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上杉景虎(1554~1579)

三郎から景虎へ 1569年6月、武田氏の駿河今川領国への侵攻に伴い、北条氏では甲相同盟を手切とし、越後上杉氏との越相同盟が締結された。上杉氏と北条氏は長らく敵対関係にあり、同盟締結に際しては北条氏政の次男・国増丸を上杉謙信へ養子に出すことが決められる。しかし、同盟締結において氏政が国増丸を手放すのを拒んだため、上杉家から代わりの人質を求められる。三郎は同年12月に北条幻庵の養子になったとみられるが、翌1570年3月には謙信への養子入りが決まる。この際、謙信の姪を三郎に娶らせることが約束される。

ヤーン・ポスカ(1866~1920)

エストニア独立に関して しかし、その直後に共産主義者が力で町を支配した。エストニア自治政府は地下組織として生き延び、翌年2月にドイツ軍がエストニアを占領すると共産主義者らはロシアへ逃亡した。それと同時にエストニア自治政府は二回目の選挙を行った。結果、ポスカは外務大臣兼副首相となり、1919年にはさっそくソビエトロシアに派遣される。

允恭天皇(不明~453)

事績~盟神探湯~ 即位4年、健康を取り戻した天皇は氏姓制度の改革に乗り出す。この時代に用いられた氏と姓は群臣たちが自らの身分を表す称号だったが、氏姓間の上下関係さえわからない上、氏姓を偽る者も多くあり乱れていた。氏姓の乱れは国を乱すと憂いた天皇は全ての氏族を飛鳥甘樫丘に集めた。そして盟神探湯を行って氏姓を正しく定めた。盟神探湯とは神に誓った後、熱湯に手を入れる誓約の一種である。偽る人は火傷を負うとされ、偽る人に恐怖感を与え自白する効果もあった。天皇は氏姓に偽りのないことを群臣に誓わせながら誤った氏姓を正したのである。また即位5年には天皇の母である葛城磐之媛の兄弟、あるいは甥にあたる葛城玉田宿禰を先帝の殯宮での役目を怠ったとして討っている。

ニコライ・クズネツォフ(1904~1974)

第二次世界大戦 クズネツォフは戦争開始の時間帯に重要な役割を果たした。開戦劈頭において彼が命令無視を決意した事でソビエト海軍は破滅を免れたのである。1941年6月21日までに、クズネツォフはナチス・ドイツとの戦争の必然性を確信していた。セミョーン・チモシェンコとゲオルギー・ジューコフは、ソ連の指揮官が「ドイツの挑発」に応じるのを禁止する命令を発していたが、海軍は陸軍とは異なる省であったため、クズネツォフは法的には彼らの直接の指揮命令系統の外にあった。彼はこの事実を利用し、大胆に行動した。

南浦文之(1555~1620)

鉄炮記 久時の父・種子島時尭が戦国時代の1543年に種子島でポルトガル人から鉄炮を入手したいきさつや火縄銃製法確立の過程が記されており、鉄砲伝来・西欧人初来日1543年説の基本資料となっている。著者である南浦文之の死後、1625年に刊行された南浦の詩文集『南浦文集』の上巻に『鉄炮記』として所収されている。自筆本は鹿児島大竜寺に伝えられたが、明治初め島津家のものとなった。『薩摩叢書』第2編所収。

ナザレのイエス(前6~30)

イエスの教え~福音書の記述と高等批評~ 福音書には、イエスの言葉として「山上の垂訓」など群衆に対して語った説教、弟子など限られた対象に向けて語った言葉、当時の宗教指導者らとの問答といったかたちで、多くの言葉が収められている。福音書の記述を史実と認める立場においては、福音書の中にイエスの教えについて多くの言説を認めることが可能である。一方、いわゆる高等批評においては、福音書は「イエスの言行録」ではなく「宣教文書」であり、イエスが語ったとされる言葉がイエスに帰属するかを疑うというのが基本的立場である。この立場においてイエスに帰属できる発言は数少ない。荒井献はイエスの発言にさかのぼれる言葉は少ないながら、イエスの特徴として、既存の権威に頼ることなく自らの言葉で断定的に語り、当時、一般に交流を深めることが忌避されていた人々に対しても分け隔てなく接し、社会の底辺に視座を据え権力を批判したことを認めている。

蘇我稲目(506~570)

古墳時代の豪族 552年、百済の聖王の使者が仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳をたたえた。天皇は仏像を礼拝することの可否を群臣に求めた。稲目は「西蕃諸国々はみなこれを礼拝しており、日本だけがこれに背くことができましょうか」と答えた。これに対して大連の物部尾輿と連の中臣鎌子は「わが国の王は天地百八十神を祭っています。蕃神を礼拝すれば国神の怒りをまねくでしょう」と反対した。天皇は稲目に仏像を授けて試みに礼拝することを許した。稲目は小墾田に仏像を安置して礼拝した。その後、疫病が起こり、民に死する者が多く出た。尾輿と鎌子は蕃神礼拝のためだとして、仏像の廃棄を奏上し、天皇はこれを許した。仏像は難波の堀江に流され、伽羅には火をかけられた。すると、風もないのに大殿が炎上してしまった。しかし、これで仏教が完全に排除されたわけではなく、翌553年には海中から樟木を引き上げて、天皇は仏像2体を造らせている。

テオドール・ヘルツル(1860~1904)

シオニズム運動の開始 ヘルツルは1896年には『ユダヤ国家』という小冊子を書き、ユダヤ人国家建設の道筋を示したが、ここで示されたユダヤ人の手によるユダヤ人の国家建設、という主張をシオニズムといい、ヘルツルはその指導者となった。1897年スイスのバーゼルで初のシオニスト会議を開催、ヘルツルを議長とする世界シオニスト機構が生まれた。ヘルツルはオスマン帝国のスルタンに直接働きかけるなど活動を続けたが、過労から肺炎を起こし44歳で死去した。彼の狙いはすぐには実現しなかったけれども究極的にはイスラエル国家の建設に通じることとなった。現在もイスラエルでは「建国の父」と仰がれ、イェルサレムを見下ろすヘルツル山と呼ばれる小高い丘に眠っている。

物部麁鹿火(不明~536)

磐井の乱 磐井の乱は、527年に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、翌528年11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争。磐井の乱に関する文献史料は、ほぼ『日本書紀』に限られているが、『筑後国風土記』逸文や『古事記』、『国造本紀』にも簡潔な記録が残っている。

トマーシュ・マサリク(1850~1937)

政治活動 ジュネーヴ、イタリア、そしてイギリスへ行き、チェコの独立を世論に訴えた。小民族の問題について講義しながら、キングス・カレッジ・ロンドンでスラブ人研究所教授となった。1917年の2月革命の後に、オーストリアに対するスラブ人の抵抗運動を組織するためにロシアの支援を受けた。1918年10月18日にワシントンD.C.の国会議事堂に立ち、チェコスロバキアの独立を宣言した。

永井尚志(1816~1891)

蝦夷共和国 直弼没後の1862年、京都町奉行として復帰し、1864年には大目付となる。1863年の八月十八日の政変、1864年7月19日の禁門の変では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど、交渉能力で手腕を発揮した。1867年には若年寄にまで出世する。大政奉還においても交渉能力を発揮した。鳥羽・伏見の戦い後は慶喜に従って江戸へ戻り、徳川家の駿府転封が決まった後は榎本武揚と行動を共にして蝦夷地へ渡り、「蝦夷共和国」の箱館奉行に就任した。しかし、旧幕府軍は半年あまりの戦いの末、1869年5月に降伏した。新選組隊士の田村銀之助が1920年に史談会で語ったところによれば、最初に降伏したのが弁天台場の守備に当っていた永井らで、降伏後は五稜郭の榎本らにも頻りに降伏の勧誘を行っていたという。

トトメス2世(生没年不詳)

統治期間 第18王朝の他の王たちと比較して、トトメス2世の統治期間については史料によって見解が分かれている。それには、トトメス2世の残した記念碑の多くがハトシェプストやトトメス3世のものとして流用され、書き換えられていることなど幾つかの理由がある。その在位期間は多くの場合、3年程度の短期間とする説と、12~14年程の比較的長期間とする説に大別される。

岩崎弥之助(1851~1908)

三菱財閥の2代目総帥 敬愛する弥太郎の事業を助け、米国の太平海郵便汽船や英国のP&O汽船会社との競合に手腕を振るう、1885年2月に弥太郎が死亡してからは2代目総帥として三菱の多角化に尽力。三菱商会に共同運輸会社を合併して日本郵船を誕生させ、海運部門を切り離すことで、鉱山開発や造船建造、地所、金融、倉庫などの事業を興した。

エーリヒ・クライバー(1890~1956)

ベルリン時代 1923年にベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任、モーツァルトやベートーヴェンなどのオペラを指揮する一方で、ベルクの「ヴォツェック」やヤナーチェクの「イェヌーファ」など新しい作品も積極的に取り上げた。この頃のベルリンには、クロル歌劇場に当時は現代作品を得意にしていたクレンペラーもおり、当時の現代作品の上演が非常に盛んな時期でもあった。また、他のオーケストラへの客演も盛んに行なっており、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団を指揮するために2回渡米しているほか、1923年、1925年、1927年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とともに大規模なドイツツアーを行なっている。

デムチュクドンロブ(1902~1966)

日本人との協力~日本語教育~ 満彊政権以前にはモンゴル語と漢語を学習していたが、満彊政権成立後は漢語を排除して日本語にとって代わらせた。1934年に設立した善隣協会は日本語教育による学校を設立した。また親日モンゴル人を増やすために、日本への留学も行わせた。徳王もモンゴル人青年8人を選抜し、経済、航空、工業、軍事、医学を勉強させるために日本に留学させた。1939年9月1日張家口に満彊学院が開かれた。そこでは本地域の地理歴史の特殊性を認識し、防共第一線で働くために必要な教育が施された。

ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ(1892~1989)

皇位継承と廃位 1916年、フランツ・ヨーゼフ1世の崩御とそれに伴うカール1世の即位で皇后となる。ブルボン=パルマ家という出自が交戦国であるフランス、イタリアに結びつくということもあり、「イタリア女」と呼ばれ国民から嫌われた。1918年、オーストリアは第一次世界大戦に敗北し、帝国は解体され、カール1世も「国事不関与」の宣言に追い込まれるが、夫がそれを決意した際には最後まで反対し続けた。なお、大戦末期にはツィタの兄であるシクスト公子、グザヴィエ公子がオーストリアの連合国との単独講和交渉に当たったが、失敗に終わった。

平岩親吉(1542~1611)

三河後風土記 徳川氏創業史の一つで、徳川氏が祖と称している清和源氏から徳川家康将軍就任までの700余年間を年代順に記述する。著者・成立年代については、1610年5月成立の平岩親吉著と序にあるものの、正保年間以後の成立と考証され、著者も不明である。のち改編を行った成島司直は沢田源内の著作とする。また、『三河物語』、『松平記』といった他の創業史の参照はない。

聖ウィリブロルド(658~739)

「踊りの行進」の発祥 1906年の6月4日には、サンピエトロ大聖堂からの聖遺物の遷移式が行われた。この時に、踊りによる行進が始まり、正装の5人の司教や2人のスイス人衛兵をはじめ、15,000人を越える人々が踊りながら行進したといわれる。一方で、この踊りの行進は、既に8世紀にはじまっていたとも、14世紀のペスト、災害、戦争といった社会不安の中で、神への祈願をする人々の中から始まったともいわれている。

大久保忠世(1532~1594)

松平氏の家臣 また、1575年の長篠の戦いにおいても弟の忠佐、与力の成瀬正一、日下部定好と共に活躍して織田信長から「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」との賞賛を受け、家康からはほら貝を与えられた。同年12月、家康から二俣城の城主に命じられた。忠世は武田氏の来襲に備えて城の改修を行ったが、現在二俣城跡に残る天守台や、二俣城の向かいに築いた鳥羽山城の庭園などは忠世によるものと考えられている。また、1582年6月の本能寺の変後に家康が甲斐・信濃に勢力を広げると、忠世は信州惣奉行として小諸城に在番、依田康国の監視を務めている。1585年の上田合戦にも鳥居元忠・平岩親吉と共に参戦しているが、真田昌幸の前に敗れている。家康に反抗して追放となった本多正信の帰参を助けたり、井伊直政をたしなめたりしている。

アッリアノス(生没年不詳)

アレクサンドロス東征記 著者アッリアノスは、アレクサンドロス3世の軍の指揮官で彼の後継者の一人であるプトレマイオス1世の書いたアレクサンドロス3世の伝記『アレクサンドロス大王伝』などの資料をもとに本書を記した。本書は、アレクサンドロス3世の遠征に関して現存する数少ない完全な報告書の一つであり、アレクサンドロス3世に関する評伝の中で最も重要なものと評されている。ただし、本書は軍事的記述を中心とする歴史書であり、アレクサンドロスの私生活やギリシャの政治における彼の役割などに関してはほとんど記載されていない。

小川祐忠(不明~1601)

織豊時代 1582年、本能寺の変により織田信長が横死すると、近江国を制圧した明智光秀の傘下に入って、山崎の戦いにも出陣したが敗北。他の近江衆同様に羽柴秀吉に降伏した。清洲会議では、北近江が柴田勝家の領土となったので以後はその傘下となり、勝家の養子・柴田勝豊に家老として仕えた。しかし1583年の賤ヶ岳の戦いの前に、長浜城を包囲された勝豊が大谷吉継の調略を受け入れて秀吉に寝返ったために、結果的に羽柴側となり、勝豊はいくさが始まる前に病死したので、その死後は秀吉の直臣となって本戦では柴田勢と戦った。

モザッファロッディーン・シャー(1853~1907)

借款問題 モザッファロッディーンがイランの国政に参画するころには、イラン自体が財政危機に直面していた。国庫の歳入を支出のほうがはるかに上回っていた。一方で、ガージャール朝がこれまでに積み上げてきた負債はイギリスとロシア両国に起因しているものも多かったが、モザッファロッディーンは再びロシアに借款を申し出ることとなった。タバコ・ボイコット運動以降、イラン国内で政治的関心が高まっていたが、1901年にイランのマスジェデ・ソレイマーンで石油が発見されると、ウィリアム・ダーシーに与えられた60年間のダーシー利権を巡って再び関心が高める結果を招いた。1907年の英露協商で両国間でイランの勢力範囲が定められた。ダーシー利権に基づいて1908年にはアングロ・ペルシャン石油会社が設立された。

朽木元綱(1549~1632)

朽木越え 1570年の朝倉攻めにおいては松永久秀の説得を受けて織田信長の京都撤退を助け、後に信長に仕え信長麾下として磯野員昌、その追放後は津田信澄に配されているが、1579年には代官を罷免されているので、信長からは厚遇されていなかったようである。信長の死後は豊臣秀吉に仕え、伊勢安濃郡・高島郡内の蔵入地の代官に任ぜられ、小田原征伐にも参加、1595年に秀吉から高島郡9203石2斗を安堵されている。

エウメネス2世(不明~前159)

エウメネスの柱廊 アクロポリスの南麓にありヘロディス・アッティコス音楽堂とディオニューソス劇場の間に、紀元前2世紀にアッタロス朝ペルガモンのエウメネス2世により造られた。同じ時期に造られたアッタロスの柱廊より46m長かったが、商業スペースとなる小部屋は二重列柱廊内には造られていなかった。この柱廊が商業目的ではなく、施設間をつなぐ通路として計画されたからだと考えられている。列柱の外側はドーリア式、1階の内側はイオニア式が配されており、ペルガモン式の柱頭が取り付けられていた。

赤座直保(不明~1606)

秀吉家臣時代 1582年の本能寺の変で父・直則が討ち死にすると家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて所領を安堵させる。1589年10月、南条郡大桐村に灰焼きの営業独占権を与えた文書が現存する。1590年の小田原征伐では石田三成の麾下で武蔵国の岩槻城、忍城の攻略に参加し、この功によって従五位下備後守に任官、越前国今庄2万石に加増され大名に列する。しかしその地位は小早川秀秋や堀尾吉晴の与力であり、独立の大名ではなかった。今庄は直保が居館を置いたことからその統治下において発展し、その統治は結城秀康の街道整備政策によって引き継がれて北国街道の宿駅として栄えるに至る。

ジグミ・ドルジ・ワンチュク(1929~1972)

政策 1964年から1965年にかけて、ブータンの内政は混乱期を迎えた。1964年4月にはドルジ首相が暗殺され、首相職が空席となった後、1968年には首相職が廃止され、国王が首相として機能する体制が整えられた。国王が推進してきた諸改革が急進的過ぎたため、保守派が国王に対して不満を感じていたことが混乱の一因であったと考えられる。1964年12月16日には反体制派によるクーデター未遂事件が、1965年7月31日には、国王の暗殺未遂事件が発生した。これらの背景には愛人であったチベット人女性ヤンキの存在がクローズアップされるが、詳細はわかっていない。

寿桂尼(不明~1568)

花倉の乱 1536年に彦五郎、氏輝が相次いで死去すると、寿桂尼は、出家して栴岳承芳と名乗っていた実子・義元を還俗させ、側室の子である玄広恵探との間で家督争いが起こる。『高白斎記』の記述にある「同心シテ」という文と、次男・彦五郎の死の真相の解釈を巡って、この乱において寿桂尼は実子である義元の側でなく、玄広恵探に与していたという説もある。更にそもそも義元も寿桂尼の実子ではなく側室の子であるとする新説も出されている。乱を制し、家督を継いだ義元が1560年に桶狭間の戦いで織田信長に破れて戦死し、孫の氏真が当主となった後も政治に関わっている。

ヴィクトリア(1840~1901)

3か月の皇后 公務に取り組めないほど病状が進行していたため、皇后のヴィッキーが皇太子の摂政となり、皇太子ヴィルヘルムと共に皇帝代行で公務に取り掛かった。ドイツ宰相ビスマルクを嫌っていたヴィッキーと皇太子ヴィルヘルムは彼を無視し、自ら政務を執っていた。ヴィッキーは病に倒れているフリードリヒ3世を看病しながら皇后の務めであるドイツ領邦の王公妃、プロイセン貴族の夫人たちの謁見も休まず行った。摂政と皇后の公務の両立は大変なものだったが、疲れを貴族たちに一切見せず精力的に公務に励んだ。

ディック・ミネ(1908~1991)

或る雨の午後 雨が降ってたしとしとと或る日の午後のことだった君の僕とは寄り添うて雨の歩道を濡れながら二人愉しく歩いたね雨に濡れても二人きり或る日の午後のことだった肩を並べて寄せ合って話し疲れてどこまでも二人黙って歩いたね雨が降ってる今日もまた或る日の午後を想い出す君と僕とは別れたが雨の歩道を濡れながら一人黙って歩こうよ

ユリウス・シュトライヒャー(1885~1946)

ナチ党再入党後 ヒトラーが出獄し、1925年2月にナチ党を再建すると直ちに参加して再びヒトラーの指揮に服した。1925年にヒトラーから「ニュルンベルク=フュルト」大管区指導者に任じられた。さらに1929年からはそれが拡張された「フランケン」大管区の指導者に就任した。また1929年にはバイエルン州議会議員選挙に当選している。ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルスの指示の下、選挙戦でナチ党が政権を掌握できるようフランケン地方における宣伝に全力を尽くした。しかし彼が一番激しく行ったのはやはり反ユダヤ主義だった。『シュテュルマー』紙面やビラや演説で反ユダヤ主義・ユダヤ陰謀論を展開した。シュトライヒャーの党指導や扇動のせいでニュルンベルクのナチ党事務所はドイツでも有数の暴力的反ユダヤ主義の拠点と化した。

大久保忠隣(1553~1628)

改易~大久保長安事件~ 1613年1月8日には山口重政が幕府の許可無く忠隣の養女を、子の重信に娶らせたとして改易になっている。この件は忠隣の発言として、以前に養女の実祖父・石川家成が婚姻の件を伝え許可を得たため、改めて自身が許可を得る必要は無いとして、秀忠の許可を得ようとしなかったとある。幕府の決定を受けた忠隣は同月15日に甚だしく腹を立てたとあり、翌日に子と共に江戸城へ出仕している。また、同年4月には与力の大久保長安の死後、その不正蓄財が露見したことに関連して、長安の子が切腹させられる事件が発生している。

アーガー・ハーン3世(1877~1957)

「南アジア連邦」の提案 1918年5月に出版された『過渡期のインド』には、彼なりの見解が細かく明記されている。この文献では、社会体制、教育、軍隊、女性の地位だけでなく、他国で実施されている政策にまで言及されている。その中で、彼はインドを中心に据え、中央アジアから東南アジアにまで広範囲に渡る「南アジア連邦」構想を提案している。この連邦を実現するために、まずはインド国内の州を再編成するべきだと主張していたのである。既存する州は、民族や言語を基本に再構成し、自治権を持たせることを前提としている。州の統合について、既に以下の詳細な構想があった。これほど明確に州の再編成を打ち出したのは、アーガー・ハーン3世が初めてであった。

田中光顕(1843~1939)

明治 維新後は新政府に出仕。岩倉使節団では理事官として参加し欧州を巡察。西南戦争では征討軍会計部長となり、1879年に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1887年、子爵を授けられて華族に列する。1898年、宮内大臣。約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。1907年9月23日、伯爵に陞爵。1909年、収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した。

クヌート1世(1150~1196)

即位とその治世 10歳ごろに父によって使節としてローマに派遣され、ローマ教皇にあった。父エリク9世がマグヌス2世に暗殺された際もクヌートはローマにいたため助かった。マグヌス2世が死ぬとスウェーデンに戻りマグヌス2世を殺して王位を奪ったカール7世を殺して王位に就いた。即位したクヌートはローマに似せた教会を建て、異教徒を弾圧した。さらに戴冠式を行おうとしたが、その前に死んだ。この時代の王としては長く在位し、死因は暗殺ではなく自然死だった。さらに、王権の文書化も始まった。息子のエリクは戴冠をなしとげた。

長田弘(1939~2015)

森の絵本 最初は時間があまり進まず、カメラがゆっくりパンしているかのような表現で、森の緑が続く。水の登場とともに、花の鮮やかさと、動物たちと遊具がポップにページを彩る。読み進めれば、言葉がどんどん観念的に。大人に語るのを前提にもっと読み込んでみたい。

キャロライン・マティルダ・オブ・ウェールズ(1751~1775)

デンマーク王妃とスキャンダル 1766年、従兄であり、デンマークとノルウェーの王に即位して間もないクリスチャン7世と15歳で結婚した。精神障害のあったクリスチャン7世との結婚生活はうまくゆかなかった。王は、カロリーネ・マティルデを愛せないと公に宣言さえして無視し、長男フレデリクの誕生後、彼女は孤独な生活を送った。1769年、ドイツ人の医師ヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセが、外遊中のクリスチャン7世をデンマーク領アルトナで診察したことから、国王の侍医となる。アルトナには、デンマーク宮廷を追われたランツァウ伯爵らがおり、彼らと共に啓蒙思想に傾倒していたストルーエンセは、その復権を期待されていた。

藤原伊織(1948~2007)

テロリストのパラソル アル中のバーテンダー・島村は、20年前のある事件がきっかけで、名前を変え、過去を隠して生活していた。穏やかな秋の日、新宿中央公園。いつものように、朝から公園でウイスキーを飲みながらウトウトしかけたその時、突然爆音が響いた。何からの爆発物が爆発し、死傷者が多数出る。事件の被害者の中に、かつて学生運動で共に闘った友人・桑野や、3カ月だけ同棲したことのある女性・優子が含まれていたことを知る。かつて桑野と島村は、爆弾事件を起こし、警察に追われていた。爆発現場に置きっぱなしにしてしまったウイスキーの瓶から指紋が割り出され、島村は今回の事件でも疑いがかかることに。否応なく事件に巻き込まれ、島村は犯人を見つけようとする。

マハーダージー・シンディア(1727~1794)

ムガル帝国の実権掌握 そして、マハーダージーは皇帝シャー・アーラム2世にその功績を認められ、1784年12月4日にムガル帝国の摂政と軍総司令官に命じられることとなり、その権威は北インド一帯に轟くこととなった。だが、彼がヒンドゥー教徒でもあるにもかかわらず、帝国の摂政と軍総司令官になったことは、宮廷のイスラーム教徒の怒りと不満を買い、またマラーター同盟とイギリスとの対立も不可避なものとし。

藤沢周平(1927~1997)

蝉しぐれ 15歳の牧文四郎は、市中の剣術道場と学塾に通い、親友である小和田逸平や島崎与之助との友好を温めながら、隣家の娘小柳ふくに淡い恋心を抱いている。そんな平凡な日々がおだやかに過ぎてゆく中、父である助左衛門が、お世継ぎをめぐる政争にまきこまれて突然切腹させられる。残された文四郎は家禄を28石から7石に減らされた上、母、登世と共に普請組屋敷から葺屋町の長屋に移される。また、ふくは藩主の正室に奉公するために江戸に向かう。旅立つ直前、ふくは文四郎に会いに来たが、結局会うことはかなわない。

マーダヴ・ラーオ(1745~1772)

マイソール王国との戦い 1761年のパーニーパットの敗戦後、マラーター王国の監視が南インドに及ばなくなった結果、同年にカルナータカ地方のマイソール王国ではムスリム軍人ハイダル・アリーが王国の実権を掌握した。ハイダル・アリーは強大な支配者で、マイソール王国の領土拡大をめざし、1763年にはケラディ・ナーヤカ朝を滅ぼし、南インドの制圧に乗り出した。1764年1月にハイダル・アリーがトゥンガバドラー川を越えてマラーター領に侵攻したため、マーダヴ・ラーオはこの動きを見て、同年2月に大軍を率いてマイソール王国へと遠征に向かった。

北原亞以子(1938~2013)

慶次郎縁側日記 『慶次郎縁側日記』は、北原亞以子の連作時代小説シリーズ。『小説新潮』に連載、1998年から2014年にかけて新潮社により刊行された。短編集15巻、長編1巻および外伝1巻。短編集『その夜の雪』と長編『雪の夜のあと』に登場した元同心の森口慶次郎が、江戸の町で起こる様々な事件を鮮やかに解決していく。

リー・ハーライン(1907~1969)

星に願いを 輝く星に心の夢を祈ればいつか叶うでしょうきらきら星は不思議な力あなたの夢を満たすでしょう人は誰もひとり哀しい夜を過ごしてる星に祈れば淋しい日々を光照らしてくれるでしょう

渋沢成一郎(1838~1912)

明治以降~廻米問屋~ 1873年栄一の推薦を得て小野組に入るが、翌年小野組が破綻。1875年深川に居を構え、自ら渋沢商店を開業。貢租の金納化により混乱していた米穀物流の再編に栄一と協力して取り組む。主に小野組が商圏としていた上信奥羽の米産地から東京への廻米、委託販売を行うほか、荷為替決済や運送保険の制度創設にも取り組んだ。1878年栄一の東京商法会議所設立には発起人として参加。1881年には米相場急落で損失を被るが、栄一の援助を得て凌ぐこととなる。1882年栄一の深川・横浜での日本最初の倉庫会社創設にも協力するが、1883年には、栄一の勧めで家督を長男の作太郎に譲り、長男作太郎を渋沢商店店主とする。後の1897年栄一が深川自邸倉庫を中心に澁澤倉庫部を創業する際に、作太郎は渋沢商店の深川にあった倉庫を現物出資して協力し、業務は横浜での生糸商に集中する事となる。

ヘンリー・ウォルター・ベイツ(1825~1892)

アマゾンへ 1848年にウォレスの誘いでアマゾンに標本採集のための旅に出ることになった。ベイツは紡績業にはなじめず、博物学の興味を捨てることはできなかった。海外で標本採集をすれば財産を築けるかもしれないと知った二人は大英博物館で哺乳類や鳥類の採集の約束を取り付け、またフッカーからは植物標本の採集を依頼された。そのほかの標本はズーオロジスト誌で知り合った仲介人に売却を依頼して、4月にリバプールを出発し、5月にパラに到着した。彼らは最初の年に、街の近くに居を構えて鳥と昆虫などを採集した。モルフォ蝶を始め300種類を超える新種の生物を採集した。数ヶ月間その生活を続けてから、分かれて採集することになる。二人とも理由を書き残していないためその理由は明らかではないが、2年後には友好的に再会したこと、また生涯友人であり続けたことから、トラブルや意見の相違が原因では無かったようである。

北村寿夫(1895~1982)

新諸国物語~笛吹童子~ 時は室町時代、応仁の乱のころである。丹波国の満月城の城主、丹羽修理亮は野武士に攻められ、城は落ちた。彼には20歳そこそこの2人の息子がいる。兄は萩丸、弟は菊丸。武芸に秀でた萩丸は敢然と立ち向かうが、弟の菊丸はちがった。「武士なれば戦もしなければならぬ。戦いはいやだ。わたしは武士をすてて面作りになる」と言い残して都に暮らし始める。菊丸は笛の名手である。笛の音で濁りや汚れに満ちた人の心を洗うのであった。笛は師から伝わる名笛、春鶯囀。人々は彼を笛吹童子と呼んだ。

ヤネス・ドルノウシェク(1950~2008)

スロベニア第2代大統領 1974年からユーゴスラビア共産主義者同盟員。1984年からスロベニア社会主義共和国議会代議員、共和国委員会委員、スロベニア労働組合国際関係委員会議長を歴任した。1989年5月から1990年5月までユーゴスラビア幹部会議長。スロベニア独立後、自由民主党を率いる。1992年5月 - 2000年5月、2000年11月 - 2002年12月まで首相を努めた。

川端茅舎(1897~1941)

川端茅舎句集 金剛の露ひとつぶや石の上 一枚の餅のごとくに雪残る ぜんまいののの字ばかりの寂光土 約束の寒の土筆を煮て下さい 咳き込めば我火の玉のごとくなり 朴散華即ちしれぬ行方かな

ラグナート・ラーオ(1734~1783)

ラグナート・ラーオの廃位 ラグナート・ラーオの犯行であることは明らかだったが、証拠がなかったため、10月10日に彼がナーラーヤン・ラーオの跡を継いで同盟の宰相となった。だが、大臣の一人ナーナー・ファドナヴィースは事件の徹底究明に努め、ラグナート・ラーオとその妃アーナンディー・バーイーおよび実行犯と思われたシュメール・シング・ガールディーの調査を行った。そうしたなか、1774年4月18日にナーラーヤン・ラーオの未亡人が息子マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンを生んだため、ラグナート・ラーオは廃位され、この幼児が宰相位につけられた。

安原貞室(1610~1673)

かた言 これは、みづから少年の昔より、今かかる老のすゑまで、口になれて言ひ侍るを聞こしめしし折にしかり給へりし老師の厚恩を思ひいづるままに書きつけぬ。されどおろかものの心に任せて侍れば、よしと言へる言葉にあしきもまじり、あしとていとひ捨てし中によきこともあるべし。よく人にたづねあきらむべきためのしたかきなれば、誤れることかずかずあるべし。こと多き中なれば、しかりとてこの一帖をさみし捨つることなかれ。深き林のかたへ枯れたりとて、なぞよろず本末を浅しと見む。

高順(不明~199)

正史における高順~人物像~ 高順は主君たる呂布への忠誠心が厚く、臧覇討伐時の例のように、呂布に対して何度か諫言したという。呂布も高順の武勇や忠誠心は認めていたが、次第に高順を疎んじるようになり、また郝萌の反乱後はその傾向がさらに強まった。呂布は魏続と縁戚関係にあったことから、高順が指揮していた兵を全て奪い取って魏続に与え、戦争が起きてわざわざ高順に魏続配下の兵を指揮させた。しかし高順は終生恨みを抱かなかったという。

バジル・ホール・チェンバレン(1850~1935)

お雇い外国人 1873年5月29日にお雇い外国人として来日したチェンバレンは、翌1874年から1882年まで東京の海軍兵学寮で英語を教えた。1882年には古事記を完訳している。ついで1886年からは東京帝国大学の外国人教師となった。ここで彼は『口語日本語ハンドブック』、『日本事物誌』、『文字のしるべ』などの多くの著作を発表した。『日本事物誌』の中で新渡戸稲造の著作BUSHIDOに触れているが愛国主義教授と批判的である。さらに彼はW.B.メーソンと共同で旅行ガイドブックの『マレー』の日本案内版である『日本旅行案内』も執筆し、これは多くの版を重ねた。1904年ごろから箱根の藤屋に逗留し近くに文庫を建てて研究を続けていたが、眼病にかかったため、1911年3月4日離日、東京帝大名誉教師となった。以後はジュネーヴに居住した。箱根宮ノ下では、堂ヶ島渓谷遊歩道をチェンバレンの散歩道と別称している。