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投稿

相馬半治(1869~1946)

明治製菓成立 相馬は明治製糖の社長に就任すると、経営の多角化に乗り出した。1916年に日本グリスリン工業株式会社、日本原毛株式会社、大正製菓株式会社を次々と設立する。
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アンブロワーズ・パレ(1510~1590)

近代外科学の祖 1537年、パレは軍医として従軍したフランス軍のトリノ遠征で兵士の治療にあたっていた。当時銃創の治療には煮えたぎった油を傷口に注ぐという治療法が一般的であった。ある日怪我人が多く油を使い切ってしまった。そこで急遽パレは間に合わせの軟膏を用い治療を行なった。従来と違う治療を行なったパレは一晩中神に祈っていたとも、不安で眠れなかったとも伝えられる。しかし、時間経過とともに煮沸油よりもこの軟膏による治療の方が苦痛が少なく予後も良いことがわかり、パレは次第にこちらの治療に切り替えた。兵士からも受け入れられ、パレの名声は高まった。こうした現場における試行錯誤の結果、銃創治療以外にも血管を直接糸で縛って止血する血管結紮法を編みだすなど外科治療を変革し「近代外科学の祖」と讃えられている。1582年に発行した『大外科学全集』により名声を確立した。有名な言葉に「我包帯す、神、癒し賜う」という言葉が残っている。一方で寄生虫の体内発生説を信じていた一面もあった。

甘粕景持(1529~1604)

第四次川中島の戦い 上杉政虎は、1561年8月、川中島に出陣して甲斐国の武田信玄と対峙した。この戦いで千曲川に布陣して妻女山から下ってくる武田軍の別働隊と戦闘を繰り広げて時間を稼いだ。その後、本体と合流し、撤退する上杉勢の殿軍を務めた。後世に長重の名前が残る活躍となった。この戦闘で長重は左の首筋を負傷し生涯首が不自由であったと伝えられている。また、この戦闘の中、立物を射落とされた長重は、戦後、謙信よりその奮闘を称賛され感状と共に藤原鎌足の子孫ということで金の鎌の立物を拝賜する。

アーサー王(460~542)

アーサー王物語において アーサー王の伝説上の物語はその配下の12人の円卓の騎士たちの物語とともに語り継がれ、多くのバリエーションを持つが、次第に理想のキリスト教的君主として描かれるようになっていく。ロマン主義の時代にも作品のモチーフとして非常に好まれ、現代でもしばしば映画の題材となっている。物語の細部化に伴い、円卓の騎士の数も次第に増加していった。またアーサー王伝説は、聖杯伝説などとも結びついていく。

城昌幸(1904~1976)

若さま侍捕物手帖 柳橋米沢町、隅田川沿いの船宿・喜仙の二階座敷で、看板娘・おいとを相手に、日がな一日、酒を呑んでは居続ける“若さま”と呼ばれる侍。きりりとした男前だが、名前も身分も一切不詳。その若さまが、天下一品の直感の鋭さで、御用聞き遠州屋小吉が持ち込む怪事件をたちどころに解決する、安楽椅子探偵スタイルの時代小説。

テンジン・ノルゲイ(1914~1986)

エベレスト登頂後 テンジンは後にダージリンのヒマラヤ登山協会の実地訓練監督に就任した。1978年にはヒマラヤでのトレッキングを提供するテンジン・ノルゲ・アドベンチャーズを創設、2003年現在、息子のジャムリングが経営している。ジャムリング自身も1996年にエベレスト登頂に成功している。

箕作阮甫(1799~1863)

蕃書調所 1856年、江戸幕府が蕃書調所を開設すると首席教授を務めた。1858年には、阮甫が尽力してお玉ヶ池種痘所が設立された。当時は蘭方医と漢方医の対立も激しく、開設には非常な困難が伴ったが、主導的な役割を担い、伊東玄朴、大槻俊斎ら80名以上の蘭方医による醵金と幕府への働きかけを行い、私立の施設として開設されたものであった。蕃書調所とお玉ヶ池種痘所は、それぞれ現在の東京大学と東京大学医学部となっており、阮甫が東京大学の基礎を造った。