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トマス・ウェントワース(1593~1641)

国王派に ウェントワース取り込みに腐心していた国王は、ウェントワースを1628年7月22日にウェントワース男爵、同年12月13日にウェントワース子爵に叙し、さらに12月25日には北部評議会議長に任じた。さらに同年8月にはこれまでウェントワースが強く批判してきたバッキンガム公が暗殺された。これによりウェントワースは政府への態度を軟化させていき、国王と議会の調停役になり、ついには国王派に転じることになった。

フェルディナンド1世(1423~1494)

パッツィ戦争~パッツィ家の陰謀~ 1478年、フィレンツェでパッツィ家とメディチ家の間に抗争が起こり、その結果100人に及ぶパッツィ家関係者の処刑がメディチ家によって行われた。パッツィ家と結んでいた教皇シクストゥス4世はこれに激怒し、ロレンツォを破門の上、ナポリ王国と同盟して宣戦布告した。ロレンツォ・デ・メディチは大きな危機に直面したが、自らナポリに乗り込み、フェルディナンド1世と会見を行った。この勇気にナポリ王も感心し、和平が結ばれた。

トゥールのグレゴリウス(538~594)

フランク史~研究~ 彼はカトリックの司教でもあり、この立場にあるものに特有の考え方が彼の著作に表れている。西ゴート王国において当時まだ優勢を保っていたアリウス派の危険に関する彼の見解から、序文に両性論の詳細な説明を添えた。また、彼の異教徒およびユダヤ人に対する嘲罵は、彼の著作がどのように宣教に用いられたかを反映している。例えば、第2巻第28-31章において、彼は異教を不道徳で弱いものとみなしている。

エンニウス(前239~前169)

エウヘルメス 『エウヘルメス』は、メッセネのエウヘルメスなど数人の神学者たちのギリシャ語をモデルにした単純な散文のふりをした形式で、まったく異なるタイプの神学的教義を描いたものである。その教義によれば、オリンポス山の神々は人類の出来事に積極的に介在する超自然的な力ではなく、死後に尋常ならざる方法で後世に記念して伝えられた、太古の時代の偉大な将軍・政治家・発明家とされている。

アルカイオス(前620~前560)

政治生活 ピッタコスが指導した反乱の間、レスボス島に激しい内乱が勃発した。アルカイオスは反乱軍側につき、彼の兄弟はピッタコスと共にクーデターを起こし、貴族のメランクロスを権力の座から引きずり下ろした。しばらくの間、アルカイオスはピッタコスと手を組まされたうえ、トロイに近いシゲイオンのアテナイ人との戦いでは一緒に戦った。ピッタコスはそこでアテナイの指揮官プリュノンをたった一回の戦闘で打ち負かした。しかし、アルカイオスはその戦いから逃亡し、そのことを詩に詠んだ、とヘロドトスは言っている。

シャルル2世(823~877)

「禿頭」 シャルル2世のあだ名は皮肉として使われたものであって、実情を表してはいけないとされる。というのは、彼は実際には禿げておらず、むしろ毛深かったというのである。この説は、シャルル2世に敵対する者のうちに、この誹謗の対象にしやすい特徴について言及した者がいない、という事実によって支持される。しかし、シャルル2世の廷臣で発言がよく記録に残っているものの中に、彼が毛深かったと言った者がいるということもない。そして、『フランク王の系譜』は記述を869年から始めており、皮肉の跡など見当たらない書物であるが、この書ではシャルル2世を「Karolus Caluus」= 「シャルル禿頭王」と呼んでゐる。確かに10世紀終わりまでに、ランスのリシエやシャバンヌのアデマールが彼を真面目な文章で「シャルル禿頭王」と呼んでいる。

後陽成天皇(1571~1617)

後陽成天皇の生涯 1592年以降、秀吉は朝鮮出兵を開始する。秀吉の「三国国割」構想によれば、文禄の役で明を征服した暁には後陽成天皇を明の皇帝として北京に遷し、良仁親王か八条宮智仁親王を日本の天皇にして日本民族による征服王朝を確立しようとした。ただし、後陽成天皇は秀吉の外征には反対であり、秀吉に対して「無体な所業」であると諭している。

山本周五郎(1903~1967)

赤ひげ診療譚~狂女の話~ その門の前に来たとき、保本登はしばらく立停って、番小屋のほうをぼんやりと眺めていた。宿酔で胸がむかむかし、頭がひどく重かった。「ここだな」と彼は口の中でつぶやいた、「小石川養生所か」だが頭の中ではちぐさのことを考えていた。彼の眼は門番小屋を眺めながら、同時にちぐさのおもかげを追っていたのだ。背丈の高い、ゆったりとしたからだつきや、全身のやわらかいながれるような線や、眼鼻だちのぱちっとした、おもながで色の白い顔、――ちょっとどこかに手が触れても、すぐに頬が赤らみ、眼のうるんでくる顔などが、まるで彼を招きよせでもするように、ありありと眼にうかぶのであった。

藤原定子(977~1001)

藤原定子の生涯 定子の母貴子は円融朝に掌侍を勤めて高内侍と称された人で、女ながらに漢文を能くし、殿上の詩宴にも招かれるほどであった。また、定子の父道隆は、「猿楽言」を好み酒を愛した陽気な性格の人だという。こうした父母の血を享けて、定子は聡明な資質を持ち、和漢の才に通暁したばかりではなく、明朗快活な性格に育ったらしい。994年頃から定子の死去まで彼女に仕えた女房・清少納言が著した随筆『枕草子』は、生き生きとした筆致で、彼女の外面的・人格的両面の類稀な魅力を今日に伝えている。従弟にあたる夫・一条天皇との仲も良好で、機知を愛した風雅を重んじる一条朝の宮廷の風潮が見られた。

ピート・シーガー(1919~2014)

グループでの活動~アルマナック・シンガーズ~ シーガーは1941年に、ミラード・ランペル、アーカンソー州の歌手で活動家であったリー・ヘイズと共にアルマナック・シンガーズを結成した。アルマナックスは世相を主題とし、労働組合運動、人種や宗教の融和、その他の進歩的な主張を推し進める、いわば歌う新聞として機能するグループだった。メンバーはその時々で入れ替わり、ウディ・ガスリー、ベス・ローマックス・ハウズ、ボールドウィン・"ブッチ"・ハウズ・シス・カニンガム、ジョシュ・ホワイト、サム・ゲイリーらが参加していた。当時21歳だったシーガーは、過激なテーマを歌うアルマナック・シンガーズの一員として活動するのに際し、政府の仕事に就いていた父親に配慮して「ピート・ハウアーズ」という芸名を名乗っていた。

レフ・ランダウ(1908~1968)

ハリコフ 1932年から1937年にかけてハリコフのハリコフ物理工学研究所の理論物理部長を務め、ハリコフ大学とハリコフ工科大学で講義した。ハリコフでは、彼の友人であり元学生だったエフゲニー・リフシッツとともに、理論物理学教程叢書の執筆を始めた。大粛清の間、ランダウはハリコフでUPTI事件の関係で取調べを受けたが、モスクワで新しい役職に就くためにハリコフから脱出した。

ヴィットーリオ・アメデーオ2世(1666~1732)

トリノの戦い~トリノ包囲戦~ サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世は元々フランスと同盟を結んでいたが、1703年から裏でオーストリア側と交渉を行い寝返ったため、フランス軍はサヴォイア軍を捕らえられる羽目に陥った。オーストリアの将軍グイード・フォン・シュターレンブルクは司令官のオイゲン・フォン・ザヴォイエンからイタリアのオーストリア軍の指揮権を託され、1704年にヴィットーリオ・アメデーオ2世と合流してサヴォイアの首都トリノでフランス軍に抵抗したが劣勢であった。

阿骨打(1068~1123)

金~靖康の変まで~ 金建国前の女真は、現在の中国東北地区黒竜江省の松花江の支流・按出虎水流域にいて、遼に対して服属していた。しかし遼の支配者たちは奢侈が募り、女真に対して過酷とも言える搾取を行っていた。これに対し、女真族の完顔部から出た阿骨打が反乱を起こし、1115年に按出虎水の河畔で即位し、「金」を国号とした。この国号は、女真族が按出虎水から産出する砂金の交易によって栄えたことからつけられたとされる。最初の首都となった会寧は按出虎水の河畔にあり、現在のハルビン市阿城区にあたる。

石川雅望(1754~1830)

飛騨匠物語 石川雅望作の読本。葛飾北斎画。六巻六冊。1808年刊。飛騨の名工猪名部の墨縄が弟子の檜前松光とともに蓬莱山の神仙から工技を授けられ、武蔵に下って美少年竹芝山人を助けて女一の宮との間を取り結び、やがて山人と一の宮はもと仏界を追われた人であることがわかって、ついに3人とも登仙する。全体の構成を李笠翁の『蜃中楼伝奇』によって謫仙の物語としながら、表面には『今昔物語』の百済河成の説話や、『更級日記』の竹芝寺伝説を明示し、さらに有名な左甚五郎の俗伝を連想させるなど、巧みな翻案を組合せを行っている。作者の国学や中国小説の造詣がうかがえるが、当時滝沢馬琴はこれを「世に行はるるにあらず、畢竟楽屋の評判のみ」と評した。

楢山佐渡(1831~1869)

奥羽越列藩同盟 1868年、京都御所警備のために鳥羽・伏見の戦いが終わった直後の京都に赴任する。京都滞在中、西郷隆盛や岩倉具視、木戸孝允ら新政府側の人々と接触する。新政府側の意見のばらつきを感じ、また、西郷と接触した際には下級武士と車座になり上下の差別無く食事をとる様子を見て、新政府の世になった際の自分の立場に危機感を覚える。このため、新政府と対立する意志を固め奥羽越列藩同盟への加盟を決意したとも言われる。

テオドール・エードラー・フォン・レルヒ(1869~1945)

来日 日露戦争でロシア帝国に勝利した日本陸軍の研究のため、1910年11月30日に交換将校として来日。八甲田山の雪中行軍で事故をおこしたばかりだったこともあり、日本陸軍はアルペンスキーの創始者マティアス・ツダルスキーの弟子であるレルヒのスキー技術に注目。その技術向上を目的として新潟県中頸城郡高田にある第13師団歩兵第58連隊の営庭や、高田の金谷山などで指導をおこなった。

高倉天皇(1161~1181)

高倉天皇の略歴 翌1179年11月、父・後白河院と舅・清盛の政治的対立が深まり、治承三年の政変によって後白河院が事実上の幽閉状態に置かれると、高倉天皇自ら政務をとった。翌1180年2月、平清盛の孫にあたる安徳天皇に皇位を譲り、院政を開始するが間もなく病に倒れた。

宮武外骨(1867~1955)

『滑稽新聞』の成功 外骨の出版した刊行物の中でも最も有名な『滑稽新聞』は、1901年に大阪で創刊された。名目上の発行人は三好米吉。これは、外骨に万一のことがあっても発行を続けられるように別人を立てたためである。外骨は「小野村夫」のペンネームで執筆。無署名なども含めると、記事の大半を自ら書いた。寄稿は編集者によるものを含めほとんどがペンネームで、外骨以外の編集者、寄稿者で実名がはっきりしているのは三好、溝口駒造、板橋菊松、森近運平、松崎天民、結城禮一郎、寺門咲平の7人である。また、印刷は福田友吉が担当した。

徳川頼房(1603~1661)

水戸徳川家 徳川家康の十一男徳川頼房を家祖とし、江戸時代を通じて水戸藩を治めた。格式は御三家のひとつとして大廊下に詰め、屋形号を許された。領国の石高は実収が28万石程度であったが、御三家の格式をもって高直しをした結果、公称は35万石であった。これは水戸藩の財政を厳しくする一因でもあった。また、徳川宗家が「征夷大将軍」を表すために三葉を表にした表葵御紋であるのに対し、水戸家の葵御紋は三葉が裏になった裏葵御紋が正紋であるので、正式には御三家ではなかったとする説がある。さらに、紀州藩の史料である『南紀徳川史』では頼房が徳川姓を許されたのは1636年7月とし、それまでの33年間は「名字定まらず」としており、ある時期まで紀州家の祖である同母兄頼宣の分家とみなされていたという説もある。また、水戸家は家格の点でも徳川忠長や甲府徳川家の存在により何度も後退しており、御三家の第三位の地位が確立したのは徳川家宣が将軍となって甲府家が解消したのちのことであった。

古今亭志ん生(1890~1973)

満州へ~帰国後~ 1945年、陸軍恤兵部から慰問芸人の取りまとめの命令を受けた松竹演芸部の仕事で、同じ落語家の6代目三遊亭円生、講釈師の国井紫香、比呂志・美津子の名で夫婦漫才をやっていた坂野比呂志らと共に満州に渡る。満洲映画協会の傍系である満洲演芸協会の仕事を請け負ったがそのまま終戦を迎えて帰国出来なくなり、現地で引き揚げ船の出航を待ちわびながら生死ギリギリの生活を強いられる。

フェリペ1世(1478~1506)

素敵な公子 狩りやトーナメントが得意で、話術も巧みな美貌の「素敵な公子」だった。「美公」の呼び名は死後つけられたとされるが、生前から美男子で目立ったらしい。母マリーの死後、ブルゴーニュ公の称号を継承する。ただしブルゴーニュは母の代で既にフランス王に接収されており、実際の所領は主にネーデルラントであった。1496年にカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の娘フアナと結婚し、レオノール、カルロス、イサベル、フェルナンド、マリア、カタリナの2男4女が生まれる。

メフメト5世(1844~1918)

バルカン戦争 そしてこれに付け込んだギリシャ・セルビア・ブルガリア・モンテネグロなどのバルカン4国が同盟を結んで宣戦を布告してくる。これがいわゆる第一次バルカン戦争である。この戦争でもオスマン軍は大敗し、結果として欧州におけるオスマンの領土、つまりイスタンブール周辺を除いた領土のほとんどとクレタ島は4ヶ国に割譲することを余儀なくされた上、アルバニアが自治侯国として独立することも承認せざるを得なくなった。

イディ・アミン(1925~2003)

大統領~権力掌握~ ウガンダ軍参謀総長当時の1971年1月、イギリス連邦首脳会議のためオボテが外遊中に軍事クーデターで権力を掌握。1970年代のウガンダに独裁政治を敷いた。オボテが左派的政策を採ったため、アミンは冷戦下において左派政権の排除を望む西側諸国から期待されてクーデターを実行し成功した。

カレン・カーペンター(1950~1983)

生い立ち~カーペンターズ結成 こうしてカレンは兄や友人たちと結成したバンド”スペクトラム”から、ドラムとボーカルを担当することとなった。しかし、カーペンターズとしての活動が活発になるにつれ、前面に立つことが多くなっていく。やがてリチャードの意向を受けてヴォーカル専門に活動するようになった。カーペンターズはカリフォルニア州を中心として、やがて世界的に活動するようになった。

ユリア・ドムナ(170~217)

皇帝の妃として 193年にセウェルスはいち早くローマに入り、皇帝として認定された。しかし彼にはまだペスケンニウス・ニゲル、クロディウス・アルビヌスなど敵対する者がおり、セウェルスはこの敵と戦わなくてはならなかった。ローマに留まり夫の帰りを待つのが普通だった当時の女性とは違い、彼女はこの一連の軍事行動を夫とともにした。こうして皇帝である夫の陰での実力者として彼女は絶対的な政治力を持つようになった。

公孫瓚(不明~199)

袁紹との戦い 191年、黄巾賊の残党30万が渤海郡の郡境付近から侵入した。公孫瓚は2万の兵を率いてこれを迎撃。東光の南において包囲してくる敵軍を悉く撃破すると、黄巾賊は輜重車を捨てて敗走、清河を渡り逃げようとする黄巾賊に猛烈な追撃をかけ、数万の兵と将を討ち取ると共に大量の捕虜と軍需物資を手に入れた。

ミマール・スィナン(1489~1588)

「徒弟の時代」 1530年代半ば、スィナンは重要な建物を設計する機会をはじめて得た。シリアのアレッポに建てたヒュスレヴ・パシャ・ジャーミイとそれに付属する2棟のマドラサである。ヒュスレヴ・パシャ・ジャーミイは、スィナンの上役でアレッポのスルタンであった人物のために、2つの大きな遠征の合間を縫って、1536年から1537年の冬の時期に建設された。建築をひどく急いだ痕跡が、つくりの粗末さや、ぞんさいな装飾に見て取れる。

ヴィルヘルム1世(1343~1407)

ドーナの私闘 ヴィルヘルムはヴェッティン家らしい行動力のある領主で、マイセン辺境領内の貴族ではない小豪族を放逐し、ボヘミアのルクセンブルク家と対抗するなど賢明な統治を行った。さらにコルディッツの支配権を獲得し、ドーナ城伯の所有地を手に入れて、城伯を追放し、マイセン聖堂教会の大の後援者として巧みに治外法権を手に入れる手助けをした。

牧野忠成(1581~1655)

抜け駆けの家臣を庇い出奔 その責を問われた大久保忠隣は現場指揮官を切腹させて許されたが、牧野忠成は所属の指揮官の贄掃部を逃して本人も出奔してしまった。父の牧野康成も部下の抜け駆けは戦国の倣いと弁護したため、徳川秀忠の怒りを買い上州吾妻城に蟄居させられた。しかし、戦後は大御所家康の意向もあってか処分は数月にして寛恕され、康成・忠成父子は大胡に復帰した。

下田歌子(1854~1936)

欧米教育視察 ビールは高齢で多忙だったにもかかわらず、学校の生徒やその家族と同様に歌子を気遣い、真摯な態度で接した。その厚意を歌子は「真の親切」と表し、その人格と学問の深さ、教育に対する高い理想に感銘した。その後、歌子はケンブリッジ大学の女子学寮ニューナム・カレッジと女子教員養成校ケンブリッジ・トレーニング・カレッジを視察。

荘田平五郎(1847~1922)

三菱商会 1889年、荘田は英国の造船業界などの実情視察のために外遊した際に、ロンドンのホテルの部屋で開いた新聞のコラムに「日本政府、陸軍の近代的兵舎建設のために丸の内の練兵場を売りに出すも買い手つかず」とあるのを発見した時に「日本にもロンドンのようなオフィス街を建設すべきだ。皇居の目の前の丸の内こそその場所だ。」と感じ、岩崎弥之助に「丸の内、買い取らるべし」と打電。岩崎弥之助が松方正義蔵相と合意した買取額は128万円。当時の東京市の年度予算の3倍。荘田は丸の内の産みの親である。

中岡艮一(1903~1980)

原敬暗殺事件 大塚駅の転轍手であった中岡艮一は、以前から原首相に対して批判的な意識を持っていた。中岡の供述によれば、原首相が政商や財閥中心の政治を行ったと考えていたこと、野党の提出した普通選挙法に反対したこと、また尼港事件が起こったことなどによるとされている。その他一連の疑獄事件が起きたことや、反政府的な意見の持ち主であった上司・橋本栄五郎の影響を受けたことなどもあって、中岡は原首相暗殺を考えるようになった。

太原雪斎(1496~1555)

雪斎の活躍 雪斎は義元の政治・軍事の両面で全面的に補佐した。義元も雪斎を厚く信任して手厚い庇護を与えた。1537年、雪斎は氏親の時代から悪化していた甲斐の武田信虎との関係改善に務め、義元の正室に信虎の長女・定恵院を迎え、信虎の嫡子・信玄に三条公頼の娘・三条の方を周旋して、両家の間に甲駿同盟を成立させた。だがこのため、これまで同盟関係にあった相模の北条氏綱との関係が悪化し、氏綱は駿河東部に侵攻し、同地を占領した。雪斎はこれに対して拙速を避け、1545年に関東管領の山内上杉憲政を誘い込んで武田信玄と共同して河東に出兵し、同地を取り戻している。

斎藤弥九郎(1798~1871)

江川英龍との親交 1835年、江川が伊豆国韮山の代官となると、江戸詰書役として仕えた。1837年、大坂で大塩平八郎の乱がおこると、江川の命により、大塩の行方を調べるため、大坂へ赴いた。江戸へ戻ると、その状況をいち早く水戸藩の藤田東湖に仕えた。また4月には江川とともに、刀剣商の装いで甲斐国の状況を見て回った。この時、わざわざ商人を装ったのは、当時甲斐国では博徒が多く、治安が悪かったためとされる。

懐良親王(1329~1383)

日本国王良懐 1369年、東シナ海沿岸で略奪行為を行う倭寇の鎮圧を「日本国王」に命じる、明の太祖からの国書が使者楊載らにより懐良親王のもとにさらされた。国書の内容は高圧的であり、海賊を放置するなら明軍を遣わして海賊を滅ぼし「国王」を捕えるという書面であった。これに対して懐良は、国書を届けた使節団17名のうち5名を殺害し、楊載ら2名を3か月勾留する挙におよんだ。しかし翌年、明が再度同様の高圧的な国書を使者趙秩らの手で懐良に遣わしたところ、今度は「国王」が趙秩の威にひるみ、称臣して特産品を貢ぎ、倭寇による捕虜70余名を送還したと『太祖実録』にある。しかしその記述は趙秩の報告に基づくものと思われるため、趙秩とのやりとりや称臣した件の事実性は疑問視されている。ともあれ明は懐良を「良懐」の名で「日本国王」に冊封した。しかしのその後に懐良の勢力は後退し、1372年に冊封のため博多に到着した明の使者は、博多を制圧していた今川貞世に捕えられてしまい、懐良に伝達することは出来なかった。

斎藤実盛(1111~1183)

史跡・伝承について 室町時代前期の1414年3月、加賀国江沼郡の潮津道場で七日七夜の別時念仏を催した4日目のこと、滞在布教中の時宗の遊行14世太空のもとに、白髪の老人が現れ、十念を受けて諸人群集のなかに姿を消したという。

イブン・ハイサム(965~1040)

イブン・ハイサムの行った研究 彼は光がさまざまな媒質を通る際の進行方向の変化について徹底的な実験を行い、屈折に関する法則を発見した。彼はまた、光を構成するさまざまな色を分解する最初の実験も行ったほか、日没の際の日光の色についても研究した。彼は、影、日食、虹など幅広い物理現象に対してもこれらを解明する理論を立て、日の出・日没時に水平線上にある太陽がなぜ見かけ上大きくなったように見えるかの正確な解説も行ったほか、光の物理的性質についても思索を重ねた。

プラハのアダルベルト(956~997)

プルーセンへの宣教 977年に、既にアダルベルトはポーランド北東部のプロシアに住むプルーセン人への宣教を思い描いていたらしい。彼はハンガリーのキリスト教化の後、教皇によってプロシアへ派遣された。ポーランド公ボレスワフは、彼に配下の兵士を同行させた。アダルベルトと一行は、バルト海沿いにプロシアへ入った。

ガッリエヌス(213~268)

文武官の分離と歴史的意義 先行の研究者たちは、ローマ帝国の政治体制変容の指標として着目したのは「騎士階級の興隆」であり、ガリエヌス勅令であり、ガリエヌス勅令は、これに決定的役割を果たしたと見做された。しかし、この記事は、4世紀の元老院議員で史家アウレリウス・ウィクトルの『皇帝史』にしか見えず、この『皇帝史』の史料的価値は低い事から、存在そのものが疑わしい。また、騎士身分者達の元老院身分官職への進出は、前帝のウァレリアヌス時代から始まっており、しかもその登用者は財務に明るい者が大半を占めた帝政期と異なり、大半は軍人が任命されている。

プトレマイオス3世(前284~前222)

カノプス勅令 カノプス勅令は、二つの言語、三つの文字からなる碑文である。つまり三つの文字、ヒエログリフ、デモティック、ギリシャ文字で、古代エジプトの記念碑であるカノプス・ストーンに著されている。この碑文はファラオであるプトレマイオス3世エウエルゲテスやその妻ベレニケ2世、娘のアルシノエ3世を称えるエジプトの司祭によって紀元前238年に発布された勅令をその内容としている。

ディニス1世(1261~1325)

聖女とうたわれた王妃 ディニス1世は、1282年にアラゴン王ペドロ3世の王女イサベルと結婚した。王妃は慈悲深く、常日頃から国民への奉仕を怠らなかった。伝説によると、ある日、かごにパンを入れて貧しい人々を訪ねようと、王宮を出ようとしていた王妃を王が見とがめると、王妃は「これはバラが入っているのです」と王の追求をかわそうとした。王がかごにかけられた布を取ると、中には赤いバラが入っていたという。1625年、和解の美徳と慈悲により、聖人として認定された。コインブラの守護聖人となっている。

コンラート1世(881~918)

東フランク王国~若王~ フランケン、ザクセン、バイエルン、シュバーベンの貴族は自らを統治する王を西フランクに残っていたカロリング朝から選ぶことはせず、自分たちの中から新しい王を選出した。こうして選ばれたコンラート1世はフランク人を代表するフランケン公であったが、公たちの一人に過ぎないということでもあり、王国に権威を確立するのは困難であった。ロートリンゲンはコンラートを認めず、西フランク王シャルル3世を自らの王に選んでいた。ザクセン公ハインリヒ1世はコンラート1世に対して915年まで反乱を起こした。バイエルン公アルヌルフもまた反乱を起こし、鎮圧に向かったコンラート1世はその命を失うようになった。負傷して死の床にあったコンラート1世はザクセンハインリヒ1世が王として最もふさわしいと見なして後継者に指名して918年に死去した。

広沢真臣(1834~1871)

暗殺事件 医師の検視によれば、傷は13ヶ所で咽喉には3ヶ所の突き傷があった。犯行後、同室にいた妾は捕縛されていたものの軽傷を負っただけで、現場の状況など不自然な点が多く見られた。横井小楠、大村益次郎に続く維新政府容認の暗殺であり、広沢を厚く信頼していた明治天皇は「賊ヲ必獲ニ期セヨ」という犯人逮捕を督促する異例の詔勅が発せられた。

会沢正志斎(1782~1863)

新論 新論は、水戸藩主・徳川斉脩に上呈するために書かれた文献である。五論七篇の、上下二巻で構成されており、1825年3月に会沢正志斎によって成立された。出版は禁止されたが、門人たちがひそかに書き写して披露目、江戸玉山堂から1857年に出版された。新論は歴史に基づいて立論されているところが多く、かつ論理的である。また、天祖や、建国の始めをかえりみて根拠に持ってくることも多い。そこから尊王論を感じ取れる。そのようにして、ひたすら国体の尊厳性を説いた。

渡辺昇(1838~1913)

明治維新後~政治~ 明治政府では長崎裁判所諸郡取調掛、待詔局主事、中弁、弾正大忠に就任、浦上四番崩れ、福岡藩贋札事件の対応に当たる。その後盛岡県権知事、大阪府大参事、大阪府知事を歴任する。1877年、西南戦争で抜刀隊が編成されることを知ると、大阪府知事であった昇は府内で剣術道場を開いていた元新選組隊士・谷万太郎を隊長に推薦した。

フリードリヒ・フーケ(1777~1843)

ウンディーネ とある人里離れた岬で老いた漁師が釣りをしていると、不吉なものが棲むと言われる森を通り抜けて騎士フルトブラントが現れ、一晩の宿を求める。フルトブラントは、老夫婦の家で、養子である不思議な少女ウンディーネと出会いたちまち恋に落ちる。次の日から大水が起ってフルトブラントは漁師の家を出られなくなるが、その滞在の間にウンディーネとの仲を深めていき、ついに彼女と結婚することが決まる。結婚翌日の床でウンディーネは、自分の正体は水の精であり、大水やその間の不思議な出来事も自分の仕業だったと打ち明けるが、フルトブラントは変らぬ愛を誓い、ウンディーネを妻として町へ連れ帰る。

幸田文(1904~1990)

おとうと げんは17歳の女学生で、作家の父、継母、3歳違いの弟の碧郎の四人家族である。父母は仲がうまくゆかず、さらに継母は病のため、家事の一切は学校に通っているげんに頼っている。ある日、碧郎は学校で同級生に怪我をさせたとして継母は学校に呼び出されてしまう。その事件を境に碧郎は不良の仲間に引き込まれ、生活が乱れ、不良仲間と悪事をはたらくようになっていく。げんはそんな弟を気にかける。

淡谷のり子(1907~1999)

別れのブルース 窓を開ければ港が見えるメリケン波止場の灯が見える夜風汐風恋風のせて今日の出船はどこへ行くむせぶ心よはかない恋よ踊るブルースの切なさよ腕にいかりのいれずみほってやくざに強いマドロスのお国言葉は違っていても恋には弱いすすり泣き二度と逢えない心と心踊るブルースの切なさよ

並木五瓶(1747~1808)

楼門五三桐 絶景かな絶景かな春の眺めは価千金とは小せえ小せえこの五右衛門が眼から見れば価万両万々両日もはや西に傾きて雲と棚引く桜花あかね輝くこの風情ハテ麗らかな眺めだなァ

スペンサー・コンプトン(1674~1743)

政界 彼はジョージ1世在位の頃から皇太子ジョージと親睦が篤かった。そのたま1727年にジョージ2世が即位するやウォルポールに代わる新たな首相に擬された。しかし彼に議会指導能力はなく、王室費増額を議会に議決させる手筈を整えることもできなかった。一方ウォルポールはシヴィル・リストを難なく議会通過させた。王妃キャロラインがウォルポールを深く信任していたこともあって、結局ジョージ2世はコンプトンを首相とすることを断念してウォルポールを引き続き首相として重用していくことにした。

ロバート・ガスコイン=セシル(1830~1903)

反ディズレーリ派として ただディズレーリにとっては幸いなことにクランボーン子爵は反執行部勢力をまとめられるような人物ではなかった。1867年4月に自由党党首ウィリアム・グラッドストンが地方税税額5ポンド以上という有権者資格条件を加えた修正案を提出すると、クランボーン子爵は党に造反してこれに賛成票を投じたが、この時彼に追従して造反した保守党議員はわずかに7人だった事実にもそれが表れている。