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ウィリアム・アームストロング(1810~1900)

アームストロング砲の開発
クリミア戦争が勃発すると、アームストロングはイギリス陸軍から機雷の設計を受注した。彼の設計は結果的には実用化されなかったものの、アームストロングが軍需産業に関わるきっかけとなった。同じクリミア戦争中の1854年に、アームストロングはイギリス陸軍向けの新型野砲の設計を始めた。当時のイギリス陸軍は、野砲の重量過大に困っており、それを知ったアームストロングは軽量で機動性の高い野砲の開発を思い立ったのである。同僚のジェームズ・レンデルとともに設計し、1855年に試作した5ポンド野砲は政府の検討会で好評を博した。そして、1858年には口径拡大した18ポンド野砲が陸軍に制式採用され、翌年にはイギリス海軍にも同じ構造の艦戴砲が制式採用された。画期的な後装式のライフル砲、いわゆるアームストロング砲である。アームストロングはこの大砲で儲けることを好まず、特許を政府へと譲渡した。その功績で彼は陸軍省のライフル砲造兵官に就任することになり、1859年には下級勲爵士の称号とバス勲章コンパニオンを授けられ、ヴィクトリア女王への謁見の名誉を与えられた。

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