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梅謙次郎(1860~1910)

学説 アリストテレス、トマス・アクィナスを経た新自然法論を支持し、フランス法学に親和的な立場であった。梅が学んだフランス法の註釈学派は、自然法論を前提としつつも自然法が革命の原理たり得ることを否定し、一般意志によって表明された制定法こそ自然法であり、法律の解釈は、立法者の意思の探求とその演繹による体系化による法典の注釈にあるとしていたが、梅は、深淵な観念論を嫌い、制定法の枠内で実質的に妥当な解決を速やかに示す実務型の学者であった。穂積陳重は、梅の自然法論について、「現行法の規定中に自然法の根拠を求めて居るのであるから、本当の意味での自然法ではない」と評している。人為の成文法に根拠を求めるとするならば、それはもはや自然法ではないからである。

三好義継(1549~1573)

織田信長との戦い 1568年に織田信長が足利義昭を擁立して上洛してくる際、松永久秀、及び彼と手を組む義継は、信長の上洛に協力した。天野忠幸は、信長の上洛は久秀と義継が招いた結果であり、後の彼らの末路を考慮すればこの判断が間違いであったことは言うまでもないと指摘する。義継は久秀と共に降り河内北半国と若江城の領有を安堵された。1569年1月に阿波から畿内に上陸した三人衆が義昭を襲撃すると、畿内の信長派と合わせて三人衆を撃退、3月に信長の仲介により義昭の妹を娶る。

水野勝成(1564~1651)

島原の乱 1638年、幕府から島原の乱鎮圧への参加を要請された勝成は嫡子・勝俊、孫の水野勝貞を伴い約6,000人を率いて幕府軍に加わった。これは幕府上使を除き九州の大名以外で唯一の参陣であり、老齢にもかかわらず勝成の戦歴を評価されてのことであった。田尻村、高浜において同村産の巨樟を船材として軍船「大転輪丸」を造る。

ユスタ・グラタ・ホノリア(417~455)

生誕と東ローマ帝国への出奔と帰還 417年もしくは418年頃、コンスタンティウス3世・ガッラ・プラキディア夫妻の長女として生まれた。421年に父が没すると母は異母兄・ホノリウスに求婚され、それを拒絶する為に決別、弟・ウァレンティニアヌスと共に東ローマ帝国コンスタンティノポリスの皇宮に出奔、甥のテオドシウス2世の元に身を寄せた。423年にホノリウスが没すると424年10月23日にテオドシウス2世はコンスタンティノポリスでホノリアの弟のウァレンティニアヌスを副帝に指名、そしてイタリアでの戦乱ののち、425年10月23日に西方正帝に任命した。ウァレンティニアヌス3世である。

プラタープ・シング(1540~1597)

ムガル帝国との戦い プラタープ・シングは使節を丁重にもてなし、一時は妥協することも考えたものの、誇りだ高き彼は自らアクバルのもとへは赴かなかった。代わりに自身の息子アマル・シングにアクバルから与えられた服を着せ、バグワント・ダースに同行させて宮廷へ派遣した。彼自身が宮廷に赴かなかったこと、加えて帝国がチットールガルを返還する意思を見せなかったため、両者は最終的な合意には達しなかった。

アートマス・ウォード(1727~1800)

大陸軍 大陸会議が開かれ大陸軍を創設することになった。6月16日に、大陸会議の決議でウォードは少将に任命され、ジョージ・ワシントンに次ぐ指揮官となった。次の9ヶ月間、ウォードは集められた民兵を大陸軍を組み込むことで追われた。1776年3月17日、イギリス軍がボストンから撤退し、ワシントンは大陸軍の主力を率いてニューヨーク防衛に向かった。ウォードは1776年4月4日に東部方面軍の指揮官となった。ウォードはその地位に1777年3月20日までとどまり、健康が悪化したために軍隊を退役した。

バナスター・タールトン(1754~1833)

アメリカ独立戦争~ワックスホーの戦い~ 1780年5月29日、タールトンは150騎の騎馬隊を引き連れ、エイブラハム・ビュフォード率いるバージニア地域大陸軍の350名なし380名の分遣隊に追いついた。ビュフォードは降伏を拒み、行軍を続けようとした。しかし多くの犠牲者を出したビュフォードは降伏を告げた。その直後に起こったことは今でも議論の種になっている。アメリカ側の証言では、タールトンが白旗を無視して捕虜を慈悲も無く虐殺したことになっている。結局113名の大陸軍兵が殺され、203名が捕虜になった。捕虜のうちの150名は重傷を負っており、その場に残さざるを得なくなった。タールトン部隊の損失は5名が戦死、12名が負傷だった。イギリス軍はこの事件を「ワックスホー・クリークの戦い」と呼び、一方アメリカ側は「ビュフォード虐殺」あるいは「ワックスホーの虐殺」と呼んだ。