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久米平内(1616~1683)

人物・来歴 三河国挙母藩に仕え、そのうちに江戸・赤坂で道場を開き、武術を教えた。赤坂時代、千人斬りの願を起こし、夜ごと辻斬に出たとされる。その後、出家した鈴木正三に入門し、座禅を修めた。浅草の浅草寺の境内、仁王門外に自らの「仁王坐像」を設置し、罪業消滅を願い、通行人に踏みつけたとされる。浅草寺の宝蔵門脇に「久米平内堂」が現存するが、ここに安置されたとされる平内像は「踏み付け」が「文付け」に解されて、縁結び信仰の対象となった。

フレデリク・バルトルディ(1834~1904)

  自由の女神像

遠藤慶隆(1550~1632)

豊臣氏家臣 1584年の小牧・長久手の戦いでは、森長可の要請を受けて秀吉方に参加し、600騎を率いて長可と合流し三河国中入りの部隊の第二陣へと組み込まれている。しかし、中入りの部隊は徳川家康との戦いに惨敗し、第二陣の大将の森長可討ち死の報せが入ると慶隆は撤退を決意し、辛うじて逃げ延びたものの遠藤弥九郎・餌取伝次郎・日置主計・猪俣五平治・和田仁兵衛らの遠藤家に仕えた多くの家臣が身代わりとなって命を失う結果となった。

ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク(1738~1809)

選挙活動~カンバーランド選挙区とウェストモーランド選挙区~ カーライルのカウンティ選挙区にあたるカンバーランド選挙区においてはラウザー家が最大の地主であり、カーライル伯爵やポートランド公爵、エグレモント伯爵家がそれに次ぐ形となっているが、第3代ポートランド公爵が爵位を継承した時点では5代カーライル伯爵が未成年であり、第2代エグレモント伯爵チャールズ・ウィンダムは不在地主だった上地租を上げて人気を失っていた。また近隣のウェストモーランド選挙区はカウンティ選挙区のうち有権者数の最も少ない選挙区であり、サフォーク伯爵家、ウィルソン家やウェストモーランド州長官を世襲するサネット伯爵家も領地を有するものの、最大の領地を有するラウザー家の対抗馬になれるのはサネット伯爵家だけであり、1759年の補欠選挙ではサネット伯爵家の候補がラウザー家の候補に敗れ、1761年イギリス総選挙ではウィルソン家の候補がラウザー家の候補に敗れている。

神代勝利(1511~1565)

敗戦と復帰 同年11月、龍造寺家は勝利および江上武種の意を挫くべく、その当主たる少弐氏殲滅を企図する。勝利は小田政光と戦い、これを討ち取った。しかし小田勢の猛攻により損耗甚だしく、止む無く三瀬城へ退いた。その間に龍造寺勢は少弐家の勢福寺城を攻囲、12月3日に一旦和睦に至るも、翌年に再び攻められ冬尚は自害した。

ウィリアム・ロイド・ガリソン(1805~1879)

改革者としての経歴~組織と議論~ ガリソンは自分自身を最もはっきりとした、また最も急進的な奴隷制度の反対者と呼んだ。ガリソンの解放運動のやり方は非暴力と消極的抵抗を強調し、追随者を惹き付けた。当時の奴隷制度廃止論者が段階的解放を支持していたのに対し、ガリソンは「奴隷全員の即時の完全な解放」を求めた。

二村定一(1900~1948)

アラビヤの唄 砂漠に陽が落ちて夜となるころ恋人よなつかしい歌を歌おうよあのさびしい調べに今日も涙流そう恋人よアラビヤの歌を歌おうよあのさびしい調べに今日も涙流そう恋人よアラビヤの歌を歌おうよ歌を歌おうよ

ベッツィー・ロス(1752~1836)

戦争 2人が結婚していた2年間にアメリカ独立戦争が勃発。ジョン・ロスは地元の民兵の一員として軍需品の護衛に当たるが、一説によると火薬の爆発により死亡。しかしこの説には疑義が指摘されている。当時24歳のベッツィーは軍服の修繕やテント、毛布の作成に携わり、1779年には大陸軍側でマスケット銃の砲弾に紙製の弾薬筒を詰める作業を行うなど、銃後の守りに勤しんだ。

内藤信成(1545~1612)

三方ヶ原の戦い 1572年、武田信玄は信濃国から徳川氏領の遠江へと侵攻する。家康は、内藤信成・本多忠勝を偵察に先行させ、自身も3,000の軍勢を率いて出陣した。先行していた本多・内藤率いる偵察隊は武田の先発隊と遭遇し、一言坂で戦いが始まる。徳川軍の望まぬ形で開戦し、また兵の多寡もあり、家康は撤退を決めた。信成は本多忠勝らとともに殿を務めることで、家康本隊は無事浜松城へ帰還することができた。

アンリ・ネスレ(1814~1890)

ハインリヒ・ネストレからアンリ・ネスレへの改名 1836年、ネストレは薬局店主のJ.E.シュタインの本で、4年間の見習い期間を終えた。1839年末には化学実験、薬剤師、医薬品販売を正式に認可された。この間にスイスのヴェヴェイに移住し、新しい環境に早くなじむために、名前をフランス語式の「アンリ・ネスレ」に変更した。

土門拳(1909~1990)

  筑豊のこどもたち

ウィラード・スコット(1934~2021)

ロナルド・マクドナルド 1960年代初め、ワシントンD.C.マクドナルドのフランチャイズ権をとって営業をしていたオスカー・ゴールドスティンという人物が、ウィラード・スコットのスポンサーになった。ウィラードは世界初のマクドナルドのCMに出演し、そこで初代ロナルドを演じた。ただ、スポンサーの要求だともっと細い男を希望していたという。

宇垣纏(1890~1945)

第五航空艦隊長官 1944年11月15日の第1戦隊解隊と同時に軍令部出仕となっていた宇垣は、1945年2月10日、第五航空艦隊司令長官に親補され、同年14日に鹿屋基地に着任した。第五航空艦隊・鹿屋特攻隊昭和隊所属の杉山幸照少尉は戦後「中将は自らが戦局打開の鍵を握っていると錯覚していた」と語っている。

ジョージ・ワシントン・ゲイル・フェリス・ジュニア(1859~1896)

観覧車の発明者として 彼は現代の観覧車の発明者として、とても有名である。世界初の機械式の観覧車は、1893年のシカゴ万国博覧会で建設された。1889年に行われたパリ万国博覧会のために建設されたエッフェル塔に対抗する試みだった。観覧車は英語ではFerris Wheelというが、Ferrisは彼の名前に由来している。

安田伊左衛門(1872~1958)

日本競馬会 誕生の背景には軍馬改良の為の馬匹の質の改善を目指した軍部の意向があり、日本競馬会は軍部による政策的な要望に応えつつ競馬開催をとりおこなった。また安田伊左衛門理事長のもとクラシック5大競走を確立するなど、レース体系の整備にも取り組んだ。

サン・ヴィクトルのフーゴー(1096~1141)

業績 彼は神秘主義と創世記について強い関心があった。この神秘主義は例外的な啓示を与えるというよりも、自然の事物の比喩的な解釈を求めること、精神集中によって魂の平安を導くという実践的な目的をもつものであった。フーゴーは6日間の天地創造を信じ、これを神秘、サクラメントと見なした。また彼は秘跡の数が30であるとした。

公文公(1914~1995)

公文式 「数学のあれもこれもできるか。まずは、計算力を突破口にするのだ」というのが公文公の長年の主張であった。なお、公文式学習法が誕生した経緯や彼の考えは、『やってみよう-公文公自伝 子供の知的可能性を追求して』という著書に詳しく書かれている。数学教育について、水道方式の遠山啓とは長年のライバル関係にあった。

ロイ・ダイクマン・チェイピン(1880~1936)

実業家 チェイピンは事業家と技術者をまとめ、1908年にハドソン・モーター・カー・カンパニーを創設した。会社名はデトロイトの商売人でハドソン社設立時に資金提供しハドソン社大株主となったジョゼフ・ローシアン・ハドソンから名づけた。

松平家忠(1955~1600)

家忠日記 家忠は自身の日記である『家忠日記』の著者としても知られる。これは1575年から1594年10月までの17年間、その日に何が起こったかを簡潔に書き綴った日記である。原本は家忠の嫡孫で江戸時代初期の深溝松平家の当主・松平忠房が修補したものが保管され、現存する。

ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ(1896~1957)

山猫 シチリアの名門貴族という出自のランペドゥーサにとっての処女作なら、刊行の働きかけがごとごとく挫折し、死後の1958年にようやく刊行された。1959年にストレーガ賞を受賞。

河鍋暁翠(1868~1935)

百福図

ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハ(1656~1723)

オーストリア国立図書館

落合芳幾(1833~1904)

鰐魚

ヴィルヘルム・フォン・レープ(1876~1956)

第二次世界大戦 第二次世界大戦冒頭のポーランド侵攻作戦の最中、レープのC軍集団は西部戦線の連合国軍に対して数的に劣勢だったが、連合国は攻勢に出なかった。翌1940年5月に始まる西方電撃戦において、レープのC軍集団は開戦後初めて攻勢に出てマジノ線を突破した。フランス降伏後の7月19日、レープは多くの将官と共に元帥に列せられた。

木山捷平(1904~1968)

大陸の細道 日本の冬の服装でいきなり満洲にとび込んで来た正介を、満洲の空気は、薄みにつけ込んで、先ず彼の胸のあたりから牙をたてて来たのだ。理由はともかく、最初猛烈な咳が五分間もつづいて、今にも息が切れそうになった。そして焼火箸でも突っこむように胸が疼いて来た時には、正介は自分の命も今夜かぎりかと思った。

コリン・キャンベル(1792~1863)

上級将校として キャンベルと彼の連隊はイングランドへ帰国し、1828年にアイルランドに駐留した。1830年代後半、彼らはアイルランド人の不服従運動、いわゆる十分の一戦争に対処するための警察任務に投入された。1832年10月26日、キャンベルは特定部隊が付随しない中佐の地位を買い取り、1835年5月8日には第9歩兵連隊の指揮官となったが、すぐ6月19日に転属され、第98歩兵連隊の指揮官となった。1842年7月、キャンベルはこの連隊を率いてアヘン戦争中の鎮江の戦いに参加した。1842年12月23日、キャンベルは大佐に昇進し、同年末に香港の司令官に就任した。また同じく1842年12月23日にはヴィクトリア女王の副官に任命され、24日にバス騎士団コンパニオン章を受章した。