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奥平家昌(1577~1614)

宇都宮藩主
1601年3月10日、関ヶ原の戦いの勝利後に命ぜられた京都治安活動を高く評価された父・信昌が美濃加納10万石を与えられた。そのため、それまでの上野宮崎領に家昌を残し、父母は弟の忠政を伴って配地へ赴任した。1602年2月19日、家昌も父に遅れて北関東の要地・下野宇都宮10万石を与えられると、1602年3月18日、入国を果たした。これは、家康が北関東の要衝である宇都宮藩に誰を配するべきかと天海僧正に諮問した際、天海は誰彼と論ずる必要はなく奥平大膳に与えるべきと答え、家康も我が意を得たりとして家昌に10万石を与えたものである。宇都宮への加増転封にともない、文武一芸に秀でた浪人を多く召抱えて新たな家臣団を編成した。ものの、三河時代からの家臣団制度が機能的でなくなったのを痛感した家昌は、重臣制度改正に着手した。この奥平家では、長篠の戦いで父を援けた重臣12家を「七族五老」と呼んでいた。元々は跡継ぎとなれずに支族として宗家を支え、軍務を担当していた7家に、重臣に抜擢して政務を担当させた小領主たち5家を加えた12家の総称である。長篠の戦いの勝利後には、陪臣でありながら家康から直々に労われた上に、彼らの子々孫々に至るまで厚遇を約束された、御墨付きを拝領していたという重臣たちであった。戦乱に明け暮れた時勢であればまだしも、平穏な治世に移り変わっていくと、七族五老は軍務の負担が減る一方で政務の負担が激増していた。そこで、族臣7家と老臣5家を合一して「大身衆」と呼称変更した上で、その12家の中から5、6家が毎月交代で国政を担当し、有事には12家が協力して対応するように改めたのである。その12家は平等ではなく、指導的立場にある2家が2000石以上を食み、序列によって俸禄が定められた。なお、戦時の先手を担当する山崎家と生田家だけには、大手門内に邸宅を構えさせている。

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