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エリシャ・オーチス(1811~1861)

オーチス・エレベータ・カンパニー エレベータの落下防止装置を発明したエリシャ・オーチスが、1853年、ニューヨーク州ヨンカーズに設立した。現在の本社はコネチカット州ファーミントン。従業員はアメリカ国内6万人、国外5万1000人。収益96億 US ドル。世界中にオーチス製の180万基のエレベータと11万5000基のエスカレータが稼働中。150万基のエレベータとエスカレータを保守点検する。これらはエレベータ・エスカレータ会社として世界最大である。

ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン(1908~2000)

クワインの自然主義 クワインは、数学的認識論と一般的認識論を比較することで伝統的な認識論のパラダイムが不適切であることを示す。それらは教義的・概念的の両側面での研究を企てている。概念的な側面は定義による意味付けと明示を目指す。教義的な側面は、真理と、検証による法則の確立に関心を向ける。数学的研究についていえば、複雑な概念はより単純な概念を用いて語られ、初等的な法則は非初等的な法則を説明するだろう。理想的には、曖昧な概念を明らかにすることは、数学的定理と自明な真理との関係を正当化することに役立つと思われる。だが、数学上の諸概念を論理のみに帰することはできない。諸概念は集合論の公理にも依存する。それは理論よりもはるかに不思議なものである。

さくらももこ(1965~2018)

ちびまる子ちゃん 本作品は、1974年から1975年にかけて静岡県清水市の入江地区で少女時代を過ごした作者のさくらももこの投影である小学3年生の「ちびまる子ちゃん」が、家族や友達と共に繰り広げる日常生活を描いたコメディ漫画。アニメでもテレビスペシャルなどによっては時代設定が放送当時に合わされている場合があるが、基本的には先述の時代設定が一貫されている。

アントワーヌ=アンリ・ジョミニ(1779~1869)

戦争概論 ジョミニの基本的な思考法は戦争術の普遍的な原理を導き出すことに集約される。つまりさまざまな戦略・戦術が古典力学や数学のようにいくつかの基礎的な理論によって説明し、またその原理によって科学的に勝利のための方法を明らかにすることができるという立場である。これは当時のフランス陸軍の思想的な潮流や同時代の軍事学者であるヴォーバンが要塞の攻撃法と防御法についての合理的な戦術を構築していたことなどが関係していたと思われる。ただしジョミニは戦争、特に戦闘はその複雑性から技術に分類されるものであって、純粋な科学ではないとも述べている。つまりジョミニの原理は現実と理論の間で典型的に見られる妥協の産物であると言える。

ゲディミナス(1275~1341)

宗教の選択 ゲディミナスは本来のリトアニアを始め、ジェマイティヤ、ナヴァフルダク、ポドラツィア、ポロツク、ミンスクといった広大な領土を相続した。しかしその周囲には積極的且つ貪欲な敵が取り巻いていたが、最も危険なのがドイツ騎士団とリヴォニア騎士団であった。騎士団のキリスト教への改宗を口実とするリトアニアへの組織的な侵攻は、全リトアニアの部族が共通の敵を目標にして統一された時から続く長きに渡るものであった。だがゲディミナスの王朝設立は単に安定性のみならず影響力の獲得にあり、その目的は教皇庁へ直接に使節を派遣することであらわれた。1322年末にゲディミナスがヨハネス22世に送った手紙には、騎士団からの迫害に対する抵抗の懇願やフランシスコ修道会やドミニコ修道会がリトアニア国内で神の言葉を伝道するための特権を既に享受していることが知らされ、教会内の特使を送るよう懇願していた。

貞明皇后(1884~1951)

皇后時代 1912年7月30日、明治天皇が宮城で崩御。夫・嘉仁親王の皇位継承に伴い皇后となる。3年後の1915年11月10日に京都御所にて御大典が行なわれたが、皇后は第4子を懐妊中のため欠席した。昭憲皇太后の後継者として、蚕糸・絹業を奨励し、自身も養蚕に取り組んだ。救癩事業に尽くし、灯台守を支援したことで知られる。皇室や神道祭祀のしきたりや伝統を大切にした一方で、野口幽香、後閑菊野などの近代女子教育の研究家を相談相手に宮中に招いた。

橋本龍太郎(1937~2006)

第17代自民党総裁 1995年9月、橋本は国民的人気を背景に自民党総裁選に出馬する。当初は現職総裁の河野洋平と橋本の一騎討ちと目され、早稲田大学出身の河野と慶大出身の橋本の「早慶戦」、共に1937年生まれで50代の「ニューリーダー対決」などと評されたが、河野は自らが所属する宮沢派の支持を得られずに「大変厳しい多数派工作で、党内に亀裂を生じるを恐れる」として出馬を辞退。河野に代わって三塚派の小泉純一郎が出馬し、論客同士の「さわやかな政策論争」、「KK決戦」と評される総裁選が展開された。橋本は304票を獲得し、87票を獲得した小泉に圧勝。第17代自由民主党総裁に就任した。幹事長に宮沢派の加藤紘一、総務会長に三塚派の塩川正十郎、政調会長に旧渡辺派の山崎拓を選任した。橋本は総裁就任に伴って、村山改造内閣で副総理を兼務し引き続き通産相を務めた。

クラテロス(前370~前321)

アレクサンドロス死後 翌紀元前322年、アテナイをはじめとするギリシャの諸都市がアレクサンドロスの死に乗じてマケドニアの支配に対して反乱を起こした。その時ギリシャを支配していたアンティパトロスはギリシャ連合軍に破れてラミアに篭城していた。アンティパトロスはレオンナトス、その時小アジアのキリキアにいたクラテロスに援軍を要請した。先に着いたレオンナトスはアンティパトロスをラミアから脱出させるのに成功したが、それと引き換えに自身は戦死した。続いてやってきたクラテロスは配下の軍をアンティパトロスの軍と合流させ、クランノンの戦いでアンティパトロスと共にギリシャ連合軍を破り、戦争はマケドニアの勝利で終わった。その後、支援の礼としてアンティパトロスはクラテロスに名誉と贈り物を授け、娘のフィラを嫁がせた。

プブリウス・デキウス・ムス(不明~前295)

最初のコンスルシップ 第二次サムニウム戦争中の紀元前312年にデキウスはマルクス・ウァレリウス・マクシムス・コッリヌスと共に執政官職に就いた。リウィウスによれば、デキウスは病気のためにローマに残り、彼の同僚が戦争を指揮した。しかし、エトルリア人との戦争の不安のため、いざという時のためにデキウスは元老院の希望で独裁官に就任した。一方アウレリウス・ウィクトルは逆に、デキウスは最初の執政官職の時にサムニウム人との戦争に勝利してケレース神に戦利品を奉納したと伝えている。しかし、凱旋式のファスティによると、この年凱旋式を挙行したのはウァレリウスの方である。

コンスタンチン・パヴロヴィチ(1779~1831)

ポーランドの統治者 アレクサンドル1世がコンスタンチンを自分の創設したポーランド会議王国の事実上の副王に任命したことにより、コンスタンチンにも国政における重要な役割が与えられることになった。コンスタンチンは被征服国ポーランドを抑圧し、軍国化する任務を負った。コンスタンチンは会議王国の軍総司令官の地位を授けられ、1819年にはロシア領リトアニア地域の総司令官の地位をも手に入れた。リトアニアはかつてポーランド・リトアニア共和国を構成していたことから、両地域を束ねる必要があったのだった。

ステファン・ウロシュ1世(1223~1277)

経済政策 ウロシュ1世は迅速な経済発展を推進し、彼の経済政策によって王国はより発展した。ローマ時代にセルビアは銀、銅、錫、鉛などの鉱物で有名だったが、彼の治世に鉱山の採掘が再開した。ハンガリー経由でセルビアに流入したサクソン人の鉱夫が採掘を行い、彼らによってブルスコヴォ、ルドニクなどのセルビア国内の鉱山の開発が進められた。また、サクソン人のコミュニティにはドイツ風の自治とカトリックの信仰が認められていた。経済的な繁栄はドゥロヴニク、コトルなどのダルマチアの交易都市との関係を強化し、鉱物の採掘量の増加と貿易の振興の結果、セルビア国内ではヴェネツィアの硬貨をモデルとした大量の貨幣が流通した。

ユグルタ(前160~前104)

ユグルタ戦争 前111年~前105年、北アフリカのヌミディア王ユグルタがローマに反旗を翻したことに対するローマの討伐戦争。ヌミディアとは、北アフリカのベルベル人の国で、現在のアルジェリアにあたり、カルタゴの西にあった。もとはカルタゴの友好国で勇敢なヌミディア騎兵を提供していたが、マッシニッサ王の時、ローマ側に付いたことから第3回ポエニ戦争のきっかけとなった。その後もローマの保護国となって続いていた。そのヌミディア王国の王位継承争いから、その王ユグルタがローマに反旗を翻し、前111年にローマが鎮圧に当たったことからユグルタ戦争が起こった。前111年、ローマは討伐軍を派遣し戦闘が始まったが、苦戦が続き、前107年、執政官となったマリウスが兵制改革を断行してローマ軍の再編に成功し、みずから傭兵軍団を率いて出兵し、前105年までに鎮圧して属州アフリカに編入して地中海支配を拡大した。カエサル時代の歴史家サルスティウスが『ユグルタ戦争』を書き残している。

松平乗邑(1686~1746)

公事方御定書 編纂は老中松平乗邑を主任に、勘定奉行、寺社奉行、江戸町奉行の石河政朝の三奉行が中心となる。上巻は1738年に完成するが、それ以降も追加作業が行われ、寺社奉行時代の大岡忠相らが関わった。1745年に将軍吉宗が隠居、編纂は打ち切られる。

島津忠義(1840~1897)

島津忠義の生涯 15代将軍・徳川慶喜が大政奉還した後、西郷隆盛・大久保利通・小松清廉らの進言を容れ、薩摩藩兵3千を率いて上洛した。そして王政復古の大号令に貢献し、議定に任ぜられて小御所会議に参席した。慶喜が発した討薩の表に於いて厳しく糾弾されるが、鳥羽・伏見の戦いでは薩長軍が大勝利を納めた。この直後、海陸軍総督に任命されるが西郷の進言に従い1日で辞任している。明治維新後は長州・土佐・肥前の3藩と協力して版籍奉還を進んで行なう。その後、名を「忠義」と改め薩摩藩知事となるが、実質的な藩政は西郷に任せていたと言われている。1871年の廃藩置県後は、公爵となった。同年5月17日には麝香間祇候に任じられた。以後、政府の命により東京に在住する。西南戦争時も東京に留まり、ほぼ関らなかった。

小津安二郎(1903~1963)

東京物語 尾道に暮らす周吉とその妻のとみが東京に出掛ける。東京に暮らす子供たちの家を久方振りに訪ねるのだ。しかし、長男の幸一も長女の志げも毎日仕事が忙しくて両親をかまってやれない。寂しい思いをする2人を慰めたのが、戦死した次男の妻の紀子だった。紀子はわざわざ仕事を休んで、2人を東京名所の観光に連れて行く。周吉ととみは、子供たちからはあまり温かく接してもらえなかったがそれでも満足した表情を見せて尾道へ帰った。ところが、両親が帰郷して数日もしないうちに、とみが危篤状態であるとの電報が子供たちの元に届いた。子供たちが尾道の実家に到着した翌日の未明に、とみは死去した。とみの葬儀が終わった後、志げは次女の京子に形見の品をよこすよう催促する。紀子以外の子供たちは、葬儀が終わるとそそくさと帰って行った。京子は憤慨するが、紀子は義兄姉をかばい若い京子を静かに諭す。紀子が東京に帰る前に、周吉は上京した際の紀子の優しさに感謝を表す。妻の形見だといって時計を渡すと紀子は号泣する。がらんとした部屋で一人、静かな尾道の海を眺めるのだった。

小渕恵三(1937~2000)

「平成おじさん」から首相へ 官房長官時代の1989年1月7日に昭和天皇が崩御。元号の改元にあたり、総理大臣官邸での記者会見「新しい元号は『平成』であります」と「平成」を公表した。64年も続いた史上最長の元号「昭和」に替わる新元号の発表は国民的な注目を集めていたこともあり、小渕は「平成おじさん」として広く知られるようになった。小渕が「平成」と書かれた色紙の収められた額を掲げるシーンは、昭和から平成への時代変遷を象徴する映像・写真としてその後も多く利用されている。また、2019年の改元前後には、再び話題となった。

上原専禄(1899~1975)

国民文化の論 「人間の尊厳、人間の存在意義をつかみ実現していくことを、端的に考える仕事こそ文化の問題」だと考える著者は、豊で鋭い芸術的感性の人であった。「文化伝統というものが『型』のかたちをとって作品の制作者と享受者の双方をがんじがらめに金縛りに縛りあげている。その残忍なまで執拗なはたらきと重圧を、私はどうにかならないものか、と考えるのである。」そうした問題意識から国民文化の諸問題にとり組んだ論文集。

アントニー・アシュリー=クーパー(1621~1683)

共和政・護国卿時代 イングランド共和国体制下のランプ議会は1652年、アシュリーを追加の議員として承認した。しかし彼が議会の中では長老派であったこと、及び国王軍に一時加わっていたことなどからあまり厚遇されず、したがって発言力も大きくなかった。こうした穏健派議員達に目をつけたのが、亡命中のチャールズでる。チャールズは再三、アシュリーらに手紙で国王復帰の途を打診してきていたが、アシュリーはにべもなく断った。当時はそれが当然の反応であり、チャールズもこの時のことを根に持ったりはしなかった。

戸田氏鉄(1576~1655)

島原の乱~原城の籠城戦~ 事態を重く見た幕府では、2人目の討伐上使として老中・松平信綱、副将格として戸田氏鉄らの派遣を決定した。功を奪われることを恐れ、焦った板倉重昌は1638年2月14日に信綱到着前に乱を平定しようと再度総攻撃を行うが策もない強引な突撃であり、連携不足もあって都合4,000人ともいわれる損害を出し、総大将の重昌は鉄砲の直撃を受けて戦死し、攻撃は失敗に終わった。この報せに接した幕府は1月10日、増援として水野勝成と小笠原忠真に出陣を命じる。

清水宗治(1537~1582)

備中高松城の戦い 備中高松城の戦いは、日本の戦国時代におけた戦い。1582年に織田信長の命を受けた家臣の羽柴秀吉が毛利氏配下の清水宗治の守備する備中国高松城を攻略した戦いである。秀吉は高松城を水攻めによって包囲したことから、高松城の水攻めとも呼ばれる。水攻めの最中に主君である織田信長が明智光秀に討たれる本能寺の変が起きた。その報を聞いた秀吉はただちに毛利方との和睦を結んで、城主清水宗治の切腹を見届けた後、明智光秀を討つために軍を姫路へ引き返した。

エドモンド・バートン(1849~1920)

連邦運動~1891年オーストラリア憲法制定会議~ エドモンド・バートンはオーストラリア連邦の創設への早くからの支持者で、それはヘンリー・パークスのテンタフィールドの演説の後、重大な政治議題になり1891年3月にオーストラリア憲法制定会議へ委任された。この会議でバートンは連邦のオーストラリアで"貿易と交流…は完全に自由になるだろう"という連邦化への明確な支持を明らかにした。バートンは同様に下院だけでなく上院は代表して枢密院司法委員会への上告の権利を撤廃するべきであることを主張した。バートンはオーストラリア憲法草案作成にも参加し、それは1900年のオーストラリア憲法制定時と極めて似たものだった。

田辺太一(1831~1915)

維新後の活躍 帰国後の1868年3月、目付となる。しかし、すでに幕府は大政奉還しており、鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川慶喜は謹慎していた。田辺は致仕した後、一時横浜で輸入商を営んでいたが、徳川家が駿府70万石へ移封となったのを受け、1869年5月、沼津兵学校に招かれ教授に就任した。1870年正月には外務省から要請され、外務少丞となり、翌年の岩倉遣欧使節に一等書記官として随行、外交経験の浅い維新政府の幹部を補佐した。1874年の台湾出兵の際にも、事件を収拾するために清へ渡って交渉した全権弁理大使大久保利通に随行し、両国間折衝を補佐するなど、明治初年の外交史の様々な局面で活躍した。

メガラのエウクレイデス(前435~前365)

哲学 エウクレイデスの哲学はエレア派とソクラテスの概念を統合したものだった。エウクレイデスはエレア派の「万物の本源」をソクラテスの「善の実相」を同一視し、それを「道理」「神」「心」「知恵」と呼んだ。それは存在の本質であり、永遠不変のものだった。エウクレイデスは「善は一つ、しかし我々はそれをいろいろな名前で呼ぶことができる。ある時は知恵、ある時は神、ある時は道理」と言い、「善と反対のものは存在しない」と宣言した。これらの教義は経験によって実証できる現実と矛盾するように見えるが、エウクレイデスは非=存在は存在の種になることなく存在しえず、存在の本質は善ゆえに、善の反対のものは存在できない、と主張した。エウクレイデスの教義を継承したのが、アリストテレスの逍遥学派と並ぶ古代の重要な学派であるストア派の論理学者たちである。

ジョン・ウェブスター(1580~1634)

白い悪魔 ロドヴィーコ伯爵は放蕩と殺人の咎でローマから追放されていた。伯爵の友人はその判決が撤回されるよう働きかけると約束する。そのころブラキアーノ公爵は、身分は高いが貧しいヴェニスの家庭に生れた娼婦ヴィットリアに対して激しい愛情を抱いていたが、二人ともすでに結婚している身であった。ヴィットリアの兄でブラキアーノ公爵の秘書でもあるフラミーネオは、自分の立身出世のために妹と公爵を結びつけようと画策していたが、この計画はブラキアーノ公爵の妻イザベラが兄と枢機卿にともなわれて到着したことによって失敗する。イザベラたちはブラキアーノ公爵が浮気をしているという噂を聞きつけて憤慨し、公爵に問い質そうとするが、それよりも早く公爵とフラミーネオはヴィットリアの夫とイザベラを亡き者にするための策を張りめぐらせていた。

ペトルス・ロンバルドゥス(1100~1160)

命題集~起源と特性~ ロンバルドゥスは『命題集』の中で聖書や教父の著書から採ってきた記述を整理し、数多の章に細分した。おそらく1223年から1227年の間に、ヘールズのアレクサンデルが本書のその数多くの章をいくつかのグループにまとめ、より少ない数の「区分」を立てた。この形で、本書は盛期-後期中世に神学教科書として広く採用された。『命題集』に対する注釈書は神学の教師皆が必要としていて、試験制度の一部として組み込まれていた。本書に関する講義を受けた学生は神学部において講師の地位に志願することができた。

土肥実平(不明~1191)

鎌倉軍奉行 1184年1月、源義仲討伐に従軍し、合戦後、大江山に派遣され京の入口を守った。同年2月の一ノ谷の戦いでは源義経の軍に属して戦う。三草山の戦い後、義経は一万騎を二手に分け、実平は7,000余騎を引きつれ、一の谷の西の手に進んだ。合戦後、吉備三国の惣追捕使に任ぜられた。山陽道を守り、源範頼の進軍を支援する。梶原景時と共に頼朝代官である範頼・義経の奉行として遠征軍に派遣されており、頼朝の信任が厚かったと思われる。鶴岡八幡宮の造営にも寄与した。

楠木正勝(1351~1400)

当主就任後 1388年8月17日未明、子飼いの精鋭騎兵200を含めた1000余りの手勢を率い、紀伊国の名勝和歌浦玉津島神社から帰京の途にあった室町幕府3代将軍足利義満を奇襲しようと企てる。しかし、赤坂城に駐留中の山名氏清に動向を察知されており、河内国平尾に先回りされ、自軍の4倍近い3500余りの兵と戦うことになる。正勝は奇策や挑発など手を尽くしたが、氏清は慎重に慎重を重ねて徹底防御を貫いたため、正勝の軍が疲弊してきたところを狙われ、最後は数的優位を活かされて散々に打ち破られた。

後小松天皇(1377~1433)

明徳の和約 そもそもこの和約は義満ら室町幕府と南朝方でのみで行われ、北朝方はその内容は知らされず合意を約したものでもなかったようである。そのためか、北朝では「譲国の儀」実施や両統迭立などその内容が明らかとなるとこれに強く反発した。北朝の後小松天皇は南朝の後亀山天皇との会見を拒絶し、平安時代末期に安徳天皇とともに西国に渡った神器が天皇の崩御とともに京都に戻った先例に則って、上卿日野資教・奉行日野資藤らを大覚寺に派遣して神器を内裏に遷した。元号についても北朝の「明徳」を継続し、2年後に後亀山天皇に太上天皇の尊号を奉る時も、朝廷では足利義満が後小松天皇や公家たちの反対意見を押し切る形で漸く実現した。さらに国衙領についても、建武の新政以来知行国を制限して国衙領をなるべく国家に帰属させようとしてきた南朝と、知行国として皇族や公家たちに与えて国衙領の実質私有化を認めてきた北朝とが対立し、南朝方が北朝側の領主権力を排除して実際に保有出来た国衙領はわずかであったと見られている。

後亀山天皇(1350~1424)

明徳の和約 義満は1391年の明徳の乱で有力守護大名の山名氏を弱体化させて武家勢力を統率すると、和泉・紀伊の守護で南朝と領地を接する大内義弘の仲介で南朝との本格的交渉を開始した。そして3か条を条件に和睦が成立。1392年に後亀山天皇は京都へ赴いて、大覚寺において神器を譲渡し、南朝が解消される形で南北朝合一は成立した。南朝に任官していた公家は一部を除いて北朝への任官は適わず、公家社会から没落したと考えられる。

相良義陽(1544~1581)

島津氏の対立と降伏 1575年には織田信長の依頼を受けた前関白・近衛前久が相良氏を始め、島津・伊東・大友の諸氏に和解を勧め、連合して毛利輝元を討つ様に説得工作にあたった。伊東氏を滅亡寸前に追い込んでいた島津氏の反対によって工作自体は成功しなかったものの、摂関家の長たる前久の来訪は相良氏始まって以来の大事件であり、感動した義陽は前久に臣下の礼を取り、逆に前久も義陽の朝廷に対する崇敬の純粋さに感動して島津義久に迫って一時停戦を受け入れさせたほどであったという。しかしながら、この和睦には義陽の方が返事を渋っており、義久が前久の要請に従い、起請文を提出した事でようやく実現している。これを機に義陽は内外の文書に対して「義陽」名義の文書を出すようになり、大友宗麟も島津義久に対抗する上で相良氏との関係を重視する方針に転換して、1577年になって義陽に対して偏諱授与の事実を承認した。

千葉常胤(1118~1201)

保元・平治の乱 その後、平治の乱で源義朝が敗死すると、1161年には常陸国の佐竹義宗が前下総守・藤原親通から常重の証文を手に入れ、藤原親盛とも結んで伊勢神宮に再寄進してこれも伊勢神宮に認められ支配権を得る。これを知った常胤も翌月に再度伊勢神宮に寄進の意向を示した。このため、伊勢神宮側では常胤側の窓口となった禰宜・荒木田明盛と義宗側の窓口となった禰宜・度会彦章の対立が生じた。その後、義宗が伊勢神宮に供祭料を負担して寄進状の約束を果たしたことが評価され、1163年に義宗の寄進を是とする宣旨が出され、続いて1166年6月18日に明盛から彦章に契状を提出し、1167年6月14日付で和与状が作成された。当時、和与による権利移転は悔返を認めない法理があり、これによって度会彦章・佐竹義宗の勝訴が確定した。以後、常胤は義宗と激しく争うことになる。

平盛俊(不明~1184)

一ノ谷の戦いでの最期 源範頼・義経の率いる追討軍を迎撃するため、福原に陣営を置いた宗盛は、東の生田口に平知盛、西の一ノ谷口に平忠度、山の手の鵯越口に盛俊を配備して、強固な防御陣を構築する。福原は北に山が迫り、南に海が広がるという天然の要害であり、東西の守備を固めれば難攻不落と思われた。

シェションク1世(不明~前924)

南北統一 アメンの大司祭職の世襲を廃止し、次男のイウプトをアメンの大司祭の地位に就け、上エジプトの長官と軍司令官の地位を兼任させた。神官団は事実上の独立国家として上エジプトを支配下に置いていたが、この政策によってブバスティスから統治する王の監視下に置かれる形となり、王権は再び一つに統合された。また、長男のオソルコンを後継者に選び、三男ニムロトを中部エジプトのヘラクレオポリスの軍団長に任命した。

ヘームー(1501~1556)

デリー占領 1556年1月、フマーユーンは図書館の階段から落ちて頭を強打して死亡し、13歳の息子アクバルが皇帝となった。ムハンマド・アーディル・シャーはヘームーにムガル帝国の軍勢を駆逐する命令を出し、遠征に向かわせた。ヘームの軍勢はベンガルから進撃し、ビハールとインド中央部を制圧した。ムガル帝国軍は次々に打ち破られ、アーグラも制圧された。

シャルル=フランソワ・ドービニー(1817~1878)

フォンテーヌブローの森

ヨーゼフ・ラデツキー(1766~1858)

ラデツキー行進曲~ラデツキー将軍の戦勝祝典~ 当時イタリア半島では民族統一運動が盛んで、オーストリア帝国領であった北イタリアでは「ドイツ民族からの独立」を目指して激しい闘争が繰り広げられていた。1848年7月、ヨーゼフ・ラデツキー将軍の率いるオーストリア陸軍がこれの鎮圧に成功した。この勝利を記念するために、「イタリアで戦った勇敢なる将兵の賞賛と傷病兵への募金を兼ね、寓意的、象徴的表現と格別な啓蒙を意図した大勝利感謝祭」が8月31日に開かれることとなった。

エカチェリーナ1世(1684~1727)

エカテリーナ宮殿 宮殿の名前は、ピョートル1世の后でもあった、第2代ロシア皇帝エカチェリーナ1世に由来する。エカチェリーナがドイツの建築家ヨハン・フリードリヒ・ブラウンシュタインを雇って夏の避暑用の離宮として1717年に作らせたのが最初のもので、その後、第4代ロシア皇帝アンナがロシア人建築家に命じ増築させた。

マリー・ド・メディシス(1575~1642)

マリー・ド・メディシスの生涯 『マリー・ド・メディシスの生涯』は、フランドルの画家ピーテル・パウル・ルーベンスが描いた24点の連作絵画の総称。フランス王アンリ4世妃のマリー・ド・メディシスが、パリのリュクサンブール宮殿改修時の装飾絵画として、1621年秋にルーベンスに制作を依頼した作品群である。1622年初頭に正式な絵画制作条約が結ばれ、マリーの娘アンリエット・マリーの結婚式に間に合うように制作が進められた。全24点の連作のうち、21点の作品の主題となっているのはマリーの生涯における重要な出来事で、マリーが経験してきた苦難や栄華が描かれている。残る3点の絵画にはマリーと両親の肖像画が描かれている。現在『マリー・ド・メディシスの生涯』はすべてパリのルーヴル美術館が所蔵しており、リシュリュー翼の「メディシスの間」または「ルーベンスの間」と呼ばれる部屋に展示されている。

オットー2世(955~983)

コロンナ岬の戦い~戦闘~ 戦闘が始まると、神聖ローマ帝国の重騎兵がシチリア軍の中央を崩壊させ、敵本陣にまで至った。この時アブル=カースィムは討ち取られたが、シチリア軍は完全には崩れず、逆に山に隠れていた5000人ほどの別動隊を動かして神聖ローマ帝国軍を包囲した。勝利に酔って敵の死体から装備を掠奪していた神聖ローマ帝国軍は、奇襲を受けてパニックに陥った。歴史家のイブン・アスィールによれば、神聖ローマ帝国軍の死者は4000人に上った。その中には、ベネヴェント公ランドルフォ4世やアウクスブルク司教ハインリヒ1世、マイセン辺境伯ギュンター、フルダ修道院長、ほか19名のドイツ人の伯が含まれていた。またヴェルチェッリ司教ペトルスなどは捕虜となり、エジプトのファーティマ朝の宮廷まで連行された。オットー2世は命から脱出して海に飛び込み、泳いでギリシャ人の商船にたどりついて助けられた。この遠征中、オットー2世は東ローマ帝国とも対立していたので船では素性を隠そうとしたが、最終的に自ら正体を明かしたうえで、コンスタンティノープルの皇帝のもとに赴く前にロッサーノで皇后と合流し財貨を携えていきたいといって船員を説き伏せた。船がロッサーノにつくと、オットー2世は船上で船員とメッツ司教ディートリヒが身代金交渉している隙に海に飛び込み、泳いでロッサーノの街に生還した。その後、オットー2世は11月12日にようやくローマに帰還した。レオポルト・フォン・ランケは、この戦いを「ドイツ王国にとってのカンナエ」と評している。

ラズィーヤ(1205~1240)

安定せぬ治世 これらの貴族たちは自分たちの意のままになる傀儡を王位につけようと望んだが、ラズィーヤには政治的軍事的才能があったので、彼らの思い通りにはならなかった。彼女は女性の服装を捨て男装を纏い、顔を覆わずに宮中会議をとりおこなったり、自ら狩りにでていったり、戦場では自ら軍を率いた。またラージプートの勢力を抑えるため、ランタンボールに遠征軍を送り、一時的であったが王国全土を安定させるのに成功した。

ヒュー・オニール(1565~1616)

アイルランド九年戦争 ヒューは、傭兵に頼るよりむしろ人民を武装化させるべきというジェーンの方針に従って、スペインとスコットランドから提供された火縄銃と火薬で立派な軍隊を作りあげた。1595年のコンティブレットの戦いでは、イングランド軍を待ち伏せ、総崩れにした、イングランドに衝撃を与えた。ヒューと他のアイルランド族長たちはフェリペ2世に対して、アイルランド王になってくれるような要請したが、フェリペ2世はそれを断った。

プブリウス・デキウス・ムス(不明~前340)

コンスルシップ 紀元前340年、デキウスはティトゥス・マンリウス・インペリオスス・トルクァトゥスと共に執政官に選出された。同年にラテン戦争が起こると、デキウスはマンリウスと共に二個軍団とサムニウム人部隊からなる軍を率い、カプア近くに陣を敷いた。その夜に執政官たちは、両軍のうち一方の将軍が自身と敵軍を生贄に捧げることを誓えば、その将軍の軍が勝つということを語る夢を見た。執政官は話し合い、どちらか苦戦した方がその生贄となることを決めたという。

小ドルスス(前14~23)

アウグストゥス死後 アウグストゥスに死によって父ティベリウスが元首に就任すると、パンノニアとゲルマニアで軍団の騒乱が発生し、これを鎮圧するためドルススはパンノニアへ派遣された。ゲルマニアについては現地でその指揮をしていた義兄弟ゲルマニクスが担当した。パンノニアの軍団はその司令官クィントゥス・ユニウス・ブラエススに賃金の上昇と退役年数の引き下げを要求し、各冬季陣地を離れ3個軍団が一箇所に集合していた。このときドルススには親衛隊2個大隊と騎兵隊、それに幕僚としてルキウス・アエリウス・セイヤヌス、グナエウス・レントゥルス、ルキウス・アプロニウスなどが与えられていた。パンノニアに到着したドルススは最初、兵士たちと交渉してティベリウスに使者を派遣したが、兵士達の動揺を見て取ると厳罰で対処し、使者の帰還前に叛乱を鎮圧した。軍団に対して一切の妥協を与えぬ解決であり、鎮圧後すぐにローマに戻った。

ジョン・ステュアート(1713~1792)

ニューカッスル公内閣北部担当大臣 1761年3月になると、ビュート伯は国王の後押しを受けてニューカッスル公内閣に北部担当国務大臣として入閣した。しかしスコットランド貴族のビュート伯は、この時点では上下両院のいずれにも議席を持っておらず、議会の議員を大臣に任命するという長年の慣行が破られた形での任命となった。また当時、七年戦争は重大な局面を迎えており、このような時期に国王側近を閣内に送り込むのは閣内不一致の原因になりかねないと憂慮されていた。そのため彼の登用には当初より批判が多かった。なお、議席の問題については同年のうちに貴族代表議員に選出されて、貴族院の議席を得ることで対応している。

イザベル・ド・ポルテュガル(1397~1471)

ブルゴーニュ公と結婚 1428年当時、ブルゴーニュ公フィリップ善良公は2度の結婚を経験していた。最初の妻ミシェル・ド・フランスは、遺伝性の精神病を患っていた。2度目の妻ボンヌ・ダルトワはかつて父方の叔父ヌヴェール伯フィリップ2世の妻であった。どちらとも死別し嫡子が得られず、3度目はイングランドから迎えたいと善良公は考えた。

亀山天皇(1249~1305)

大覚寺統 大覚寺統は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。名の由来は、第88代後嵯峨天皇の子である第90代亀山天皇の子、後宇多天皇が京都の外れの嵯峨にあった大覚寺の再興に尽力したことで、及び、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったことによる。

石川三四郎(1876~1956)

浪~ルクリュ家へ~ 一九一三年の初夏のころであつた。或る土曜日の午後私はベルギーの首都ブリュッセル東北隅のエミール・バンニング町にポール・ルクリュ翁を訪問した。ベルを鳴らすと翁自身が扉を開いて迎へてくれた。ネクタイもカラも著けず上衣も著けず、古びたチョッキと縞もわからないシャツを纒うて「よく來てくれました、待つてゐました。ツ・ミン・イ君は?」といひながら、私を應接室に導いてくれた。前の土曜日に支那の友人楮民誼君に伴はれて初めて同家を訪問したが、その時は忙しくて話をしてゐられないから、次の土曜日に來てくれといふことであつたのだ。

池坊専慶(生没年不詳)

華道 華道の確立は室町時代中期、京都六角堂の僧侶によるものとされる。僧侶は代々池のほとりに居住していたことから「池坊」と呼ばれていた。そうした呼び名がのちに流派の名前となる。家元、宗家らによって江戸時代中期にかけて立花と呼ばれる型が大成されていった。

後深草天皇(1243~1304)

持明院統 持明院統という名称は、鎮守府将軍藤原基頼が邸内に持仏堂を創設し、これを持明院と名づけ、その一家を持明院家と称したことに端を発する。基頼の孫持明院基家の娘陳子が守貞親王の妃になり、守貞親王はこの邸宅・持明院殿に居住した。承久の乱で三上皇が配流になった為、幕府の沙汰によって、守貞親王の子茂仁親王が天皇となった。そして、後堀河天皇は譲位後、持明院殿内のを仙洞御所として居住したが、その後、後嵯峨、後深草両上皇もこれに倣って持明院殿内に住んだ。これらにより、後深草天皇から後小松天皇に至る系統のことを持明院統と称されたと伝えられている。しかし、実際には持明院は後堀河上皇の崩御後はその皇女であった室町院が居住し、室町院没後の遺産配分によって後深草上皇の子である伏見上皇が持明院を相続して1302年に仙洞御所としたことにより持明院統と称されたのが由来とされている。

巨勢金岡(生没年不詳)

巨勢金岡の経歴 日本画独自の様式を追求・深化させ、唐絵の影響を脱した大和絵の様式を確立させた功労者とされる。またその子孫は、後世において巨勢派と称される画家集団を形成、宮廷画や仏画の分野において多大な影響力を発揮した。しかし、その作品は一切現存していない。