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ステファン・ウロシュ3世デチャンスキ(1285~1331)

反乱と戴冠
コンスタンティンがウロシュ3世への服従を拒んだために王位を巡る内戦が勃発、ウロシュ3世はゼタを攻撃し、コンスタンティンを殺害する。勝利の後、1322年1月6日にウロシュ3世は大主教ニコデモより戴冠を受け、彼の子のドゥシャンも若王として戴冠された。ドゥシャンはゼタを領地として与えられたが、これを後継者に指名するというウロシュ3世の明らかなメッセージだった。一方、ウロシュ3世の従兄弟であるステファン・ヴラディスラヴ2世は、父のステファン・ドラグティン王より与えられた領地のルドニク地方で兵力を集めていた。ヴラディスラヴ2世は王を自称し、ハンガリー人の支援を受けて領内の統制を高め、デチャンスキに戦いを挑まんとした。ウロシュ2世とドラグティン兄弟の時代と同じくセルビアは2人の統治者によって分割されていたが、内戦が起きていた1322年から1323年の間、ドゥブロブニクの商人は2人の統治者の領土を自由に行き来していた。

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ダービー父子~父、ダービー1世~ 父のダービーはブルストルで鋳物製造を行っていたが、砂型鋳物製造の特許を取り、事業を安定させ、1709年に石炭をコークス化して燃料として用い、鉄鉱石を熔解する高炉を成功させた。コークスは石炭を蒸し焼きにしてつくり、香炉の中で鉄鉱石と一緒に入れて燃やすと、不純物を除去することができる。また高炉はつねに高温を保たなければならないが、そのために従来は「ふいご」が使われていたがダービーは送風シリンダーを考案し、その問題も解決した。こうして本格的な製鉄業を興し、鍋などの生活用具からニューコメンの蒸気機関用の部品まで製造し、事業を成功させた。

度会家行(1256~1351)

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フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン(1778~1852)

体操~ドイツ体操~ ドイツ体操はバゼドー、フィヒテらの思想を継いだフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンによって1811年に創始された。バゼドーは神学教師であったが、哲学者ルソーの『エミール』に触発され、身体と精神は互いに助け合わなければならないと考え、その実現の場として1771年にデッサウに汎愛学校を設立し、平均台や徒歩競争などを含む体育法「ギリシャ体育」を生徒に施した。ヤーンは教育所を設立して高跳び用のスタンドなど体操用の器械を考案し、『ドイツ体操術』の著し、運動を愛国心に結び付け、旅先や公園で指導し、その発展と普及に努めた。今日の器械体操競技種目の大部分がヤーンの創案によるものである。その後スピースに引き継がれ、号令による運動や性別・年令に応じた段階的・組織的運動などを採り入れ、ドイツ初の器具装備の体操場を造った。1860年にはドイツ体操祭が開催され、今も4年に一度開催されている。スウェーデン体操の研究家ロートシュタインにより、青少年の体育手段として有害であるなどの批判を受け、激しい論争が行われたが、医者などの支持を得て、今日に至っている。