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11月, 2022の投稿を表示しています

上野彦馬(1838~1904)

  上野彦馬使用カメラ

マシュー・マレー(1765~1826)

ラウンド・ファウンドリー マレーの製造する蒸気機関はとても高い精度であったので、その販売は大きく伸び、新しい工場が必要となった。マレーはこの工場を自身で設計し、巨大な三重の塔状の構造になった「ランド・ファクトリー」として知られる建物を建設した。この建物の中央には、建物全体に設置された機械に動力を供給する蒸気機関が設置されていた。マレーは、工場に隣接した自分自身の家も設計した。この設計も先進的なもので、各部屋は蒸気管で暖房するようになっており、この地域ではスティーム・ホールとして知られるようになった。

羽田雄一郎(1967~2020)

新型コロナウイルスへの感染と死去 2020年12月27日16時34分、新型コロナウイルス感染症のため、救急搬送された東京大学医学部附属病院で死去。53歳没。同月24日深夜に38.6度の発熱などの症状を訴えており、25・26両日は公務を欠席して自宅で待機。27日に新型コロナウイルスのPCR検査をクリニックで受ける予定で秘書の運転する車で医療施設に向かう途中で呼吸が荒くなるなど容体が急変、羽田が「俺、肺炎かな」といった後、会話が途切れたために秘書はその場で救急車を手配し東大病院に搬送されたが死亡が確認された。翌28日に福山哲郎立憲民主党幹事長が明かしたところによれば、羽田には糖尿病、高脂血症、高血圧の基礎疾患があったという。

ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ(1871~1899)

ツェサレーヴィチ 1894年11月に父アレクサンドル3世が崩御すると、兄がニコライ2世として即位した。ニコライは未婚で子供もいなかったため、帝位継承法に則ってゲオルギーがツェサレーヴィチとなった。ゲオルギーは相変わらず体調が悪く、カフカース地方の保養地アバストゥマニで療養していた。医者が長期旅行を禁じたため、ゲオルギーはサンクトペテルブルクに戻ってアレクサンドル3世の埋葬式に出席することは出来なかった。ゲオルギーはオリガ、タチアナ、マリヤといった姪たちの洗礼にも立ち会えずじまいだった。ゲオルギーの孤独な生活の大きな慰めは、母マリヤが時おりアバストゥマニへ見舞いにやって来ることだった。

姉小路頼綱(1540~1587)

「姉小路家」の簒奪と朝廷からの認証~織田氏との親族同盟~ 1578年10月4日、織田氏の家臣で美濃斎藤氏の斎藤利治を軍団長とする織田氏の軍が、飛騨国を通過して越中国へ攻め入った。その時美濃斎藤氏の親族として、越中斎藤氏である斎藤信利・信吉と共にこれを支援した。飛騨国から茂住峠を越えて越中に入り、月岡野の戦いには姉小路氏の軍も参加した。さらに今泉城攻城にも加勢した。

ゲオルギオス1世(1845~1913)

国家発展 トリクピスは列強の変化によって教訓を得て、政府が確立したギリシャの国境線を後退させる政策を続けたが、テオドロス・ディリヤンニスを中心とする反トリクピス派の最大勢力である民族党は、事あるごとにギリシャ国民の反オスマン帝国感情を煽ろうと画策した。1885年にブルガリア人が東ルメリ自治州でオスマン帝国の支配に対して反乱を起こし、自治州とブルガリア自治公国の合併が宣言された際、民族党に機会が到来した。ディリヤンニスは「ブルガリア人がベルリン条約を反故にするなら、ギリシャ人もそうしなければならない」と発言して、同年の選挙でトリクピスを押して勝利を収めた。

源隆国(1004~1077)

宇治大納言物語 『宇治大納言物語』は平安時代の説話集。11世紀成立とされる。編者は『宇治拾遺物語』序によれば源隆国とされる。『今昔物語集』『古本説話集』のもとになった説話集であると推定されているが、現存しない。また、室町時代から江戸時代にかけて、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』と混同されたため、近世の写本において、『宇治大納言物語』の名を冠す書も多い。

ジャービル・ブン・ハイヤーン(721~815)

業績 彼の業績は化学、薬学の分野が顕著である。彼が発明したとされる、塩酸、硝酸、硫酸の精製と結晶化法などは現在の化学工業の基礎となっている。金などの貴金属を融かすことのできる王水も彼の発明によるものである。彼はまた有機化合物であるクエン酸、酢酸、酒石酸などの発見者ともされている。発明は化学器具にも及んでいる。彼が工夫した蒸留装置はアランビックとして、現在も使われている。化学にとって重要なアルカリの概念も彼によって産み出された。

木戸松子(1843~1886)

桂小五郎との出会い 桂小五郎と出会った当時の幾松は、山科の豪家が大層贔屓にしていた。桂がこれに張り合い、互いに自分だけのものにしようと随分お金を使ったが、最後は伊藤博文が刀で脅し幾松は桂のものになったと、『松菊木戸公逸話』の中で、児玉愛二郎は語っている。以後、桂が命の危険に晒されていた最も困難な時代に彼を庇護し、必死に支えつづけた。

ダヤン・ハーン(1473~1517)

ダヤン・ハーンの業績~イスマイル討伐~ 前述したようにイスマイルはダヤン・ハーンの義父に当たる人物であり、ダヤン・ハーン即位の最大の後ろ盾であった。ダヤン・ハーンを傀儡としたイスマイルは1480年から1482年にかけて勢力を拡大し、東方ではウリヤンハイ三衛を征服し、南方では明朝で掠奪を行うなど次第に増長していった。

関根伸夫(1942~2019)

位相-大地

カタリーナ・フォン・ベーメン(1342~1395)

オーストリア公妃 ルドルフはヴィッテルスバッハ家のチロル伯マインハルト3世の死後の1363年1月に、チロル伯領を手に入れようとした。このため、カール4世とルドルフの間で新たな緊張が発生した。カール4世は、ヴィッテルスバッハ家に関する政治的計画が台無しになることを恐れていた。しかしこの危機においても、カタリーナは父親と夫の仲裁を成功させることができた。

梶山季之(1930~1975)

夢の超特急 1959年秋、横浜市港北区の菊名駅前で小さな不動産業を営む佐渡亮次の元に、中江雄吉という男が訪れ、フォード系の自動車工場の建設用地として周辺の農地を細長い形で買収する手伝いをしてほしいと持ちかける。佐渡はその誘いに応じて地主を説き伏せ、翌1960年1月に買収が成立して中江からは多額の手数料が支払われた。

バリー・フラナガン(1941~2009)

鐘の上の野兎  

浜口梧陵(1820~1885)

梧陵と近代医学 梧陵はさまざまな社会事業を手がけたが、とくに医学への支援を厚く行っている。梧陵の支援と影響を受けた一人が、関寛斎である。寛斎は1856年、佐藤泰然の推薦によって銚子で医院を開業し、梧陵との知遇を得た。当時流行していたコレラの防疫に意を傾けていた梧陵は、寛斎を江戸の西洋種痘所に赴かせ、伊東玄朴、三宅艮斎の下でコレラの予防法を学ばせ、銚子でのコレラ防疫に業績をあげた。後に西洋種痘所が火災により焼失すると、1859年に梧陵は種痘所の再開のために300両を寄付している。

ジョン・デンバー(1943~1997)

故郷へかえりたい ジョン・デンバーの代表曲の一つであり、歌詞に繰り返しウェストバージニア州が登場することから、同州の代名詞的な楽曲ともなっている。2014年に公式にウェストバージニア州の4番目の州歌となった。

衣笠祥雄(1947~2018)

現役時代 1971年は打率.285ながら長嶋茂雄に次ぐベストテン2位に喰い込み、5試合連続本塁打を記録した。1972年は打率.295、29本塁打、99打点とリーグを代表する打者に成長。1974年までの背番号28から「鉄人」の愛称で親しまれており、またその愛称が示す通り、野球選手の中でも小柄な体格でありながら飛び抜けて体が頑丈でもあった。負傷しても休まず試合に出場することも多く、その頑丈さで大相撲の幕内力士青葉城と並び称されたこともある。

フランソワ・ポンポン(1855~1933)

白熊

小茂田青樹(1891~1933)

朝露

ダスティ・スプリングフィールド(1939~1999)

プリーチャー・マン 「プリーチャー・マン」は、ダスティ・スプリングフィールドが1968年に発表した楽曲。ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500では168位にランクされている。

秋月種実(1548~1596)

最盛期 1578年に耳川の戦いによる大敗で大友氏が衰退すると、秋月種実は大友氏に再度反抗、龍造寺隆信や筑紫広門らと手を結んだ。さらに大友宗麟の「暴悪十ヶ条」を掲げて筑前とその周辺諸国へ触れ廻り、大友に背く者同士で連判し合った。大友家家臣・筑後国長岩城城主・問註所統景は、耳川の戦いで大友氏が大敗して影響力を務め、代わりに肥前国の龍造寺氏が筑後で勢力を伸ばし諸勢力の殆どが大友氏から龍造寺氏に次々と寝返った後も、五条鎮定と共に大友氏に筋を通し筑前国の秋月氏らの監視に当たった。

ウォルター・ペイター(1839~1894)

『ルネサンス』とその影響 ペイターの名を一躍世に知らしめることとなったのが『ルネサンス』の出版である。この論文集では1873年の初版において『ルネサンスの歴史の研究』と題されていたが、1877年に出版された第2版より『ルネサンス-芸術と詩の研究』に名称を改められた。またこの版では「結論」が削除され、「オーカッサンとニコレット」が「フランスの古い物語二篇」に題名変更されている。1888年に出された第3版では、「結論」が修正され復活し、新たに「ジョルジョーネ派」が加わった。第4版は1893年に出版され、この版をもって決定版とされている。

伴淳三郎(1908~1981)

俳優としての活動・戦前 1939年、新興キネマ演芸部があきれたぼういずなどの吉本興業の人気タレントを大量に引き抜いたときも暗躍する。ところが、引き抜きの工作に奔走する際、伴は狙う相手の名前を書き並べたメモ帳を円タクの中に置き忘れてしまうという大失態を犯し、ことの重大さに自殺まで考えたという。しかし、伴が降りた後、その円タクを拾ったのが歌手の灰田勝彦で、灰田は拾ったメモ帳を何も言わずに判に送り届け、事無きを得て以来、判は灰田に頭が上がらなかったという。

ヴィルヘルム・ビヤークネス(1862~1951)

気象予測の科学化 ヴィルヘルムは師であるヘルツの「将来の出来事の予測が重要である」と考え方に影響を受けていた。彼は、1901年頃から自身の構想の一部として、大気の状態の時間変化を自身の循環定理を使って計算することを考え始めていた。当時の気象予測は、個人の主観に基づく天気図の経験的解釈に頼っていた。ヴィルヘルムは気象予測を個人の経験ではなく、物理学方程式を用いた科学化によって客観化することを意図した。彼は1904年に「力学と物理学の問題としての気象予測」という論文の中で、流体力学に基づいて気象予測のための「大気の厳密な物理学」を確立するという長期的な目標となる理念を発表した。その中で彼は次のように述べている。

鍋島直大(1846~1921)

佐賀縣護國神社 明治政府に出仕すると、軍制改革と海軍創設の急務を説き、議定職外国事務局輔、横浜裁判所副総督、外国官副知事等、江戸開市取扱総督等を歴任した。父の代にオランダから佐賀藩が購入し明治政府が徴発していた軍艦電流丸で、1868年3月26日、大阪の天保山沖で日本初の「観艦式」に旗艦として臨んだ。翌1869年には版籍奉還の上表書に薩長土肥の1国として連署。また同年、議政官が行政官に統合された折、それまで31名いた議定の公選により、筆頭輔相に三条実美、続く定員4名の議定に岩倉具視、徳大寺実則と並び大名家から唯一、直大が選出された。また戊辰戦争の功績で賞典禄2万石を賞与された。この頃直大は戊辰戦争で亡くなった藩士を奉じて佐賀縣護國神社を建てた。

カール・レムリ(1867~1939)

映画業界への参入 1906年にコンチネンタル・ファッション・カンパニーを退職し、シカゴでニッケルオデオンの盛況ぶりを見て興行業を始める。レムリはトーマス・エジソンが映画配給の独占を企図したモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニーへの抵抗を始め、メアリー・ピックフォードやフローレンス・ローレンスなどの俳優の宣伝を手掛けて収益力を高め、独立企業としての力を蓄えていった。妻の死後、レムリはニューヨークに移住して1909年には全米一のエクスチェンジ業者レムリ・フィルム・サービスを設立し映画配給を始めた。次いで映画製作会社インディペンデント・ムービング・ピクチャーを設立した。