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ヴァスィリー・エロシェンコ(1890~1952)

東京盲学校での学習と生活
エロシェンコは、1914年5月11日に東京盲学校を訪ね、按摩術とマッサージ研究のための入学を許可される。東京盲学校の生徒は、年齢がばらばらではあったが、エロシェンコは他よりも年輩で、堂々たる偉丈夫だった。日本語が上手で、生徒と按摩の練習をしたり、話しあったり、相撲で遊ぶこともあった。盲学校の生徒を対象に、エスペラントの講習会を何回も開いた。熱心に学んだ人たちに、鳥居篤治郎、平方龍男、新津吉久、斎藤武弥・百合夫妻、三谷復二郎、熊谷鉄太郎、今関秀雄らがいる。また、これらの人々に、バハイ教の教義をも教えていた。のちに外国の盲人組織とも連携して日本盲人会連合会長として活躍する鳥居篤治郎の仕事も、このエスペラント学習に負うところが大きい。通常授業の前に小川源助に按摩術を習い、他の生徒とともに練習した。校内で他の生徒と同格での講演・ギター演奏・バイオリン演奏をすることもあった。1916年5月6日に築地盲人技術学校で開かれた中央盲青年会で講演をしたのは、小森・平方龍男・エロシェンコ・高木正年・立花盲人会長・斎藤武弥であった。当時の盲人会の重鎮と並んで講演していることからも、エロシェンコの当時の立場が察せられる。しかし、1921年、思想的に危険人物と疑われ国外に追放される。



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エイブラハム・ダービー1世(1678~1717)

ダービー父子~父、ダービー1世~ 父のダービーはブルストルで鋳物製造を行っていたが、砂型鋳物製造の特許を取り、事業を安定させ、1709年に石炭をコークス化して燃料として用い、鉄鉱石を熔解する高炉を成功させた。コークスは石炭を蒸し焼きにしてつくり、香炉の中で鉄鉱石と一緒に入れて燃やすと、不純物を除去することができる。また高炉はつねに高温を保たなければならないが、そのために従来は「ふいご」が使われていたがダービーは送風シリンダーを考案し、その問題も解決した。こうして本格的な製鉄業を興し、鍋などの生活用具からニューコメンの蒸気機関用の部品まで製造し、事業を成功させた。

度会家行(1256~1351)

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フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン(1778~1852)

体操~ドイツ体操~ ドイツ体操はバゼドー、フィヒテらの思想を継いだフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンによって1811年に創始された。バゼドーは神学教師であったが、哲学者ルソーの『エミール』に触発され、身体と精神は互いに助け合わなければならないと考え、その実現の場として1771年にデッサウに汎愛学校を設立し、平均台や徒歩競争などを含む体育法「ギリシャ体育」を生徒に施した。ヤーンは教育所を設立して高跳び用のスタンドなど体操用の器械を考案し、『ドイツ体操術』の著し、運動を愛国心に結び付け、旅先や公園で指導し、その発展と普及に努めた。今日の器械体操競技種目の大部分がヤーンの創案によるものである。その後スピースに引き継がれ、号令による運動や性別・年令に応じた段階的・組織的運動などを採り入れ、ドイツ初の器具装備の体操場を造った。1860年にはドイツ体操祭が開催され、今も4年に一度開催されている。スウェーデン体操の研究家ロートシュタインにより、青少年の体育手段として有害であるなどの批判を受け、激しい論争が行われたが、医者などの支持を得て、今日に至っている。