスラヴの統治期間と没年から推定すると、国旗は13世紀半ばから使用されていたと思われる。現在、セルビアでの中世の出来事を記念する祝典では、しばしば13世紀当時の国旗が使用される。

ルイ2世(1337~1410)

マーディア十字軍 1356年、父がポワティエの戦いで戦死したため、ブルボン公を継承した。しかし1360年にイングランド軍に捕らえられ、1366年まで6年間捕虜になっていて、領土がイングランドに侵略されていたため、解放後は領内の貴族と協力してイングランド軍の排除に取り掛かり、同時にフランスの人事権を掌握し近隣の貴族や有能な人材を抜擢して王国やブルボン公領の重要な地位に付け、中央政府に勢力を伸ばしていった。領土拡大も図り軍事行動も盛んに行い、1371年にフォレ女伯アンヌと結婚し1374年にフォレを併合、翌1375年には義弟シャルル5世の命令でベリー公ジャン1世と共にイングランドから領土回復のためブルボン公領の南隣のオーヴェルニュへ遠征、1382年にフランドルの都市反乱の鎮圧へ向かいローゼヘーケの戦いに参戦、1385年にギュイエンヌ遠征、1390年には十字軍を掲げチュニジアまで渡っている。

郡宗保(1546~1615)

大坂の陣 その後も秀吉の子・豊臣秀頼に仕え、大坂の陣では旗奉行を務めた。1615年1月20日、木村重成と豊臣方代表として徳川秀忠の陣にて、講和の誓紙を受け取る役目をおった。大坂夏の陣においては、天王寺・岡山の戦いで敗北自害しようとしたが、旗を敵方の雑兵に渡ることを潔しとせず大坂城に引き返した。1615年5月7日に豊臣軍の敗戦のなか自害した。

坂井政尚(不明~1570)

姉川の戦い 1570年6月21日、信長は江北の浅井長政を攻めることになったが、この際には政尚は小谷城のある小谷山山麓まで攻め寄せ、町を焼き払っている。また、6月28日、この信長の小谷城攻めに対して朝倉義景が援軍を派遣し、姉川の戦いとなったが、政尚は織田勢の先鋒を務めた。しかし、この戦いで坂井隊は苦戦して不覚をとり、嫡子・尚恒が戦死している。

ウィリアム・ジョージ・アストン(1841~1911)

日本 1864年英国公使館勤務日本語通訳生として来日。1869年に英国長崎領事館勤務から兵庫・大阪勤務へ異動し、2か月ほどに東京に転任する。2年先に来日していた2歳年下のアーネスト・サトウと共に、日本語の動詞の理論を研究した。この難解な研究は、西欧の学者による日本語研究の基礎となるものであった。この結果を基に1869年と1871年には日本語文法書を出版している。1870年の賜暇休暇の際には藤田隆三郎を伴ってアイルランドに帰国し、新婚の妻ジャネットとともに藤田を世話した。

ウィリアム・アドルフ・ブグロー(1825~1905)

  ヴィーナスの誕生

サミュエル・フィリップス・ハンティントン(1927~2008)

 文明の衝突~諸文明の世界観~ ハンティントンはまず文化が国際政治においても重大な役割を果たしていることを指摘した。特に冷戦後において文化の多極化が進み、政治的な影響すら及ぼした。なぜなら文化とは人間が社会の中で自らのアイデンティティを定義する決定的な基盤であり、そのため利益だけでなく自らのアイデンティティのために政治を利用することがあるためである。伝統的な国民国家は健在であるが、しかし行動は従来のように権力や利益だけでなく文化によっても方向付けられうるものである。そこで現在の諸国家を七つまたは八つの主要文明によって区分することがハンティントンにより提案された。

中城ふみ子(1922~1954)

戦後まもなくのふみ子 終戦時、ふみ子は妊娠をしていた。1946年3月11日、長女の雪子が生まれる。ふみ子は雪子の誕生後、1951年に至るまで断続的に「雪子の日記」を書いている。「雪子の日記」の中では、夫が雪子を可愛がる姿や成長を願う短歌を詠んだ穏やかな家庭生活を記したものもある。しかし夫の博は職務上の不祥事が問題となって、1946年末には五稜郭出張所所長を解任されて札幌鉄道施設部に配属となった。

西脇順三郎(1894~1982)

旅人かへらず 旅人は待てよこのかすかな泉に舌を濡らす前に考へよ人生の旅人汝もまた岩間からしみ出た水霊にすぎないこの考へる水も永劫には流れない永劫の或時にひからびるああかけすが鳴いてやかましい時々この水の中から花をかざした幻影の人が出る永遠の生命を求めるは夢流れ去る生命のせせらぎに思ひを捨て遂に永劫の断崖より落ちて消え失せんと望むはうつつさう言ふはこの幻影の河童村や町へ水から出て遊びに来る浮雲の影に水草ののびる頃

山県昌景(1515~1575)

長篠の戦い 『甲陽軍鑑』『当代記』によれば、1575年の長篠の戦いでは山県や内藤昌秀、馬場信春、原昌胤らが撤退を進言したが、勝頼と側近の長坂光堅・跡部勝資が決戦を主張し、勝頼は決戦を決断したという。そして5月21日の設楽原決戦では、『甲陽軍鑑』や『長篠合戦図屏風』によれば内藤、原らと武田軍左翼の中核を担ったという。『甲陽軍鑑』によれば、山県は300騎を率い、駿河の朝比奈氏、信濃の松尾小笠原氏、相木依田氏、大熊氏、三河の田峯菅沼氏、長篠菅沼氏、遠江の三浦氏、孕石氏らの国衆を相備にしていたという。

藤田小四郎(1842~1865)

天狗党の乱~筑波山挙兵~ 幕閣内の対立などから横浜鎖港が一向に実行されない事態に憤った藤田小四郎は、幕府に即時鎖港を要求するため、非常手段をとることを決意した。小四郎は北関東各地を遊説して軍用金を集め、1864年5月2日、筑波山に集結した62人の同志たちと共に挙兵した。小四郎は23歳と若輩であったため、水戸町奉行田丸稲之衛門を説いて主将とした。

ジョン・スノウ(1813~1858)

麻酔~産科麻酔~ スノウの仕事と発見は、麻酔と出産の実践の両方に関連していた。彼の産科患者に関する経験は広範であり、患者を治療するためにエーテル、アミレン、クロロホルムなどの種々の物質を使用した。しかし、クロロホルムが最も投与しやすい薬剤だった。彼は77人の産科患者をクロロホルムで治療した。彼はクロロホルムを分娩第2期に適用し、患者を完全に眠らせることなく量を制御した。患者が赤ちゃんを出産すると、彼らは収縮の前半を感じるだけで無意識の境界にいるが、完全にそこにいるわけではない。麻酔薬の投与について、スノウは外科医以外の人物が使用した方が安全だと信じていた。

ポール=アンリ・スパーク(1899~1972)

ヨーロッパ 1955年、ヨーロッパ各国の首脳らによるメッシーナ会議においてスパークは単一欧州市場の設立について検討する委員会の委員長に指名された。通称「スパーク報告書」は1956年のヴァル・ドゥシェス城での政府間協議における土台となり、1957年3月25日の2つのローマ条約の署名に至った。これにはスパークの長年の友人ロベルト・ロスチャイルドが貢献した。このときスパークはベルギーを代表してジャン=シャルル・スノワ・エ・ドピュールとともに両条約に署名した。欧州経済共同体設立に至ったこれらの功績によりスパークは欧州連合の父に数えられており、1957年にはアーヘン市からヨーロッパの理念と平和に貢献した人物に授与されるカール大帝賞が贈られている。1962年にはスパークは「明日のヨーロッパはスープラナショナルなヨーロッパでなければならない」と宣言した。2000年に公開されたアメリカの機密文書によると、スパークはアメリカ諜報部の資金でヨーロッパ統合のプロセスを進めてきた経緯がある。

オーギュスト・ペレ(1874~1954)

シャンセリゼ劇場  

ペギー葉山(1933~2017)

ドレミの歌 さあおけいこを始めましょうやさしいところから英語のはじめはA・B・C歌のはじめはドレミドレミ始まりは三つの音ですドレミドレミドレミファソラシ「さあみなさんドレミの歌を歌いましょう」ドはドーナツのドレはレモンのレミはみんなのミファはファイトのファソは青い空ラはラッパのラシは幸せよさぁ歌いましょうランランランドはドーナツのドレはレモンのレミはみんなのミファはファイトのファソは青い空ラはラッパのラシは幸せよさぁ歌いましょうランランランドレミファソラシドドシラソファミレドミミミソソレファファラシシドミミミソソレファファラシシソドラファミドレソドラシドレドどんなときにも列を組んでみんな楽しくファイトを持って空を仰いでランラランランランラン幸せの歌さあ歌いましょうどんなときにも列を組んでみんな楽しくファイトを持って空を仰いでランラランランランラン幸せの歌さあ歌いましょうドレミの歌ドシラソファミレドド

フランツ・クサーヴァー・グルーバー(1787~1863)

きよしこの夜 きよしこのよる星はひかりすくいのみ子はまぶねの中に、ねむりたもういとやすく。きよしこのよるみ告げうけしまきびとたちは、み子のみ前にぬかずきぬ、かしこみて。きよしこのよるみ子の笑みに、めぐみのみ代のあしたのひかりかがやけり、ほがらかに。

アブー・サイード(1304~1335)

後見人チョバン チョバンに厳罰を科された将校がチョバン暗殺を企てると、サイードは軍を率いてチョバンを助けてかつての恩に応えた。1320年にチョバンとサイードの妹サティ・ベクが結婚、アリー・シャーの失脚後、国政は財務総監にはラシードゥッディーンの息子ギヤースッディーン・ムハンマドが復権し、チョバンとその一族が担った。1323年にはマムルーク朝のスルタン、ナースィル・ムハンマドと和睦を成立させる。

ジェームズ・ロード・ピアポント(1822~1893)

ジングルベル 走れそりよ風のように雪の中を軽く早く笑い声を雪にまけば明るいひかりの花になるよジングルベルジングルベル鈴が鳴る鈴のリズムにひかりの輪が舞うジングルベルジングルベル鈴が鳴る森に林に響きながら走れそりよ丘の上は雪も白く風も白く歌う声は飛んで行くよ輝きはじめた星の空へジングルベルジングルベル鈴が鳴る鈴のリズムにひかりの輪が舞うジングルベルジングルベル鈴が鳴る森に林に響きながら

チャールズ・パーシー(1919~2011)

アメリカ連邦議会での活動 1981年に共和党が上院で多数派となると、パーシーは上院外交委員長に就任した。1981年4月、イラン革命のイスラーム諸国への波及を恐れたレーガン政権は、アラブ穏健派に属する諸国への支援の一環として、サウジアラビアへAWACSを5機売却することを決定した。上院外交委員長として、パーシーはこの決定を強く支持し、ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ副大統領、下院議員経験のあるジェラルド・フォード元大統領と共に議会工作を指揮した。その結果、この取引は議会の承認を得たが、パーシーはユダヤ系の支持を失った。

アンニア・ガレリア・ファウスティナ・ミノル(125~175)

複雑な婚約 アントニヌスは約束を守って2人の青年を皇太子としたが、帝位継承後に娘の婚姻については反故にしてしまった。ルキウスと婚約を破棄した小ファウスティナは、従兄妹として血縁関係にあるアンニウスと婚約を結び直した。父の死によってアウレリウスと名を改めたアンニウスがルキウス・ウェルスの共同皇帝として即位、小ファウスティナはアウグスタの尊称を得た。アントニウスとの間に出来た長女ルキアはルキウスの妻となり、2人の皇帝を結びつける役割を担った。

ガストン・バシュラール(1884~1962)

思想 科学史上の著作においてバシュラールの筆鋒は、帰納主義と経験論の両方の批判にむかう。科学的事実とは、理論的問題設定があって初めて構成されるのだという。科学は、明証性すなわち直接的認識がもたらす幻想に抗して形成される。これがバシュラールのいう「否定の哲学」である。したがって、科学史という仕方で知識を得ようとすると、「認識論的断絶」つまり前科学的な思考と断絶することが求められる。バシュラールの表現に従えば、新しい知識を得るには「認識論的障害」を乗り越えることが必要なのである。

レーオポルト・フォン・ザッパー=マゾッホ(1836~1895)

毛皮を着たヴィーナス~梗概~ 毛皮を着たヴィーナスと戯れる夢をみていた。「私」は、来訪していた友人宅の従僕に起こされる。友人であるゼヴェリーンにその奇妙な夢を語りながら、「私」はふと壁にかかっていた絵がまさに「毛皮を着たヴィーナス」を描いていることに気づく。独自の女性観を持っているゼヴェリーンは、粗相をした女中に鞭打とうとすることを制止した「私」に、夢の話への返答として、かつての自分の経験をまとめた原稿を読むことを薦めた。

ジャコモ・マイアベーア(1791~1864)

エジプトの十字軍~オペラが始まる前の背景~ ロードス騎士団はイスラーム教徒との戦いに敗れ、騎士団の1人のアルマンド・ドルヴィッレは、敗戦の混乱の中でかろうじて生き延びていた。彼はエジプトのイスラーム兵士に変装して、ダミエッタ市に入り込んで生活していた。その後、偶然にもスルタンのアラディーノの生命を救うことに貢献できた。アルマンドは、エジプト人にはエルミレーノという偽の名を使い、スルタンの娘、パルミーデと幸運にも恋を落ち、プロヴァンスの娘、フェリチアとの約束を破り、秘かにパルミーデとの間に一児の父親となっている。彼は今やエルミレーノとして、スルタンに仕え、ダミエッタの軍隊の指揮官をしている。しばらくすると、ロードス騎士団がスルタンに和平の締結と捕虜の交換を申し入れるため、ダミエッタに大使を派遣する。このような状況を背景として話が進められる。

テオドール・モムゼン(1817~1903)

業績と批判 モムゼンは、考古資料を取り入れ、伝世文献史料だけを重視していた従来の歴史学を飛躍的に革新した。しかし一方で、遺跡などの考古学史料は除外したため、この弊害は20世紀の歴史学に継承された。また、『ローマ史』の叙述では、例えば古代ローマのパトリキをユンカー、平民を浮浪無産者層などと、当時のプロイセンの現代用語で記述したため、当時の一般読者層からは高く評価される一方、歴史学界からは批判された。

アーサー・ルイス(1915~1991)

業績~二重経済モデル~ 二重経済モデルは、経済を単純に2つの部門に分けて分析するモデルである。アーサーは発展途上国の経済を伝統的部門と近代的部門とに分けて分析する二重経済論を考案し、伝統的部門からの無制限労働供給によって、一転の賃金水準において労働供給曲線が無限に弾力的になると説明した。特に余剰労働力を用いたインフラ投資が鍵を握るとして、政府による積極政策の必要性を説いた。二重経済論はその後、ジョン・フェイやグスタフ・レイニスらによって、新古典派経済学の視点からモデル化されている。

マイケル・ボンド(1926~2017)

くまのパディントン パディントンはパディントン駅で古ぼけたスーツケースの上に座っているところをブラウン夫妻に発見される。彼のコートには「このくまをよろしくお願いします」と書かれた札がついていた。彼はルーシーおばさんによって「暗黒の地ペルー」から送られてきた密航者として到着したのである。ブラウン一家に自分のスペイン語の名前は「発音にしくい」ことを伝えると、一家は彼のことを出会った駅名をとってパディントンと呼ぶことにした。一家は彼をポートベロー・ロード近くのウィンザー・ガーデン32番地にある自宅へ連れて行く。パディントンは礼儀正しい紳士的なくまであるが、彼のまわりはひっきりなしにトラブルが巻き起こってゆく。何とか上手くいくように努力し、最後には丸くおさまっていく。ペルーから来たマーマレードが大好きなクマのイギリスでのドタバタ騒動がつづられていく。

アブ・アル=フィダ(1273~1331)

歴史家として アブ・アル=フィダは学問にも優れ、特に中世イスラーム世界を代表する歴史家として知られている。代表的な著作として知られている『人類史綱要』は、アダムの時代から1329年までの歴史を記している。前半の序説は簡略で、13世紀前半まではイブヌル・アシールの著作の要約であり、独自の発展が緩やかとなり先人の成果の集成に重きを置かれるようになった14世紀のイスラーム世界の学術の状況を反映している。その一方で13世紀後半以後は彼自身が政治・軍事の中心人物として直接関わった事項が多く含まれており、十字軍末期の状況やマムルーク朝及びシリアの動向を知る上で重要な情報を残している。また、『諸国の秩序』は、中国から大西洋諸島部、フランクからスーダンの世界を28地域に分割して解説している。アブ・アル=フィダは中国やインド、ヨーロッパを訪れた経験がないため、多くは先人の地理書の集成であるが、各地域・都市の位置・読み方、特徴などをまとめた表を導入して分りやすくするなどの工夫が見られる。他にもイスラーム法学や薬学の著書があったと言われているが、散逸して伝わっていない。

ジャウメ2世(1243~1311)

マヨルカ王国~アラゴンへの反抗~ ハイメ1世の死後、王位についたジャウメ2世は宗主国アラゴンの王である兄ペドロ3世と対立。マヨルカがアラゴンの属国であることを認めようとせず、貢物を送ることもなかった。しかし、満足に王国の体裁をなしておらず裁判所などの社会制度もないマヨルカは、結局アラゴンに屈せざるを得ず、1279年に結ばれたペルピニャン条約で正式にアラゴン王国の管轄下におかれ、ジャウメ2世はペドロ3世の臣下となった。マヨルカ王国はアラゴン王が政治・経済的に管轄し、裁判権を持ち、王国の存続自体をアラゴンに左右される存在となった。

ウィリアム・クルックス(1832~1919)

陰極線 このとき、管から空気が排気されていくにつれ、電子が気体原子と衝突するまでに進む平均距離が伸びていったと考えられる。管が完全に暗くなるとき、大部分の電子は陰極から陽極側の管底まで一度も衝突することなく進んでいる。衝突する相手がいなければ、質量が軽い電子は電極間の電圧によって加速されて大きな速度に達する。こうして陰極線が形成される。

佐川官兵衛(1831~1877)

幕末 1868年1月、鳥羽・伏見の戦い後は会津に戻って越後戦線へ出陣したが、戦況が不利になると奥羽越列藩同盟諸藩とともに戦線を離れて会津へ帰還し、若年寄、のちに家老に進んだ。会津戦争では、8月29日に精鋭約1,000人を率いて城外出撃の指揮官を任じられたが、出陣前夜に藩主から賜った酒に酔い、早暁に出撃が遅れて敗北を喫した。だが、9月5日の材木町の戦いでは、少数の兵で新政府軍を破り、鶴ヶ城への糧道を確保した。戦後は藩主や家老、若年寄とともに東京で謹慎した。

メアリ・シーコール(1805~1881)

ナイチンゲール看護団の入団拒否 その頃、メアリーはジャマイカで、ロシアに対する戦争が開戦し、クリミア戦争における戦場の医療の惨状を知ったメアリーは、自身の能力を生かすため、ボランティアの看護師としてクリミアでイギリス軍に尽力することを切望したという。クリミア戦争勃発時の心情について、メアリーは以下のように語っている。「どこかの戦争のことを聞いたら、私は一刻も早くその戦場で力になりたいと切望していました。そして、私がよく知っているたくさんのジャマイカ兵たちが行動を起こすためにイギリスへ旅立ったと聞くと、なおさら彼らと行動をともにしたいという願望は強まっていったのです。」そのため単身ロンドンへ赴きました。

バーナード・モントゴメリー(1887~1976)

第二次世界大戦 1939年9月に第二次世界大戦が勃発するとイギリス海外派遣軍が編成され、モントゴメリーは第3師団の指揮官としてフランスに赴任する。だが、ナチス・ドイツのフランス侵攻でフランス軍は大敗、イギリス海外派遣軍はダンケルクから撤退することとなり、5月30日、第2軍団指揮官に昇進。同軍団の撤退を指揮することとなり、1940年6月1日に帰国する。7月には第5軍団指揮官となり、ダンケルクの戦功によりバス勲章を受章し、中将に昇進した。翌1941年4月に第12軍団指揮官、12月には南東軍指揮官となる。

トーマス・チッペンデール(1718~1779)

チッペンデール様式 チッペンデール様式はクイーン・アン様式の変形で、それにフランス・ロココの影響を受け、足は猫足が多く、鷹の爪が球をつかんだ形のものが多く使われている。テーブルの上部の板も、丸や長方形が少ない。また、サパーテーブルといって、使用しないと上部の板を垂直に立てて壁際に置き、室内のアクセントになるようなテーブルが使われた。

福沢桃介(1868~1938)

電気事業に参入 東海地方では豊橋市の電力会社豊橋電気にまず関与した。同社は事業拡大のため1907年に資本金を15万円から50万円に拡大していたが、増資への応募が少なく地元以外からも出資者を募っていた。桃介は創業者で社長の三浦碧水の勧めで1908年より出資して筆頭株主となり、翌1909年には社長に就任して経営改革にあたった。次いで東海地方では、豊橋電気よりも規模が大きい名古屋市の電力会社、名古屋電灯の買収に着手する。買収は1909年3月に始まり、翌1910年6月末までに1万株を持つ筆頭株主となると至る。それと同時に会社内での地位が向上し、顧問を皮切りに相談役、取締役と昇進して1910年5月には常務取締役に選出された。

ミカエル1世ランガベー(770~844)

治世 こうして即位したミカエル1世はニケフォロス1世が整備した厳格な税制をあらため、調和を重んじる政策をとった。これにより皇帝の収入が減少したにもかかわらず、ミカエル1世は軍や官僚、教会に回す金を惜しまなかった。正教会内の派閥の支援を受けたミカエル1世はイコノクラスム派を弾圧し、総主教ニキフォロス1世とストゥディオス修道院長テオドロスの論争では前者に説の撤回を強いた。ミカエル1世の信心深さは、証聖者テオファネスから年代記内で極めて高い評価を受けている。