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松平春嶽(1828~1890)

将軍継嗣問題 第13代将軍・徳川家定の継嗣問題では、橋本左内を京都に派遣して運動させ、一橋徳川家当主の徳川慶喜を後押しする。幕閣では紀州徳川家の徳川家茂を推す南紀派で彦根藩主の井伊直弼が大老となり、将軍世子は家茂に決定する。幕府が朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印すると春嶽は徳川斉昭らとともに登城をして抗議したが、1858年7月5日、不時登城の罪を問われて強制的に隠居させられ、謹慎の処罰を受けた。

木下尚江(1869~1937)

幸徳秋水と僕~反逆児の悩みを語る~ 君よ。明治三十四年、僕が始めて社会党の創立に関係した時、安部磯雄、片山潜の二君は、年齢においても学識においても、長者として尊敬して居たが、親密な友情を有つて居たのは、幸徳秋水であつた。彼は僕より二つ年下であつた。幸徳を友人にしてくれたのは石川半山だった。僕がまだ二十代で、故郷で弁護士をして居た時、石川は土地の新聞主筆として招かれて来た。彼が好んで自分の師友の評判をする時、「幸徳秋水」の名前を頻りと吹聴した。

大杉栄(1885~1923)

革命の研究 これは主としてフランス大革命の事実にもとづいて述べたものであるが、僕等はさらにこれをロシアの現状に照らし合せて見て、そのますます真実なことにむしろ驚くものである。ボルシェヴィキの謀反人バンクハスト女史も、その機関誌『ウォーカース・ドレッドノート』にこれを掲載して、共産主義者の反省を求めている。革命の時に、どんな奴がどんなことをするかは、だまされまいと思う労働者のよく知っていなければならんことだ。

北一輝(1883~1937)

国体論及び純正社会主義 大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判しており、明治維新を革命とし「維新革命の本義は実に民主主義にあり」と述べている。天皇の国家、天皇の国民ではなく、国民の天皇であり、天皇が一国民として、一般の国民と共に国家のために行動する「公民国家」こそが、明治維新すなわち北が言う「維新革命」の本来の理想ではなかったのかと主張している。

木下順二(1914~2006)

夕鶴の登場人物 与ひょう、つう、運ず、総ど、子供たち

阿部信行(1875~1953)

阿部内閣 阿部内閣は、前の平沼内閣の総辞職を受けて、予備役陸軍大将の阿部信行が組閣した内閣である。組閣直後の1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻したことにより、イギリスとフランスが9月3日に対ドイツ宣戦布告して、第二次世界大戦が勃発。阿部内閣は大戦不介入の方針を探り、日中戦争の解決に努めたものの、不調により内閣総辞職。天津事件ではイギリスと、日米通商航海条約ではアメリカと、ノモンハン事件ではソ連と対立した日本、おまけに独ソ不可侵条約が成立した情勢では孤立無援に陥った状態であった。

林銑十郎(1876~1943)

食い逃げ解散 林銑十郎内閣は、1937年度予算が可決されたのを見て、政党のあり方が政府に対して翼賛的ではないとし、議会刷新の必要性に鑑み、衆議院を解散した。しかし、政党や国民は、予算成立という「ご馳走」を食べ終わるなり解散をしたということで、「食い逃げ解散」と非難した。4月30日に行われた第20回衆議院議員総選挙の投票結果は、与党的立場をとる昭和会・国民同盟などは合わせても40議席程度で、野党の政友会・民政党が優位に立った。

広田弘毅(1878~1948)

近衛内閣外相 辞職後しばらくは鵠沼の別荘で恩給生活を送る。5月31日には貴族院の勅選議員となった。6月4日に近衛文麿を首相とする第一次近衛内閣が成立すると、近衛の要請で外務大臣となった。しかし組閣後間もない7月7日に盧溝橋事件が勃発し、中華民国との間で戦闘状態が発生した。当初、広田は不拡大方針を主張し、現地交渉による解決を目指した。南京駐在の参事官・日高信六郎を通して国民政府外交部長・王寵恵に対し次のように要求させた。

鈴木梅太郎(1874~1943)

ビタミンの発見 1910年6月14日、東京化学会で「白米の食品としての価値並に動物の脚気様疾病に関する研究」を報告した。この報告では、ニワトリとハトを白米で飼育すると脚気様の症状がでて死ぬこと、糠と麦と玄米には脚気を予防して快復させる成分があること、白米はいろいろな成分が欠乏していることを認めた。糠の有効成分に強い興味をもった鈴木は、以後その成分の化学抽出をめざして努力した。

高峰譲吉(1854~1922)

研究とビジネス 譲吉が最初に居住したシカゴは当時アメリカでも有数の肉製品の産地で多数の食肉処理場が存在していた。この時廃棄される家畜の内臓物を用いてアドレナリンの抽出研究をはじめ、1900年に結晶抽出に成功。世界ではじめてホルモンを抽出した例となった。アドレナリンは止血剤としてあらゆる手術に用いられ、医学の発展に大きく貢献した。

安部磯雄(1865~1949)

犠打に対する考え方 安部は犠打について否定的な考えの持ち主だった。日本で初めてこれを行ったとされる早稲田大学の泉谷裕勝を「卑怯である。武士道に反する」と言って、よく叱っていた。しかし、早稲田大学が1905年にアメリカ遠征をした時に犠打が大いに行われていたので、安部もしぶしぶ「やってよろしい」と認めるようになったという。

徳川斉昭(1800~1860)

幕政参与 1853年6月、マシュー・ペリーの浦賀来航に際して、老中首座・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わったが、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張した。このとき江戸防備のために大砲74門を鋳造し弾薬と共に幕府に献上している。また、江戸の石川島で洋式軍艦「旭日丸」を建造し、幕府に献上した。

ルイ13世(1601~1643)

国務会議による統治 リュイヌ公の死後、ルイ13世は国務会議によって統治を行うと決める。1622年に幽閉を解かれた母后マリーが会議に加わり、国務会議ではコンデ公がユグノーを武力をもって弾圧することを主張した。1622年に行われた討伐は先年と同じ経過をたどることになる。国王軍は緒戦で勝利したものの、続く包囲戦での敵の根拠地モンペリエを陥落させられなかった。

ジャン・ボダン(1530~1596)

悪魔憑き 悪魔憑きとは憑依の一種で、心身を悪魔に乗っとられたかのごとく周囲に害悪を及ぼす行動、またはそのような行動をとる人のこと。悪魔憑きの者は、凶暴に振る舞い、邪魔な人を滅ぼしたり呪い、本来その人が決していないような行動を取ったり、周囲の人にも同様の行動を取るよう仕向けたりし、その結果周囲の人々との良好な関係が破綻したりその人の魂が破滅に陥るといわれる。また、悪魔憑きの周囲では、自然・動物も異変を来たすともされる。

レオ10世(1475~1521)

サン・ピエトロ大聖堂

バルトロメ・デ・ラス・カサス(1484~1566)

インディアス新法の勝利と挫折 1522年からはドミニコ会に加わって修道士となり、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』をカール5世に提出した。その運動の成果があって、1543年には「インディアス新法」が制定され、インディオの奴隷化の禁止、エンコミエンダ制の廃止が実現した。これはバルトロメ・デ・ラス・カサスの勝利であったが、植民地の入植者は一斉に反発し、現地では反乱が勃発、収拾がつかなくなり、「新法」はインディアスにおいて施行される場合はエンコミエンダ制廃止の条項は除外すると決定された。現地の入植者の経済活動の現実がインディオの強制労働なしには成り立たなくなっているという現実があった。こうして現地ではバルトロメ・デ・ラス・カサスの運動は葬られた。

フランシスコ・ピサロ(1470~1541)

カール5世とピサロの協定 アメリカ大陸をめざした征服者は、成功報酬を王室に求め、王室もそれに応えて褒賞を約束して征服行為を実行させた。その際に、両者には協約書が締結された。インカ帝国の征服をもくろんだピサロは神聖ローマ皇帝カール5世との間で、1529年7月26日付けの協約書で、征服が成功した場合、総督の地位と種々の特権を得ることと、征服に従ったスペイン人に対し、土地や現住民のインディオにキリスト教化を委託して対価として年貢を取ることを認めるするエンコミエンダの権限を分与することを認められた。

ヘンリー2世(1133~1189)

カンタベリー大司教との対立 ヘンリー2世はイングランド王として領内の境界に対する統制を強めようとして腹心のトマス・ベケットをカンタベリー大司教に任命した。しかし、ヘンリー2世が聖職者叙任権と共に聖職者裁判権を取り上げようとしたことに対してトマス・ベケットが強く反対し、ローマ教皇との関係も悪化した。1170年、ヘンリー2世の意を汲んだ騎士がカンタベリー大聖堂でベケットを殺害する事件が起こった。ヘンリー2世は教会との関係がこれ以上悪化することを恐れ、聖職者たちの前で自ら鞭打たれることによって謝罪し、事態を収拾した。

フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス(331~363)

皇帝としての改革~政治上の改革~ コンスタンティウスの葬儀が終わると、翌年初頭にかけて、先帝に従属していた不正を行う者たちを裁く法廷がカルケドンで開かれた。ユリアヌス自身はその法廷には立たず、「異教徒」でオリエンス道長官サルティウス・セクンドゥスを代理人に選んだ。この裁判の判事はサルティウス以外に5人いたが、そのうち4人は現職か前職の武官であり、新しい皇帝の権力の源泉としての軍の支持を取り付ける意味が大きかった。そのためユリアヌスは臨席せず、不公平な判決を黙認したと考えられている。

グナエウス・ポンペイウス(前106~前48)

執政官就任 セルトリウスの反乱が鎮圧されてから数ヵ月間、ポンペイウスはヒスパニアの統治体制再構築に乗り出して、ポンペイウスの施策が公平であったこともあり、ヒスパニア住民から高い支持を得ることとなった。これにより、ヒスパニアはポンペイウスの有力な勢力圏の一つになった。

デモクリトス(前460~前370)

原子論 彼は物質の根源には、目に見えない、それ以上分割することのできない、原子が存在する、と考えた。その考えは、原子論的唯物論とも言うべきもので、後のゼノンなどのストア派にも影響を与えた。デモクリトスはまた、「空虚」もある、と論じた。デモクリトスのいうこれ以上分割できない究極の実在である「原子」は、不生不滅であるだけでなく、等質である。しかし、無限の数の大小様々な充実体であり、無限の空虚中を飛び交っている。それを彼に、「あらぬもの、あるものにすこしも劣らすある」と表現した。

エピクロス(前341~前270)

エピクロス派 前4世紀末から前3世紀にかけて、ヘレニズム時代のアテネで活躍したエピクロスを中心とする学派。エピクロスはアカデメイアで哲学を学ぶとともに、自然哲学のデモクリトスの原子論の影響を強く受け、人間の生命も原子からなる以上、死を恐れたり不安に思ったりすることは無意味であると説いて、感覚に基づいた穏やかな快楽を求めることは正しい、と考えた。これはゼノンのストア派の禁欲的な考えと対立する、ヘレニズム期の二つの大きな哲学の潮流となる。快楽主義とも言われ、英語のepicureanはここからでている。

プロタゴラス(前490~前420)

プロタゴラスの思想 「人間は万物の尺度である」という言葉で知られ、相対主義を唱えた人物の一人として有名である。人間それぞれが尺度であるから、相反する言論が成り立つのである。こうした主張からソフィストは詭弁を用いて黒を白と言いくるめる、とみなされるようになった。一方で、ルネサンスが人間を尺度とする復興であったことから、尺度の基準は人間であると主張したギリシャ哲学・西洋哲学におけるソフィストの存在を軽視してはならないことが分かる。

ルキウス・アンナエウス・セネカ(前1~65)

「ネロの5年間」の立役者 54年10月、クラウディウスが毒キノコを食して中毒死し、後継の皇帝としてドミティウスが即位した。なお、セネカはネロがクラウディウスに対して行った追悼演説を起草したと伝わっている。セネカは後世から言及される「ネロの5年間」「5年の良き時代」のバックボーンとして活躍したとされるが、具体的にセネカが果たした役割ははっきりとしない。

チャールズ・サンダース・パース(1839~1914)

大学と追放 1879年、パースは新しいジョンズ・ホプキンス大学の論理学の講師に任命された。同大学は彼が興味のある多くの分野で有力だった。たとえば哲学、心理学、そして数学といったぐあいである。この身分が、パースの手にした唯一の大学での役職ということになった。なお大学での職、助成金、そして科学界での地位を得ようとするパースの努力は、当時の有力な科学者サイモン・ニューカムが秘密に表明した反対によって、ことごとく台無しにされていたといわれる。

プルタルコス(46~127)

対比例伝 『対比例伝』は、ローマ帝国の著述家プルタルコスが著した古代ギリシャ・ローマの著名な人物の伝記である。日本語訳名は『英雄伝』、『プルターク英雄伝』で多く呼ばれる。

マルクス・トゥッリウス・キケロ(前106~前43)

追放と政治的苦境 しかし、カティリナー派を死刑するというこの決断は、「ローマ市民は、市民による裁判を受けなければ、死刑に処されることはない」というローマの法に反したのであったため、越権行為であるという批判がなされた。その結果、紀元前58年、護民官に就任したプブリウス・クロディウス・プルケルの訴追によって、マルクス・トゥッリウス・キケロは、ローマからの逃亡を余儀なくされる。

ナーディル・シャー(1688~1747)

スンナ派への転換失敗 アフシャール朝を樹立したナーディル・シャーは、シーア派出身であったにもかかわらず、あえてスンナ派を王朝の宗教に定めた。その理由としては、シーア派と分かちがたく結びついていたサファヴィー朝との決別を明確にするなどが考えられる。アフシャール朝はシーア派ウラマーを追放するなど、スンナ派の定着を図ったが、短命に終わったためイランのスンナ派化は失敗に終わった。

アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790~1869)

二月革命でブルジョワ共和派を主導 1848年の二月革命が起きると臨時政府のメンバーとなり、外交官経験と弁舌を買われて外相に就任、事実上の首相の役割を担った。しかし政権内部では、ルイ・ブランなどの社会主義者とは常に対立し、労働者の完全な平等の要求を拒否、金融資本家や富裕な農民層など有産階級の利害を代表することとなった。

ルドヴィコ・ザメンホフ(1859~1917)

人工国際語としての成功と迫害 1905年、フランスのブーローニュで第1回の万国エスペラント大会が開催され、多数のエスペラントが集まって大きな反響を呼び、エスペラントの規準を作る言語委員会も発足した。その後、エスペラント大会はヨーロッパ各地で毎年開催され、1906年には日本にもエスペラント教会が設立された。しかし、日露戦争後のロシアではユダヤ人に対する大規模な迫害が起こり、ルドヴィコ・ザメンホフにも危機が迫った。ルドヴィコ・ザメンホフは匿名で『人類人宣言』を発表し、民族対立を克服するための世界共通語の普及を強く訴えた。

周恩来(1898~1976)

毛沢東を支える 国共内戦が激化して共産党が瑞金を放棄すると同行し、長征に参加した。その途次の遵義会議で共産党の路線をめぐる親ソ派と毛沢東派の対立では毛沢東を支持、その有力な同調者となった。延安の本拠地でも毛沢東に次ぐ指導力を発揮、1936年の西安事件では党を代表して蒋介石を説得、抗日民族統一戦線の結成を実現させた。

ヤーセル・アラファート(1929~2004)

テロ攻勢 1970年代にはPLOの主流派を占めたヤーセル・アラファートのファタハなどの激しい武装闘争は世界の注目を浴びた。イスラエルのロッド空港での無差別テロ、「黒い9月」グループによるミュンヘン・オリンピック襲撃事件などは国際世論から非難されるようになった。

ガマール・アブドゥル=ナーセル(1918~1970)

エジプト革命 ナーセルは士官学校の仲間と語らって青年将校を中心とした自由将校団を組織、年長のナギーブ中将をその団長とした。1952年クーデターを実行してファルーク国王を追放してエジプト革命を成功させ、エジプト共和国を成立させた。大統領はナギーブ中将が就任したが、穏健派のナギーブに対し、ナーセルは積極的な社会改革を主張して対立し、1954年にナギーブ大統領を追放して自ら首相に就任、1956年6月23日には国民投票を実施して大統領に選出され、以後、1970年に急死するまでその地位にあった。

横山源之助(1871~1915)

日本之下層社会 横山源之助の労作で1899年刊。横山は1894年末の毎日新聞入社後、日本の下層社会の実態調査に着手したが、やがて佐久間貞一の援助を得て本格的に取り組むようになり、東京、大阪、神戸、桐生、足利、前橋、富山などの現地を精力的に視察して、都市雑業層や職人、織物業・生糸業・マッチ製造業・紡績業・重工業の労働者、小作農民の労働と生活の実態を克明にとらえた。成果はそのつど新聞や雑誌に発表された。これらを再検討し、体系的に集成し公にしたのが本書であり、付録として日本の社会運動の歴史と現状を論じた項を載せている。

張作霖(1875~1928)

張作霖爆殺事件 1928年6月4日、北伐軍に追われ北京を撤退し奉天に戻る途中の張作霖が列車ごと爆破され殺された。当時の日本では事件の詳細は報道されず「満州某重大事件」または「奉天事件」といわれただけでその真相を国民が知ることはなかった。その事実が判明したのは第二次世界大戦が終わった後のことであった。

張学良(1901~2001)

西安事件 1931年、満州事変がおき日本の中国侵略が激しくなったが、初めは国民政府の蒋介石の方針に従い、共産党との戦いを優先し、日本の侵攻にほとんど抵抗しなかったため「不抵抗将軍」とあだ名された。しかし延安で共産党軍との戦いを続けるうち、中国人同士の殺し合いに疑問を感じ、中国共産党の抗日民族統一戦線の考えに共鳴するようになり、1936年西安事件で蒋介石を監禁して、内戦を停止し共産党と協力して日本軍戦うことを同意させた。これによって翌年日中戦争が始まると国民党と共産党による第二次国共合作を成立させた。張学良は西安事件後、自ら国民政府の裁判を受けその拘束下に入り、戦後も国民政府と共に台湾に移って軟禁状態で生涯を送り、2001年に100歳で死去した。

ダニエル・オコンネル(1775~1847)

アイルランド独立運動との関わり 1840年にオコンネルは「合同法撤廃協会」をつくり、イギリスとアイルランドの合同の白紙撤回を掲げて運動を開始した。アイルランド独立をめざす若い世代は青年アイルランド党を結成し、当初はオコンネルとともに運動を進めていたが、あくまで合法的な手段の平和的な運動に固執するオコンネルと対立するようになり、アイルランド独立運動の主流となっていた。そのためオコンネルは次第に運動から排除されるようになり、1847年に失意のうちに死去した。

ユストゥス・フォン・リービッヒ(1803~1873)

リービッヒ冷却器

ノヴァーリス(1772~1801)

青い花 主人公となっているハインリヒ・フォン・オフターディンゲンは中世の詩人であり、1206年にテューリンゲン方伯ヘルマン1世の居城ヴァルトブルク城でヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデやヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハらと歌合戦をして敗れ、斬首されそうになったところを公妃の願い出によって助けられたとされる。エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマンの作品にもハインリヒ・フォン・オフターディンゲンの伝承を題材にした短編『歌合戦』がある。

ウェッブ夫妻(夫1859~1947、妻1858~1943)

19世紀後半の失業対策事業 19世紀後半、資本主義の矛盾が深化し、帝国主義の段階になると、フェビアン協会の社会主義やマルクス主義が台頭してきた。次第に新救済法では対応しきれなくなり、失業問題が深刻化してきた。失業者を公共事業で救済しようとして失業対策事業が行われたが、いずれも短期的な雇用に終わり、問題の解決に至らなかった。また労働者は一方で労働組合を結成し、相互扶助のしくみを構築しようとした。ただイギリスでは19世紀までの大英帝国の植民地支配を背景に、さほど深刻な社会対立には至らなかった。

ピョートル・ストルイピン(1862~1911)

ストルイピン改革 ストルイピンは名門貴族の出身で、ペテルブルク帝国大学出身のエリートとして知事を歴任していた。首相となる革命運動の拡大を防止するために、農村改革に取り組んだ。ロシアの農村では1861年の農奴解放令によって農奴は法的に解放されたものの、その多くがミールといわれる農村共同体が共同で所有する土地に縛り付けられていた。そこでストルイピンは、ミールを解体し、農民に土地を分与して、自作農を創り出そすことによって農民層への革命の拡大を防ごうとした。

ルドヴィーコ・アリオスト(1474~1533)

狂えるオルランド 狂えるオルランドは、ルドヴィーコ・アリオストによるルネサンス期イタリアの叙事詩。全46歌。3万8736行に及ぶ大長編。サラセン人の侵攻と戦うカール大帝とパラディンの活躍を背景にオルランドの失恋と発狂、エステ家の起源が語られている。

高久靄崖(1796~1843)

楊貴妃図

伊藤仁斎(1627~1705)

論語古義 伊藤仁斎著。10巻。1712年刊。従来の訓詁、考証を排して、古義学の立場から、直接原文に即して『論語』の解釈を試みたもの。仁斎37歳のとき起草されたが、生涯にわたって補訂が続けられた。

高野房太郎(1869~1904)

労働組合期成会 幹事長は高野房太郎、幹事に片山潜、沢田半之助など。各地で演説会を開いて職業別組合の結成を期し、結成の直後に、鉄工組合、日本鉄道矯正会、活版工組合が結成された。いずれもクラフトユニオンのかたちをとるもので、組合員間の相互扶助を大きな活動内容とした。高野自身も共働店を開設してその活動を支援した。また、機関紙『労働世界』を発行するなどし、1899年には会員が5700人にも達した。しかし、1900年に治安警察法が施行されると、各組合の財政難、使用者側の反撃とあいまって衰退し、1901年に解散した。

菅野直(1921~1945)

剣部隊~最後の戦闘~ 1945年8月1日九州に向けて北上中のB-24爆撃機編隊迎撃のため、隊長・菅野以下紫電改20数機は大村基地を出撃した。屋久島近くに達すると島の西方にB-24の一団を発見し敵上方より急降下に入った。菅野はこの日、愛機の「343-A-15」号機ではなく「343-A-01」号機での出撃であった。

武藤金義(1916~1945)

武藤金義の経歴 1937年10月、第十三航空隊に配属。上海に進出し支那事変に参加。1937年12月4日、南京上空で中華民国国軍の楽以琴が搭乗するI-16戦闘機1機を撃墜。これが武藤の初戦果となった。12月12日、第十二航空隊に異動。南京、南昌、漢口攻撃など活躍を続け、武藤は中華民国軍機を合計5機撃墜し支那事変における撃墜王となった。1938年10月、内地に帰還。大分空、鈴鹿空、元山航空隊などで教員生活を送る。また大分空時代には西沢広義の教員として指導している。

汪兆銘(1883~1944)

汪兆銘政府の樹立 一時は新政府樹立を断念していた汪兆銘だったが、ハノイでの狙撃事件をきっかけに、「日本占領地域内での新政府樹立」を決意することとなる。これは、日本と和平条約を結ぶことによって、中国-日本間の和平のモデルケースをつくり、重慶政府に揺さぶりをかけ、最終的には重慶政府が「和平」に転向することを期待するものであった。