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王直(不明~1560)

王直の生涯 度重なる明の海禁政策を逃れ、1540年に日本の五島に来住し、松浦隆信に招かれて1542年に平戸に移った。地方官憲や郷紳らと通じ、養子や甥の王汝賢らを幹部に密貿易を拡大。明の河川や沿岸地域に詳しいために倭寇の代表的な頭目となり、明の1553年5月に三十七隻を率いて太倉、江陰、乍浦等を寇し、同年8月に金山衛、崇明に侵入した。

英宗(1427~1464)

土木の変 1449年、モンゴルのオイラト部の部族長エセン・ハーンは、明との通交を求めたが容れられなかったことを不満として、明領に侵攻を開始した。明の実権を握っていた宦官の王振が英宗に勧めて五〇万の大軍を率いて親征させたが、土木堡でエセンの指揮するモンゴル騎兵の奇襲を受け、全滅、英宗は捕虜となった。宦官が絡んだこの不名誉な敗北は、明の衰退の第一歩となった。この前年には江南地方の小作農の反乱である鄧茂七の乱が起こっている。

森戸辰男(1888~1984)

森戸事件~事件の詳細~ 10月2日、大審院は上告を棄却して有罪が確定。「社会理想としての無政府主義」と「実行方針としての無政府主義」は峻別すべきと主張した森戸は結果的に禁錮刑だったのに対して大内は「森戸論文は不穏当と思った」「自分は国家主義の方面からの社会改良論者である明かにして置く」と釈明して罰金刑のみとなった。両名は失職し、同じ頃ILO日本代表派遣問題をめぐって東大を辞職した師の高野岩三郎とともに大原社会問題研究所に参加、同所の中核メンバーとなった。その後、大内は復職したが、人民戦線事件で検挙、再び東大を追われた。同じ経済学部の教授である渡辺銕蔵などは、森戸の論文は論理も学術的価値もない、と批判した。

大原孫三郎(1880~1943)

法政大学大原社会問題研究所 法政大学大原社会問題研究所は、法政大学に付属する社会・労働関係の研究所、専門図書館。社会科学分野においても最も古い歴史をもつ研究機関である。また、設立当初は『大原社会問題研究所』と称し、法政大学とは別の機関であった。

浅沼稲次郎(1898~1960)

日本社会党時代 1955年に社会党再統一が実現すると、書記長に就任する。書記長という役職柄、党内で対立があると調整役にまわって「まあまあ」とお互いをなだめる役割に徹したことから、「まあまあ居士」などとも呼ばれた。また長年にわたって書記長を務めてきた実績と、長年書記長を務めていながらトップである委員長のポストが巡ってこない境遇をかけて「万年書記長」とも呼ばれた。

アルフレッド大王(849~899)

アルフレッド法典の制定 彼はデーン人との戦闘で荒廃した国土を回復させるため、法典と統治機構の整備に努めた。890年頃に制定された法典は、古代英語で書かれたものが現存しており、モーセの十戒を受け継ぐ戒律に基づくものであると表明し、人間同士の誓約も神聖にして厳格であることなどを強調している。また国王に対する謀反や主君に対する陰謀は重罪とされた。人体各部への暴行による傷害罪に対しては詳しく罰金の細目が明示されている。アルフレッド法典が施行され、領主と司教が訴訟と告訴を受け付けたが、アルフレッドは絶えず厳しい監視の眼を光らせ、数多くの争議で自ら審判した。

欧陽脩(1007~1072)

新五代史 現在の歴史学会の評価として、杉山正明のまとめた説によると、「事実誤認も多い上、著者の癖が強く、司馬光の資治通鑑にようなあからさまなウソはないものの、創作も混じっており、旧五大史に比べて良質な史料とは言いがたい」とされている。また、山崎覚士からは本来、五代王朝の節度使に過ぎない荊南節度使をあたかも別の国家のように記載して「十国」したのは欧陽脩個人の史観に過ぎないとする指摘もある。

ヤン・フス(1369~1415)

異端者から民族の英雄へ フスの思想は、教会の誤りを正し、聖書に基づく信仰に戻ることに主眼があり、ローマ教皇の権威を否定したのでもなく、またウィクリフの化体説批判には同調していなかったので、急進的なものではなかったが、コンスタンツ公会議では危険思想の烙印を押されることとなった。フスの思想はむしろその処刑後、封建領主としての教会に苦しめられていた民衆の抑圧からの解放、またドイツ人に抑えられていたチェック人の自由を求める民族的自覚と結びつき、フス戦争といわれる農民戦争となって爆発する。

エル・シッド(1045~1099)

エル・シッドとイスラーム教徒 レコンキスタの『英雄』と見られることの多いエル・シッドだが、現実の彼は反イスラーム主義ではなくイスラーム教徒とも親しく付き合っていた。また追放されていた最中には、サラクスタのタイファ、アル=ムクタディルの元に身を寄せ、その息子、孫3代に仕えてアラゴン王国への侵攻の指揮などをとっている。

ピピン3世(714~768)

ピピンの寄進 ピピンは北イタリアに遠征してし、ローマ教会を圧迫していた北イタリアのランゴバルド王国からラヴェンナ地方を奪い、754年にローマ教皇に寄進した。これによってカロリング朝フランク王国はローマ・カトリック教会の保護者として結びつきを完全なものにし、ローマ教皇はコンスタンティノープル教会などに対する優位を確立することとなった。

マルクス・アントニウス(前83~前30)

第2回三頭政治 当初は対立した両派であったが反共和派、反元老院で一致しアントニウス、アウグストゥス、レピドゥスの三者による同盟が成立。その勢力によってローマの支配権を掌握した。三人は国家再建三人委員に就任しローマを支配した。このとき三人委員会によるプロスクリプティオで、アントニウスの長年の政敵であったキケロが殺害された。

宮本百合子(1899~1951)

真夏の夜の夢 ルネッサンスという時代が、人間理性の目ざめの時期でレオナルド・ダ・ヴィンチを産みながら一方では魔力が人間生活に直接関係するということをまだ信じていた野蛮な時代であったという事実を、はっきり会得しなければならないと思う。とくに、いまの日本では。―ケプラーの伝記、メレジェフコスキーの小説をみてもそのことはまざまざと描き出されている。

志賀重昂(1863~1927)

日本風景論 初版は、1894年10月に政教社から刊行され、後に文武堂から刊行された。1902年まで増訂が繰り返されつつ、第14版まで至った。初版から第14版までは、青表紙の仮綴じで、木版風景画が折込で収められていた。1903年6月に刊行された第15版からは、クローズ版となった。その後、岩波書店から1937年1月に小島烏水の解説をくわえたものが刊行され、1995年9月には近藤信行が校訂を加えたものが刊行された。また、講談社からも、上・下巻に分けられたものが1976年9月にそれぞれ刊行された。

小松姫(1573~1620)

徳川政権での動静 1600年9月の関ヶ原の戦いの戦後処理の際、信之は家康の率いる東軍に属して戦功を挙げたことから従来の上野国沼田領を安堵されたのに加えて、父・昌幸が治めていた信濃国上田領、弟・信繁の知行を加増された。これにより信之は8万4,000石または上田領と沼田領を合わせ9万5,000石の大名として存続することになった。

ジョージ・ゴードン・バイロン(1788~1824)

マンフレッドの登場人物 マンフレッド、狩人、僧院長、アルプスの魔女、ペルシャの邪神アリマニーズ、復讐の女神ネメシス、精霊たち、アスターティの亡霊

ワルデマル・ボンゼルス(1881~1952)

「みつばちマーヤの冒険」の挿絵

濃姫(1535~1612)

濃姫の生涯に関する諸説~死亡説~ 織田家の公式行事などに濃姫が登場しなくなることを理由に、結婚から本能寺の変のあった1582年までの間に、病気など何らかの理由で死んだと考える説。ただし、記録がないことを論拠とするため、死亡したという証拠があるわけではない。

島清興(1540~1600)

畠山氏・筒井氏・豊臣氏時代 大和平群郡の国人の家系に生まれ、当初は隣国河内の守護で、大和国にも勢力を扶植していた畠山氏に仕えた。畠山高政が三好長慶と戦った教興寺の戦いに参加したが、高政は敗北し、清興も敗走している。その際、筒井順昭の指揮下で戦ったことが縁で畠山氏の没落後、筒井氏に従属する領主の一人となったようであるが、史料からは確認出来ない。

黒田長政(1568~1623)

羽柴家の家臣時代 1583年の賤ヶ岳の戦いでも功を挙げて、初めて河内国内に450石の領地を与えられる。1584年の小牧・長久手の戦いでは大坂城の留守居を求め、雑賀衆、根来衆、菅達長率いる長宗我部水軍と戦った。その功績により、加増2,000石を与えられる。

尼子晴久(1514~1561)

家督相続 1531年、叔父・塩冶興久が謀反を起こす。同年5月28日付の大内氏家臣・陶興房の書状には大内氏が塩冶興久・尼子経久の両者からの支援を求められ、最終的には経久を支持していることから、経久の代には大内氏と和睦していたことが判る。

村田珠光(1422~1502)

珠光の茶の湯 こうして道具賞玩の場であったそれまでの茶会を精神性の高い交流の場としようと試みた珠光は「奈良茶湯」とも呼ばれ、能阿弥の紹介によって珠光の茶湯に接した将軍足利義政は珠光のパトロンとなった。珠光は茶席の侘びの思想として「月も雲間のなきはいやにて候」という言葉を残している。

武野紹鴎(1502~1555)

紹鴎の森 現在の阪堺電気軌道阪堺線の天神ノ森停留場付近の天神ノ森天満宮内に、小さな森があるが、それは紹鴎が晩年隠棲していた跡地であるとされ、そのまま紹鴎の森として残る。

野呂元丈(1694~1761)

元丈の里 野呂元丈の功績を讃え、出身地の三重県多気郡多気町波多瀬に「元丈の館」という記念館が2000年に設置された。隣接して、中山薬草薬樹公園も整備され、合わせて「元丈の里」と称されている。

石川達三(1905~1985)

生きてゐる兵隊の登場人物 近藤、笠原、平尾、片山玄澄、中橋、倉田、西沢

平野義太郎(1897~1980)

大アジア主義 1937年、留置中に転向した平野は、中国華北部での自然村調査などをへて、1945年に『大アジア主義の歴史的基礎』を発表する。同書は、戦後、転向後の「逸脱」として顧みられることはなかったが、近年、「日本におけるアジア主義の終着点」とも評価され、見直されはじめている。平野は同書において「アジアにおける植民地態勢打破」の先駆者はわが日本であり、アングロサクソンの世界旧秩序打開の創始者もまたわが日本だった」とし、樽井藤吉や、荒尾精、大井憲太郎らの系譜の延長に、孫文の大亜洲主義を位置づけたうえで、日本と中国との連合への試みとして、大東亜共栄圏を捉えた。

白鳥庫吉(1865~1942)

白鳥庫吉の来歴 日本や朝鮮に始まり、アジア全土の歴史、民俗、神話、伝説、言語、宗教、考古学など広範な分野の研究を行う。1910年に「倭女王卑弥呼考」を著し、「邪馬台国北九州説」を主張。時を同じくして同時期の著名な東洋学者で「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」、「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と並び処せられた京都帝国大学の内藤湖南教授が「卑弥呼考」を著し畿内説を主張。後に東大派と京大派に分かれ激しい論争を戦わせることとなる。

山川菊栄(1890~1980)

赤瀾会~参加者~ 参加者はほとんどか男性の社会主義者を身内にもつ女性で、設立当初は社会主義同盟員の家族を中心に42名だが大部分は名簿上の会員で、実働は十数名と言われている。会の発足は、治安警察法5条5項の規定で、前年に発足した社会主義同盟に女性が参加できなかったからだと言われている。

薄田泣菫(1877~1945)

泣菫詩抄~冬の鳥~ 雪の降る日に柊のあかい木の實がたべたさに、柊の葉ではじかれて、ひよんな顏する冬の鳥、泣くにや泣かれず、笑ふにも、ええなんとぜう、冬の鳥。

広津柳浪(1861~1928)

昇降場 仙台の師団に居らしッた西田若子さんの御兄いさんが、今度戦地へ行らッしゃるので、新宿の停車場の御通過りなさるから、私も若子さんにと御同伴に御見送に行って見ました。寒い寒い朝、耳朶が千断れそうで、靴の裏が路上に凍着くのでした。此寒い寒い朝だったのに、停車場はもう一杯の人でした。こんな多勢の人達が悉皆出征なさる方に縁故のある人、別離を惜しみに此処に集まってお居でなさるのかと思ったら、私は胸が一杯になりましたの。

近衛秀麿(1898~1973)

海外 フリーの立場となった秀麿は中央交響楽団を短期間指揮しのち、1936年に新響と一応の和解を果たす。一時的に上海交響楽団などで活動した後、同年、首相広田弘毅によって音楽使節に任命され、再び海外に向かう。この件はレオポルド・ストコフスキーから秀麿に客演の要請があり、その流れで実現した話である。まずアメリカに向かい、ストコフスキーのほかユージン・オーマンディやアルトゥーロ・トスカニーニと面会、1936年11月にはヨーロッパへ移りBBC交響楽団やドレスデン、リガの歌劇場などに客演する。

高木貞治(1875~1960)

高木曲線 高木曲線は、中点を再帰的に分割してできるフラクタル曲線の一種である。高木貞治が1903年の論文で、「連続だが至る所で微分不可能な関数」として構成した。海外では、ブラマンジェ曲線とも呼ばれる。ブラマンジェという名前は、同名のプディングとの類似から来ている。また、高木曲線を一般化した高木-ランズバーグ曲線という名前でも知られている。さらに、一般化されたドラム曲線の一種でもある。

仁科芳雄(1890~1951)

ヨーロッパ留学 ニールス・ボーアの講演を聴いて物理学の新しい分野の研究に興味を持ち、1923年4月にコペンハーゲン大学のボーアの研究室に移った。ここでは研究員として5年半過ごし、1928年にはオスカル・クラインとともにコンプトン散乱の有効断面積を計算してクライン=仁科の公式を導いている。同年10月にコペンハーゲンを出港し12月25日に横浜港に到着、7年半ぶりに帰国した。

八木秀次(1886~1976)

大阪帝国大学理学部時代 大阪帝国大学の初代総長であった長岡半太郎の要請により大阪帝国大学に移籍。大阪帝国大学の理学部物理学科の初代主任教授となる。菊池正士の原子核物理研究を主任教授として予算的にも人的にも支援した。講師として在職していた湯川秀樹教授を叱咤激励し、それが後にノーベル物理学賞を受賞する中間子論に関する論文につながったといわれている。

羽仁もと子(1873~1957)

学校法人自由学園 クリスチャンだった女性思想家の羽仁もと子と羽仁吉一の夫婦によって1921年4月15日、キリスト教精神に基づいた理想教育を実践しようと東京府北豊島郡高田町に設立された。1934年に校舎を東京府北多摩郡久留米町に移転し、現在にいたる。

出口なお(1837~1918)

大本 大本は、1892年、出口なおに降りた国祖・国常立尊の神示を立教の原点とする教派神道系の教団である。俗に「大本教」と呼称されることもあるが、正確には”教”を付けない。1980年からの内部分裂により、2グループが分かれ、それぞれ宗教法人・愛善苑、大本信徒連合会として各々のスタンスで正統性を主張している。愛善苑は出口王仁三郎のみを教主としている。

中山みき(1798~1887)

天理教 天理教は、日本で江戸時代末に成立した新宗教の一つ。中山みきを教祖とする宗教団体である。狭義には奈良県天理市に本拠地を置く包括宗教法人およびその傘下の被包括宗教法人を指すが、広義には中山みきが伝えた教義そのものを指す場合があり、信仰する単立の宗教法人もある。本稿では、狭義の天理教を中心に述べる。

樺山資紀(1837~1922)

蛮勇演説 1891年11月、第1次松方内閣が翌年の予算案を帝国議会へ提出したが、これは海軍艦艇建造費275万円・製鋼所設立費225万円を含む前年度比約650万円増となっていた。この予算案に対し、民党は、前の第1次山県内閣時からの主張「民力休養・政費節減」を継続した。そして海軍内の綱紀粛正がなされなければ予算は認められないなどとして、海軍艦艇建造費・製鋼所設立費を含む約800万を削減した予算改定案を出した。

工藤平助(1734~1801)

赤蝦夷風説考 ロシア帝国の東方拡大は17世紀中頃から加速し、かなり早い段階でシベリア・満洲近辺まで到達していたが、清との間に結ばれたネルチンスク条約により、いったん勢いが止められた。ロシアは矛先を変えて北方に進出し、東シベリアをさらに進んで、17世紀中にカムチャツカ半島の領有を宣言。現地に居住するアイヌ民族などとの間で交易やトラブルを起こしつつあった。

林子平(1738~1793)

海国兵談 1738年に生まれた林は洋学者との交流を通じて海外事情について研究を行い、ロシアの南下政策に危機感を抱き、海防の充実を唱えるために本書を記した。江戸幕府の軍事体制の不備を批判する内容であったために出版に応じる書店がなかった。このため、1787年に自ら木版を作成して第1巻を刊行し、1791年に全巻刊行を終えた。直後の寛政の改革によって木版を没収されてしまったものの、自写による副本を秘かに所持していたため、後世に伝わることとなった。

北村季吟(1625~1705)

湖月抄 全体で60巻で、『源氏物語』55巻に、発端1巻、系図1巻、年立2巻、表白1巻からなる首巻で構成される。「湖月抄」の名前は『源氏物語のおこり』にある、紫式部が石山寺に参詣し、琵琶湖に浮かぶ月を見て「須磨」の巻から『源氏物語』を書き始めたという伝承に由来する。

契沖(1640~1701)

万葉代匠記 「代匠」という語は、『老子』下篇と『文選』第46巻豪士賦の中に出典があり、「本来これを為すべき者に代わって作るのであるから誤りがあるだろう」と意味である。当時、水戸徳川家では、主君の光圀の志により、『万葉集』の諸本を集め校訂する事業を行っており、寛文・延宝年間に下河辺長流が註釈の仕事を託された。長流が病でこの依頼を果たせなくなったときに、同好の士である契沖を推挙した。

大槻玄沢(1757~1827)

大槻三賢人 玄沢以後、大槻氏からは優秀な学者が多く輩出し、「西の頼家、東の大槻家」ともいわれた。玄沢の息子に漢学者の大槻磐渓、孫に国語学者の大槻文彦がおり、郷里の一関では、この3人を「大槻三賢人」と称する。養賢堂学頭の大槻平泉も同族の出身である。

佐藤信淵(1769~1850)

混同秘策 本著で佐藤信淵は、世界を征服するために日本国内を固めることが大事だと説き、江戸に遷都し、日本の政治機構を3台14省に分けた統一国家を作り、八丈島や小笠原諸島を開発し、さらにフィリピンを取ってその資源を利用し、かつ東京の防衛に備えることを主張した。

斎藤義龍(1527~1561)

斎藤義龍の生涯 その後は、貫高制に基づいた安堵状を発給して長年の内乱で混乱した所領問題を処理し、また宿老による合議制を導入するなど、室町時代の体制を生かしながら、戦争に明け暮れていた道三の下では十分実現し得なかった守護領国制の残滓を排して、戦国大名としての基礎を築いた。後に剃髪して玄龍と号している。

長宗我部盛親(1575~1615)

家督相続 長宗我部家の家督に決定した後、父・元親と共に長宗我部氏の共同支配者として二頭政治を行い、豊臣氏による1590年の小田原征伐、1592年からの朝鮮出兵に参加する。また、1594年以降、知行宛行権が盛親に移譲されたが、これ以外の大名当主としての権限は変わらずに両人が共有していた。更に1597年3月24日に父の元親と共に制定した「長宗我部元親百箇条」を発布している。

本因坊算砂(1559~1623)

本因坊家 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑に仕えた本因坊算砂を開祖とする家系。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光寺の塔頭の一つに由来する。「本因坊」はもとは連声して「ほんにんぼう」と読んだが、囲碁の普及に伴って「ほんいんぼう」と読まれるようになった。

北村透谷(1868~1894)

北村透谷詩集~みどりご~ ゆたかにねむるみどりごは、うきよの外の夢を見て、母のひざをば極楽の、たまのうてなと思ふらむ。ひろき世界も世の人の、心の中にはいとせまし。ねむれみどりごいつまでも、刺なくひろきひざの上に。

小村雪岱(1887~1940)

おせん