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ソブーザ2世(1899~1982)

治世 1968年9月6日にはイギリスからの独立を宣言し、イギリスから正式にスワジランド国王として承認される。ソブーザ2世は部族の慣習を維持し、自身の持つ影響力を背景に体制の変換を図っていく。1973年にはイギリスの指導によって制定された憲法と議会を停止し、国王親政に体制を戻した。これによりソブーザ2世とその側近が国政全般にわたり全権を掌握し、首相以下全閣僚を国王が指名することとなった。1978年に新憲法を制定し、各地方に議席を配分する両院制を敷いて部族を取り込んだが、国王には議会への拒否権が付与されるなど議会の権限は限定的なものに留まった。また、ソブーザ2世は豊富な天然資源を活用して経済成長を実現させ、白人が所有していた土地も彼の治世の下でスワジ人の管理下に置かれるようになった。

オーレ・キアク・クリスチャンセン(1891~1958)

レゴの歴史~始まり~ 1916年にビルンに開いた木工所で、オーレ・キアク・クリスチャンセンは地域の農家向けに家と家具を作って生活していた。助けは少数の見習い社員だけだった。1924年、2人の幼い息子が木の削り屑に火をつけたために木工所が火事で焼失したが、オーレ・キアクは災難にもめげず、木工所を大きくする機会だととらえてさらに仕事に励んだ。しかし、まもなく世界恐慌が生活に影を落とすようになった。制作費を切り詰める方法を探すうち、設計支援として製品の縮小模型を作り始めた。このときに作った梯子やアイロン台の模型が、のちに玩具を作るきっかけとなる。

カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム(1867~1951)

 フィンランド内戦 ロシアは十月革命によってボリシェヴィキによる新政府が成立し、第一次世界大戦から離脱するため中央同盟と休戦交渉を行っていた。対ドイツのためのロシア軍10万がフィンランドに駐留し、フィンランドの社会主義革命を目指す赤衛軍の武装を支援していた。ロシアが独立宣言を承認したあとも4万以上の兵力がフィンランドに残っていた。スヴィンヒューを支持する白衛軍は赤衛軍と対立し、武力衝突が発生していた。白衛軍は1918年1月13日に国軍として認められ、マンネルヘイムの提案で政府は首都機能を赤衛軍の勢力が強いヘルシンキから保守勢力の強い北部のヴァーサへ移すことを決めた。1月27日、ヘルシンキで赤衛軍によるクーデターが発生し、フィンランド内戦が始まった。

藤原永手(714~771)

藤原仲麻呂の乱 764年の恵美押勝の乱では孝謙上皇・道鏡側が軍事活動を開始した9月11日には、正三位・大納言に叙任される等、乱の初期から孝謙上皇側の中心的存在として活動。翌765年には勲二等の叙勲を受けており、直接の軍功は不明ながら、軍事指揮をも含めた孝謙上皇側の新体制の形成や運営に関して、永手が重要な位置を占めていたと考えられる。

ヨーゼフ1世(1678~1711)

スペイン継承戦争 即位後は弟のカールをスペイン王にするべく、父の時代から続いてきたスペイン継承戦争を継続、オーストリア軍を率いるプリンツ・オイゲンを全面的に支援する一方、ハンガリーで起きたラーコーツィ・フェレンツ2世の反乱にも対処した。内政では官僚制度を改革し、中央政府を現代化させた。これはハプスブルク家の財政立て直しに一定の成果を上げた。

エリーザベト(1837~1898)

普墺戦争敗北 特にエリーザベトが心安らぐ最高の場所としたのは、当時オーストリア帝国の一部であったハンガリーであった。ゾフィー大公妃がマジャル人嫌いだったこともあり、エリーザベトは死ぬまでハンガリーを熱愛し続けた。その熱意は勉強嫌いの彼女が、短期間でハンガリー語を身につけ、皇帝とハンガリー貴族の通訳を出来るほどであった。穏健独立派のハンガリー貴族ジュラ・アンドラーシ伯爵と知り合い、1866年の普墺戦争敗北を受けて、翌1867年にハンガリーの自治権を認めたアウスグライヒを締結するにあたっては陰の推進者の役割を果たした。アンドラーシはアウスグライヒ後のハンガリー王国の初代首相、帝国外相となる。

張良(前251~前186)

楚漢戦争 その後、項羽は根拠地の彭城に帰り、反秦戦争の参加者に対する論功行賞を行った。これにより劉邦は巴蜀・漢中の王となる。劉邦が巴蜀へ行くに当たり、張良は桟道を焼くように進言した。桟道とは、蜀に至る険しい山道を少しでも通り易くするために、木の板を道の横に並べたものである。とりあえずの危機は去ったものの、劉邦はまだ項羽に警戒されており、何かの口実で討伐されかねなかった。道を焼いて通行困難にすることで謀反の意思がないことを示し、同時に攻め込まれたり間者が入り込めないようにしたのである。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス(1899~1986)

伝奇集~トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス~ まず第一部はボルヘス当人と目される主人公が、友人のビオイ・カサーレスとウクバールを発見するまでの顛末が語られる。ウクバールは海賊版の百科事典に仕込まれたいたずらであるとされており、薔薇十字やグノーシス派の記述を織り交ぜながら、捏造された架空の土地であることが明確に示されている。「トレーン」という言葉はウクバール文学の舞台となる場所の名として挙げられており、この時点ではウクバールという存在をそれらしく見せるためのギミックでしかない。

三浦哲郎(1931~2010)

ユタとふしぎな仲間たち 東北ののどかな村に、東京からの転校生「勇太」がやって来る。しかし、新しい環境になじめず、「大作」を始めとする村の子供達からいじめられる毎日。そんなユタを見守っていた「寅吉爺さん」はある日、村に伝わる「座敷わらし」の話をする。ユタは意を決して言い伝え通りに、満月の夜に大黒柱のある古い家に一人で泊まることに。そこへ座敷わらしが姿を現す。座敷わらしと友達になり時間を共有することで、生きたくても生きられなかった座敷わらし達の思いに触れ、ユタは少しずつたくましくなっていく。座敷わらし達と体も鍛え、村の子供達に受け入れられていくユタ。しかし、仲間ができたユタにやがて別れの時がやって来る。

エリザヴェータ・アレクセーエヴナ(1779~1826)

皇后 次女の死後、エリザヴェータは夫のもとに再び戻った。彼女はまだ30歳にもならず、まだ2人には子供が生まれると思っていた。ナポレオン戦争の間、彼女は皇帝を私的にも公的にもサポートし続けた。ウィーン会議で再会したチャルトリスキと一時期よりを戻したが、エリザヴェータは夫を選んだ。1819年にアレクサンドルは愛妾マリア・ナリシキナとの関係を絶ち、2人はようやく正常な夫婦と呼べる関係に戻った。可愛がった庶子ソフィア・ナリシキナの死を悲しむ皇帝にエリザヴェータは同情し、寄り添った。

アドルフ(1817~1905)

ナッサウ公時代 1866年に普墺戦争が勃発した際、ナッサウ公国はオーストリア側についたが、オーストリアが敗れたためにナッサウ公国はプロイセン王国に併合され、アドルフは廃位された。ナッサウは旧ヘッセン選帝侯国とともにプロイセンのヘッセン=ナッサウ州に再編された。

アンデルス・オングストローム(1814~1874)

オングストローム オングストロームの記号は、日本の計量法でも国際単位系でも同じであり、それは、大文字の「A」の上部に小さいリングを付したものである。

岡本行夫(1945~2020)

外交評論家として また、第1次橋本内閣、第2次橋本内閣で内閣総理大臣補佐官、小渕内閣で科学技術庁参与、第1次小泉内閣で内閣官房参与、第2次小泉内閣で内閣総理大臣補佐官、第3次小泉内閣で内閣総理大臣外交顧問、福田康夫内閣で外交政策勉強会メンバーを務める等、政府要職も数多く歴任している。特に橋本内閣においては、沖縄問題担当として60回以上に渡り沖縄入りとして現地の信頼関係を築きながら、普天間基地の返還・代替地移設問題や沖縄振興策策定の最前線で活動したとされる。2009年12月には、鳩山由紀夫内閣の普天間基地移設問題への対応で日米関係が悪化する中、鳩山由紀夫首相と総理大臣官邸で面会。知米派の岡本が個人的な立場から外交面で協力するとの合意をしたと報じられた。

キャサリン・ジョンソン(1918~2020)

実績と褒章 ジョンソンは26の科学論文を共著した。宇宙科学とコンピューティングの先駆者としての彼女の社会的影響力は、彼女が受けた褒章と、科学における生命のロールモデルとして実証されている。1979年以来、ジョンソンは科学技術分野のアフリカ系アメリカ人として選ばれた。ジョンソンは1999年にウェストバージニア州立大学優秀卒業生に選ばれた。バラク・オバマ大統領は、ジョンソンに2015年11月24日に表彰された17人のアメリカ人の一人として大統領自由勲章を授与した。STEM教育におけるアフリカ系アメリカ人女性の先駆的な例として引用されている。

知里幸恵(1903~1922)

アイヌ神謡集 その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人だちであったでしょう。冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉のような小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀ずる小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円かな月に夢を結ぶ。嗚呼なんという楽しい生活でしょう。

アンソニー・ウェイン(1745~1796)

北西インディアン戦争 ジョージ・ワシントン大統領が、合衆国にとっては悲観的な状況が続いていた北西インディアン戦争における遠征隊を統率させるために、市民生活を送っていたウェインを再招集した。北西部領土において多くのインディアンがイギリスの側に付いて独立戦争を戦っていた。1783年のパリ条約で戦争が終わると、イギリスは北西部領土を合衆国に割譲した。しかし、インディアンに対しては何の相談もなかったので、この地域の併合に対して反抗した。マイアミ族、ショーニー族、デラウェア族およびワイアンドット族の連合軍が、ショーニー族のブルージャケットやマイアミ族のリトルタートルの指導によって、1790年と1791年にアメリカ軍を打ち破っていた。インディアンは、パリ条約に規定されていたこの地域の砦の放棄を拒んでいたイギリス軍に後押しされ、物資的な支援も受けていた。

シモン・ド・モンフォール(1164~1218)

アルビジョワ十字軍 シモンはフランスの領地に滞在していたが、再び十字架を掲げキリスト教徒の異端征伐に向かうことになった。1206年頃、シモンの友でヴォー・ド・セルネー修道院長ギィが、ドミニコ・デ・グスマンやピエール・ド・カステルノーといった聖職者たちともに、オクシタニアの異端カタリ派を改宗させるべく説教するよう要請された。彼らの伝道活動はほんのわずかしか成果を得られず、教皇特使カステルノーはトゥールーズ伯レーモン6世を破門した。ところがカステルノーは1208年1月14日に暗殺された。インノケンティウス3世はカタリ派征伐の遠征隊派遣を決め、聖地で戦った者と同じく、免罪符と特別なはからいをカタリ派征伐の戦士に与えることにした。ポブレー修道院の修道士アルノー・アモーリーと院長ギィは、フランス王国内を歩いて回り、男爵たちに『十字軍』に参加するよう説いた。

アブドゥルムウミン(1094~1163)

王朝の成立 トゥーマルトの指名によってアブドゥルムウミンがムワッヒド派の指導者となるが、おそらくはトゥーマルトが持っていた宗教的な権威とカリスマ性のため、トゥーマルトの死とアブドゥルムウミンの地位の継承は3年の間伏せられていた。ムラービト軍の主力を構成していたマスムーダ族が権力を巡って各支族同士で争う中、アブドゥルムウミンはそれぞれの支族から支持を獲得していった。1133年にアブドゥルムウミンは「アミール・アル・ムウミニーン」の称号を使用し、アッバース朝のカリフからの独立を宣言する。

糟屋武則(1562~不明)

大名への立身 1583年、賤ヶ岳の戦いでは、武則は「金の角取紙のエヅルの指物」の出立ちで、佐久間盛政配下の宿屋七左衛門と槍を合わせた。宿屋七左衛門は烏打坂の南に踏みとどまって桜井佐吉家一と戦っていたが、佐吉が宿屋に斬りつけられたところへ武則が突進して佐吉を助け、七左衛門が槍を突き出したところで武則が一槍で突き殺したという。こうして、秀吉の面前の西の切り通し付近で奮戦して武功を立てた武則は、福島正則や加藤清正らと共に一番槍の賞詞が6月5日に渡され、8月1日、播磨国加古郡に2,000石、河内国河内郡に1,000石など合わせて3,000石余を拝領した。

グレース・エリオット(1754~1823)

フランス フランスは、恐怖政治のまっただ中にあり、狂ったようにかつての王家に関するものを糾弾し続けた。革命の支援者であったにもかかわらず、ルイ・フィリップは処刑された。グレースは、ルイ・フィリップとの過去の関係を理由に囚われの身となった。彼女はフランスのみならず、イギリスでも王党派として名前が知れ渡っていた。グレースは、ルイ15世の晩年の寵姫デュ・バリー夫人と同じ雑居房に入れられた。

森忠政(1570~1634)

大坂の陣 1614年の大坂冬の陣では池田忠継ら西国の大名と共に行軍し参加。中之島を経由して今橋付近に陣取った。しかしながら11月27日に小姓数人を引き連れて大坂城に接近するも感づかれ発砲され、軍監の城昌茂が制止して陣に戻されるという事を起こす。これにより城は軍法に背いたとして森軍に静止命令を出した。この命令は11月29日の博労淵の戦いの最中にあっても解かれなかった為に森軍は天満川を渡らず傍観に徹した。翌30日、幕府の上使である水野勝成が前日の戦いでの森軍の有様を叱責しに現れたが忠政は「軍監の命に従ったまで」と説明した。結局のところ、水野は眼前で戦いが行われているのにも関わらず静止を解かなかった城の側を罪に問い、城は軍監を罷免され代わりに水野が軍監として忠政と後の戦いに同行している。翌1615年の大坂夏の陣にも参戦。森軍は208の首級を挙げ、特に森可春は大坂方の布施屋飛騨守を討つなど活躍した。

ルイ・ピエール・ド・モンブリュン(1770~1812)

再びスペインへ 1811年5月5日に勃発したフエンテ・デ・オニョロの戦いでは、2,400騎の竜騎兵の先頭に立ち、草原を疾駆、英葡連合軍右翼を側面から猛襲した。これにより右翼軍の中核を占める英軍第7師団は窮地に陥り、連合軍の戦力は一時的に大きく弱体化した。しかし、ベシェール元帥が増援部隊の派遣を渋った為、最後に押し切ることが出来ず、さらに敵軍の精鋭増援部隊が続々と到着した為、次第に戦線は膠着した。その為、モンブリュンは英軍第7師団の退却をみすみす許すこととなった。

岡江久美子(1956~2020)

新型コロナウイルス感染症により死去~メディア・芸能界の反応~ 4月23日午後3時23分ごろ、岡江の死去の一報はテレビのテロップで速報された。午後の情報番組の放送中であったため、各局のキャスター、MCたちは皆呆然とするほどの衝撃を受けた様子が映される。フジテレビ『直撃LIVE グッディ!』は、感染対策でスタジオにはMCはこの日高橋克実だけだったが、速報が報じられ、リモート出演の安藤優子からふられると、岡江の友人である高橋は青ざめていて、放心状態で目に涙を浮かべていた。数秒間絶句したのち、絞り出すように「びっくりしました」とだけ言うが精いっぱいだった。

成瀬正一(1538~1620)

徳川家帰参後~甲州時代~ また、大久保長安は徐々に頭角を現し、甲州時代の初期には成瀬・日下部の両職の体制であったが、後期には成瀬、日下部、大久保の三奉行の体制になっていたという。因みに、井伊直政の赤備えには正一と共に諸角虎定の首を取り返した石黒将監が加わっている。1585年に新設された根来組の組頭に長男・正成が任じられている。また、根来鉄砲組師範・山口重政は、三男・正武の最初の舅である。

四条隆資(1292~1352)

男山の戦い 1351年、足利尊氏とその弟・直義との確執が深刻となると、尊氏は一時南朝側に降って直義討伐のために鎌倉に出陣した。この隙を突いて翌1352年に南朝軍は京都を占領した。後は男山の仮御所にいる後村上天皇を京都に迎えるだけとなったが、その年の3月には尊氏の嫡男・義詮の反撃によって南朝軍は京都を撤退、更に5月には後村上天皇がいる男山の仮御所が包囲された。5月10日、天皇は北畠顕能・名和長重に護られて男山を脱出する途中に足利軍と遭遇、殿を務めた隆資は奮戦空しく討ち死にした。

フランツ・レハール(1870~1948)

メリー・ウィドウ~第1幕~ 舞台はパリにあるポンデヴェドロ公使館。広間ではポンデヴェドロ国王の誕生祝賀パーティーが開かれている。出席者の話題の的は、ハンナ・グラヴァリ未亡人。ハンナはポンデヴェドロの老富豪と結婚し、そのわずか8日後に夫が急逝したために、巨万の富を得たのである。パーティーに出席したハンナは、多くの伊達男から口説かれる。しかしハンナがパリジャンと結婚すれば、大量の資産がポンデヴェドロから失われることになる。それを阻止すべく、ポンデヴェドロ公使のミルコ・ツェータ男爵は、同書記官のダニロ・ダニロヴィチ伯爵とハンナを引き合わせようとする。ダニロとハンナはかつて恋仲であったが、身分が彼らの仲を引き裂いたのである。しかしダニロは、ハンナの資産目当てで結婚するとみられるのを嫌い、わざとハンナから距離を置いている。一方で、カミーユ・ド・ロジヨンは、ツェータ男爵の美貌の夫人、ヴァランシエンヌを熱心に口説くが、その気がないヴァランシエンヌはハンナをカミーユにあてがおうと考える。ハンナは踊りの相手にダニロを指名するが、ダニロはその権利を1万フランで売ると宣言する。とてもそんな大金は出せないと、男たちは意気消沈して引き揚げる。その中で、2人は喧嘩しながらも踊り始める。

ユーハン・ヘルミク・ルーマン(1694~1758)

スウェーデン音楽の父~ドロットニングホルムの音楽~ ルーマンの成功続きの経歴も、1740年代に入ると翳りを見せ始める。最大のパトロンであったスウェーデン女王ウルリカ・エレオノーラが1741年の末に死去したからである。また1742年に入るとルーマンの活動は健康問題で妨げられるようになった。1744年には彼の代表作の一つ 《ドロットニングホルムの音楽》 と呼ばれる曲集を作曲した。これは24の楽章からなる組曲で、のちのスウェーデン国王アドルフ・フレドリクとプロイセン王女ロヴィーサ・ウルリカが1744年8月に婚礼を挙げた時の祝宴の音楽である。

エイダ・ラブレス(1815~1852)

位置づけについての論争 伝記作者たちはエイダは数学が不得意だったと指摘しており、エイダ・ラブレスがバベッジの機関のプログラムについて深く理解していたかについては議論がある。単に貴族が社会とのつながりを持つためにバベッジを利用しただけではないかという者もいる。ただし、最近ではエイダとバベッジの間で交わされた書簡によって、いくつかの事実も分かってきている。

カール・ヴィルヘルム・シェーレ(1742~1786)

酸素と窒素の発見を逃す 1771年 - 1772年に軟マンガン鉱を濃硫酸に溶かして加熱し、発生した気体を動物の膀胱で作った袋に蓄えた。ろうそくの火にこの気体を吹き付けると明るく輝くことを発見し、濃硫酸の名前から「ビトリオル空気」と呼んだ。これが今で言う酸素である。酸化水銀や硝石の加熱によっても同じ気体を回収している。1773年の時点で実験をすべて完了した。シェーレはこれらの実験結果を「熱は『火の空気』とフロギストンからなり、酸化水銀の実験は熱によって『火の空気』が追い出される現象である」と解釈した。

ヘンリク・シェンキェヴィチ(1846~1916)

クォ・ヴァディス 本作は西暦1世紀、暴君と言われるネロの治世下のローマ帝国を舞台として、若いキリスト教徒の娘リギアと、ローマの軍人マルクス・ウィニキウスの間の恋愛を生き生きと描写している他、当時のローマ帝国の上流階級に見られた堕落し享楽にふけった生活や社会、キリスト教徒への残虐な迫害の様子も描かれている。シェンキェヴィチはこの作品を執筆するのに先だってローマ帝国の歴史を綿密に研究した。本作に歴史上の人物が登場してキリスト教以前の社会情勢を詳細に伝えるのはその顕われである。日本語を含む50以上の言語に翻訳されている。この小説はシェンキェヴィチのノーベル文学賞受賞に貢献したとされる。

ジャニス・ジョプリン(1943~1970)

ウッドストック ビッグ・ブラザーから離れた彼女は、新しいバンドであるコズミック・ブルース・バンドを結成。ブラス・セクションを加えた、よりソウル・ミュージックを意識した編成だ。1969年に『コズミック・ブルースを歌う』をリリースして、ウッドストック・フェスティバルにも出演したが、このバンドもすぐに解散した。その後、ジョプリンは新しいバック・バンドであるフル・ティルト・ブギー・バンドを結成する。こちらは、2人のキーボード奏者を含んだ編成。このバンドにおける演奏をもとに、ジョプリンの死後制作された1971年1月発表のアルバム『パール』は、彼女の短いキャリアにおける最高の売り上げを記録した。このアルバムからは、クリス・クリストファーソンのカバー曲「ミー・アンド・ボビー・マギー」がビルボードのチャート1位を記録。ビートニク詩人マイケル・マクルーアとジョプリンにより作曲された「ベンツが欲しい」もヒットした。

プレーク・ピブーンソンクラーム(1897~1964)

第二次世界大戦 しかし1941年12月、太平洋戦争が始まると日本軍がタイに上陸、若干の交戦の後講和に応じ、日本軍の南方作戦に協力することとなった。1943年7月の日本の東条首相とのバンコク会談では、日本のビルマ侵攻に協力するかわりに、ビルマの一部とマレー半島の一部をタイ領に編入するという共同声明を発表した。ただ、同年11月の東京で開催された大東亜会議にはピブーン自身は出席せず、代理を参加させた。日本が敗北するとピブーンは対日協力者として捕らえられたが戦犯には問われなかった。

曇徴(生没年不詳)

高句麗の僧 近年まで、製紙の記述がここにおいて初出するという理由から、一般に曇徴は日本における製紙の創業者とみなされてきた。しかし、仮に曇徴によって初めてもたらされたのなら、碾磑の場合と同様にそう記されていたはずであるとして、寿岳文章はその著書『日本の紙』の中で、諸文献を精査した上で、この記述は僧侶でありながら、儒学にも通じ、工芸面にも暗くなかった曇徴への讃辞であり、彼が絵具や紙墨を初めて作ったという意味に解するよりも、その製作にかけてはなかなかの達人であった、と取るのが妥当であるとしている。戸籍用紙などの多くの紙を必要とする国家機構の整備が、この時代にはすでに始まっていたことも、曇徴以前に製紙技術が伝わっていた可能性を支持している。

頼三樹三郎(1825~1859)

安政の大獄 1853年にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航して一気に政情不安や尊皇攘夷運動が高まりの兆しを見せ始め、1858年には将軍後継者争いが勃発すると、尊王攘夷推進と徳川慶喜擁立を求めて朝廷に働きかけたため、大老の井伊直弼から梅田雲浜・梁川星巌・池内大学と並ぶ危険人物の一人と見なされた。梁川星巌がコレラで亡くなる際、三樹三郎がその最期を看取ったという。同年、幕府による安政の大獄で捕らえられて、江戸の阿部家福山藩邸において幽閉される。父・山陽の愛弟子である。福山藩主の石川和助は、三樹三郎を厚遇すると同時に必死で助命嘆願を行ったが、幕府の厳しい姿勢は変わらず、間もなく江戸伝馬町牢屋敷で橋本左内や飯泉喜内らとともに斬首された。享年35。墓は京都円山公園の裏にある長楽寺と松蔭神社にある。

シール・アリー・ハーン(1825~1879)

第二次アフガン戦争 1868年から1873年にかけ、ブハラ、ヒヴァ、コーカンドの三ハーン国がロシアに征服されると、シール・アリーはイギリスとの友好関係を強化しようとする。しかし、イギリスからは満足な回答を得られなかった。1878年に露土戦争が勃発すると、カーブルで反英宣伝を行った。英領インド当局はネヴィル・ボウルズ・チェンバレンを団長とする使節団を派遣しようとしたが、シール・アリーは入国を拒否。これにより第二次アフガン戦争が勃発した。

ジェームズ・フレイザー(1854~1941)

金枝篇~金枝~ イタリアのネミの村には、ネミの湖と呼ばれる聖なる湖と、切り立った崖の真下にあるアリキアの木立と呼ばれる聖なる木立があり、木立には聖なる樹が生えていた。この樹の枝は誰も折ってはならないとされていたが、例外的に逃亡奴隷だけは折る事が許されていた。ディアナ・ネモレンシス神をたたえたこれらの聖所には、「森の王」と呼ばれる祭司がいた。逃亡奴隷だけがこの職につく事ができるが、「森の王」になるには二つの条件を満たさねばならなかった。第一の条件は金枝を持ってくる事であり、第二の条件は現在の「森の王」を殺す事である。

ホセ・フィゲーレス・フェレール(1906~1990)

国民解放党 1951年、内戦終結後の国政改革の一環としてホセ・フィゲーレスらによって結成された。以後、社会民主主義を掲げるコスタリカで最有力の政党として推移してきた。1987年には、国民解放党から選出されたオスカル・アリアス大統領がノーベル平和賞を受賞した。

ユリア(前39~14)

姦通罪 再び寡婦となったユリアは、紀元前11年にリウィアの連れ子であったティベリウスと結婚した。この結婚に際してティベリウスは愛する妻ウィプサニアと離婚しており、この結婚をあまり歓迎してはいなかった。またユリアはアグリッパの妻であった時からティベリウスに対し色目を使っていたため、ティベリウスはユリアを嫌っていたといわれる。それでも2人の結婚生活も当初それほど悪いものではなかった。しかし、ユリアが出産したティベリウスの息子が赤子の時にアクイレイアで死亡すると、2人の関係は急速に悪化していった。

アルバロ・デ・バサン(1526~1588)

ポンタ・デルガダの海戦 1544年、フランス海軍のガリシア攻撃に対し勝利した際に従軍していた。1571年のレパントの海戦など数々の軍功をたてる。1583年にテルセイラ島沖で起きたポンタ・デルガダの海戦では、ポルトガル王位請求者アントニオとフランス、イングランド、ネーデルラントの冒険者・私掠船連合を撃破した。イングランドがスペイン帝国に重大な脅威を与えることを認識していたサンタ・クルスは、戦争の熱心な主張者になった。1583年8月に彼からフェリペ2世へ宛ててアングラ・ド・エロイズモで書かれた手紙には、アルマダについての初めての提案が含まれていた。

バオ・ダイ(1913~1997)

ベトナム帝国 作戦終了後、日本側は大南国政府に「フランスとの条約破棄が可能であること」を通告した。これを受けて、フランスによる支配で統治権を抑制されていたバオダイ帝は、1884年の甲申条約を破棄し、フランスからの独立と日本との協働を宣言し国号をベトナム帝国と改めた。日本は同様の通告を、カンボジアとラオスにも行い、それぞれが独立宣言を発している。4月17日にはバオダイ帝は、著名な文人であったチャン・チョン・キムを首相に任命し、内閣を組織させた。ゴ・ディン・ジェムは首班に推挙されたが、これを固辞した。

カール・リープクネヒト(1871~1919)

スパルタクス団蜂起~革命委員会~ 共産党の内部でさえ方針に対する意見の一致は見られなかった。ローザ・ルクセンベルクと違いカール・リープクネヒトはKPDがエーベルト政府打倒を計画する労働者階級と疎遠になることをおそれ、闘争を支持した。同時にKPD指導者数人がベルリンに駐屯する連隊、特に人民海兵団を自分達の側に引き寄せようとした。共産党は自らの武力を高めることで市街戦を防げると考えていた。しかし殆どの兵士が既に帰宅したり『人民の代理委員会』に忠誠を誓ったために失敗に終わった。

ハーバート・ヘンリー・アスキス(1852~1928)

アイルランド自治法案 1912年4月、アスキス内閣は「アイルランド自治法案」を議会に提出した。既に前世紀末に自由党グラッドストン内閣が二度にわたり否決されていた法案であったが、翌1月、下院は通過したものの、これも上院で否決された。アスキスは、議会法によってこの後2会期連続して下院を通過すれば貴族院の反対があっても成立する見通しだったので静観したが、その間、国王の調停で与野党間に「アルスターを除いたアイルランドへの自治権付与」という妥協案が成立した。しかし、このアイルランド自治法案は、1914年6月、サラエボ事件の勃発によって第一次世界大戦に突入したため採決は延期・凍結されることとなった。

イタロ・カルヴィーノ(1923~1985)

くもの巣の小径 サブタイトルは「パルチザン あるいは落伍者たちをめぐる寓話」。第二次世界大戦のさなか、ドイツ軍によって中・北イタリアが占領されたり、ムッソリーニによって「イタリア社会共和国」が樹立されたりした時代にパルチザンとして山にこもった男たちの話。といっても、登場するのは使命感に燃えた勇敢なパルチザン集団ではなく、落ちこぼればかりが集められた小部隊。何のために戦うのかもわからないまま、ただ怒りによって戦っている男たちである。物語は、そんなどうしようもない男たちの間に紛れ込んだ少年ピンの目を通して語られていく。売春婦の姉の元で育ち、耳と口がやたらに達者になってしまったピンには子どもの友達というものがなく、一人前の口をきいて大人をからかい、笑わせ、時には怒らせながら、懸命に大人たちの仲間になろうとするが、結局ピンには大人というものがよくわからないのである。

ヘンリー・ジェイムズ(1843~1916)

ねじの回転 ある屋敷に宿泊した人々が、百物語のように一人ずつ怪談を語る。題名の「ねじの回転」はその中の「一ひねり利かせた話が聞きたい」という台詞からとられておる。「幽霊話に子どもが登場することで話のねじにひとひねり加える効果があるというなら、子どもが二人になれば?」「二ひねりになるじゃないか!」。そのうちの一人が、かつて自分の家庭教師だった女性からの手紙に書かれた体験談を読み始める。彼女はある人から彼の所有する屋敷での住み込み家庭教師を頼まれる。所有者の甥と姪、それに家政婦と召使しかいないはずの屋敷で、彼女は着任間もなく正体不明の男を見かける。それは世にも恐ろしい体験の始まりであった。10歳のマイルズは何か事件を起こして退学になっている。妹のフローラは8歳。出てくるのは前任のガヴァネスのジェスル先生と下男のクイントらしい。二人の霊から子どもたちを守らなければならない。「私」はマイルズを強く抱きしめ、1分ほどすぎると彼の心臓は止まっている。

エミリー・デュ・シャトレ(1706~1749)

ニュートンの思想への入門 24歳になったエミリーはド・リシュリュー公爵と恋愛関係を持ち、この関係は1年半程続いた。ド・リシュリュー公爵は文学と哲学に関心があり、彼女は同じ水準で会話の通じる数少ない女性の一人だった。彼女は関連文献を読み漁り、劇場にも頻繁に通い、知的な会話を楽しんだ。このとき彼女が語ったニュートンの業績に関する興味に対し、ド・リシュリュー公爵は高等数学の講義を受けてニュートンの理論をより深く理解するよう勧めた。こうして科学アカデミー会員のピエール・ルイ・モーペルテュイが彼女に幾何学を教えることになった。モーペルテュイは数学者、天文学者、物理学者であり、アカデミーにおける関心の的となっていたニュートンの理論を支持していた。

ルイ1世・ダンジュー(1339~1384)

百年戦争 だが、ルイ1世の統治は次第に不評を増した。理由は彼がラングドックに重税をかけたことにあり、各地を彷徨っていた傭兵団が略奪したり、1374年に飢饉で人々が食糧不足に苦しんでいるにも拘らず、傭兵対策としてラングドック各都市に地元の同意なしに徴税しようとしたルイ1世の方針に都市の怒りが爆発、1378年にニームで、1379年にモンペリエで住民が蜂起、徴税役人を殺害した。対するルイ1世も住民へ過酷な処罰を執行しようとして両者の対立は激化したが、事態を重く見た兄によりルイ1世は1380年にラングドック代官を更迭、弟のベリー公ジャン1世と交代させられた。

フェリペ3世(1578~1621)

慶長遣欧使節~背景と目的~ これより先、「天下人」・豊臣秀吉はキリシタンに対して厳禁の態度で臨んだが、秀吉の次に「天下人」になった徳川家康は貿易の利益に着目して禁令を緩めた。こうした中、1609年、「太陽の沈まない帝国」と謳われた「世界最大の植民地保有国」であるスペイン王国の植民地の一つ、前フィリピン総督ドン・ロドリゴとキリスト教ローマ・カトリックのイエズス会の宣教師であるスペイン、セビリア市の貴族、ルイス・ソテロが乗ったサン・フランシスコ号が上総国岩和田村に漂着するという事件が発生した。翌1610年、「天下人」徳川家康は前フィリピン総督ロドリゴの代理人であるルイス・ソテロと交渉をして、日本とスペインの通商を約束した。1611年、徳川家康はフィリピンの前総督ロドリゴと、病気になったルイス・ソテロの代わりのスペインの使節としてアロンソ・ムニョスを、および家康の代理人である京都の商人・田中勝介を、フィリピンと同じスペインの植民地の一つであるメキシコへ送り届けた。しかし、家康は外交顧問であるウィリアム・アダムスから、カトリックの布教を許せばスペインがそれをてこにして日本を植民地にしかねないという進言を受け、スペインと通商条約の締結をしなかった。同1611年4月、スペイン国王フェリペ3世は徳川家康が前フィリピン総督ロドリゴらをメキシコまで送り届けてくれたお礼として、スペイン提督セバスティアン・ビスカイノのを答礼使として、スペインの軍艦に田中勝介を乗せて日本へ送り届けた。

島津源蔵(1839~1894)

島津製作所 ここで知識を得た源蔵は1875年3月31日に教育用理化学機器の製造を始め、島津製作所を創業した。1877年の第一回内国勧業博覧会では錫製の医療用ブーシーを出展し、内務卿・大久保利通から褒状を受けている。また、同年に京都府は科学思想啓発のために国内初の有人気球を計画し、源蔵はその実行責任者となった。ガス球部分には胡麻油で溶かした樹脂ゴムを塗布した羽二重を用い、鉄くずと硫酸を四斗樽10個を使って発生させた水素ガスを内部に封入した。招魂祭のある同年12月6日に仙洞御所の広場で飛行試験が行なわれ、気球は5万人の観衆の前で36mの高さまで浮上した。これによって源蔵の知名度は大きく向上したといわれる。

本多忠政(1575~1631)

大坂の陣 大坂の陣にも参加し、冬の陣では1614年10月11日に徳川軍の先鋒を命じられた。忠政は大坂城包囲においては北側の天神橋方面に陣取っていた。冬の陣が終わって家康が帰途についた際、桑名で一泊している。冬の陣の休戦和議締結で大坂城の堀を埋め立てた際、埋め立て奉行を松平忠明達と担当している。1615年の夏の陣では京都御所の警備を勤め、その後に家康の軍勢と南下して5月7日に豊臣方の薄田兼相や毛利勝永らと戦った。薄田軍との合戦には勝利したが、毛利軍との戦いには敗れている。この合戦で忠政は292の敵首をとった。

奥平定能(1537~1599)

推移と結果~徳川氏へ再属~ 1573年に長男・貞昌に家督を譲って隠居し、自身は家康の許にあって、奥三河の地勢や人物関係を教える助言役に徹していたと言われている。1575年5月の長篠の戦いで、酒井忠次に属して鳶ヶ巣山奇襲隊として参戦し、窮地に陥っていた長篠城救援に貢献した。戦後は、信長と家康の両将から見込まれた信昌を引き立たせるべく、表舞台から完全に退いている。

ブラシダス(不明~前422)

ペロポネソス戦争~ナウパクトスの海戦~ 紀元前429年にペロポネソス同盟側はアテナイの同盟国であるザキュントスやケファレニアをアテナイから切り離し、またケルキュラとの間に楔を打ち込もうとして、アテナイとそれらの同盟国との間に横たわるアカルナニアの地を勢力下に置くために軍を送った。しかし、この作戦でペロポネソス同盟軍は陸海で敗退した。これを受けてスパルタは、敗れて戻ってきたクネモスの諮問団としてブラシダス、ティモクラテス、リュコフロンを、クネモスのいたキュレネへと送った。彼らは同盟諸国に布告を出して77隻の艦船を集め、リオンの海戦でペロポネソス艦隊を破ったアテナイの提督フォルミオンとの再戦を目論んだが、引き続いて起こった海戦におけるブラシダスの行動については不明で記録がない。

ジャン・ポトン・ド・ザントライユ(1390~1461)

百年戦争~ニシンの戦い~ 1428年から始まったオルレアン包囲戦では、ジャン・ド・デュノワ、ラ・イルと共にオルレアンへ入城してイングランド軍と戦った。1429年2月12日にイングランド補給部隊を叩こうとして失敗したが、4月末から援軍に加わったジャンヌ・ダルクと共にオルレアンを解放した。コンピエーニュではイングランド軍の包囲を解き、アランソン公ジャン2世、ジル・ド・レらに加勢、ジャルジョーの戦い、ボージャンシーの戦い、パテーの戦いなどで活躍した。また、囚われたジャンヌの奪回を試みた際にペロンヌでブルゴーニュ公フィリップ3世の軍と戦い、敵軍を敗走させた。

パスクワル・セルベラ(1839~1909)

米西戦争~港の封鎖と閉塞~ 劣勢なセルベラ艦隊では陸上側からの催促もあって出撃が何度か検討されたが時期を得ず、ついにアメリカ海軍のサンプソン少将の艦隊はサンチャゴ・デ・キューバ港を封鎖した。5月31日、6月6日、12日、16日には港口要塞へ艦砲射撃があり、更に6月3日払暁には給炭船メリマック号による港口の閉塞作戦が実施され、当初セルベラ艦隊では撃沈の戦果を報告したが、後に湾港を塞ぐ目的の自沈と判明した。6月22日、アメリカ陸軍の第五軍団がサンチャゴの東側に上陸し陸側からの圧迫をはじめ、海軍もグァンタナモ港を占領して港の封鎖を厳しくした。キューバ総督ラモン・ブランコ・イ・エレーナス中将やサンチャーゴ州総督アンセニオ・リナーレス・ポンボ中将からの出港の催促が繰り返され、7月1日にはエル・カネー村とサン・ホアン丘陵で陸戦があり、アメリカ陸軍は両地を確保したが、犠牲が大きく前進を止めた。この戦いには艦隊からも1000人の陸戦隊をエル・カネーに派遣して応戦しており、指揮官のブスタメンテ参謀長が重傷を負っている。リナーレス中将もこの戦いで両足を撃たれ後送中に戦死した。

スチェパン・トヴルトコ1世(1338~1391)

ボスニア王国 1353年にスチェパン2世が没した後、彼の甥であるスチェパン・トヴルトコ1世が地位を継承するが、即位直後に多くの領土を喪失する。1360年代にトヴルトコ1世は支配権を回復し、1370年代にはフム全域とセルビアの支配下に置かれていたサンジャク地方の大部分を併合した。1371年にセルビアのネマニッチ朝が断絶した後、セルビア王ステファン・ドラグティンのひ孫にあたるトヴルトコ1世はセルビア王位を請求した。1377年にトヴルトコ1世は「セルビアとボスニアの王」として戴冠し、トヴルトコ1世以降のボスニアの君主は王を称する。

臨済義玄(不明~867)

黄檗三打 首座が「どうだった」とたずねたので、臨済が今の出来事をありのまま報告すると、首座は「もう一度、同じ質問をして来い」という。このようにして、三度、老師に参禅して三度とも痛棒を喰らった臨済は、もはや自分に禅を探究する資格はなきものと絶望し黄檗山を下ることを決意して別れの挨拶のため黄檗のもとを訪れると、老師は「他所へ行ってはならぬ。ぜひとも高安の灘に住んで居られる大愚和尚を訪ねるがよかろう」と指示された。