二頭政治から観応の擾乱へ
尊氏は光明天皇を擁立し、建武式目を制定して幕府を成立させるが、この式目の制定には直義の意向が強いとされる。1338年に尊氏は征夷大将軍に、直義は左兵衛督に任じられ、政務担当者として尊氏と二頭政治を行い「両将軍」と併称された。しかし、1348年頃から足利家の執事を務める高師直と対立するようになり、幕府を直義派と反直義派に二分する観応の擾乱に発展し、さらに吉野へ逃れていた南朝も混乱に乗じて勢力を強める。直義派からの讒言を受けて尊氏が師直の執事職を解任すると、1349年に師直とその兄弟の師泰は直義を追撃し、直義が逃げ込んだ尊氏邸をも大軍で包囲した。高兄弟は直義の罷免を求め、直義が出家して政務から退く事を条件に和睦する。直義は出家し、慧源と号した。
尊氏は光明天皇を擁立し、建武式目を制定して幕府を成立させるが、この式目の制定には直義の意向が強いとされる。1338年に尊氏は征夷大将軍に、直義は左兵衛督に任じられ、政務担当者として尊氏と二頭政治を行い「両将軍」と併称された。しかし、1348年頃から足利家の執事を務める高師直と対立するようになり、幕府を直義派と反直義派に二分する観応の擾乱に発展し、さらに吉野へ逃れていた南朝も混乱に乗じて勢力を強める。直義派からの讒言を受けて尊氏が師直の執事職を解任すると、1349年に師直とその兄弟の師泰は直義を追撃し、直義が逃げ込んだ尊氏邸をも大軍で包囲した。高兄弟は直義の罷免を求め、直義が出家して政務から退く事を条件に和睦する。直義は出家し、慧源と号した。
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