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ウィリアム・ギロック(1917~1993)

教育音楽作曲界のシューベルト ミズーリ州ラッセルに生まれた。同州ファイエットのメソジスト・カレッジ卒業後、ルイジアナ州ニューオーリンズでピアノ教師となった。後半生はテキサス州ダラスに移り、作曲活動だけでなく、全米音楽倶楽部連合会の会長を務め、ピアノ教師のための講習会でアメリカ全土を訪れた。ダラス郊外のデソートで死去した。

シャルル=ルイ・アノン(1819~1900)

60の練習曲によるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト 今日のピアノ教師にとって標準的な教材の1つとなっている。が、音楽の感性を高めることや音楽を表現することには適していない。単純な音型の連続であり、単なる指の訓練の為の練習曲であって、そのような音楽性のあるものではない。

伍子胥(不明~前484)

呉王夫差 闔閭の容態が芳しくなくなると、数人の公子のうちのひとりの夫差が伍子胥の元を訪れ、自分を後継者に推してくれるよう頼んだ。伍子胥は闔閭の元を訪れ夫差公子を太子に推すが、闔閭は「夫差に情に薄く君主の器に足りないのではないか」と憂いた。これい伍子胥は「足りない所は周囲が補えばよいのです。それより早く後継を明らかにしないと、権力闘争が起こりかねません」と答え、闔閭はこれを認めた。闔閭は夫差を呼び「勾践が父の仇と忘れるな」と言い、夫差も「3年以内には必ず仇を取ります」と答えた。

コンスタンティン・チェルネンコ(1911~1985)

最高指導者として~チェルネンコの政治~ チェルネンコは就任後、ブレジネフ時代後期への政策への回帰を表明した。しかし彼は同時に、技術・専門教育を重視する教育改革やプロパガンダの改革に着手したほか、アンドロポフ政権下で導入された企業の自主性拡大の実験も対象を拡大させて継続した。更にチェルネンコが自らの政策として努力した形跡が窺われるのは、イデオロギー政策であり、規律強化・愛国心高揚・ブルジョア文化の排撃等のキャンペーンが展開され、また次の第27回党大会を目ざして、党綱領及び党規約の改正にも自らのイニシアティブを発揮した。

バーキー(1526~1600)

詩人のスルタン 最初は馬具職人の弟子として働いていたが、後にマドラサに通うようになった。またマドラサでは優秀な成績を修め、当時有名だった講師の講義にたびたび足を運んでいた。その後、シュイヒュル・イスラームと言う国の重大な役職につき、スレイマン1世の寵臣となった。その後、宮廷詩人として迎えられた。宮廷詩人に迎えられてから、他国と戦うスルタンの勝利を祝う詩や、死を悼む詩などを作り、バーキーの詩はペルシアの宮廷でも歌われた。

林鵞峰(1618~1680)

本朝通鑑 江戸幕府の修史事業として編纂が行われ、林家の林羅山、林鵞峰父子を中心に編纂された。提要30巻、附録5巻、前編3巻、正編40巻、続編230巻、國史館日録18巻など、全326巻から構成される日本通史。神代から後陽成天皇の代までを記している。倫理的な判断を避け、史実を書くことが方針とされているという。

谷川士清(1709~1776)

和訓栞 江戸中期の国学者谷川士清編の国語辞書。前・中・後の3編より成る。現在普及する活字本は、1898年井上頼圀・小杉榲邨刊の前・中両編に別の辞書3編を付録した《増補語林和訓栞》、および1899年野村秋足校訂の前・中・後3編。本来は整板本として1777年以降数次にわたり刊行され、最終は1887年に至る。古語、雅語のほか俗語、方言、外来語にも及んで所収語の範囲は広く、全体として均衡のとれた穏健な説明がある。

ハインリヒ・フォン・クライスト(1777~1811)

ミヒャエル・コールハース 馬商人ミヒャエル・コールハースは、あるとき売り物の馬を数頭引いてザクセン領の市に向かうが、トロンケンブルク城の付近で通行止めに会う。以前にここを通ったときにはなかったことであるが、領主が替わって通行証が必要になったというのである。あとで通行証を貰ってくるからということで、コールハースは保証として黒馬二頭とそれを世話する牧童とを預けた上で目的の市に向かう。しかし、ドレスデンで、通行証が必要という話は嘘であったことがわかる。そして仕事を終えて城に戻ると、保証として置いていった馬はこき使われてすっかり痩せこけ、馬への虐待に抗議した牧童は追い出されていた。コールハースは新領主フォン・トロンカに弁償を求めるが、取り合ってもらえない。もともと不正を許すことができない性質であったコールハースは泣き寝入りできず、助言をうけてブランデンブルク選帝侯宛てに、ザクセン選帝侯への抗議を促す訴状を書く。しかしこれもトロンカの親族たちの根回しによって握りつぶされ、その上訴状を届けようとしたコールハースの妻は、衛兵からの暴力がもとで死去してしまう。

ジョセフ・ウォーレン(1741~1775)

独立戦争の開戦 1775年、ウォーレンはイギリス軍が動き始めたという報に接して、ウィリアム・ドーズとポール・リビアを有名な「真夜中の騎行」に送り出し、レキシントンとコンコードにイギリス軍の来襲を伝えた。歴史家の指摘では、この時の情報源はイギリス軍の総司令官トマス・ゲイジの妻、マーガレット・ゲイジであったという。レキシントン・コンコードの戦いに続いて、ウォーレンはウィリアム・ヒースと共にボストンに撤退するイギリス軍を攻撃する民兵を組織して率いた。ウォーレンはボストン包囲戦中も新兵の徴募と組織化に重要な役割を果たした。

日真(1444~1528)

法華宗真門流 日真は妙顕寺日具を師として修学したが、法華経について論争があり、日真は「寿量品正意論」を提唱し、妙顕寺を出て本隆寺を建立し、日真門流を興す。福井県下に三本山を有する。

エルコレ・デ・ロベルティ(1451~1496)

聖ビセンテ・フェレルの奇跡

アスパルフ(644~700)

第一次ブルガリア帝国~建国~ 7世紀後半、黒海北岸の大ブルガリアから分離してドナウ川下流域のデルタ地帯に侵入してきたドナウ・ブルガール人は、アスパルフを指導者としてこの地方の支配者であった東ローマ帝国と戦い、スラヴ人を支配する国家を形成し始めた。彼らは681年に東ローマ帝国と講和を結んでこの地域の支配権を認められ、第一次ブルガリア帝国を建国する。

マフムード・カーシュガリー(不明~1102)

『トルコ語辞典』の編纂 この辞典は彼が亡命旅行中に収集したトルコ系民族のトルコ語方言を、アラビア語で説明したもので、辞書としてだけではなく、当時のトルコ人の生活や各地の地名、地図、民族名、さらに地図まで含む「11世紀トルコ民族百科全書」と呼ぶことも可能であり、世界で最初のトルコ語辞典であった。トルコ学者の間では「カーシュガリーを知らずしてトルコ民族について語るな」とさえ言われている。後のティムール朝で発展するトルコ=イスラーム文化の先駆けとなった。

嘉村礒多(1897~1933)

崖の下 二月の中旬、圭一郎と千登世とは、それは思ひもそめぬ些細な出來事から、間借してゐる森川町新坂上の煎餅屋の二階を、どうしても見棄てねばならぬ羽目に陷つた。が、裏の物干臺の上に枝を張つてゐる隣家の庭の木蓮の堅い蕾は稍色づきかけても、彼等の落着く家とては容易に見つかりさうもなかった。

観勒(生没年不詳)

僧綱制 のち624年に、日本で最初の僧正に任命された。この年ある僧が斧で祖父を殴る事件が起こり、天皇はその僧だけでなく諸寺の僧尼を処罰しようとした。この時観勒は上表して、日本に仏教が伝来してまだ百年にならず、僧尼が法を学んでいないことからこのようなことが起こったとし、件の僧以外は罰しないよう求めた。天皇はこれを許し、この時に初めて僧正・僧都の制を定め、観勒を僧正に任じたという。僧都には鞍作徳積が任じられている。僧正、僧都という名称は中国南北朝に始まった仏教統制機関のうち南朝系のそれを踏襲しているが、これは観勒の出身である百済と中国南北朝との関係の深さからであろうといわれる。

孔穎達(574~648)

『五経正義』を編纂 太宗は科挙制度を充実させるにあたり、儒教の経典である五経について、さまざまな解釈がなされ、合格基準があいまいであることから、その一本化をはかり、孔穎達に命じて統一的な解釈書を編纂させた。653年に孔穎達が完成させたのが『五経正義』であり、以後、この書が儒学の国定教科書として科挙の基準とされた。また、『隋書』の編纂にも参画し、当代一の儒学者といわれた。

周泰(生没年不詳)

孫輔伝 孫策の弟の孫権は周泰を気に入り自分の配下に貰い受けた。197年、孫策が六県の山越征伐に赴き、孫権が丹陽の宣城に住んでいる。以前、孫策は江東を平定すると袁胤を逐った。袁術は孫策を深く怨み、陰かに間者を遣って印綬を丹陽の宗帥である陵陽の祖郎らに与え、山越を煽動して大いに手勢を合わせ、共に孫策勢力を攻囲させた。兵士が少なく油断しきっていたところを山越の反乱軍に急に襲われて命の危険にさらされた。このとき周泰は、人に倍する勇気を持って味方を鼓舞し、全身に12ヶ所の傷を負いながらも、身を挺して孫権を護りきった。しばらく人事不省な状態に陥ったが、孫策から感謝され、回復後に春穀の県長に任命された。

二出川延明(1901~1989)

エピソード~「写真が間違っている」~ 1リーグ制時代、中日球場で行われたゲームで球審を務めた二出川は、ホームでのクロスプレーでアウトの宣告を下したが、攻撃側から「ノータッチだ」との抗議がなされた。しかし二出川は頑としてこれをはねつけた。翌日の新聞に、クロスプレーの写真が掲載され、キャッチャーがランナーにタッチしていないことが明確にされ、リーグ会長がこれを重く見て、二出川を呼び出したところ、二出川は新聞の写真を一瞥し、「会長、これは写真が間違っているんです」と平然と言い放った。

武田信繁(1525~1561)

川中島の戦い 1551年7月には村上攻めのため先衆として出陣しており、1553年、4月には甲斐衆今井岩見守に対し落城した信濃国苅屋原城主任命を通達し、同じく4月には攻略した村上方の葛尾城に在城していた秋山虎繁に対しても上位を通達した他、恩賞の付与などを行っている。武田氏はやがて北信地域を巡り越後国の上杉謙信と抗争を繰り広げるが、1555年には景虎の越後帰陣を報告している。

桃園天皇(1741~1762)

宝暦事件 その頃、徳大寺家の家臣で山崎闇斎の学説を奉じる竹内敬持が、大義名分の立場から桃園天皇の近習である徳大寺公城をはじめ久我敏通・正親町三条公積・烏丸光胤・坊城俊逸・今出川公言・中院通雅・西洞院時名・高野隆古らに神書・儒書を講じた。幕府の専制と摂関家による朝廷支配に憤慨していたこれらの公家たちは侍講から天皇へ式部の学説を進講させた。やがて1756年には式部による桃園天皇への直接進講が実現する。

吉田兼見(1535~1610)

兼見卿記 兼見が記した日記で、特に京の政治情勢に関して詳しく記されており、他にも北野社の大茶会をはじめとする茶器・連歌などの文芸、天正大地震による若狭湾での大津波の記録など、織豊政権期の重要な資料の一つとされている。本能寺の変の起こった1582年分だけ、以前の記述分が別本として存在しており、光秀との関わりのある件が書き直され銀子糾問の影響など様々に分析されている。

ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(1688~1766)

老僭王 ジェームズはフランスで育てられ、ルイ14世によってイングランドとスコットランドの正統な王位継承者と認められた。1701年に亡命中の父が死去したためジェームズは“王位”を継承し、ジェームズ3世/8世としてジャコバイトたちの中心人物となった。ジェームズ3世は1708年3月23日にフランスの支援を得て侵攻計画に取り掛かり、スコットランド支持者の求めに応じフォース湾に上陸した。もし彼がカトリックからプロテスタントに改宗すれば、異母姉アンの死後に王位を継承することができた。しかし彼は改宗を拒否し、イングランド艦隊が現れたためすぐにフランスへ引き上げ、計画は失敗に終わった。1714年に姉が亡くなった後はプロテスタントで又従兄弟のハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがジョージ1世として即位した。

マリア・レオポルディナ・デ・アウストリア(1797~1826)

ブラジル皇后 レオポルディナとペドロの調和のとれた結婚はその後、1822年から陰鬱な陰が横たわるようになった。皇帝は旧知の女性ドミティリアのためにサンパウロへ旅行をしてきた。彼女は皇帝が寵姫として公にブラジル宮廷に入れた人物であった。レオポルディナには不条理なことに、彼女はペドロの意向で皇后の第一女官に任命された。レオポルディナは、ドミティリアが皇帝との間に庶子である娘をもうけ、貴族に取り立てられるのを経験しなければならなかった。娘たちは当然のごとく皇帝の嫡出子とともに育てられた。

フラニョ・トゥジマン(1922~1999)

クロアチア民主同盟~トゥジマン大統領時代~ トゥジマン政権はセルビア人を公職から追放し、反セルビアのキャンペーンを推し進めた。党はクロアチアの独立を強く支持する立場をとったため、クロアチアの独立に反対し、ユーゴスラビア連邦への残留を望む同国のセルビア人少数民族からは嫌悪されていた。このことは、セルビア人がクロアチアからの分離とクライナ・セルビア人共和国の創設、その後のクロアチア紛争の一因となった。これらの動きに対するクロアチア民主同盟の行動には賛否両論あり、クロアチア紛争初期の頃の党の政策を過激な民族主義とみなし、暴力を増大させる一因となったとする見方がある一方で、クロアチア民主同盟はセルビアやユーゴスラビア人民軍に懐柔されており、そのためにクロアチアがとるべき防衛行動は十分ではなかったとする見方もある。トゥジマンやクロアチア民主同盟の政策は状況に応じて変動しており、党の政策を論ずるにあたってはその時々の社会的、政治的、経済的、軍事的情勢を考慮する必要がある。

フランク・ホイットル(1907~1996)

人物と業績~実用化~ 間もなく第2次世界大戦が勃発したため、調達の優先順位を下げられてしまったが、軍需省に執拗にアピールした結果、W.U. 20分間の連続全開試験に成功した1939年には再び予算が付いたものの、拡大に伴い新たに生じた暴走、過熱、振動、共鳴、サージング、バックファイアー等の問題をなかなか解決できず、試運転の度に爆発炎上しないことを祈る有様が続いた。

オワイン・グリンドゥール(1349~1415)

グリンドゥールの反乱~ウェールズ人の反乱~ 1400年9月16日、オワインは行動を開始し、彼の支持者のグループはオワインのプリンス・オブ・ウェールズへの即位を宣言した。グループにはオワインの長男や義兄弟達、そしてディーン・オブ・セント・アサフが含まれていた。これはそれ自体革命的な声明であった。オワインの支持者達は北東ウェールズで急速に増えていった。9月18日、ドゥ・グレイの本拠地、リシン城は攻撃を受けほとんど破壊された。その後すぐに、デンビー、リズラン、フリント、ハーデン、そしてホルトへと戦火は広がった。9月22日、オズウェストリーの街はオワインの襲撃でひどく損傷を受けていた。9月23日までオワインはポウィス城を攻撃しウェルシュプールの街を制圧しながら南に進軍した。

ロバート・ベーデン=パウエル(1857~1941)

ローバーリング・ツウ・サクセス ローバーリング・ツウ・サクセスは教導的ハンドブックというよりは成人の世界の人生哲学を説くものである。父親か賢いおじからの助言のようなスタイルをとって記述され、確かにベーデン=パウエルが息子のピーターが将来読むことを企図して書かれたものだと指摘する者もいる。彼による他のハンドブックと同じように、ローバーリング・ツウ・サクセスは19世紀のポピュラーソングの歌詞「泣いたりしかめっ面をして座り込んではいけない、自分のカヌーは自分で漕げ」をテーマとしている。

アーネスト・シャクルトン(1874~1922)

1907年-09年、「ニムロド遠征」 石炭を温存するため、シャクルトンがニュージーランド政府とユニオン汽船会社に費用負担を了解させた後、南極に向けて1,650マイルを蒸気船「クーニャ号」に曳航させた。スコットとの約束に従ってロス棚氷の東部へ向かい、1908年1月21日に到着した。バリア・インレットは大きな湾を形成するように広がっており、数百頭のクジラがいたことから、クジラ湾と名付けられた。そこの氷は崩れそうな状態であり、安全な基地を設営するのは不可能であった。さらにエドワード7世半島で投錨地を探したが同様に無理だと判ったことから、シャクルトンはスコットとの約束を破りマクマード湾へ向かうことを余儀なくされた。この決断は、2等航海士のアーサー・ハーボードによれば、氷圧の困難さ、石炭の不足、近くには他に既知の基地がないことを踏まえた「常識に従った」ものであった。

渡哲也(1941~2020)

くちなしの花 いまでは指輪もまわるほどやせてやつれたおまえのうわさくちなしの花のかおりが旅路のはてまでついてくるくちなしの白い花おまえのような花だったわがままいっては困らせた子どもみたいなあの日のおまえくちなしの雨の雨の別れがいまでも心をしめつけるくちなしの白い花おまえのような花だった小さな幸せそれさえも捨ててしまった自分の手からくちなしの花を花を見るたび淋しい笑顔がまた浮かぶくちなしの白い花おまえのような花だった

レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン(1835~1905)

エムス電報事件~スペイン王位継承問題~ 新国王の候補者としてホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯家のレオポルトの名前が挙がる。ホーエンツォレルン・ジグマリンゲン家はホーエンツォレルン家の本家筋にあたり、1849年以降はジグマリンゲン公領がプロイセン王国に併合されたため、王族として扱われた。1869年春、ビスマルクの買収工作により、スペインの使節がビスマルクを訪問する。フランスはこれに反応し、ビスマルクから、プロイセン王ヴィルヘルム1世が家長としてレオポルトの王位受諾を承認しない確約を得ようとするが、ビスマルクはこれを拒否した。さらにビスマルクに買収されたスペイン使節が、1869年秋と1870年2月に訪独し、レオポルトに王位を受諾させようとする。レオポルトは国王の許可を条件に受諾し、6月21日、ついにヴィルヘルム1世の承認が下りる。

ジョージ・ミード(1815~1872)

南北戦争~ポトマック軍とゲティスバーグ~ フッカーはゲティスバーグ方面作戦でリーを追跡しているときにポトマック軍指揮官を辞任した。1863年6月28日早朝、エイブラハム・リンカーン大統領の使者が到着し、ミードをフッカーの後任に指名することを伝えた。ミードは驚きに撃たれ、後に妻に宛てて、士官が彼のテントに入って来て彼を起こしたとき、軍隊内の政治的な力が働いて逮捕されるのだと思った、と書いた。ミードは積極的に指揮官職を求めていなかったし、大統領が最初に選んだ者でもなかった。ポトマック軍でミードより上位にある4人の将軍のうちの一人、ジョン・フルトン・レイノルズは、先に大統領からの任官の提案を受けて断っていた。レイノルズはゲティスバーグの戦い初日に戦死した。

同治帝(1856~1875)

同治の中興 同治とは清朝の年号で、同治帝の即位から退位までの1861年~74年の時期にあたる。アロー戦争の敗北、太平天国や捻軍の反乱の鎮定の後の、比較的安定が続いた時期であった。この間、同治帝の母親である西太后が実権を握り、登用された漢人官僚による洋務運動が展開され、近代化策がとられた。同治中興の洋務運動によって一定の国力の回復は見られたが、皇帝の専制政治、宮廷の奢侈、軍閥の形成などもあり、本質的な近代化には至らなかった。またこの時期は、日本では明治維新の時期に当たっており、日本では江戸幕府の崩壊と明治新政府の成立という政権交代が実現し、様々な不徹底や問題はあるにしても、近代化の途に着くことに成功したのに対して、同治の中興は清朝の枠内での上からの改革にとどまることとなった。

ミールザー・ナジャフ・ハーン(1723~1782)

ブクサールの戦い また、1765年10月、皇帝シャー・アーラム2世に従ってブクサールの戦いに参加し、その先陣を切った。戦いの敗色が濃厚となると、皇帝のもとで軍を立て直し、イギリスとの間で停戦交渉を行った。1772年、シャー・アーラム2世がデリーに帰還するなど、ミールザー・ナジャフ・ハーンは帝国の権威確立に努めた。有能な政治家であり軍人だった彼は、最新の軍事技術に遅れ劣らないようにするため、外国の技術者や士官を雇い、弱体化していたムガル帝国の再建しようとした。彼は銃や火砲など武器の近代化を図り、歩兵、騎兵など85,000人から90,000人からなるムガル帝国軍を再建に成功し、帝国軍の強化につとめた。

ムハンマド・ホダーバンデ(1532~1595)

オスマン・サファヴィー戦争 こうした中、オスマン帝国がサファヴィー朝の故地ともいえるアゼルバイジャンに1578年から本格的に侵攻する。ウリヤとクズルバシュはこの時は協力して、1579年にソコルル・メフメト・パシャを暗殺してオスマン帝国軍を撃退したが、両者の対立は収まらず、同1579年にウリヤはクズルバシュによって後宮で絞殺された。ムハンマドは依然として無力で、事件に対処出来ず逆にクズルバシュの罪を問わないとする有様だった。

ギュンター・グラス(1927~2015)

ブリキの太鼓 1954年、精神病院の住人である30歳のオスカル・マツェラートが看護人相手に自らの半生を語るという形で物語は進行していく。体は幼児で、精神年齢は成人のオスカルは、冷めた視点で世の中を見つめ、その悪魔的所業で、自分を愛してくれている周囲の人間を次々に死に追いやる良心を持たない人間として描写されているが、最終的に自分を保護してくれる人間がいなくなったことに気が付き愕然とすることになる。

エヴゲーニイ・ザミャーチン(1884~1937)

われら 物語は宇宙船のД-503による日記という形式で進められる。26世紀、全世界は『緑の壁』に覆われ『恩人』が支配する『単一国家』によって統治されていた。そこではガラス製の集合住宅、道路には盗聴器が仕掛けられ、空には監視用の航空機が飛行するなどプライバシーは一切無かった。全ての住民に番号が割り振られ、同じ時間に目を覚まし、毎日同じ制服を着て合成食料を食べ、命令された通りに仕事をし、性行為さえ当局が関与する完全な管理社会であった。

ミハイロ・オブレノヴィッチ3世(1823~1868)

復位と暗殺 ミハイロはユーリア妃と離婚して、従姉のアンカ・オブレノヴィッチの娘である妾のカタリナ・コンスタンティノヴィッチと再婚したいと考えるようになり、両者を宮廷に招いて住まわせた。ユーリアと離婚してカタリナと再婚するというミハイロの考えは政治家や聖職者はもとより一般大衆の猛反対を受け、イリア・ガラシャニン首相は離婚に反対する意思を表明して1867年に辞任した。このような不測の事態を受け、結局、ミハイロはユーリアと離婚することはなかった。

ミロシュ・オブレノヴィッチ1世(1780~1860)

後年の統治 ミロシュの冷酷で専制的な統治に対してセルビア人はたびたび反乱を起こしたため、ミロシュは1835年に憲法を制定することを承認したが、セルビアの隣国オーストリア、宗主国オスマン帝国およびロシアの3帝国は、憲法は自らの絶対主義的政治形態を脅かすものとみなし、この動向に反発した。とりわけオーストリアのクレメンス・メッテルニヒは、セルビアが独自の国旗を制定し外務省を設置したことを嘲笑した。ロシアとオスマン帝国の要請を受けたミロシュは憲法を廃止した。

クインティリアヌス(35~100)

 『弁論家の教育』~序説~ 前述したように、クインティリアヌスは皇帝ドミティアヌスの治世の最後の年にこの本を執筆した。ローマ皇帝の中でも、たとえばネロ、カリグラ、ドミティアヌスの治世下は、時が経つにつれてますます非道なものになっていた。「秘密警察がさかんにローマ市民を餌食していき、元老院議員たちでさえさまざまなやり方でさかんにお互いを密告しあった…… ドミティアヌスの治世下、皇帝に対する不敬のほんのわずかの疑惑でも極刑に値した」。社会的・政治的腐敗がはびこっていた。最大の皮肉は、堕落したドミティアヌスが「公衆道徳の責任のある終身監察官に」自分自身を任命したことだった。

スペウシッポス(前407~前339)

イデア論を捨てピタゴラス学派を研究 アリストテレスが述べた「今の人々にとっては数学的諸学が哲学であることになってしまった」と言う言葉はスペウシッポスに向けたものだと言われ、スペウシッポスがプラトンの後を継いで第二代アカデメイアの学頭になるとアリストテレスはアカデメイアを去ってしまった。プラトンはイデア論を唱えていたものの、スペウシッポスが学頭になるとイデア論を排除し、プラトン主義とピタゴラス学派の調和を試みたが、数学的対象を第一義的な実在と解する点など、プラトン主義を離れてピタゴラス学派や数論へ傾倒したためにアリストテレスはアカデメイアを離れたとされる。

バハラーム5世(400~438)

治世~アルメニアとの関係~ バハラーム5世は東ローマ帝国との平和条約の締結後、すぐにアルメニアの問題についてとりかかることになった。バハラーム5世の兄であるシャープール4世が418年にアルメニアを去って以降、アルメニアは王が不在となっていた。バハラーム5世はアルサケス朝の血筋にあたる者がアルメニアの王位につくことを望んでいたため、彼はアルサケス朝のヴラムシャプーの息子であるアルタクシアス4世を選んでアルメニアの王とした。

ピョートル・バグラチオン(1765~1812)

フィンランド戦争 1808年のフィンランド戦争においては、第21歩兵師団を率い、凍結したフィンランド湾を横断する大胆な行軍により、バグラチオンはオーランド諸島を奪取した。そして1809年、彼は露土戦争において、モルダヴィア軍を率いてオスマン帝国と戦い歩兵大将に任命された。これらの歳月における活躍により、彼はレフ・トルストイの小説『戦争と平和』の脇役として登場することとなった。

スヴェン2世(1019~1076)

即位 スヴェン2世は1019年にイングランドで生まれた。父はウルフ伯、母はデンマーク王スヴェン1世の娘エストリッド。デンマーク王ハーデクヌーズの後継者であったが、ハーデクヌーズの死後にノルウェー王マグヌス1世に王位継承権を奪われた。そしてマグヌスがデンマーク王も兼ねたが、それを不満に思ったスヴェンはマグヌス1世に反抗する勢力を味方につけ、反乱を起こした。そして5年後にマグヌスが死ぬと王位に就いた。

エリク14世(1533~1577)

北方七年戦争 内政においては、エリクの野心は、弟たちを含むスウェーデン貴族に猛烈に反対された。ヨハンは謀反を起こしたが、1563年に捕らえられ大逆罪に問われた。エリク14世の治世のほとんどが、デンマークとの北方七年戦争で占められ、その間彼はデンマークからの征服の試みを阻んだが、自らの征服事業も維持できなかった。

エリク9世(1120~1160)

 即位とその治世、スウェーデン国旗の由来 1256年のクリスマスにスウェーデン王スヴェルケル1世が暗殺されスウェーデン王の座が空白となった。そこで、スヴェルケル1世の母方の従弟で地方の王であったエリクが支持を受け、即位した。熱心なキリスト教の信者だったエリクは王となってすぐに、北欧をキリスト教で固めるためにフィンランドに対する第一次北方十字軍を率い異教徒の制圧に向かった。それとともに勢力拡大も狙ったとされる。その遠征の際に目撃した「青空に浮かぶ金の十字架」がスウェーデン国旗のモデルとなったという。第一次北方十字軍での活躍はローマ教皇の耳に届き、ローマ教皇はエリクの行いを評価した。エリクはローマ教皇という大きな後ろ盾を手に入れたのである。このことを知ったエリクは、深く感謝し、息子のクヌートをローマに使節として送った。国政の面ではエリクは既婚女性の遺産相続も可能とするなどスウェーデン国内の法律を改革するという大きな功績を残した。

三浦梅園(1723~1789)

 玄語 三浦梅園が31歳の1753年から53歳の1775年までの23年を費やして著わした主著。人間を取巻いている全自然界に働いている法則を発見しようとした梅園の思想が展開されている。例示および本宗、天冊、地冊、小冊の4冊、8巻から成る。「条理の原を探究する」ことがここでの中心課題があり、そのためには、既知の知識の全部を疑い、自然の諸事象のありのままを観察することが必要であると説かれる。そして、多様な自然の「条理」を見出すためには「反して観、合せて観て、その本然を求める」反観合一の法が求められた。自然の認識に関する論理学的著述として重要である。

松平治郷(1751~1818)

 藩政改革 1767年、父の隠居により家督を継いだ。10代将軍・徳川家治からの偏諱と祖父・宣維の初名「直郷」の1字とにより治郷と名乗る。この頃、松江藩は財政が破綻しており、周囲では「雲州様は恐らく滅亡するだろう」と囁かれるほどであった。その治郷は、家老の朝日茂保と共に藩政改革に乗り出し、積極的な農業政策の他に治水工事を行い、木綿や朝鮮人参、楮、櫨などの商品価値の高い特産品を栽培することで財政再建を試みた。しかしその反面で厳しい政策が行なわれ、それまでの借金を全て棒引き、藩札の使用禁止、厳しい倹約令、村役人などの特権行使の停止、年貢の徴収を四公六民から七公三民にするなどとした。これらの倹約、引き締め政策を踏まえ、1778年に井上恵助による防砂林事業が完成、1785年の清原太兵衛による佐陀川の治水事業も完了し、これらの政策で藩の財政改革は成功した。これにより空になっていた藩の金蔵に多くの金が蓄えられたと言われる。

金光大神(1811~1883)

 金光教~開教前~ 1855年、当時厄年といわれた数え年42歳の時、年頭に厄除け祈願を多方面の寺社にて行ったにもかかわらず、喉の大病に患り、医師には「九死に一生」といわれ治療法はないといわれる。親族が集まり、この病気平癒の祈祷を行った時の体験で神仏の救いを実感し、信心を深めた。後に、この闘病のときに「天地金乃神」の声を聞いたとしている。

ペヨ(1928~1992)

 スマーフ スマーフは、1958年10月23日の『ジョアンとピルルイ』の中で初めて登場した。スマーフの人気が高まってくると、ペヨは1960年代初頭に自身のスタジオを設立し、その中では多数の才能ある漫画家が仕事を始めた。ペヨ自身は仕事を監督した。このスタジオで働いていた著名な漫画家は、Walthery、Wasterlain、Gos、Derib、DegieterやDesorgher等である。