スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

6月, 2018の投稿を表示しています

宗義智(1568~1615)

文禄・慶長の役と関ヶ原 義智は行長と共に明側の講和担当者・沈惟敬らと和平交渉に奔走したが、双方の求める和平条件は合意に至る筈も無いかけ離れたものであったため、国書の内容を双方に都合の良い条件に改竄するなどして和平成立を目指したが、こうした欺瞞行為をともなう交渉は実ることなく、各国に混乱を与え交渉は決裂。慶長の役を防ぐには至らなかった。

海老名弾正(1856~1937)

熊本バンド 熊本洋学校に学び、1876年花岡山の誓約に加わり、リロイ・ジェーンズから洗礼を受ける。その集団が後に熊本バンドと呼ばれるようになる。その年の秋に同志社神学校に移り新島襄の薫陶を受ける。翌年1877年新島襄の勧め上州安中に夏期伝道に赴いた。海老名は上州で聖書講義をした。評判が良く 50-60人の青年が集まった。さらに、1878年にも安中伝道を行った。新島襄を迎えて30名の人が洗礼を受け、安中教会が誕生した。

アベル・タスマン(1603~1659)

1644年の航海 2回目の航海は1644年に行われ、ニューギニアの東~南海岸へと周り、ニューギニアとオーストラリアの間のトレス海峡を周り、オーストラリア北海岸に沿って航海した。しかし、この航海では有益な大陸や島は発見できず、この後オーストラリア南東のタスマニアやニュージーランド辺りへは、ジェームズ・クックによる発見まで1世紀以上本格的な航海は行われなかった。

アルチュール・ランボー(1854~1891)

飢餓の饗宴 俺の飢よ、アヌ、アヌ、驢馬に乗つて逃げろ。俺に食気があるとしたら、食ひたいものは、土と石。ヂヌ、ヂヌ、ヂヌ、ヂヌ、空気を食はう。岩を、火を、鉄を。俺を飢よ、廻れ、去れ。音の平原!旋花のはしやいだ毒を吸へ。貧者の砕いた礫を啖へ、教会堂の古びた石を、洪水の子なる磧の石を、くすんだ谷に臥てゐる麺麭を。俺の飢は、黒い空気のどんづまり、鳴り響く青空!――俺を牽くのは胃の腑ばかり、それが不幸だ。地の上に葉が現はれた。饐えた果実の肉へ行かう。畝の胸で俺が摘むのは、野萵苣に菫。俺の飢よ、アヌ、アヌ、驢馬に乗つて逃げろ。

フランク・シナトラ(1915~1998)

ケネディとの友情の決裂 しかしケネディ兄弟、特にジョンがマフィアと関係の深いシナトラと深い関係を築き、ジョンがシナトラの元恋人キャンベルとモンローと不倫関係を持ったこと、さらに上記のようにジョンが大統領選挙の本選において、ジアンカーナなどシナトラと親しいマフィアからの選挙不正への関与を含む選挙支援を受けたこと、そしてその後の関係の決裂が、後にジョンの名声を大きく傷つけるだけでなく、下記のように暗殺の原因の1つとされることとなる。

ナサニエル・ホーソーン(1804~1864)

緋文字 『緋文字』の物語は、語り手により、プリンと彼女の身に起きた出来事の証拠書類の発見が語られる「税関」と題された序章から始まる。語り手は自分がその書類に巻かれていた布に触れた時に、「焼かれるような熱さを……まるでその文字が赤い布でなく、赤熱した鉄であるかのような熱さを」感じたと述べている。記録によれば、ナサニエル・ホーソーンは実際にマサチューセッツ州セイラムの税関で数年にわたり勤務しており、管理機構の変化により最終的にその職を失った。

トーマス・マン(1875~1955)

魔の山 作品はハンス・カストルプ青年が、第一次世界大戦前にスイスのアルプス山脈にあるダボスのサナトリウム「ベルクホーフ」に従兄弟ヨーアヒムを訪れることから始まるそこで彼は結核にかかっていることがわかったため、その後7年にわたってそこに滞在することになる。その7年の滞在期間中に、サナトリウムの最高責任者ベーレンス顧問官、進歩啓蒙主義者セテムブリーニ、ロシア夫人ショーシャ、虚無主義者ナフタなど、彼は大戦前のヨーロッパの縮図を構成しているような様々な人物との交流を通して学び、成長していく。

ウィリアム・ワーズワース(1770~1850)

ロマン主義の理想 この詩の表現から分かる通り、ワーズワースは実在の郭公の声を聞いて、そこからヴィジョンやイメージやミステリを感応している。郭公という具体的な「鳥」の彼方に、魂に共鳴するヴィジョンを感受し、自然の崇高な奥深さにワーズワースは忘我の境地にある自己をうたうのである。

イライシャ・グレイ(1835~1901)

電話機の発明 1876年に電話機を発明したが、同時期に類似の発明をしたアレクサンダー・グラハム・ベルに特許を取得されてしまう。また、実績はなかったが動画の構想・研究も進めていたといわれ、郷里のミュージアムに残されているスケッチには「電光掲示板」のような動画映写と思われるものが描かれている。なお、グレイ符号の発明者とする資料があるか間違いで、グレイ符号の発明者はフランク・グレイである。

エゼルウルフ(不明~858)

ヴァイキングとの戦い エゼルウルフが軍議と合意を重んじる戦術を好んだのは、息子アルフレッドのトップダウン式軍隊指揮とは対照をなした。アングロサクソン年代記は840年代初頭からヴァイキングの襲来が次第に増えていたことを記録している。ヴァイキングの襲来、略奪、撤収という当初の行動パターンが、850年にはイングランドで冬を越すようになっていた。ウェセックスはたびたびヴァイキングと干戈を交え、843年には敗北を喫するが、851年、「エゼルウルフ、エゼルバルドおよび彼らの軍隊がアクレアでデーン軍と戦い、完全勝利をおさめ、敵の根城を完膚なきまでに叩き壊した」。戦勝の報はシャルル2世の西フランクにまで届き、エゼルウルフの名声を高めた。

コンラート2世(990~1039)

選挙による国王選出 ハインリヒ2世が子を残さずして死去し、ザクセン朝は男系の血統が完全に断絶した。そのため1024年9月4日、国王選挙のための諸侯集会がオッペンハイムで開催された。この場において、満場一致でコンラートが王に選出され、ザーリアー朝初代の王となった。しかしながら、満場一致とはいえケルン大司教ピルグリム、ロートリンゲン大公ゴツェロ1世などは諸侯集会に臨席していなかった。そのためハインリヒ2世と同様にコンラート2世も各地を巡行して、こうした各勢力から王位の承認を得る必要に迫られた。

マリア・クリスティーナ・デ・ボルボン(1806~1878)

再婚と失脚、亡命 1833年12月8日、夫を亡くしてわずか3カ月後に、王室警護官で愛人のアグスティン・フェルナンド・ムニョスと秘密結婚した。マリア・クリスティーナとムニョスは間に7人の子供をもうけたが、マリア・クリスティーナはこの再婚を隠したままにしておこうとした。

ウォルター・スコット(1771~1832)

湖上の美人~第1幕~ 舞台はカトリン湖のほとり、羊飼いが歌いながら通り過ぎる合唱で開幕する。導入部「暁の使者は」。羊飼いの歌の後、小船に乗ったエレナは愛する人マルコムに心を寄せる。エレナが岸に降り立つと、エレナの美しさに見とれたウベルトと名乗る青年の狩人が現れ、休息の場を求めるので、エレナは山小屋へ案内する。狩人たちはウベルトがはぐれたのではないかと山を探しまわる。他方、山小屋に着いたウベルトはエレナが反逆者ダグラスの娘であると知って驚く。そしてエレナの友人が現れ反乱軍の首領ロドリーゴとの婚約を結ぶ。

ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(1849~1912)

真夏の夢 北の国も真夏のころは花よめのようなよそおいをこらして、大地は喜びに満ち、小川は走り、牧場の花はまっすぐに延び、小鳥は歌いさえずります。その時一羽の鳩が森のおくから飛んで来て、寝ついたなりで日をくらす九十に余るおばあさんの家の窓近く羽を休めました。

ジャン・ラシーヌ(1639~1699)

アンドロマック~第1幕~ オレストがピリュスの宮廷に到着する。エクトールの遺児アスティアナクスが将来トロイアの仇を討つ前に亡きものにするよう、全ギリシャの代表として、ピリュスが説得に来たのである。ピリュスは最初その要求を拒む。アンドロマックを愛していたからだが、アンドロマックは亡夫エクトールへの貞節を誓い、ピリュスの求愛を受けつけない。ピリュスは結婚しないならアスティアナクスをギリシャに引き渡すと脅迫する。

ピエール・コルネイユ(1606~1684)

5人の詩人の会 1634年、コルネイユはさらなる注目を集めた。リシュリュー卿がルーアンを訪問することになり、コルネイユはそのための詩を書くことになったのだが、その詩が、リシュリュー卿に気に入られ、リシュリューはコルネイユを「5人の詩人の会」   Les Cinq Auteurs  の一人に選んだ。ちなみに他の4人は、ギヨーム・コルテ、フランソワ・ル・メテル・ド・ボワロベール、ジャン・ロトルー、クロード・ド・レストワールだった。

ジョン・バニヤン(1628~1688)

天路歴程 "City of Destruction"に住んでいたChristianという男が、「虚栄の市」や破壊者アポルオンとの死闘など様々な困難を通り抜けて、「天の都」にたどり着くまでの旅の記録の体裁をとっている。この旅はキリスト者が人生において経験する葛藤や苦難、そして理想的なキリスト者の姿へと近づいていくその過程を寓意したものであり、登場人物や場所の名前、性質などは、それらのキリスト教的な人生観・世界観に基づくものになっている。

ジャン・オノレ・フラゴナール(1732~1806)

読書する娘

アンソニー・ヴァン・ダイク(1599~1641)

英国王チャールズ1世の肖像

坂本繁二郎(1882~1969)

水より上る馬

杉山元治郎(1885~1964)

杉山元治郎の来歴 1922年、杉山を組合長として、日本農民組合が発足した。組合は急速に発展し、3年後の1925年末には組合員数は7万人を超えた。1925年普通選挙法成立を受け、無産政党結成の機運が高まり、1926年労働農民党が結成されると初代執行委員長に就任する。しかし労働党・日農ともに左右抗争が激しくなり、杉山は日農組合長・労農党委員長を辞任。その後1927年に三宅正一・浅沼稲次郎がつくった日本労働党系の全日本労働組合委員長となり、1928年全日農と日農の統一による全国農民組合の委員長となった。

櫛田民蔵(1885~1934)

櫛田民蔵の生涯 大阪毎日新聞論説委員、同志社大学教授、法学部長を歴任。1919年に東京帝国大学講師となるが、翌年の森戸事件を機に辞職。大原社会問題研究所員となる。1920年から2年間、久留間鮫造と渡欧、主にドイツで書籍の 蒐集に当たる。大原社研では、唯物史観とマルクス経済学における価値論を研究。恩師河上肇のマルクス解釈を批判したことでも知られる。日本のマルクス経済学を国際的水準に引き上げたとされる。

宇垣一成(1868~1956)

陸軍大臣 1924年に清浦内閣の陸軍大臣に就任した。加藤高明内閣でも陸軍大臣に留任した。1925年に加藤内閣において軍事予算の削減を目的とする軍縮を要求する世論の高まり、陸軍省経理局長の三井清一郎を委員長とする陸軍会計経理規定委員会を設けられた。21個師団のうち高田の第13師団、豊橋の第15師団、岡山の第17師団、久留米の第18師団の計4師団、連隊区司令部16ヶ所、陸軍病院5ヶ所、陸軍幼年学校2校が廃止された。

大江千里(生没年不詳)

小倉百人一首 月見れば千々に物こそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど

遍昭(816~890)

古今和歌集 天つ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ すゑの露もとのしづくや世の中のおくれ先だつためしなるらん

継体天皇(450~531)

継体天皇の生涯 継体は、ようやく即位19年後の526年、大倭に都を定めることができたが、その直後に百済から請われて救援の軍を九州北部に送った。しかし新羅と結んだ磐井によって九州北部で磐井の乱が勃発して、その平定に苦心している。日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年もかかっており、皇室内部もしくは地域国家間との大王位をめぐる混乱があったこと、また、継体は九州北部の地域国家の豪族を掌握できていなかったことを示唆している。

神武天皇(前711~前585)

東征の開始 神武天皇は即位前は 神日本磐余彦尊といい、 彦波瀲武 鸕鶿 草葺不合命の四男である。生まれながらにして明達で、強い意志を持っていた。15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫を妃として、息子の手研耳命を得た。

タルコット・パーソンズ(1902~1979)

システム理論 パーソンズは社会一般に渡る一般理論の構築を目指した。特に功利主義的な人間行為の理解に反発し、他者のために行動する社会性の理論を唱えた。まずパーソンズは行為を行為システムと捉えるところから、出発している。そしてその行為システムのサブシステムとして、文化システム、パーソナリティーシステム、社会システムなどを挙げている。この中でも特に社会システムについて、有名な構造機能分析およびAGIL図式などの、独特な理論を唱えたのである。

エミール・デュルケーム(1858~1917)

社会学主義の提唱者 デュルケームは当時としては斬新な独自の視点から社会現象を分析し、経験科学としての社会学の立場を鮮明に打ち出した人物である。実証主義の科学としてオーギュスト・コントによって創始された社会学が、未だに学問として確立されていない状況を見たデュルケームは、他の学問にはない独自の対象を扱う独立した科学としての地位を築くために尽力した。

フリードリヒ・シェリング(1775~1854)

前期~最初期~ 前期シェリングに大きな影響を及ぼした思想家として、プラトン、カント、フィヒテ、スピノザ、ゴットフリート・ライプニッツが挙げられる。カントの影響については議論があり、フィヒテを介した影響をより重視する論者と、カントからの直接の影響をより重視する論者に分かれる。

ジョージ・バークリー(1685~1753)

人知原理論 バークリーはジョン・ロックの「人間の知識の対象はすべて観念」という主張から出発しながら、ロックが想定していた実体は存在しないことを主張することを試みている。ロックは主観によって左右されない第一性質を想定していたが、バークリーはこれが言語の問題に起因する根拠がない誤謬であると見なす。バークリーの基本的な枠組みとは、知覚する主体である精神と知覚される客体である観念と事物という対立関係である。このことはバークリーが示した命題「存在するということは知覚されるということである」に端的に表現されている。

マックス・ヴェーバー(1864~1920)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 1920年に発表されたマックス・ヴェーバーの主著。西ヨーロッパにおいて勃興した資本主義経済は、いかなる内的、心理的な機動力を持っていたのか。「資本主義の精神」は、禁欲的プロテスタンティズム、その中のカルヴァンの思想の中核である予定説との歴史的関係を社会学的に追究した。この研究は、一連の「儒教と道教」「ヒンズー教と仏教」「古代ユダヤ教」などの宗教社会学の一部を為すものであった。なお、ここで問題とされる「資本主義」とは「近代資本主義」特に西ヨーロッパとアメリカの資本主義のことであり、「資本主義の精神」とは「倫理的な色彩をもつ生活の原則」を意味している。以下の要約は、岩波文庫版の大塚久雄訳および解説による。

鏑木清方(1878~1972)

築地明石町

藤原彰子(988~1074)

国母へ 1012年2月14日に皇太后、1018年正月7日に太皇太后となる。この間、1016年に正月29日には敦成親王が即位し、道長は念願の摂政に就任した。翌年、道長は摂政・氏長者をともに嫡子・頼通にゆずり、出家して政界から身を引いた。なお、道長の摂政就任と退任の上表は幼少の天皇ではなく彼女宛に出され、退任後の太政大臣補任も彼女の令旨によって行われている。これは天皇の一種の分身的存在である摂政の人事が、天皇や摂政自身によって行われることは一種の矛盾を抱えていたからだと考えられている。道長の出家後、彰子は指導力に乏しい弟たちに代えて一門を統率し、頼通らと協力して摂関政治を与えた。しかしこの後摂関家一族の姫は、入内すれども男児には恵まれないという不運が続いていく。1026年正月19日、落飾し法名を清浄覚とする。同日、一条天皇母后で、彼女にとっては伯母で、義母でもあった東三条院詮子の先例にならって女流号を賜り、上東門院を称した。後年、父道長が建立した法成寺の内に東北院を建てて、晩年ここを在所としたため、別称を東北院ともいう。

阿倍比羅夫(生没年不詳)

白村江の戦い 662年に天智天皇の命により、征新羅将軍として百済救援のために朝鮮半島へ向かったが、翌663年新羅と唐の連合軍に大敗した。この敗北により百済再興はならなかった。

香川景樹(1768~1843)

桂園一枝 小沢蘆庵が提唱した「ただごと歌」の主張を発展させ、優雅・清新な歌風をもって京都を中心とした歌壇に君臨した景樹の代表作である。景樹の家風は明治時代初期までもてはやされ、この歌集の名から桂園派と称された。景樹は「古今和歌集」の歌風を理想とし、紀貫之を歌聖と仰ぎ、それを実践するためにこの歌集を自ら撰集した。歌集の構成は四季・恋・雑・雑体からなっている。

エドウィン・ハッブル(1889~1953)

ハッブルの法則 ハッブルは銀河の赤方偏移の発見者として一般に知られている。1929年、ハッブルとミルトン・ヒューメイソンは、銀河の中にあるセファイド変光星を観測し、セファイド変光星の明るさと変光周期の関係を使って、銀河の赤方偏移と距離の間の経験則を定式化した。これは、赤方偏移を後退速度の尺度と考えれば、2つの銀河の間の距離が大きくなるほど、互いに離れる相対速度も距離に比例して大きくなるというもので、今日ハッブルの法則として知られているものである。ただし、ハッブルは複数あるセファイド変光星の型を区別していなかったため、ハッブル定数としては、今日知られている値の約7倍の 500km/s/Mpcという値を算出している。

ラルフ・ワルド・エマーソン(1803~1882)

南北戦争時代 エマーソンは断固として奴隷制に反対だったが、世間の注目を浴びたからず、この問題について講演することをためらった。しかし彼は1837年7月頃に始まり、南北戦争の間には数多くの講演を行った。はじめは多くの友人や家族が彼よりも活発な廃止論者だったが、1844年以降は奴隷制反対により積極的な役割を果たした。彼は多くの演説や講演をし、とくにジョン・ブラウンがコンコードを訪れた際には家で歓待した。1860年、エイブラハム・リンカーンに投票したが、リンカーンが奴隷制の完全撤廃よりも北部の保護に関心があることに失望した。南北戦争が勃発すると、エマーソンは直ちに、奴隷の解放を信じると表明した。

ペルガのアポロニウス(前262~前190)

円錐曲線 古代ギリシャのアポロニウスが円錐曲線論の体系を著書にまとめ、中世ヨーロッパではケプラーによって天体の軌道との関連が見出された。またアポロニウスによる総合幾何学的な円錐曲線論はオイラーによって解析幾何学を用いて現代的に書き換えられた。

ティリー伯ヨハン・セルクラエス(1559~1632)

三十年戦争 1618年、ボヘミアのプロテスタントが神聖ローマ皇帝を窓から放り投げる事件が発生、これによって三十年戦争の第一段階であるボヘミア・プファルツ戦争が勃発した。ティリーはカトリック連盟の総司令官として皇帝軍に合流、ボヘミアへの進軍を開始した。1620年11月8日、皇帝軍は白山の戦いでボヘミア軍を破り、ボヘミア王兼プファルツ選帝侯フリードリヒ5世は逃亡した。

フランソワ・ド・シャレット(1763~1796)

反乱への参加と離別 1793年、地方農民の徴兵やカトリックの禁止を押し付ける革命政府に対して、ヴァンデの反乱が勃発する。地方で戦闘に加わった農民達は、シャレットにその地域のリーダーとなるように頼み、彼もそれに従った。ヴァンデの反乱は、農民の反乱であると同時に、パリで勢力を失いつつあった王党派の反乱でもあり、彼にとってもこの戦闘に参加する意義は存在したからである。シャレットと彼に従った農民達は、反乱の最高指導者に選ばれたジャック・カトリノーに加わって、カトリック王党軍と名を変えた反乱軍のほとんどの戦闘や闘争において、共和国軍と戦った。

カミーユ・ピサロ(1830~1903)

果樹園

ジャイアント馬場(1938~1999)

猪木のクーデターと放送問題 1971年、日本プロレスの経営方針やレスラーの扱いなどに不満を覚えていた猪木と当時の後援会長が独自に改革案を製作し、馬場も含め多くの選手が賛同し、これを幹部に突きつけ、経営陣の刷新を図ろうとしていた。同年11月30日、流れに疑問を感じていた馬場が上田馬之助を捕まえて問いただしたところ、経営陣の刷新後は馬場も追い出す計画もあることを知り、馬場が経営陣にその旨を伝えた。猪木の行動は経営乗っ取りを狙ったクーデターとみなされ、12月13日に猪木は日本プロレスを除名されることになった。

蜂須賀家政(1558~1639)

江戸時代 1614年から始まった大坂の陣では、豊臣方からの誘いに「自分は無二の関東方」と称して与力を拒絶するとともに、駿府城の家康を訪ねて密書を提出している。冬・夏の陣で嫡男の至鎮が戦功を挙げたため、戦後に蜂須賀家は淡路一国を与えられ、25万7,000石に加増された。

鍋島勝茂(1580~1657)

鍋島騒動から藩主へ 1607年に龍造寺高房、後を追うように政家が死去すると、勝茂は幕府公認の下で跡を継いで佐賀藩の初代藩主となり、父の後見下で藩政を総覧した。勝茂はまず龍造寺家から鍋島家への滞りない政権移行に従事し、龍造寺家臣団と鍋島家臣団の整理を行い、各家臣から起請文を改めて提出させ、内乱の防止に成功した。

清沢洌(1890~1945)

新聞記者時代 1918年帰国した清沢は、貿易関連の仕事を転々とした。1920年には中外商業新報に入社した。ここでもはじめは米国関連、日米問題関連のエキスパートとしての執筆活動を行ったが、大正デモクラシー、政党政治の伸長、関東大震災後の混乱、日本の満州進出などを受けて、国内問題や対中関係も彼の執筆対象となっていた。