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楠木繁夫(1904~1956)

緑の地平線 なぜか忘れぬ人ゆえに涙かくして踊る夜はぬれし瞳にすすり泣くリラの花さえなつかしやわざと気強くふりすてて無理に注がして飲む酒も霧の都の夜は更けて夢もはかなく散りて行く山のけむりを慕いつついとし小鳩の声きけば遠き前途にほのぼのと緑うれしや地平線

アイリーン・キャラ(1959~2022)

フラッシュダンス…ホワイト・ア・フィーリング~曲情報~ 「フラッシュダンス…ホワイト・ア・フィーリング」は、1983年にビルボードHOT100で第1位を記録し、プラチナディスクに認定されたのに加えて、1984年にはアカデミー歌曲賞とゴールデングローブ賞 主題歌賞を受賞した。この曲の伴奏には、シンセサイザーが多用されている。

織田無道(1952~2020)

円光寺 建長寺の玉山徳璇によって開山され、久山長公が中興したと伝わるが、たびたび火災にあった事や、無住だった時期が長かった事で史料が散逸してしまい、詳細は不明となる。愛甲氏の居館跡とも伝わるが、遺構は確認できない。1890年以降、50年以上無住の状態が続いていた。49代住職の織田無道はタレントや霊能者として知られた。

アシュラフ・ハリール(1262~1293)

アッコン攻略 1291年4月5日に、父の悲願であるアッコンの包囲を開始した。ハリールがテンプル騎士団総長ギヨーム・ド・ボージューにあてた挑戦状にはキリスト教徒とフランク人への敵意が示されていた。ハリール自らが指揮するイスラームの軍は騎兵60000、歩兵160000、投石器92を投入、対する十字軍の兵数は3~40000、うち800が騎士で14000が歩兵、残りは巡礼者が動員された。

藤田哲也(1920~1998)

藤田スケール~背景~ 1971年、シカゴ大学教授の藤田哲也が、アメリカの暴風雨予測センターの前身である国立暴風雨予報センターの局長だったアレン・ピアソンと共に提唱した。藤田とピアソンは、アメリカ海洋大気庁の国立トルネード・データベースに蓄積された1950年から1972年までのトルネード関連の報告書を遡って調査し、さらに歴史上有名な初期のトルネードについても研究の対象に入れて、藤田スケールへと応用させていった。また同じ頃、トマス・グラザリスによるトルネード・データベース化計画でも、1880年以降に米国で発生した全ての既知の重大なトルネードの分類がなされた。1973年には、トルネードの被害範囲の長さと幅が考慮されたスケールになった。アメリカ合衆国では1973年以降、トルネードの発生直後にその強さが評定されるようになった。

ジョージ・エリオット(1819~1880)

サイラス・マーナー サイラスは南に行き、イングランド中部にあるウォリックシャーのラヴィロー村に移り住んだ。そこでは、機織りの仕事以外に住民と接触することは最小限にとどめることにして、一人孤独に暮らした。サイラスは機織りに専念し、それによって蓄えた金貨を崇拝するようになった。

深作欣二(1930~2003)

華の乱 『華の乱』は、1988年に公開された東映配給の日本映画。永畑道子の小説『華の乱』『夢のかけ橋』を原作とし、深作欣二が撮った劇映画。原作に倣い、主人公・与謝野晶子の視点から大正時代の社会運動、芸術運動の群像を描いている。

アメリア・ジェンクス・ブルーマー(1818~1894)

ブルマーの発案者 ブルマーの正確な発案者に関してはアメリア・ジェンクス・ブルーマーより、エリザベス・スミス・ミラーの方が正しい。しかし、ミラーが1850年に考案したブルマーの原型を世に広める事にブルーマーが非常に大きな貢献を行ったことも事実である。「リリー」誌上の記事が大きな反響を呼んだことから、ブルーマーは女性の多くが服飾面での自由化に大きな関心を持っていることを感じ取った。ブルーマーはその後6年から8年くらいの間ズボンとショートドレスの組み合わせを着続けるとともに、アメリカ全土で女性解放についての講演を行った。

臼井甕男(1865~1926)

レイキ~臼井霊気療法~ 明治から昭和初期にかけて海外から導入された思想・技術と日本の文化が融合して多種多様な民間療法が生まれたが、霊気はこの民間療法における霊術・民間精神療法の潮流のひとつである。霊術の世界で「霊気」は、手のひらから発する癒しのエネルギーを指す言葉として一般的に使われていた。レイキは、臼井甕男が始めた臼井霊気療法に始まり、これが海外で独自に発展・簡略化したもの。霊気は臼井の弟子の林忠次郎から日系アメリカ人ハワヨ・タカタに伝えられ、レイキとしてアメリカで行われ、タカタとその弟子によって世界中に普及した。

ハリー・ストックウェル(1902~1984)

私生活 1930年にエリザベス・ベロニカと結婚し、俳優ガイ・ストックウェルとディーン・ストックウェルの父親となり、1947年に離婚した。1950年に女優ニーナ・オリヴェットと再婚し、1971年にオリヴェットが亡くなるまで婚姻関係は続いた。

夢路いとし・喜味こいし(夢路いとし1925~2003、喜味こいし1927~2011)

活動停止 1943年、弟の芳坊が山口県の軍需工場に徴用され、コンビは活動停止を余儀なくされた。徴用されて半年ほどが経った時期に芳坊は少年兵として兵役に就くことを志願し、徴兵検査で甲種合格。山口の歩兵第42部隊の重機関銃中隊に配属された。その後広島に配属され、そこで終戦を迎えた。芳坊は1945年8月6日に被曝したが幸い重い原爆症を発症することはなく、終戦後間もなく大阪へ戻った。

ウィル・ロジャース(1879~1935)

映画 1919年、カリフォルニア州で興隆してきた映画作りにゴールドウィン・ピクチャーズも合流したとき、ロジャースとまだ若いその家族も恒久的に西海岸に移転した。これと同じ頃、ゴールドウィン・ピクチャーズと契約のあった1921年までに12本の映画を製作し、ゴーモン映画会社のためにも「イリテレイト・ダイジェスト」という漫画映画シリーズを作成した。

三島一声(1889~1974)

歌手として 帰国慰労歓迎会で歌を歌った際、隣の部屋に山田耕筰がいたことが歌手になったきっかけである。日本コロムビアに入社して歌手となると、1932年には日本ビクターに入社し、1933年に小唄勝太郎と吹き込んだ「東京音頭」が爆発的なヒットを記録した。1934年には「さくら音頭」もヒットした。

アレクサンドル・ド・ボアルネ(1760~1794)

キャリア ボアルネはアメリカ独立戦争でルイ16世の軍隊で戦った。彼は後に三部会の貴族の代表を務め、1791年6月19日から7月3日までと1791年7月31日から8月14日まで憲法制定国民議会の議長を務めた。1792年に将軍になり、1793年6月に戦争大臣になること政府から要請されたが、拒否した。

小唄勝太郎(1904~1974)

島の娘 ハアー島で育てば娘十六恋ごころ人目忍んで主と一夜の仇なさけハアー沖は荒海吹いた東風が別れ風主は船乗り今じゃ帰らぬ波の底ハアー主は寒かろ夜ごと夜ごとの波まくら雪はちらちら鳴いて夜明かす磯千鳥

ジョニー・マークス(1909~1985)

赤鼻のトナカイ まっかなおはなのトナカイさんはいつもみんなのわらいものでもそのとしのクリスマスのひサンタのおじさんはいいましたくらいよみちはぴかぴかのおまえのはながやくにたつのさいつもないてたトナカイさんはこよいこそはとよろこびました

永井路子(1925~2023)

炎環 源頼朝の伊豆挙兵を頭にして、鎌倉幕府の成立を軸に、連作短編の形を採っている。「悪禅師」では阿野全成、「黒雪賦」では梶原景時、「いもうと」では北条保子、「覇樹」では北条義時をそれぞれ主人公としている。

バート・バカラック(1928~2023)

キャリア 稀代のメロディーメーカーであり、コード進行の激しい曲構造に特徴がある。編曲においては、ジャズを出発点としながらもボサノヴァの世界的流行の時代にその影響を作風に反映した。モダンな和声と複雑なリズムパターンが独自のバカラックスタイルとして確立、またその楽曲がラテンなど多くのジャンルのミュージシャンが好んでレパートリーに取り上げる等、流行となった。

小林繁(1952~2010)

プロ野球選手時代~読売ジャイアンツ時代~ 入団前はプロの練習にも付いていけるのではないかという自信を持っていたが、巨人の練習は想像以上に厳しく、筋肉痛に耐えながらついていくのが精一杯でした。それでも春季キャンプのうち5日間は一軍で過ごした。初めて一軍の練習を行った日、小林は長嶋茂雄や王貞治ら一軍選手が持つ雰囲気に圧倒され、「どんな練習をしたかも覚えていない」ほどの緊張を味わいながら、「ここがプロなんだ、ここが野球で金を稼げる場所なんだ」と感じたという。後に阪神でチームメイトとなる江本孟紀は小林の肉体を「3本ずつのハリガネを1本の束にしてより上げ、ハガネにし、さらにそのハガネを束にしたような筋肉でつくられていた」と評しているが、小林によるとそれは入団した年の練習で培われたものであった。

ジークフリート&ロイ(ジークフリート・フィッシュバッカー1939~2021、ロイ・ホーン1944~2020)

2003年トラによる事故 ホーンの誕生日でもあった2003年10月3日、ラスベガスのカジノリゾートミラージュで行われたショーにて、マンタコアという7歳のホワイトタイガーがホーンを襲った。演技の一環として、しかし脚本とは違ってホーンはマンタコアの口にマイクを持っていき、観客に「こんにちは」の挨拶をするよう伝えた。マンタコアはホーンの袖に噛み付いて応じた。ホーンはトラを叩いて「離せ!」と叫び、待機していた調教師が食肉でトラの気を逸らそうとするも上手くいかなかった。ホーンの後ずさりによって駆り立てられた可能性があるが、トラはホーンに飛び乗ると、彼の足を振り回して彼を足から叩き落した。

宅八郎(1962~2020)

小林よしのりと対立 1995年に地下鉄サリン事件が起こるとオウム真理教の扱いを巡って性急な犯人視報道を批判したため、同じ『SPA!』の連載陣であった小林よしのりと対立する。そこで、宅は小林との公開討論を要求したが、小林は自身の連載の影響力の面から論争を通じての売名行為だとして応じず、当時の編集長・靏師一彦にも反発した末に、連載を引き揚げるに至った。

ハリー・フーディーニ(1874~1926)

マジシャンの道へ 脱出術を得意とし、各国の警察の留置場や刑務所に収監されての手錠外しによる脱出や、また凍った運河やミルク缶からの脱出を行い、話題となった。「フーディーニに脱出できない場所はない」「不死身の男」「脱出王」と大規模に宣伝するなど、マスコミを利用した売り込み技術はずば抜けた才能があり、当時のアメリカのトップスターとなった。また、それまであったトランクからの脱出を、助手と奇術師が一瞬で入れ替わるトリックへと進化させ、奇術にスピード性と鮮やかさをもたらした。妻のベアトリスと行ったこの入れ替わりマジックは「メタモルフォーゼ」と呼ばれる。

渡辺守綱(1542~1620)

徳川氏の家臣 しかし、熱心な一向宗の門徒だったので、翌1563年に勃発した三河一向一揆において、蜂屋貞次ら他の門徒家臣と同じく家康に背き、一向一揆に加わった。一揆が家康によって破られると反逆を許され帰参し、以後は家康の主要な戦いの大半に参加。姉川の戦いでは、旗本一番槍をあげるなどの戦功を重ね、旗本足軽頭として出陣した三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いでは先鋒を務めた。なお、長篠の戦いでは山本勘助の嫡子・菅助を討ち取った。

ヨーゼフ・ロート(1894~1939)

ラデツキー行進曲~第1部~ 1859年、ソルフェリーノの戦いにて、敵軍の退却するさまを、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は従者に差し出された双眼鏡で覗こうとした。それを目にしたスロヴェニア人の歩兵少尉ヨーゼフ・ドロッタは、仰天した。たとえ敵軍が退却しているとしても、しんがりを務める部隊はまだオーストリアの方を向いているに違いない。双眼鏡を持ち上げた者は、自分が狙撃されるに足る目標であることを相手に知らせるようなものではないか、と震え上がった。トロッタ少尉は、皇帝の両肩を掴んで上から押さえつけた。フランツ・ヨーゼフ1世が転倒したその時、皇帝の心臓を狙った弾丸が、トロッタの左肩を貫いた。

織田秀敏(不明~1569)

桶狭間の戦い 今川氏の勢力が尾張東部に伸長すると信長は牽制のために諸砦を築かせたが、秀敏は飯尾定宗・尚清父子とともに大高城を囲む鷲津砦に配置された。1560年今川義元が尾張へ侵攻し、5月18日に鷲津砦が今川軍の攻撃を受けると清洲城の信長のもとへ注進し、翌日早朝に清洲城へ着到した。これらの報に接した信長はすぐさま出陣して今川義元を討ち取ったが、先だって鷲津砦は陥落している。戦後は今川方より奪取された沓掛城に置かれ、三河岡崎城にあった今川方の松平元康勢としばしば戦ったが、翌1561年には織田氏と松平氏は和睦した。

エドワード・ブルワー=リットン(1803~1873)

ポンペイ最後の日 ポンペイを訪れたキリスト教伝道師の老人オリンサスは、ヴェスヴィアス火山が不吉な兆候を見せていること、救われるためにはキリストを信じなければならないことを市民に説くが、アイシスの女神を信仰し、キリスト教を知らない市民たちは相手にしない。

雲光院(1555~1637)

大坂冬の陣 才知に長け、奥向きの諸事一切を家康より任されており、1611年に徳川義直が疱瘡を患った際に、家康がその症状が軽いことを伝える自筆書状の宛先には、実母のお亀の方以外に阿茶局の名もある。また1614年の大坂冬の陣では、常高院や大蔵卿局と会見して和議の成立に尽力した。

ウィリアム・フィップス(1650~1695)

軍事遠征~ケベック遠征~ このポートロワイヤルの成功に倣って、マサチューセッツ植民地政府は、ヌーベルフランスの首都ケベックに、大規模の遠征軍を組織して派遣することに合意し、その指揮官にはフィップスが任命された。本来は、これと同時に、オールバニから陸路モントリオールへ攻撃を仕掛けることも意図されていたのだが、イングランドから届くであろう軍用物資が届かず徒労に終わり、遠征軍の出発も遅れてしまった。この遠征軍は34隻の艦隊と2000人以上の兵士から成るもので、最終的にボストンを発ったのは8月20日だった。この軍には弾薬が不足しており、セントローレンス川に詳しい水先案内人がおらず、そして、結局のところ、物質が不十分であったことが判明した。

朝香宮鳩彦王(1887~1981)

交通事故とアール・デコ 怪我の療養のためフランス滞在が長引いたことで、フランス文化により長く触れることになった。看病のため渡仏した宮妃とともに1925年のパリ万国博覧会を観覧し、同様式に対して強い関心と理解を示した。後の1933年に完成した東京都港区芝白金台町の朝香宮邸は日本の代表的なアール・デコ建築とされている。

ヘンリー・バーガー(1844~1929)

ハワイ・ポノイ 『ハワイ・ポノイ』は、かつてのハワイ王国の国歌であり、1898年に米国によるクーデター以降、米国ハワイ州の州歌である。1874年にハワイ王国のデイヴィッド・カラカウア王が作詞、ロイヤル・ハワイアン・バンドの指揮者であったヘンリー・バーガーが作曲した。1967年にハワイ州議会によって正式な州歌に定められたが、それ以前のハワイ共和国および米領ハワイの時代にもハワイの歌として親しまれてきた。

山内多門(1878~1932)

  日光山の四季

ヴォルフガング・フォン・ケンペレン(1734~1804)

オートマタ「トルコ人」 ケンペレンの「トルコ人」は1769年にウィーンで作成された。長さ1.2m、幅60cm、高さ90cmの箱とトルコ人の服装をした人形からなる。内部の構造はチェス盤の裏側に、1目毎小さな鉄球が糸で吊るしており、鉄球の上に駒が来ると、駒の底に付けた磁石の作用により、球が盤に吸いつけられるようになっている。箱の中に入った人間は、この構造によってゲームの進行状況を把握することが出来たとされている。また、箱にはハンドルや歯車などの見せ掛けの仕掛けが準備されていたとされる。なお、このオートマタは、ケンペレンの死後、フィラデルフィアにある中国博物館に買い取られたが、1854年の火災により焼失した。