スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

鶴姫(1526~1543)

大内氏との戦いと鶴姫の活躍 1541年6月に大内氏配下の水軍の将・白井縫殿助房胤らが侵攻すると、大祝職となった長兄・安舎に代わって次兄の安房が陣代となって三島水軍を率いて出陣し、河野氏や来島氏と連合して大内軍を迎撃するも討死した。兄の戦死を聞いた鶴姫は三島明神に祈請し、明神を守護しようとして甲冑を着て馬に乗り、大薙刀を振るって敵陣へ駆け込むと味方を奮起させ、大内軍を撃退したという。
最近の投稿

ゲッシェ・マイブルク(1581~1617)

1615年夏のブラウンシュヴァイク攻囲戦 ブラウンシュヴァイク=リューネブルクやブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルの諸公は、中世から近世にかけて何度もブラウンシュヴァイク市が所領に組み込もうとしており、1615年夏の攻撃もそのような試みの一つであった。同市は1615年7月22日から11月2日まで、公の軍に攻囲される。この時、その脅威はそれまでよりも大きいように思われた。なぜならブラウンシュヴァイク市は、所属していたハンザ同盟諸都市からの解囲軍を期待できなかったからである。

安倍泰親(1110~1183)

指御子 泰親は占術や天文密奏の分野において優れた才能を発揮するなど当代屈指の陰陽師となり、鳥羽法皇・後白河法皇の治天の君に仕えて後白河法皇のために毎月の泰山府君祭を行い、藤原頼長・兼実からも信頼されて摂関家にも奉仕した。頼長・兼実の日記である『台記』・『玉葉』には泰親がしばしば登場し、頼長は陰陽書によれば占いにおいて10のうち7当たれば「神」と称されるが、泰親は10のうち7・8を的中させ他人には真似が出来ないこと、占道は未だに地に墜ちず人が存在する、と泰親を高く評価している。日記・説話集・軍記物などにおいて、泰親に関する逸話が多く伝えられており、1148年の内裏火災や1172年の斎宮惇子内親王の急逝、1179年の政変、1180年の以仁王の挙兵などを予言したとされている。『平家物語』・『源平盛衰記』には泰親を「指御子」と称している。また、泰親の日記の一部が現存しており、泰親および天文博士を継いだ次男業俊による天文異変の記録とその解釈、天文密奏の内容などが書きとめられており、当時の天文道の内容を知ることができる。

ウィンター兄弟(兄1568~1606、弟1571~1606)

火薬陰謀事件~計画準備とロバートの加入~ 一味は計画のためにロンドン市内のプリンス・チェンバーにもほど近い不動産を借りた。この場所はテムズ川を挟んで対岸にケイツビーが所有するランデスのアジトがあり、ここから火薬や物資を川を渡って密かに運び入れた。後の当局の発表によれば、この拠点では貴族院地下に向かってトンネルを掘り始めたが、その後、直接貴族院地下室を借りることができたためにトンネル計画は放棄されたという。

鶴見祐輔(1885~1973)

戦時下の政界復帰 1937年1月、永田秀次郎らと宇垣一成内閣成立に参画するも、陸軍の反対に遭って失敗。同年4月、衆院解散を受けて行われた衆院選では岩手第2区から立候補し、当選。同年5月、民政党岩手県支部長。同年12月、人民戦線派の一斉検挙で逮捕された姪の石本静枝の釈放に尽力した。同月、国民使節として渡米し、中学を中退していた俊輔を同行させる。

ヘンリー・エイヴリー(1659~1696)

海賊史に残る掠奪 スペインを脱出したエイヴリーは西アフリカで活動後インド洋を目指して喜望峰を周り、たどり着いた先のマダガスカルやコモロ諸島でクルーの引き抜きと装備の補給を行った。エイヴリーは財宝を求めて紅海のアデン湾に位置するグアルダフィ岬にやってきたところ、偶然ムガル帝国の船を襲撃するためにこの海域を訪れていた海賊トマス・テューの船団と遭遇する。

新川和江(1929~2024)

名づけられた葉 ポプラの木にはポプラの葉何千何万芽をふいて緑の小さな手をひろげいっしんにひらひらさせてもひとつひとつのてのひらに載せられる名はみな同じわたしもいちまいの葉にすぎないけれどあつい血の樹液をもつにんげんの歴史の幹から分かれた小枝に不安げにしがみついたおさない葉っぱにすぎないけれどわたしは呼ばれるわたしだけの名で朝に夕にだからわたし考えなければならない誰のまねでもない葉脈の走らせ方を刻みのいれ方をせいいっぱい緑をかがやかせてうつくしく散る法を名づけられた葉なのだから考えなければならないどんなに風がつよくとも